文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

ガセビア王・唐沢俊一がタモリ認定した件の人物の正体とは?

2023-10-26 19:53:20 | 論考

現在において、赤塚不二夫を取り巻く最大の悲劇は、熱烈なるファンやマニアが皆無に近いということであろう。

門外漢による矮小化された足跡や不名誉な虚伝がネット上にて揶揄するように語られ、リアルに赤塚不二夫を知らない若年層の間においても、その評価は極めて歪だ。

この悪しき現状は、ファンや味方の不在こそが一番のネックであると言わざるを得ない。

即ち、風説や事実誤認が流布される中、それらが否定、斧正されるまでには到らないということなのだ。

筆者もSNS(X 旧TWITTER)で、時折「赤塚不二夫」というキーワードを検索し、目に余る誤謬を目にした際は、逐一訂正した情報を加え、リポストしているが、孤軍奮闘したところで、詰まるところ多勢に無勢であるかの如き現状だ。

赤塚不二夫ディレッタントを自認する身としては、こうした八方塞りの状況で、通常ならば、全く読まれることなく、消費されてゆく赤塚関連の引用リポストが、ある時、147万表示、4505件のイイネ!、1853件のリポスト、319件のブックマーク、87件の引用(2023年10月23日現在)と、SNSを初めて十年余、今まで見たこともない天文学的数字を弾き出したのだ。

その風説の流布となったポストは、現在削除されているが、幸いにもスクリーン・ショットに保存していたので、改めてここに引用してみたい。

「ネットで拾った、昭和50年・赤塚不二夫と出会ったころのタモリ。眼帯を顔に描いてあて、右眉はたぶん剃っている。……全体から陰気オーラが漂っており、言われないとタモリとはわからない。人間、やはり売れる前と後では顔が変わるねえ。」(原文ママ)

そして、このポストに対する私の引用リポストが、「変わるも何もタモリさんじゃないからね。名前は不明だが、当時赤塚不二夫の側近だった人物で、赤塚番の編集者だった可能性もある。昭和54年頃の写真で、中央は女優の児島美ゆきさん。」というものだった。

何故この時、真ん中で佇む女性が児島美ゆきであることを強調しているかというと、その容姿から、当時アイドル歌手として活躍していた木之内みどりであると誤認識しているユーザーが多かったためでもある。

さて、私が引用した件のポストの主であるが、かつて「と学会」の運営委員の一人で、コラムスト、劇作家、古書収集家としても知られる唐沢俊一。幼少期において、熱烈な赤塚チルドレンであったと公言し、後に『カスミ伝』『電脳なをさん』等の代表作を持つことになるギャグ漫画家・唐沢なをきの実兄でもある。

トリビアルなネタに付随する雑文を殊の外好んでいた青年期の筆者にとって、昭和のB級文化への論説をライフワークとしていた唐沢俊一もまた、守備範囲の一つに含まれつつあったが、如何せん、唐沢が取り上げる分野において門外漢である筈の筆者ですら、唐沢が流布するトリビアの一つ一つが事実誤認、デマカセ、捏造であると観取するレベルにあり、そうしたげんなりとした感情から、いつしか私の中で、唐沢俊一の名前すら、取るに足りない存在として、忘却の彼方へと消え去ってしまった。

事実、2000年代に唐沢は、ネット記事からの剽窃や他者の著作からの無断引用、事実認識の不備による錯誤誤記等が取り沙汰されるようになり、現在では、基礎的な文章力の欠落、ボキャブラリーに対する不確かな認識など著述家としての資質についても、多くの見巧者から冷静なる批判を受けている有り様だ。

その後も「唐沢俊一検証ブログ」などという、唐沢発のデマやガセネタを検証するまとめサイト的なブログまで立ち上げられ、こうしたブログが広く読まれ、引き金となったせいか、ネットの世界では、唐沢の存在をかつての称号「トリビア王」ならぬ「ガセビア王」などと嘲謔するユーザーも少なくない。

前出の赤っ恥ポストを投稿した後も、一般ユーザーとの遣り取りを重ねる中で、唐沢は更なる恥の上塗りをしている。

当該のポストに対する一般ユーザーの質問に対し、唐沢は「まだその前、パブで芸をやっていた頃ですね。30になっても売れず、九州に帰ることを考えてた矢先に赤塚不二夫に見いだされ、赤塚氏の出ているテレビに押し込んでネタをやらせたことでブレイクしました。」(原文ママ)と答えているが、このアンサーに違和感を禁じ得ない御仁は数多くいたのではないだろうか……。

そもそも、タモリはお笑い芸人、もしくはテレビタレントを夢見て上京し、新宿の場末のバーでタレント修行をしていたなんて事実は、数あるタモリ史を辿った文献においても一切書かれていないし、タモリ自身、そのような証言をしたことは今まで全くないわけだ。

時折しも、ツービートのビートたけしが浅草のフランス座から飛び出し、テレビに進出し始めていた頃(1974年〜75年頃)、タモリはタレントの卵ですらなかった。

タモリは、三年次に学費未納(このエピソードもタモリらしい心綻ぶものがある。また別の機会にて、タモリ史として論述してみたい。)で早稲田大学から除籍処分を受けた、

その後、1969年、故郷福岡へとUターン。地元で朝日生命の外交員や、当時大ブームであったボーリング場の支配人、喫茶店の雇われマスターをするなど職を転々としていた。

そんな素人時代であった1972年のある日、渡辺貞夫自身が主催するジャズ・コンサートが地元福岡にて開催される運びとなり、コンサート・スタッフに早大ジャズ研時代の友人がいたことから、終電がなくなる丑三つ時まで打ち上げに参加したことでその人生は一転する。

この時、ツアーには山下洋輔トリオ(山下洋輔、中村誠一、森山威男)が参加し、滞在先のホテルの一室で、酒も入っていたのだろう。歌舞伎の舞踊や狂言のパロディー、虚無僧の真似事などの乱痴気騒ぎを繰り広げていた。

その部屋の前をたまたま通り掛かったタモリは、運命の悪戯か、ルームドアが半開きの状態になっていたことから、山下らの部屋に闖入。虚無僧演じる中村が被っていたクズ箱を取り上げ、それを鼓代わりに歌舞伎の舞を披露し、山下らを啞然たらしめた。

また、芸達者な中村がタモリの突然の乱入をインチキ朝鮮語を使って抗議したところ、タモリは更にその上を行く流暢な出鱈目朝鮮語で捲し立てて応戦。その後も細部に拘った偽のアフリカ語で中村を言い負かすなどの即興芸を展開し、山下トリオを爆笑の渦に巻き込むこととなる。

これにより、タモリは山下トリオが九州方面にツアーで訪れた際には、必ずやお呼ばれされる間柄となリ、タモリの抱腹絶倒のパフォーマンスにすっかり魅せられた山下は、その至芸を自分達だけで独占しては勿体ないとばかりにタモリを福岡から東京へと呼び寄せ、山下行き着けの新宿場末のバー「ジャックの豆の木」を中心に、友人知人の前で披露させたのである。

その際、臨席していた一人がフジオ・プロの長谷邦夫で、ご多分に漏れずタモリの面白さに圧倒された長谷は、赤塚にタモリを一目見せたい一心で、赤塚を「ジャックの豆の木」へと連れ出す。

当初、そんな面白い人間が素人でいる筈がないと、長谷の話を訝しがっていたものの、実際、タモリの才気煥発なパフォーマンスを目の当たりにした赤塚は、一発でタモリを気に入り、芸能界デビューさせることを決意。自身がプライベート用に借りていた家賃十七万円の高級マンション(カーサ目白)に住まわせ、1975年8月30日、NET(現・テレビ朝日)系の生番組「土曜ショー マンガ大行進!赤塚不二夫ショー」のワンコーナにて、タモリを押し込み出演させるのである。

その後も、赤塚は本業執筆との忙しい合間を縫いながら、必死にタモリを業界内に売り込み、この遅咲きの偉大なる素人は、あれよこれよという間に、テレビタレントとしてのスターダムへと駆け上がって行く……。

これがタモリが芸能界デビューを果たすまでの道程であり、タモリが自らの意思で笑芸の世界に入るべく修行を重ねていたという事実はないのだ。

つまりは、自らの意思とは全く関係のないところで、テレビ出演を果たし、いつの間にか、押しも押されもせぬ人気タレントとして君臨していたというのが正解であろう。

だが、唐沢は、タモリが芸人として売れずに燻っていたという新たな嘘情報を流布しただけではなく、これを一般常識であるかの如く語り、その主張に疑問を投げ掛けてきた一般ユーザーに対しても、「まぁ、無知な人とは会話しても益がないので、ミュートしますね。悪しからず。」(原文ママ)と一刀両断し、更に馬脚を現すことになるのだ。

無知は唐沢の側か、それとも件の一般ユーザーの側か、論を俟つまでもないだろう。

唐沢はかつて、タモリが番組内で品評会会長を務めたフジテレビ系列の人気番組「トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜」(02年〜06年)で、監修、スーパーバイザーを務めていた立場で、無論タモリとも面識があった筈だ。

また、1970年代、サブカルチャーの洗礼を受け、多感な少年期を過ごしてきたであろう唐沢が、日本のテレビメディアにおいてセンセーショナルな登場を果たした当時のタモリの存在を認識していないとは到底考えられない。

加齢により、過去の記憶を保持出来ないとでもいうのだろうか……

また、若年性によるレビー小体型認知症が進行した現れなのか、唐沢が投稿したポストに「全体から陰気オーラが漂っており……」とあるように、曲がりなりにも、かつてタモリと仕事をし、知遇を得ている人間が、このような悪態を付くこと自体、人格面においても、破壊的、不適切なそれに推移したと言わざるを得ない。

近年では、原稿料を前借りしておきながら、一向に筆を進めようともしないその無責任ぶりから、出版社(四海書房)サイドより返金を求められる事案まで発生している。

「心理的リアクタンスでなかなか書けない」とは唐沢の弁だが、こんな詭弁、通用する筈もなく、これでは、著述を生業とする者、否、一人の社会人として失格の烙印を押されても致し方ないといったところだろう。

