童画家kanan 《小さな勇気を届けたい🌸》

世界中の誰かに勇気が届けばいいな🌸国も言葉も肌の色も家族も宗教も超えて、《自分を好きになる勇気》を子供にも大人にも届け♫

take2

2022年10月11日 | 生きる



隣町の眼科以後、大きな病院を何件か行ってくれたと思います。
覚えているのは、車で2時間くらいかかる市民病院。
眼科で待たされること数時間。
昔は、とにかく待ち時間が長かった。
目が見えない娘がこんなに待たされるのは可哀想だと、父が言ってたのを覚えています。
診察受けて、その後もまた長い。
この後、市民病院で診療を受けていくことになったと思います。
その度、何回か、骨髄液を採った記憶があります。
背中を丸めて、ぶっとい注射器を刺して、骨髄液を取り出す。
その後は2時間くらい寝たまま。
時間が来て、動く時に、身体を動かすのがすごく痛かった。
白血球が通常の200倍?と言われてたような、、、
それでも、泣いたり嫌がったりしなかったのは、受け入れる以外の選択肢が自分の中になかったんだと思います。子どもってそんなところあるなと感じます。
ある意味、他人事みたいな感じ。

そこで、視野検査をした時に、大学の研修生がやってくれたようで、私は初めての視野検査で、中心点を見ながら、、、って言う意味が分からず、うまく検査できなくて、
「何この子〜全然めちゃめちゃなんだけど」みたいな言葉が聞こえてきて、すごく哀しさを倍増させたのを覚えています。
けど、それを大人に話せないんですよね。
自分が悪いと思っているから。

結局、検査入院をすることになり、1週間か10日間くらい、小児病棟に入院しました。
隣のベッドの子は、増える内出血の所にマジックで○を付けてた一つ上の女の子で、入院退院を繰り返してるって話してた。
病院の学校の話も少し興味があったけど、私は検査入院だから、そこまでは必要なかった。
小児病棟は基本的に親以外は来れないらしくて、兄弟みんなが見舞いに来てくれたけど、会っちゃいけないんだと意固地になって、「エレベーターで降りる時会えるからおいで」と言ってくれた母の言葉を無視してた。
けど、隣のベッドの女の子が、「行ってくればいいんだよ。平気だよ。」って言ってくれたから、エレベーターまで歩いていって、家族みんなを見て泣いたと思う。
やっぱり寂しかったみたい。
母が差し入れてくれたパンやお菓子も嬉しいのに、病院で出されたもの以外、食べちゃいけない!って思ってたりして、子どもらしくない子どもだったなと思い出します。

脳波の検査を翌日に控えてた時、
「今日はあまり寝ないで。明日は睡眠薬で寝るんだよ。」と言われたんだけど、寝ない?でも、ずっと起きてていいってことじゃないよね?と分からず、ある程度で寝ちゃった。
次の日、睡眠薬を半錠飲んでも寝られなくて、「昨日、寝ちゃったの?」と言われ、意味がわかった。
また半錠飲んだけど、意識は無くならなくて、脳波を調べる針をたくさん頭に刺す時、痛い!痛い!って内心思いながら、終わるのをひたすら待ってたなぁ〜
その内、意識がなくなって寝てしまった。

検査入院しての診断は
「99%多発性硬化症です。」
いつ心臓が止まるか、呼吸が止まるか、半身麻痺になるか、わからない。との診断で、私は家に帰りました。
まだ2歳3歳の弟妹と山奥の家で、遊んで過ごしていたと記憶しています。
「娘さんはどうしてますか?」とお医者さんから連絡があったと聞いています。生存確認?
父から以前聞いた話によると、その頃は歩くことが出来てなかったとか。

でも、その後、復活するので、ご心配は無用です🌸
今の私は健康体です🤗

その頃、自分が何を考えてたかは、あまり覚えてないけど、何だか他人事のような、そんな感覚。
不謹慎だけど、「なんか漫画の中みたい♫」って感じてたのは記憶にあります。
状況がよく分かってない当事者よりも、サポートする親や家族、周りの人たちの方が大変だっただろうなってよく考えます。


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