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ほいほいとぼとぼ日記・爺爺刻々

内川大奇行第二回(源流から馬込地区へ)

 内川の流れは環七を越してからしばらく真っ直ぐに大きな谷を作りながら進む。古い地図を見ると人はこの流域に田を作っていた様子が見える。江戸・明治の時代から作られていたのであろう。明治初期には、武蔵国荏原郡馬込村と呼ばれていたこの地域には、地図を見ても神社仏閣以外に目立つ建物はなく、ほとんどが田畑と林であった。現在でも残っているのは上流側から浅間神社、長建寺、万福寺、円乗院。民家は現在の大森循環バスの道の周りにポツポツと立っている。昭和4年の地図では下流域の現在の大田区中央と呼ばれる美奈見、小宿、子母澤あたりは急速に宅地化が始まっているように見られるが、上流域の馬込あたりでは目立ったものはない。しかし、品鶴線の開通がこのころあったらしく、地図の中央を斜めに線路がひかれている。つまり、このころに線路が内川を横切ったこととなる。しかし、地図には残念ながら上流域の記載がないためどのようになっていたのか分からない。ということで、現在の姿を前提に見ると、北から南へコンクリート製のトンネル状の空間が内川の蹟であると断定するほかない。&博士の報告があった北側入り口には何も完成時期を暗示するものはなかったが、今回発見した南側に謎の文字群を確認した。
 表記は、写真のように黒いベースの上に白ペイントで「S41.8.11 265mm S44.6.10 300mm・・」というものである。最初のSは昭和で後の数字は月日であることは容易に想像できるが300mmとはなんなんだぁ。さらに昭和とするならば、新幹線開通が昭和39年10月1日であるから、これを完成の日と考えると2年も後にここが完成したのか?地盤工事などは鉄橋・高架工事の時に一緒にやるのではと思うがいかがなものか?さらに、30cmとはなんだ。草の長さなのか?専門家の方に、そうだオベッカム博士ならお分かりかも。ぜし、教えを乞うものである。ここにまた、新たな謎が生まれた状態は研究が進まず困るのである。知っている方。情報を頼みます。

コメント一覧

研究室長
当たり前だ
あの写真を撮るためだけに30分も待ったのだ。さすが写真の価値をよ~~~く見つけた&博士であるが、本人は短期なのでこのような写真は撮れません。残念!
&You
気付かずに・・・
気付かずにいました。「北側トンネルへ川の流れ」の写真には、ナンと新幹線/品鶴線のどちらにも車両が見えます。川底を浚うように綿密な取材と集中力に乾杯です。
研究室長
よろしく
ぜしとも、この謎は全力を挙げて解明願いたい。よろしくぅ(^o^)/
オベッカム博士
う~む
分かりません。連休明けにでも我が社の知恵袋博士に聞いてみます。昭和41年に265mm、昭和44年に300mmの降水量でもあったかね????それとも地盤沈下の量かねえ????
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