閑話休題。唐沢俊一の人物像等、前置きが長くなってしまったが、そろそろ本題に入りたい。

そもそも唐沢がポストに添付した赤塚不二夫、児島美ゆき、そして唐沢にタモリ認定された人物が収まったスリーショットは、元々ネット上で出回っていた一枚である。

ただ、賢明なる読者諸兄には既にお気付き頂いていると思うが、この写真、実は反転したものである。

まず、センターの児島美ゆきが身に纏っているブラウスの襟合わせが逆になっていること。そして、本来ならば、左分けである赤塚不二夫の髪型が、この写真では右分けになっていることが、その根拠として挙げられるが、これは唐沢にタモリと誤認識されている人物が眼帯メイクを左目側に描かれていることから、写真を流布した人物が意図的に反転したものと思われる。

何故なら、タモリがアイパッチをしているのは、右目の方であり、これは、リアリティーを持たす為に造られたあくまでフェイク写真であるのだ。

以前、筆者が児島美ゆきに直接お会いした折、この写真をお見せしたところ、「(赤塚)不二夫ちゃんと私は正解だけど、こちらの方はタモさんじゃないわよ」と答えて下さったことがあった。


その後私が、ならば、このアイパッチをしたタモリ風の人物はどなたなのか伺ったところで、如何せん、四十数年も時を経た遠い過去の話。当然ながら、なかなか思い出せず、辛うじて、当時、赤塚と頻繁に行動を共にしていた昵懇の人物であり、児島自身、幾度か顔を合わせたことがあったと語る程度に留まった。

私にとって気の置けない親友であり、赤塚不二夫ディレッタントとしても名高い才賀涼太郎(ブログ「赤塚不二夫保存会」主宰)も、X上で児島本人に訊ねたところ、同様の答えを頂戴している。

因みに、この後、児島本人がX上で、改めて撮られた一枚なのだろう。児島が赤塚の鼻の下にマジックインキでバカボンのパパ風の髭を描いている写真をアップしていた。

この時の赤塚と児島のファッションが、件のスリーショット時と同一のラガーシャツとブラウスであったことからも、写真中央の人物が児島であることがわかるし、もしかしたら、唐沢にタモリと間違えられた件の人物のアイパッチも児島によって描かれたものかも知れない。

では、このアイパッチメイクの偽タモリ氏は、一体何者なのか。愈々本題に入るとしよう。

手前味噌で恐縮だが、我が邸宅には、単行本や付録、未収録作品掲載誌やカバーフィーチャーされた雑誌等、凡そ数千冊に及ぶ赤塚不二夫関連の書籍か埋まった本棚のほか、貴重な赤塚グッズや赤塚フィギュアで埋め尽くされた通称「赤塚部屋」がある。

誰もその足跡を振り返えらない、それも愚民どもに愚弄される存在にまで成り下がった赤塚不二夫
を不憫に思い、三〇年ほど前からコツコツ集めていた、筆者にとっては国宝級のお宝というべき秘宝の数々である。

これだけの資料があれば、件の偽タモリ氏の正体に近付けるのではないか。そう結論に達した筆者
は半日掛け、赤塚部屋の資料と久方ぶりに向き合ってみた。

そこで一枚の写真を見付けた。

「週刊少年サンデー」(68年9号)の特別企画として掲載された「赤塚不二夫寄席」所収の写真である。

このページ中で、赤塚不二夫の交遊録を特集したコーナーに、藤子不二雄、石森章太郎、つのだじろう、鈴木伸一、園山俊二といったトキワ荘時代からの盟友やフジオ・プロの面々、「まんが海賊クイズ」での共演で親交を深めた漫画家の森田拳次や黒柳徹子、人気絶頂のコメディアン、ドンキー・カルテットの小野ヤスシといった人気タレントと並んで、全く無名な「弘岡隆」なる人物が、その一角として取り上げられている。

この弘岡隆なる人物は、『おそ松くん』の特大ヒットで急激に成金となった赤塚不二夫に何台もベンツも売り込んだ(株)「ヤナセ」のやり手セールスマンで、赤塚とは意気投合した関係から、ヤナセを退職し、後にフジオ・プロ経理部に在籍するようになった変わり種だ。

同時期に、『オバケのQ太郎』『パーマン』『怪物くん』『忍者ハットリくん』等のスマッシュ・ヒットで、赤塚と並ぶギャグ漫画の第一人者となった藤子不二雄コンビが、ベンツのセールスマンから「ベンツなんて、藤子先生クラスの売れっ子になれば、所詮は下駄代わりの買い物ですよ。免許がなければ、私が運転手を用立て致しますから」と勧められたといったエピソードを、以前、筆者は藤子A本人から伺ったことがあるが、このセールスマンこそ、藤子、赤塚と同じく西新宿「市川ビル」で軒を構えていた関係を勘案するに、弘岡隆であることに疑いの余地はないだろう。 

この弘岡隆は、後に赤塚がオーナーを務めることになるレーシング・チーム「ZENY」の主要メンバーになり、その界隈で有名だった、今でいう半グレ集団「新宿紀伊國屋二期星」の残党と同様に積極果敢に鈴鹿のレース等に関わっていた。

以前、別のエントリーで詳しく論述したが、この「紀伊國屋二期星」には、第八方面交通機動隊中隊長を実父に持ち、今尚「府中・三億円強奪事件」の真犯人ではないかと囁かれているS・A少年も、副リーダー格として関わっていたグループだ。

このS・A少年と赤塚は顔見知りの存在だった。

にも拘わらず、赤塚は弘岡に対して「私が三億円事件の犯人ですって、自首しちゃいなよ」と頻繁に軽口を叩いていたという。

つまり、そのくらい、弘岡と例の有名なモンタージュ写真はそっくりだったのだ。

実際、赤塚は、自身の連載漫画『母ちゃんNo.1』の最終話(「母ちゃんの会社がパーになった」/「週刊少年サンデー」77年12号掲載)なるエピソードで、お世話になった主人公・山田フキ子の窮地を救う従業員が、実は三億円強奪犯人だったというシチュエーションで、弘岡を楽屋ネタ的に登場させている。

弘岡は、フジオ・プロの経理部に在籍した後、1974年、古谷三敏、芳谷圭児が独立し、「ファミリー企画」を設立した際、古谷らに付いて移籍することになるが、それでも、その後、赤塚とは
付かず離れずの関係を続けていたと見え、79年当時、赤塚が主催する酒席に顔を出していたのは想像に難くない。

実際、弘岡の顔写真とこのアイパッチメイクを施した件の偽タモリを比較してみた結果、この時より遡ること九年前の写真とはいえ、右眉の形、頬から顎に掛けてのライン、鼻筋から小鼻の張り具合に至るまで、同一人物に思えてならないのだ。

ただこれも、あくまで私個人の見解であって、読者諸兄はどのような感想を持たれたであろうか?

今回、この一件において、SNSを媒体にデマそのものが恐るべきスピードで拡散して行く事象を、好サンプルとして再認識した。

実際、私のそれよりも圧倒的な偏りを指し示したリツイート数が物語るように、唐沢の虚伝を鵜呑みにし、件の偽タモリがタモリ本人であると信じて疑わないユーザーが大半であろう。

タモリと言えば、ビートたけし、明石家さんまと並び、半世紀近くに渡って活躍してきた国民的人気タレント。我々にとって、ある意味親族に近い存在だ。

それなのに、実に嘆かわしい。

まさに、ネットリテラシーの欠如、ここに極まれりである。

また、今回、私の引用リポストがバズったのも、話題の中心があくまでタモリだからであって、もし赤塚単体のものであれば、これほどまでの反響はなかったであろうし、ヤフー・ニュース等でも取り上げられるといった展開を得られなかったことも、本稿の締め括りに代えて指摘しておく。

嫉妬? パワハラ? 永井豪作品を連載打ち切りに追い込んだその真意とは?

2023-05-16 14:01:32 | 論考


赤塚不二夫の死後、ネットの普及も手伝ってか、世の赤塚認識は、晩年における、酒に溺れ、漫画家としての活動が停滞したその醜態や、好色漢とも見られがちなその言動から想起されるように、「俗物」といった概念が強いのではないだろうか。

赤塚のモラルを越えた奔放な言動は、現在、コンプライアンスの観点から鑑みた場合、完全にアウトであると思われるケースが多々ある。

酔い潰れた「週刊少年キング」の小林鉦明記者を仕事場に近い妙正寺川に、武居、五十嵐両記者とともに放り込もうとしたエピソードなどは、赤塚伝説の一つとはいえ、それそのものが、暴行傷害、殺人未遂の大犯罪であるし、飲酒運転なども、ベンツを乗り回していた時代は恒常的に繰り返していたとも聞く。

また、漫画集団の忘年会では、AV女優を招いて本番ショーを披露し、写真週刊誌「FRIDAY」に取り上げられたことから、戸塚警察に呼び出しを喰らい、厳しいお叱りを受けるといった
愚行も露呈させるなど、インモラルな奇行を挙げれば枚挙に暇がないが、これらの馬鹿さ加減は、個人的にはまだ笑って許容出来る範囲内にはある(苦笑)。

だが、近年において、赤塚不二夫の俗物イメージを更に際立たせてやまないエピソードが、ネットを舞台に頻繁に拡散されており、多くのユーザーから、これはパワーハラスメントではないか、もしくは嫉妬ではないかと、厳しい批判の声を受けている。

いつもの赤塚に向けてありがちな、泡沫ユーザーらによる風説の流布や漫言放語ならば、筆者としてもスルーの対象となるのだが、今回取り上げるトピックは、そういった類いのものではなく、確かなソースを備えた、紛うことなき事実であるので、敢えてエントリーに加えた次第だ。

それは、1968年に、デビュー間もない永井豪の初連載作品に、赤塚不二夫が編集長に抗議し、ストップを掛けたと言われる『じん太郎三度笠』(「週刊少年マガジン」)打ち切り事件である。

このすったもんだは、『ナマちゃん』で赤塚のギャグ漫画家としての才能を発掘した「まんが王」編集長の壁村耐三が、永井にとって初連載作品となる『じん太郎三度笠』を読んだ赤塚が、永井に「赤塚不二夫先生がアドバイスをくれるから、一緒に来ないか」と誘ったことに端を発する。

デビュー間もない当時の永井にとって、ギャグ漫画の第一人者で赤塚は雲の上の存在。喜び勇んで壁村に同行したら、出会い頭より赤塚から「どうしてあんなマンガを描くんだ!」と、開口一番、怒鳴られたという。

怒り心頭の赤塚は、続けて「こういう残酷なマンガを載せちゃいかんって、編集部にも怒鳴り込んだんだ」と息巻いたそうな。

事実、『じん太郎三度笠』は、読者からの評判も上々で、編集部側としても、その後も連載続行の意向を固めていたにも拘わらず、第5回目の掲載をもって打ち切られてしまう。

漫画ファン及び世間一般の想いとしては、今となっては箸にも棒にも掛からない赤塚不二夫程度の存在が、漫画界の至宝ともいうべき永井豪の才能を摘もうとするなんて言語道断、不快千万であるというのが大半であろうが、個人的には、打ち切りを決断した「週刊少年マガジン」編集長の内田勝にも、その非があると思えてならない。

つまり、内田はこの時、勝ち馬に乗ってやまないそのご都合主義的な性格から察するに、『バカボン』の連載開始により、「マガジン」の部数増大に大きく貢献した赤塚に対し、日和っていたと思えて仕方ないのだ。

まだ、永井は『ハレンチ学園』をヒットさせる前で、内田にしたら、海のものとも山のものとも付かない存在だったであろうことは、安易に想像が付く。

その後、有名な『バカボン』の「サンデー」移籍事件によって、赤塚から酷くプライドを踏み躙られた内田は、急遽掌を返し、赤塚のその作品は勿論のこと、全人格を事あるごとに否定、批判を重ねるようになる。

無論、内田に『じん太郎』の打ち切りを要求したのは赤塚だが、日和見主義の内田が赤塚と蜜月関係を築いていたという悪しきタイミングも重なった結果としか言い様がない。

『じん太郎三度笠』は、主人公のじん太郎がヤクザの生首に生け花を挿したり、興奮のあまり、人間を切り刻んだり、殺したりと徹底したブラックユーモアに貫かれし作品だ。

ただ、永井としては、可愛い絵柄で描かれた作品であるため、読み手にそこまでの残酷性は感じさせないと思っていただけあって、赤塚の主張は理不尽極まりないものとして写ったようだ。

何故なら、同じく「マガジン」で好評連載中であったさいとうたかをの時代劇画『無用ノ介』は、更に血飛沫飛び交うスプラッター描写が濃厚であり、どうしてストーリー劇画では残酷描写が問題なく、ギャグ漫画では否定されるのか、永井にしたら、その理屈が全く理解出来なかったからだ。

その時、永井はこう思ったという。

「赤塚先生がダメだというのは、自分が描きたくても描けないものをアッサリ描かれたからだな。そう思った僕は、よしやってやろうと、叱られて自分の進むべき道を再確認したのだ。」(「第19回 少年マンガのタブー」/「永井豪、初の自伝的エッセイ 豪氏力研究所」「Web現代」、02年)

つまり、永井は、赤塚の『じん太郎』に対する打ち切りの強行は、自身の才能へのあからさまなジェラシーであると判断したのだ。

永井が語る再確認とは、タブーへの挑戦を意味しており、この後間もなく、「少年ジャンプ」創刊号にて、女生徒へのセクハラやスカートめくりを大々的に扱い、後に社会問題化する『ハレンチ学園』を発表。連載扱いとなり、大ヒット作となる。

永井の逆境をバネとし、漫画界のエポックメイキングになり得る大傑作を発表したその功績は、称賛に値するものだが、永井が赤塚から受けた仕打ちに対し、嫉妬と感じたその発言には、筆者自身、永井と赤塚の間で埋めることの出来ない、当時の流行語でいうところの「世代の断絶」を感じずにはいられない。

その世代の断絶とは、則ち、戦後生まれであり、戦後民主主義の時代の秩序と安寧の社会の中で育った永井と、戦時中、満州に育ち、後に「人間はイザという時には、醜い動物、卑しい虫のような存在になる」と言い放った赤塚との間に横たわる死に対する意識の違いである。

永井は、戦後民主主義の恩恵を受けて育った最初の世代であったが、その実、理念と運動と制度との三位一体であるべき筈の民主主義が、その教育も含め、民意とは乖離した虚妄と欺瞞に満ちた社会構造にあるという異質感をブラックジョークに包んでカリカチュアライズしたのではなかろうか。

赤塚が嫌悪した『じん太郎三度笠』におけるスプラッター描写もまた、後にスパークする永井の作家性の萌芽として、個人的には見て取れる。

事実、その作風は『ハレンチ学園』に登場するヒゲゴジラら悪辣でスケベな教師どもが、山岸や十兵衛らに徹底的に懲らしめられたり、後に第一部の完結編となる「ハレンチ大戦争』での大日本教育センターとハレンチ学園との大バトル描写等においても確認出来よう

他方、満州時代、凄惨な殺戮や横たわる死体を嫌というほど目の当たりにしてきた赤塚にとって、また戦後、母親の後に付いて命からがら日本に引き揚げて来た際、実の妹をジフテリアで失った赤塚にとって、永井が描くハード&ラウドなスプラッターギャグは、人間の尊厳を損なう卑俗な光景に映ったのかも知れない。

ましてや、赤塚自身がパイオニアとなって開拓してきたナンセンス・ギャグ漫画の世界である。

当事者である赤塚にしてみたら、伊達や自惚れではなく、我こそがギャグ漫画界の総元締めだという意識が強く働いたに違いない。

その結果、己のフィールドで、このような漫画が描かれることは我慢ならず、『じん太郎』の打ち切りを「マガジン」編集部に要求したというのが、筆者の推測であり、見解である。

無論、そうであったとしても、それは、当時の赤塚の漫画家としての優位的な立場を利用した職権の発動に過ぎず、筆者としても弁護の余地はない。

因みに、この後、永井の談によれば、「赤塚賞の審査員をした際、赤塚先生がこっそり謝りに来た」とのことで、赤塚にしても、永井に対する暴挙は、大人気なかったという反省の面もあったのだろう

また、時を経た1995年、赤塚は永井作品に対し、こう評価している。

「セリフが簡潔でうまい、のも豪チャン漫画の特徴だ。百ページの長編描いても流動感というかスピード感というか、すっーと読ませてしまう。 〜中略〜 SFものも怪奇ものもギャグも、僕がみんな好きなのは、そこに「永井豪調が貫かれているからなのだ。漫画が本当に好きで漫画家になった“最後”の漫画少年なのだ。」(「“最後の漫画少年”なのだ」/『バカボン線友録! 赤塚不二夫の戦後漫画50年史』所収、学習研究社)

一方の永井は、絶頂期にあった赤塚に対し、こう評価している。

「ナンセンスに関しては八方破れな大変なセンスの持ち主だと思う。ぼくもギャグでデビューしたから、赤塚さんを目標にしていました。今では二人が違ったものになったから楽しみに見ている。傍目から見ると、形式にとらわれないで、リラックスしてやっている感じがいい。」(「マルチ・イメージ 赤塚不二夫④」/『別冊まんがNo.1 赤塚不二夫大年鑑』所収、日本社、73年)

さて、ここで一つの疑問が生じてくる。

「週刊ぼくらマガジン」「週刊少年マガジン」と講談社系漫画誌にカムバックした第三期連載の『天才バカボン』や『レッツラゴン』の連載開始となった1971年以降、赤塚ワールドにおける尖鋭性は更に拍車が掛かり、作中、登場人物が死に至らしめられるギャグも頻繁に描かれるようになったことだ。

『じん太郎』批判をした赤塚がその後、そのスプラッター描写を自家薬籠中のものとしてしまっているこの作風の変化に対し、懐かし漫画マニアであるSNSユーザーらも疑問を投げ掛けていた。

一体何故……!?

筆者は、この作風の変化に関し、最愛の母・リヨの前年の死が大きく影響しているのではないかと推測する。

ろくに仕事もなかったトキワ荘時代、上京して来たリヨにべったり甘える姿を見られ、仲間達から「マザコンの極致」と笑われていた赤塚である。

終戦後、ソビエト連邦にて軍事裁判に掛けられ、長らくシベリアでの抑留生活を強いられていた父・藤七に代わって、幼い赤塚らを女手一つで守り抜き、また育てて上げたリヨは、赤塚にとって掛け替えのない存在だった。

つまりは、そんなリヨの逝去をもって、赤塚不二夫にとっての戦中は終わったのではないかということだ。

勿論、『レッツラゴン』の開始直前に訪れたニューヨークでの短期遊学とその時に受けたカルチャーショック、そして「MAD」編集部への訪問がその作風の変化に色濃く影響を及ぼしたことは、語るに及ばない。

さて、永井豪と赤塚不二夫、どちらの方が漫画家としてのステージが上かと問われれば、『デビルマン』『マジンガーZ』をはじめとする世界的な評価も含め、永井豪に軍配が上がることは必至であると、赤塚不二夫ディレッタントを自認している筆者ですら、そのように理解している。

ただ、その後、書評家であり、プロインタビュアーである吉田豪との対談で、永井は、こうした諸々の影響から、暫くはギャグ漫画を続けてみようという意思を固めたと語る中、「ついでに赤塚先生を追い詰めてやろうと思って」と結んだが、もし、永井自身、自らのギャグ漫画が赤塚を漫画家として追い詰めたとの認識を抱いているならば、そこには、モヤモヤとした違和感を拭い切れず、その件に関しても、この場にて個人的な見解を申し立てておきたい。

永井もまた、『ハレンチ学園』を皮切りに『あばしり一家』(「少年チャンピオン」、69年〜73年)、『キッカイくん』(「週刊少年マガジン」、69年〜70年)『ガクエン退屈男』(「週刊ぼくらマガジン」、70年)『オモライくん』(「週刊少年マガジン」、72年)『ケダマン』(「週刊少年サンデー」、72年)『おいら女蛮』(「週刊少年サンデー」、74年〜75年)『イヤハヤ南友』(「週刊少年マガジン」、74年〜75年)等々、夥しい数のギャグの傑作、怪作群を連載するが、永井ギャグが少年漫画誌の誌面を賑わせていた時代は、赤塚ギャグの全盛期、円熟期と重なり、これらの永井作品が赤塚ギャグを漫画界より駆逐したとは、到底考えられないのだ。

実際、赤塚が長らく主力作家として執筆してきた「サンデー」「マガジン」「キング」といった少年週刊漫画誌から退場するのは、1978年のことであり、代表作である『天才バカボン』もまた、同年12月号をもって「月刊少年マガジン」での連載を終了している。  

戦後ギャグ漫画の歴史を時系列で整理するならば、赤塚がその執筆活動において、縮小傾向を迎えるに至った時期は、1974年に「週刊少年チャンピオン」で連載開始され、爆発的人気を博した山上たつひこの『がきデカ』の影響下にあって、その後続々と登場した秋本治、小林よしのり、鴨川つばめ、江口寿史といったギャグ漫画家達の台頭と時を同じくしている。

彼らに第一線を譲るかたちで、赤塚ギャグは少年漫画の世界から淘汰されたと言えるだろう。

『がきデカ』のヒットと山上の台頭に後続した新たな才能の登場により、ギャグ漫画のメインストリームが、赤塚ワールドから大きく乖離し、読者が漫画に求める笑いの傾向がより細く枝分かれしていったのだ。

彼らは、赤塚や永井のようにプロダクション・システムによって作品を大量生産することなく、少数スタッフにより、一本の連載を忠実に守ってゆく創作方法を採っていた。

その結果、仕上がりにバラつきのない、及第点を越える作品群を、1970年代後半において、高頻度で提供することに成功した。

赤塚が漫画界の第一線、則ち少年週刊誌から離脱した最大の要因は、永井豪の活躍ではなく、このように『がきデカ』ショックによるギャグ漫画の大きな変革にあるのだ。

余談だが、ギャグ漫画界における山上たつひこの影響力は、赤塚不二夫以降、最も甚大で、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』でデビューする秋本治が、暫くの間、山上を捩ったペンネーム「山止たつひこ」としていたことは有名だが、その主人公・両津勘吉の原型もまた、同じく山上の代表作である『喜劇新思想体系』に登場する角刈ヘアに腕捲くり姿のゴリラ顔した制服警官、玉無啓三巡査にあると思えてならない。

そのくらい赤塚以降のギャグ漫画家で、ニューエイジたる山上のセンスは強力な磁場を放っていたのだ。

因みに、1978年は、『Dr.スランプ』の鳥山明と『うる星やつら』の高橋留美子がデビューを果たした年でもある。

永井豪も、同年「週刊少年サンデー」に、映画「スター・ウォーズ」にインスパイアされたとおぼしき『スペオペ宙学』、「月刊少年ジャンプ」に、ザーサイ星雲のピータン星からやって来たスーパーマンの活躍をドタバタテイストたっぷりに描いた『超マン』(『キン肉マン』に登場する人気超人・ラーメンマンのルーツか?)を連載するが、いずれも大きな人気を得るまでには至らなかった。

赤塚とは違い、70年代末期以降においても、メジャー少年誌での連載を持ち得ていた永井だったが、その永井ギャグですら、最早ヒットに恵まれる時代ではなくなってきていたのだ。

しかし、永井はその後も、サイキック・アクション大作『凄ノ王』で第4回講談社漫画賞を受賞(80年)。近年では、その全作品に対し、第47回日本漫画家協会文部科学大臣賞(18年)や、フランス政府から芸術文化勲章「シュバリエ」を授与するなど(19年)、OVA化や映画化といったメディアミックスも含め、現在に至るまで意気軒昂な活躍を示していることは先刻承知の通りである。

今年(2023年)に入ってからは、体調不良も危ぶまれている永井だが、赤塚が言うところの「最後の漫画少年」として、健康に留意しつつ、世界に散らばる無数のファンのためにも、益々の活躍を祈念するばかりだ。


赤塚不二夫と曙出版の共闘関係

2023-05-10 14:23:55 | 論考

独断と偏見を承知の上で、敢えて言わせて頂くならば、我が国で過小評価を受けている漫画家の最右翼こそ、誰あろう我が赤塚不二夫である。

赤塚不二夫の逝去から早十五年もの歳月が経とうとしている。

その十五年間の間、赤塚不二夫を巡る環境、そして付随する評価は、時を経るごとに最悪なものになっていることは、これまで拙著や当ブログで伝えてきた通りだ。

日々、インターネットの匿名掲示板やSNSなどでは、漫画家としての赤塚の偉業から目を逸らし続けている泡沫ユーザーらによって、罵詈雑言の言葉をぶつけられ続けている始末である。

曰く「生まれた時からアル中」「下品で打たれ弱い中卒の馬鹿」「何の才能も輝きもない虫けら」「酒で身を持ち崩した自称元漫画家」等々、これらの赤塚の人格、人間としての尊厳をも損なうかのような言葉の暴力には、赤塚不二夫ディレッタントを自認している筆者にとっては、立腹は勿論、目を覆いたくなるものばかりだ。

何故、赤塚はこのような国民のサンドバッグと化す存在になったのだろうか?

理由の一つとして、まずはこの令和の現在、コロナ禍や与党の無軌道極まりない政権運営による政局の不安定化、先行き不透明な時代の鬱屈感が国民の背中に重くのしかかっていることが挙げられよう

要するに、そうした不平不満をぶつけるサンドバッグとして、既に故人である赤塚不二夫に白羽の矢が立ったということだ。

しかし、死しても尚、そんな愚劣な連中のストレスの受け皿としてなり得ている点は、動揺もあるが、流石は赤塚らしい並々ならぬ父性を感じさせる。

閑話休題。この忌々しき問題に関しては、いずれ新たなエントリーを設けて論述してゆきたいが、現状における箸にも棒にも掛からない世の赤塚理解において、赤塚マンガを手に取って読む機会が益々消えつつある現実こそが最大のネックであると言わざるを得ないだろう。

現に、赤塚の代表的なキャラクターをフィーチャーし、二見書房より鳴り物入りで刊行を開始した文庫本『メイドイン赤塚不二夫』シリーズが、全12巻予定だったものが、『六つ子』『アッコ』の二冊のみのリリースで終了してしまったことは記憶に新しい。

漫画家はその作品が読まれてなんぼの職業なのに、赤塚不二夫に限っては、そうした状況から著しく外れているようにしか思えてならない。

だが、そんな赤塚にも、かつてほぼ全ての作品を網羅し、叢書化、単行本化しようと積極果敢な取り組みを果たしてきた出版社が存在していた。

赤塚不二夫がデビュー作『嵐をこえて』を上梓した株式会社・曙出版である。

曙出版は、1948年、土屋弘が文京区曙町(現在の本駒込)にあった雑居ビル内に軒を構え、当時の町名をそのまま社名に据え創業したことがそもそもの始まりであった。

創業から暫くは、子供向けの世界名作全集の絵物語版やとんち小説、戦記、薄幸の少女ものといった読み物を手掛けていたが、53年に大田加英二(後にタツノコプロ作品のコミカライズや構成などで辣腕を振るうたつみ勝丸の変名)の『少年決死隊』の刊行を機に「感激漫画美談文庫」(後に「あけぼのまんが選」と改称)なるレーベルを立ち上げた以降は、描き下ろしの漫画単行本に特化した出版社として業績を伸ばしていった。

『嵐をこえて』以降、赤塚は、「あけぼのまんが選」レーベル内において『湖上の閃光』『嵐の波止場』『心の花園』『消えた少女』といった描き下ろしの少女漫画、ミステリー漫画を引き続き上梓し、その後も連載作品である『おハナちゃん』や『おた助くん』、『ひみつのアッコちゃん』といったタイトルをやはり貸本向けのA5サイズでリリースするなど、曙出版との繋がりを深めてゆく。

また、A5サイズの貸本向け単行本でいえば、赤塚は『カン太郎』や『まかせて長太』、『九平とねえちゃん』といった初期の赤塚ワークスの傑作群を文華書房からも叢書化している。

文華書房とは、1963年、樋口一葉が終の棲家としたことでも知られる丸山福山町(現・西片一丁目辺り)に軒を構えた曙出版の子会社で、66年末の営業停止に至るまで、土屋弘の実子である土屋豪造が代表取締役を務めていた。

文華書房は、その奥付に記された「発行所・文華書房/発売元・曙出版」の文字が物語るように、土屋弘にしたら、無論税金対策の一環もあったであろうが、引退後、豪造に事業を継いでもらいたい想いも強く、その出版ノウハウを伝授したいというもう一つの目論みによって立ち上げられたパブリッシャーと見て間違いないだろう。

文華書房の活動停止後、豪造は、1960年に曙出版より、実用書、人文図書部門の刊行を主軸に据え、独立した株式会社・土屋書店の代表取締役に就任。その後、語学学習の参考書や資格取得に向けたガイドブック、若者向けの自己啓発本等、無数の書籍をプロデュースし、長期に渡りその采配を振るった。


さて、再び話は立ち返るが、これまで記してきた曙出版と赤塚不二夫との密接な間柄は、社長である土屋弘が赤塚と同じ新潟出身という同郷の関係にあり、そうした繋がりから、新人の赤塚には何かと目を掛けていたからに他ならない。

暫し、曙出版を主軸に執筆活動をしていた長谷邦夫が、曙出版に赤塚を紹介したから、多数の赤塚単行本が刊行されるに至ったと、ネットを中心に語られているが、このような土屋弘と赤塚の関係から察するに、これもまた、赤塚を取り巻く漫言放語の一つだと言わざるを得まい。

やがて、漫画単行本は、コミックスと名称を代え、昭和41年以降、「ゴールデンコミックス」(小学館)「サンデーコミックス」(秋田書店)「ダイヤモンドコミックス」(コダマプレス)「サンコミックス」(朝日ソノラマ)「虫コミックス」(虫プロ商事)等、数多の出版社より、コンパクトな新書判サイズにて続々と刊行されるに至り、一気にラインナップを増やしてゆく。

そう、新書判コミックスブームの幕開けである。

曙出版もそうしたブームに呼応すべく、1968年、新書判レーベル「アケボノコミックス」を新たに設立。

その第一号コミックスとしてシリーズ化されたのが『おそ松くん全集』で、編集の都合上、第4巻から刊行されるという変則的なかたちでのスタートだった。

『おそ松くん全集』は、当初の全24巻の初版のみで150万部を越える大ヒット。再版に次ぐ再版から最終的には500万部を売り上げる大ベストセラーとなった。

当時、アケボノコミックスの装丁や編集作業を受け持っていた横山孝雄は、『おそ松くん全集』の爆発的な売れ行きを次のように振り返る。

「曙出版で『おそ松くん』の単行本が一冊出ると、それだけでフジオプロに毎月、(四十数年前)五〇〇万から八〇〇万円の収入があったのです。」(「みんなの頭をはたきながら、憎まれ役をやっていた」/『SPECTATOR    赤塚不二夫』第38号所収、エディトリアル・デパートメント、17年)

 毎月というからは、恐らく再版を含めてのことではないかと推測出来る。

『おそ松くん全集』の総発行部数を1000万部とする文献(「シェーでギャグのパフォーマンス     おそ松くんはギャグの先生だった」/『サンデー毎日』90年8月5日号)もあるように、実際はそれに近い総売り上げを誇る大ベストセラーであった可能性も捨て切れない。

その後も、赤塚のキャリアにおいて、極めて初期となる代表的なタイトル(『ナマちゃん』)から、1970年までに発表された傑作怪作の粋を集めた『赤塚不二夫全集』(全30巻)や『もーれつア太郎』(全12巻)、『天才バカボン』(全31巻+別巻全3巻)『レッツラゴン』(全12巻)等をリリース。取り分け、『ア太郎』『バカボン』に至っては、『おそ松くん全集』に継ぐベストセラーとなり、この三作品の総発行部数は、最終的に1200万部を上回ることになる。

実際、数ある赤塚のアケボノコミックスにおいて、増刷されなかったものは、『赤塚不二夫全集』全30巻に加え、『鬼警部』『狂犬トロッキー』『幕末珍犬組』『ぼくはケムゴロ』、曙文庫の『まかせて長太』の第1巻のみで、他のマイナータイトルを含め、全て再版が掛かっているのだ。

アケボノコミックスは、好美のぼる(『にくしみ』『妖怪合戦』他)や白川まり奈(『吸血伝』『侵略円盤キノコンガ』他)といった、今尚カルト的な人気を誇るホラー漫画家の作品も多数刊行しており、現時点においては、赤塚への過小評価に加え、好美、白川らに支えられた出版社というイメージで見られがちだが、実際、圧倒的なセールスを誇ったのは、赤塚の『おそ松くん全集』であり、『もーれつア太郎』であり、『天才バカボン』であり、トータルで200万部を売り上げた古谷三敏の『ダメおやじ』(全21巻)であった。

事実、赤塚の『おそ松くん全集』の売り上げのみで、曙出版は、74年文京区白山二丁目に占有面積40坪余り、4階建ての自社ビルを建設している。

アケボノコミックス・レーベルにおける品揃えについては、好美、白川らに象徴されるホラー漫画と赤塚を筆頭とする長谷邦夫(『バカ式』『絶対面白全部』他)、とりいかずよし(『ふんばらなくっちゃ』『豆おやじ』他)、横山孝雄(『旅立て荒野』)、芳谷圭児(『エンジン魂』『高校さすらい派』他)、百起賢二(『幕末風雲録』『帰らざる海』)、北見けんいち(『マンバカまん』)、てらしまけいじ(『馬次郎がやって来る』『あららけんちょ』)といったフジオ・プロ系列の作家の諸作品、または、『ドッキリ仮面』(原作/神保史郎・作画/日大健児)や『ドタマジン太』(板井れんたろう)、『タマオキくん』(よこたとくお)、『王チンチン』(森田拳次)といった他社で単行本化されていない、もしくは続刊が中止となったフジオ・プロ系以外のギャグ漫画作品がシリーズの大半を占めていた。

しかしながら、これら以外の単行本化作品に触れれば、アニメ化もされたSF活劇物である『ゼロテスター』(はただいすけ)、古くは東映特撮ドラマの漫画版『キャプテンウルトラ』(小畑しゅんじ)、往年の人気アニメをコミカラズした『おらぁグズラだど』(板井れんたろう)、ちばてつやタッチにあからさまな影響を受けたとおぼしき『おれの行進曲』(ふくしま史朗)等、そのラインナップに一貫性があるとはいえず、赤塚とフジオ・プロ系を除いた諸作品の単行本化の基準において、今だその謎は解明されていない。

趣きの深いところでは、『赤塚不二夫全集』の向こうを張った『大田じろう全集』(全6巻)があり、『げんこつ和尚』や『塚原卜伝』などがそのラインナップとして含まれている。

余談だが、アケボノコミックスの編集部門を統括していたのは、宮川義道なる人物(1941年生まれ)で、元々は曙出版の『ハイティーン』や『ローティーン』といった貸本向けアンソロジー集に漫画を描いていた漫画家であった。

1963年に社員として入社した宮川は、曙出版と、前述の文華書房の二社を股に掛け、数々の貸本漫画の編集、編纂に携わる。

実はアケボノコミックス・レーベルの立ち上げを企画し、実現化させたのも、一説には、宮川であるとの噂もある。

宮川は、1976年まで曙出版に籍を置き、その間、アケボノコミックスの巻末ページにて、「あけぼのに巣食うばけもの 変醜(へんしゅう)のお宮」を名乗り、昔取った杵柄宜しく、漫画入りの読者コーナーを受け持っていた。

アケボノコミックス・ユーザーには馴染み深い御仁だ。

その後、フリーとなり、ペンネームをつがる団平に改名。漫画家、イラストレーターとして再出発を図ることになる。

元々は貸本向け出版社であった曙出版は、このようにコツコツと業績を上げ、赤塚ブームに伴走するかたちで、生き長ら得たわけだが、1977年以降、アケボノコミックスの新刊の刊行を中止せざるを得ないといったアクシデントに見舞われる

理由は単純明快。アケボノコミックス版の『天才バカボン』が、講談社サイドの予想を上回るヒットセラーとなったからであった。

1971年、移籍した「週刊少年サンデー」での連載終了後、赤塚は、テレビアニメ化の土産を持って、講談社サイドに謝罪し、『バカボン』を「週刊ぼくらマガジン」を経て、「週刊少年マガジン」にカムバックさせるが、この後、再び赤塚番として舞い戻った五十嵐隆夫記者に『バカボン』のコミックスを曙出版でも刊行出来るよう懇願したという。

この時の様子を五十嵐はこう振り返る。

「(名和註・赤塚)先生は曙出版で漫画家デビューしました。その曙から『天才バカボン』を出したいと言ってきて、先生はわたしにこう言いました。「分かってくれよ、おれはここからかなり若い時から自分の単行本を出してもらって、それが自分の生活の糧となり今日があるんだ。ヒット作が出たときに、もうお前のところから出さないよ、講談社オンリーだよと言うのは、おれには出来ないんだよ」と。また、こうも言いました。「イガラシ、お前のところは『天才バカボン』をさまざまな形で宣伝すると思う。多くの読者が『天才バカボン』は「マガジン」から出ていると思っている。それに、書店は、曙の品揃えより講談社のKCで揃える方が多い。曙はそういうハンデを持っているんだから、目をつぶってくれ」   わたしは先生の真意が充分わかりました。副編集長の 宮原(照夫)さんに、「先生にこう言われて、わたしは納得がいきました」と話したのです。宮原さんも、自分も納得がいく。営業はうるさいかもしれないけど、事を荒げないでいよう。もしそうなったら自分が一身に受けるからという意味のことをおっしゃって、結果的に、大きな問題にはなりませんでした。」(「傑作をつくる一瞬の快感のために、邁進している人でした」/『SPECTATOR    赤塚不二夫』第38号所収)

因みに、当時の『バカボン』愛読者の間では、同じ値段でありながらも、ページ数の少ないアケボノコミックス版よりも、ボリュームもたっぷりな講談社KCコミックス版を買った方がコストパフォーマンス的にもベストであるとの意見が頻繁に聞かれたという。

事実、「少年マガジン」復帰後、久方ぶりの続刊となった講談社KCコミックス版『バカボン』の第8巻(72年3月10日初版)は、発売から一月程度で、30万部突破とアナウンスされており(「週刊少年マガジン」72年4月5日増刊)、この売れ行きからも、多くの読者がKC版の方を買い求めていたことがよく分かる。

では、何故、アケボノコミックス版『バカボン』は、同レーベルにおける『おそ松くん全集』『赤塚不二夫全集』『もーれつア太郎』『レッツラゴン』等と違ってページ数が少なかったのか。

それは、曙出版側の講談社に対する配慮として、本来の新書判コミックスよりも数十ページを削減し、スリム化した体裁で『バカボン』をシリーズ化したからに他ならない。

そのため、見栄えを考慮し、新書よりも一回り大きいB6判サイズでの刊行となったのだ。

だが、アケボノコミックス版『バカボン』は、ページ数こそ少ないものの、B6判という通常のコミックスよりもワイドサイズで読める点が効を奏し、1976年の時点で420万部近いセールスを記録する。

テレビアニメ『元祖天才バカボン』のオンエアに合わせ、背表紙の著者表記部分に「テレビ放映中!!」の見出しを入れ、存在感をアピールしたことも、販売促進に繋がったと見て取れよう。

このアケボノコミックス版『バカボン』の異常とも言える売り上げは、講談社サイドの神経を逆撫でする結果となった。

講談社営業部は、今後『バカボン』の新刊を出す際には、講談社側に版権使用料の一部を支払うよう、曙側に通告してきたという。

講談社としては、曙の出版形態そのものが、美味しいところだけを持って行く、ある意味において、他人の褌で相撲を取るような行為にも見えたのかも知れない。

赤塚の曙出版に対する厚情にシンパシーを抱いた宮原照夫と五十嵐隆夫の熱意をもってしても、大手出版社のロジックを覆すまでには至らなかったのだ。

奇しくも、漫画雑誌を持つ各版元が自社でコミックス・レーベルを立ち上げ、掲載作品を単行本化する動きが活発化してきた時期とも重なる。

従って、「週刊少年サンデー」連載の『のらガキ』や『母ちゃんNo.1』、「週刊少年マガジン」連載の『B・Cアダム』、「週刊少年チャンピオン」の『ワルワルワールド』、「週刊少年キング」連載の『コングおやじ』などは、それぞれ連載元の出版社より単行本化されており、アケボノコミックスのラインナップには入っていない。

尚、77年当時、現行の連載タイトルであり、曙出版としてもドル箱コンテンツだった『天才バカボン』と『ダメおやじ』であるが、最終巻となる第31巻、第21巻以降のエピソードは、それぞれ「講談社KCコミックス」「少年サンデーコミックス」に限っての収録となった。

そして、これ以降漫画部門に関しては、コミックスが品切れになる都度、1981年まで増刷を重ねるのみに留まったが、1998年、曙文庫レーベルより『ひみつのアッコちゃん』第1巻が、東映動画製作によるアニメ第三作(98年4月5日~99年2月28日、フジテレビ)の放映開始に伴い、リリースされる

曙出版から赤塚の新刊が刊行されるのは、『天才バカボン』第31巻以来、21年ぶりのことであったが、売り上げの不振もあってか、第2巻の刊行中止も余儀なくされず、これをもって、曙出版での赤塚書籍のリリースは終止符を迎えるに至った。

さて、その後の曙出版の動向について駆け足で振り返ってみたい。

筆者は、赤塚マンガに興味を持ち始めた中学生時代の1988年、既に成人式を迎え、大学生となっていた1995年の二回に渡り、練馬区北町に移転していた曙出版を訪れたことがある。

88年当時、前年のテレビ東京での「天才バカボン」「元祖天才バカボン」の再放送が導火線となって、個人的に赤塚熱が頂点に達していた時代だった。

時折しも、「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」の新作アニメがリバイバルヒットしていた頃である。

この時は、書店では手には入らないマニアックな赤塚単行本があれば、是非お譲り頂きたく思い、来訪したのだが、95年といえば、既に赤塚作品のリバイバル期も遠く過ぎ去り、酩酊した状態で頻繁にテレビ出演を繰り返す赤塚不二夫の姿に触れ、個人的には愛情半ばの憤りと歯痒さを禁じ得なくなっていた時代である。

メディアから伝達されるそんな痛々しい醜態を通し、社会的に抹殺されつつあった赤塚の存在を不憫に感じるようになったのもこの頃で、少なくとも自分だけは、今や評価の対象外となったその作品を個人的に保護しておきたいという想いに駆られるようになったのだ。

そうした上で、前回訪れた際に買いそびれたものがないか、確認するための再訪問であった。

無論、赤塚がこれまで上梓した著作を全てコンプリートするためである。

この時、88年の来訪時に買い漏らした作品が数点あり、70年代初頭から長らく曙出版に勤務されているという女性社員の方から、それらをただ同然の値段で譲って頂く幸運にも恵まれた。

だが、それ以上の収穫は、アケボノコミックスの販売実績を記した帳簿や、北は北海道、南は九州にまで及ぶ曙商品の取り扱い書店の一覧表等、門外不出の資料を見せて頂いたことだ。

また、この時、イラストは印刷されたものであるが、愛読者プレゼントとして書かれた赤塚筆によるサイン色紙なども、私が現在の愛読者であるという理由からプレゼントして下さったりもした。

二度目の来訪の際、最も目から鱗が落ちたのは、アケボノコミックスの奥付に関する衝撃的な裏話である。

アケボノコミックスの奥付といえば、日付や初版、再版の明記が曖昧なケースが多々ある。

その理由は、地方の書店などで売れ残った本が返品された際、小口の汚れ部分を書籍研磨機にかけ、後日、新刊として別の書店に出荷するためとのことで、曙に限らず、当時の貸本向け出版社は、何処も同じようなことをしていたという。

そうした会話の流れから、赤塚らしい、心が綻ぶエピソードを伺ったので、最後にこれを紹介して本エントリーの占めとしたい。

正確な時期は特定出来ないが、恐らく1990年代の前半から半ばに掛けてのことだと思われる。

曙出版の創業者である土屋弘が逝去された時のことだ。

お通夜に真っ先に駆け付けたのが、誰あろう赤塚であった。

赤塚は、荼毘に伏された土屋社長に泣きながら、「今の自分があるのは全て社長のお陰です」と、何度も感謝の意を伝えたという。

他の弔問客らが土屋社長を哀悼する赤塚の姿に貰い泣きした後、赤塚は別の弔問客が履いて来た靴を自分のものと間違えて帰路に就こうとしたそうな。

これは、自らが号泣したことにより、貰い泣きする者も現れたりと、より湿っぽい空気にしてしまった反省から、その空気を変えるべく、敢えて靴を履き間違え、他の弔問客の笑いを誘ったという
、赤塚ならではの粋な計らいであった。

曙出版は、2004年、編集プロダクション「岩尾悟志事務所」が経営に加わり、岩尾悟志自身がオーナーを務める「メディアックス」との業務提携という形で再出発。本社を練馬区北町から新宿区矢来町のメディアックス内に移転し、レディースコミックスやセクシー系のDVDを付録に付けたアダルト雑誌などを刊行したが、12年には出版業務から撤退し、その全てをメディアックスが引き継いだ。

日本図書コード管理センターによると、現在、曙出版は活動停止中とのことである。

曙出版をメディアックスに譲渡した土屋豪造は、2006年、学校法人滋慶学園グループへグループ企業として参加。11年、土屋書店は株式会社滋慶の出版部門を継承し、株式会社滋慶出版へと社名変更するも、18年、分社し、株式会社つちや書店として再興を果たす。

現在は、土屋豪造に代わって佐藤秀が代表取締役を務めている。

曙出版、土屋書店を巡るこうした一連の売却騒動だが、事情に詳しい出版関係者の話によると、土屋一族の親族の方による別事業の失敗が大きく影響しているとのことだ。

尚、現在のつちや書店には、赤塚ブーム時代を知る社員は一人も在籍していないという。

まさに昭和は遠くなりけりである。

しかしながら、昭和40年代〜50年代を過ごした漫画大好きキッズ達、取り分け、コア、ライトを含め、1000万人は存在したと言われる赤塚ファンであった元キッズ達にとって、街の書店の本棚をキラ星の如く彩ったアケボノコミックスの数々は、少年時代に体感した目眩く原風景の一つとして、今尚、その記憶に刻まれているに違いあるまい。

尚、曙出版、文華書房より発行された赤塚不二夫名義の書籍は、全213冊。詳細は下記の通りである。

<赤塚不二夫・曙出版全単行本リスト>

『嵐をこえて』
1956年6月7日発行

『湖上の閃光』
1956年8月25日発行

『嵐の波止場』
1956年12月10日発行

『心の花園』
1957年3月5日発行

『消えた少女』
1957年8月20日発行

『おハナちゃん』
1963年頃 発行月日不明

『おた助くん』全7巻
1964年頃より刊行開始 発行月日不明

『ひみつのアッコちゃん』全6巻
1965年頃より刊行開始 発行月日不明

『カン太郎』
文華書房(発売・曙出版)
1965年頃 発行月日不明

『やったるぜ カン太郎』
文華書房(発売・曙出版)
1965年頃 発行月日不明

『笑い笑い まかせて長太』
文華書房(発売・曙出版)
1965年頃 発行月日不明

『なんでもやるよ まかせて長太』
文華書房(発売・曙出版)
1965年頃 発行月日不明

『レッツゴー そんごくん』
1965年頃 発行月日不明

『はりきり そんごくん』
1965年頃 発行月日不明

『怪物をやっつけろ そんごくん』
文華書房(発売・曙出版)
1965年頃 発行月日不明

『おとぎの世界へ そんごくん』
1965年頃 発行月日不明

『よろずお仕事 まかせて長太』
文華書房(発売・曙出版)
1966年頃 発行月日不明

『コンチまたまた まかせて長太』
文華書房(発売・曙出版)
1966年頃 発行月日不明

『九平とねえちゃん』
文華書房(発売・曙出版)
1966年頃 発行月日不明

『キビママちゃん』全2巻
1966年頃 発行月日不明

『$ちゃんとチビ太』
1967年頃 発行月日不明

『ジャジャ子ちゃん』
1967年頃 発行月日不明

『いじわる一家』
1967年頃 発行月日不明

『モジャモジャおじちゃん』
1967年頃 発行月日不明

『ミータンとおはよう』
文華書房(発売:曙出版)
1967年頃 発行月日不明

『キカンポ元ちゃん』全2巻
1967年頃 発行月日不明

曙コミックス『おそ松くん全集』第4巻「六つ子なんかに負けないぞ」
1968年1月16日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第5巻「チビ太に清き一票を!」
1968年2月29日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第6巻「チビ太のおつむは世界一」
1968年3月30日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第3巻「びっくり六つ子が一ダース」
1968年4月30日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第1巻「六つ子でてこい!」
1968年5月31日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第7巻「おフランスがえりのデザイナー」
1968年6月28日発行

曙コミックス『しびれのスカタン』第1巻 著/赤塚不二夫&長谷邦夫
1968年7月25日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第8巻「チビ太なぜなくの!?」
1968年7月31日発行

曙コミックス『しびれのスカタン』第2巻 著/赤塚不二夫&長谷邦夫
1968年8月26日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第2巻「いかした顔になりたいよ」
1968年8月31日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第9巻「はいけいドロちゃんさま」
1968年9月16日発行

曙コミックス『しびれのスカタン』第3巻 著/赤塚不二夫&長谷邦夫
1968年9月30日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第1巻『ナマちゃん』第1巻
1968年10月15日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第10巻「デカパン城の御前試合」
1968年10月31日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第2巻『ナマちゃん』第2巻
1968年11月11日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第11巻「ハタ坊も億万長者になれる」
1968年11月15日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第3巻「おハナちゃん』
1968年12月9日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第12巻「ビローンと笑って百万円」
1968年12月20日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第4巻『おた助くん』第1巻
1969年1月16日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第13巻「ヤニがでるほどふくしゅうするぜ」
1969年1月30日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第5巻『おた助くん』第2巻
1969年2月14日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第14巻「イヤミ左膳だ よらば斬るざんす」
1969年2月25日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第6巻『おた助くん』第3巻
1969年3月13日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第15巻「ぼくらのクラスは先生が二人」
1969年3月25日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第7巻『おた助くん』第4巻
1969年4月10日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第16巻「パロディ版だよ宝島」
1969年4月30日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第8巻『まかせて長太』
1969年5月15日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第17巻「テンノースイカばんざいよ」
1969年5月24日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第9巻『そんごくん』第1巻
1969年6月10日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第18巻「江戸工城の忠臣蔵だ」
1969年6月25日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第10巻『そんごくん』第2巻
1969年7月15日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第19巻「下町のチビ太キッドの物語」
1969年7月30日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第11巻『おた助くん』第5巻
1969年 8月11日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第20巻「オトギばなしのデベソ島」
1969年8月25日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第12巻『おた助くん』第6巻
1969年9月5日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第21巻「イヤミはひとり風の中」
1969年9月25日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第13巻『九平とねえちゃん』
1969年10月6日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第22巻「キャプテンかあちゃん」
1969年10月31日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第14巻『キビママちゃん』
1969年11月20日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第23巻「突撃イヤミ小隊」
1969年12月1日発行

曙コミックス『もーれつア太郎』第1巻
1969年12月20日発行

曙コミックス『もーれつア太郎』第2巻
1969年12月20日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第24巻「オメガのジョーを消せ」
1969年12月25日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第15巻『いじわる一家』
1970年1月22日発行

曙コミックス『もーれつア太郎』第3巻
1970年1月31日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第16巻『ジャジャ子ちゃん』
1970年2月16日発行

曙コミックス『もーれつア太郎』第4巻
1970年3月5日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第17巻『まかせて長太』第2巻
1970年3月31日発行

曙コミックス『もーれつア太郎』第5巻
1970年4月20日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第18巻『へんな子ちゃん』
1970年4月30日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第19巻『ミータンとおはよう』
1970年5月30日発行

曙コミックス『もーれつア太郎』第6巻
1970年6月20日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第20巻『モジャモジャおじちゃん』
1970年7月20日発行

曙コミックス『もーれつア太郎』第7巻
1970年8月20日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第21巻『男の中に女がひとり 女の中に男がひとり』
1970年8月25日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第22巻『新版世界名作まんが全集 ハッピイちゃん』
1970年9月30日発行

曙コミックス『もーれつア太郎』第8巻
1970年10月9日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第23巻『まつげちゃん』第1巻
1970年10月30日発行

曙コミックス『もーれつア太郎』第9巻
1970年12月10日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第24巻『まつげちゃん』第2巻
1970年12月25日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第25巻『スリラー教授 いじわる教授』
1971年1月25日発行

曙コミックス『天才バカボン』第10巻
1971年2月25日発行

曙コミックス『もーれつア太郎』第10巻
1971年2月27日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第26巻『われら8プロ』
1971年3月25日発行

曙コミックス『天才バカボン』第1巻
1971年3月31日発行

曙コミックス『天才バカボン』第11巻
1971年4月30日発行

曙コミックス『もーれつア太郎』第11巻
1971年4月30日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第27巻『おれはゲバ鉄!』第1巻
1971年5月25日発行

曙コミックス『天才バカボン』第2巻
1971年5月29日発行

曙コミックス『もーれつア太郎』第12巻
1971年6月25日発行

曙コミックス『天才バカボン』第12巻
1971年6月29日発行

曙コミックス『天才バカボン』第3巻
1971年7月30日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第28巻『おれはゲバ鉄!』第2巻
1971年8月25日発行

曙コミックス『天才バカボン』第4巻
1971年8月30日発行

曙コミックス『天才バカボン』第5巻
1971年8月31日発行

曙コミックス『天才バカボン』第6巻
1971年9月16日発行

あけぼの入門百科『まんがプロ入門』 1971年9月16日発行

曙コミックス『天才バカボン』第7巻
1971年9月25日発行

曙コミックス『天才バカボン』第8巻
1971年9月30日発行

曙コミックス『天才バカボン』第9巻
1971年10月9日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第29巻『死神デース』第1巻
1971年12月10日発行

曙コミックス『ぶッかれダン』第1巻
1972年1月19日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第30巻『死神デース』第2巻
1972年3月28日発行

曙コミックス『ぶッかれダン』第2巻
1972年4月19日発行

曙コミックス『ぶッかれダン』第3巻
1972年5月31日発行

曙コミックス『おそ松くん全集別巻』『ハタ坊とワンペイ』第1巻
1972年7月21日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第25巻「シェーのおしうり」
1973年1月10日発行

曙コミックス『おそ松くん全集別巻』『ハタ坊とワンペイ』第2巻
1973年2月16日発行

曙コミックス『狂犬トロッキー』
1973年5月15日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第26巻「イヤミの結婚相談所」
1973年6月30日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第27巻「オンナドブスはバケモノざんす」
1973年6月30日発行

曙コミックス『天才バカボン』第13巻
1973年8月8日発行

曙コミックス『天才バカボン』第14巻
1973年8月17日発行

曙コミックス『天才バカボン』第15巻
1973年8月31日発行

曙コミックス『レッツラゴン』第1巻
1973年11月15日発行

曙コミックス『レッツラゴン』第2巻
1973年11月20日発行

曙コミックス『レッツラゴン』第3巻
1973年11月26日発行

曙コミックス『レッツラゴン』第4巻
1973年11月30日発行

曙コミックス『レッツラゴン』第5巻
1973年11月30日発行

曙コミックス『レッツラゴン』第6巻
1973年12月15日発行

曙コミックス『天才バカボン』第16巻
1974年1月25日発行

曙コミックス『天才バカボン』第17巻
1974年1月30日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第28巻「これがイヤミのテクニック」
1974年1月31日発行

曙コミックス『天才バカボン』第18巻
1974年2月8日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第29巻「念力でヘンシーンざんす」
1974年5月15日発行

曙コミックス『ひみつのアッコちゃん』第1巻
1974年5月20日発行

曙コミックス『鬼警部』
1974年5月30日発行

曙コミックス『天才バカボン』第19巻
1974年6月22日発行

曙コミックス『天才バカボン』第20巻
1974年6月29日発行

曙コミックス『ひみつのアッコちゃん』第3巻
1974年7月10日発行(年月日にミス?)

曙コミックス『ひみつのアッコちゃん』第4巻
1974年7月10日発行(年月日にミス?)

曙コミックス『ひみつのアッコちゃん』第2巻
1974年7月22日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第30巻「死んでもスケベはなおらない!」
1974年9月30日発行

曙コミックス『大バカ探偵 はくち小五郎』第1巻
1974年9月30日発行

曙コミックス『ひみつのアッコちゃん』第5巻
1974年10月25日発行

曙コミックス『大バカ探偵 はくち小五郎』第2巻
1974年10月30日発行

曙コミックス『レッツラゴン』第7巻
1974年10月30日発行

曙コミックス『天才バカボン別巻』第1巻
1974年12月10日発行

曙コミックス『大バカ探偵 はくち小五郎』第3巻
1975年1月10日発行

曙コミックス『天才バカボン別巻』第2巻
1975年2月25日発行

曙コミックス『天才バカボン別巻』第3巻
1975年4月5日発行

曙コミックス『いじわる一家』
1975年4月20日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第31巻「これでオシマイおそ松くん」
1975年4月25日発行

曙コミックス『天才バカボン』第21巻
1975年4月25日発行

曙コミックス『天才バカボン』第22巻
1975年4月30日発行

曙コミックス『少年フライデー』第1巻
1975年5月15日発行

曙コミックス『天才バカボン』第23巻
1975年5月30日発行

曙コミックス『天才バカボン』第24巻
1975年5月30日発行

曙コミックス『天才バカボン』第25巻
1975年6月25日発行

曙コミックス『天才バカボン』第26巻
1975年6月25日発行

曙コミックス『レッツラゴン』第8巻
1975年7月20日発行

曙コミックス『レッツラゴン』第9巻
1975年8月20日発行

曙コミックス『レッツラゴン』第10巻
1975年9月5日発行

曙コミックス『天才バカボン』第27巻
1975年9月16日発行

曙コミックス『天才バカボン』第28巻
1975年9月19日発行

曙コミックス『少年フライデー』第2巻
1975年10月3日発行

曙コミックス『レッツラゴン』第11巻
1975年10月30日発行

曙コミックス『レッツラゴン』第12巻
1975年11月10日発行

曙コミックス『天才バカボン』第29巻
1975年11月14日発行

曙コミックス『オッチャン』第1巻
1975年12月15日発行

曙コミックス『オッチャン』第2巻
1975年12月19日発行

曙コミックス『幕末珍犬組』
1976年1月1日発行

曙コミックス『オッチャン』第3巻
1976年2月25日発行

曙コミックス『ギャグの王様』上巻
1976年2月28日発行

曙コミックス『ギャグの王様』下巻
1976年4月5日発行

曙文庫『天才バカボンのおやじ』第1巻
1976年4月12日発行

曙文庫『天才バカボンのおやじ』第2巻
1976年4月12日発行

曙文庫『天才バカボンのおやじ』第3巻
1976年4月12日発行

曙コミックス『オッチャン』第4巻
1976年4月30日発行

曙コミックス『天才バカボン』第30巻
1976年5月10日発行

曙コミックス『ニャンニャンニャンダ』第1巻
1976年5月24日発行

曙コミックス『オッチャン』第5巻
1976年6月7日発行

曙文庫『モジャモジャおじちゃん』
1976年6月25日発行

曙文庫『Oh!サルばか』
1976年6月25日発行

曙文庫『ミスター・イヤミ』
1976年6月25日発行

曙文庫『名人』
1976年7月20日発行

曙文庫『くそババア!!』
1976年7月20日発行

曙コミックス『風のカラッペ』第1巻
1976年7月30日発行

曙コミックス『風のカラッペ』第2巻
1976年8月20日発行

曙文庫『いじわる一家』
1976年9月14日発行

曙コミックス『ニャンニャンニャンダ』第2巻
1976年9月17日発行

曙コミックス『風のカラッペ』第3巻
1976年10月20日発行

曙文庫『ヒッピーちゃん』
1976年10月22日発行

曙コミックス『風のカラッペ』第4巻
1976年11月12日発行

曙文庫『ジャジャ子ちゃん』
1976年11月15日発行

『まかせて長太』第1巻
1976年12月20日発行

曙コミックス『ぼくはケムゴロ』
1976年12月23日発行

曙コミックス『ギャグゲリラ』第1巻
1977年1月30日発行

曙コミックス『ギャグゲリラ』第2巻
1977年1月30日発行

曙コミックス『ギャグゲリラ』第3巻
1977年1月30日発行

曙コミックス『ギャグゲリラ』第4巻
1977年4月30日発行

曙コミックス『天才バカボン』第31巻
1977年5月10日発行

あけぼの入門百科『まんがプロ入門』1977年5月20日発行 

曙文庫『ひみつのアッコちゃん』第1巻
1998年4月10日発行

描き下ろし単行本 5冊
A5単行本 34冊
1968年 18冊
1969年 25冊
1970年 17冊
1971年 21冊
1972年 5冊
1973年 14冊
1974年 18冊
1975年 23冊
1976年 26冊
1977年 6冊
1998年 1冊
合計 213冊

資料協力・才賀涼太郎氏、のびろべえ氏


追憶の「青梅赤塚不二夫会館」 記念館を失った漫画家の末路とは!?

2023-04-28 00:49:11 | 論考

「青梅赤塚不二夫会館」が閉館し、今年で3年目を迎える。

「青梅赤塚不二夫会館」は、明治後期、東京都青梅市住江町に建築された土蔵造りによる二階建ての診療所をリノベーションし、オープンした赤塚不二夫ミュージアムである。

漫画家になる以前、赤塚は新潟の小熊塗装店に就職し、 見習いの域を脱した頃は、元来画を描く素養も高かったせいもあり、チャップリンの「ライムライト」をはじめとする映画看板を手掛けるようになっていた。

そんな赤塚が、映画看板による街興しに奮闘する青梅商工会の姿をたまたまテレビを通して知ったことにより関心を抱き、赤塚作品を文化遺産として後世に遺したいという二番目の妻、眞知子の切なる願いと、やはり映画看板も含め、昭和レトロによる地域復興を視野に入れていた青梅商工会の思惑が合致。話がトントン拍子で進む中、2003年10月18日、赤塚不二夫会館はオープンする。

因みに、青梅市と赤塚との結び付きは一切なく、強いて挙げるなら、赤塚が友人らと奥多摩で渓流釣りを満喫した折、宿の主人の願いを快諾し、描いて差し上げたバカボンのパパのイラスト入りのサイン色紙(1975年6月8日付け)が展示物の一つとして館内に飾られているくらいである。



オープン直前より赤塚不二夫会館は、メディアでも頻繁に取り上げられ、日に日に来客も増加。時待たずして青梅の観光スポットとなり、広く世間一般による耳目を集めるに至ったことは言うまでもない。

2008年8月2日、赤塚が逝去した際には、臨時の記帳台が設置され、八百人もの人が記帳に訪れており、取り分け、赤塚が亡くなったこの年は過去最多の三一〇〇〇人が来館したことも大きなニュースとなった。

また、青梅市は、市政60周年となる2011年、赤塚不二夫会館が青梅を象徴するミュージアムとなった関係から、ニャロメとイヤミのイラストをあしらった原動機付き自転車のナンバープレートを新規、交付済み問わず、無料で配布、交換したことでも話題を集めた。
 
このように、設立から閉館まで、青梅市と持ちつ持たれつの間柄だった赤塚不二夫会館とは、一体どんな記念館であったのか?
 
ここで改めて具体的な詳細に触れてみたいと思う。
 
館内一階では、赤塚の愛猫であった菊千代のフィギュアを祀った「バカ田神社」が建立されていたり、イヤミやめん玉つながりといった赤塚の人気キャラのブロンズ像がオブジェとして設置されていたりと、赤塚らしい遊び心に満ちたディスプレイが施されている。

階段を昇った二階館内には、赤塚が青春時代を過ごしたトキワ荘の一室も再現。そして、メインとなる展示コーナーでは、デビュー前の習作は勿論、赤塚が漫画家デビューした1950年代から晩年となる90年代に至るまでに描かれた美麗なカラー原画を含む百点余りが所狭しと陳列されており、その他にもトキワ荘メンバーやタモリといった漫画家仲間や有名人との交流を貴重なプライベート写真を交えて紹介するコーナーも充実の一言だ。

このような作家的偉業やその人物像にまで目配せをした展示は、ファンならずとも、時を忘れて見入ってしまうこと請け合いである。

また、二階展示室には、かつて赤塚が愛用していた巨大な机がドーンと鎮座しており、机上のパソコンからは、『赤塚不二夫漫画大全集    DVDーROM』やフジオ・プロのホームページを覗くことが出来、この会館に一日中いれば、それこそ、生い立ちも含んだ赤塚不二夫に関するほぼ全ての歴史を把握出来るというナイスな空間がコーディネートされている。

赤塚不二夫資料室では、「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」等、これまで表紙に赤塚キャラや赤塚本人をフィーチャーした数多の雑誌や、今となっては入手困難な貴重なコミックス、フィギュアをはじめとする数々キャラクターグッズをガラスケース越しに堪能することが出来る。

この資料室での展示物で特記すべきは、1995年9月13日にホテル・センチュリーハイアットで開催された「赤塚不二夫先生の漫画家生活40周年と還暦を祝う会」で、翌日の誕生日に還暦を控えた赤塚が身に纏っていた、赤いチャンチャンコならぬ赤いチャップリン・スーツに大きな靴、山高シャポー、ステッキに至るまで飾られていた点だ。

余談だが、この時、パーティーに参列した落語家の立川談志は、この時の赤塚のスーツ姿を次のように振り返っている。

「タモリや青島(名和註・幸男)前知事もスピーチに駆けつけてくれた還暦のパーティーの時に彼は白塗り(原文ママ)のチャーリー・チャップリンの姿をして、現れましたよね。その事自体は別に面白くもなんともなかったんだけど、あの姿の中に赤塚さんの悲しみや憂い、ギャグがあったんだ、もっと 見てやらなきゃいけなかったんだ、という反省が私の中に今もありますね。」(『赤塚さんは「味の素」』/おそ松くん』第22巻・竹書房文庫、05年)

筆者もまた、当時テレビのワイドショー番組を通し、真っ赤なチャップリン・スーツを纏った赤塚が軽快にステップを踏む姿を視聴した際、談志と同様の感想を抱いていたこともあり、実物を目の当たりにした時など、感慨多端の想いに耽っていた。

他にも、還暦記念に親交の深い漫画家やタレントなどが寄せ書きをした襖絵なども瞠目に値するアイテムと言えるだろう。

順路の最後には、赤塚堂本舗なるお土産コーナーがあり、ここでしか手に入らない赤塚キャラをプリントした煎餅や青梅の特産品、Tシャツ、ポストカード、現行発売中の赤塚関連書籍などが販売されていた。

手前味噌で恐縮だが、以前、私が社会評論社より上梓した『赤塚不二夫大先生を読む』『赤塚不二夫というメディア    破戒と諧謔のギャグゲリラ伝説』の二冊も委託で置いて下さっており、来館の際、学芸員の方に伺ったところ、何人かの来館客の方が、赤塚作品とその人となりへの理解を深めるべく、お買い求め下さったとのことだった。

拙著をお買い上げ下さった皆様方には、この場にて改めて御礼申し上げたい。

青梅赤塚不二夫会館は、「宝塚市手塚治虫記念館」や「川崎市藤子・F・不二雄ミュージアム」とは異なり、規模としては幾分小さな美術館であるものの、こじんまりとしたアットホームな空気感は、奇しくも赤塚の人柄を偲ばせるかのような安らぎがあり、個人的には不平不満を訴えたくなるレベルのものではなかった。

中には、長谷邦夫が代筆した原稿や書籍まで資料として展示してあったり、赤塚グッズコーナーでは、かつて「コミックボンボン」のグラビアに掲載されたイヤミが跨がるバイクのラジコン模型をファン自作のプレゼントなどと記載ミス(実際の製作者は元ストリーム・ベースのプロモデラーである小田雅弘)があったりと、ツッコミ処は満載だが、それでも赤塚不二夫の偉業と足跡を辿れる只唯一の記念館として、貴重な存在であったことは言うまでもない。

近年は、折からの「おそ松さん」ブームも追い風となり、客足も若年層を中心に右肩上がりに急増。今後も赤塚不二夫の偉業を伝える常設の記念館として、半永久的に存続されるであろうと思われていた、まさにその矢先の出来事であった。

それは筆者にとっては、青天の霹靂というべきニュースだった。

2020年1月、建物の老朽化から耐震や雨漏り等の問題が生じ、改修が必要となったこと。更には、管理を受け持つ青梅商工会の方々の高齢化が進み、後継者不足も伴い、運営が厳しくなったとの理由から、赤塚不二夫会館の閉館が決定する。

皆までは語らないが、閉館の理由としてはそれだけではあるまい。

閉館決定に伴い、当初は閉館日を3月31日としており、「昭和の元気をありがとう!!    感謝祭」と題したイベントを開催。同月14日から閉館日に至るまで、入館料無料で開放し、28日と29日においては、地元酒造によるコラボ企画、日本酒の利き酒チャレンジや、インディーズ・ミュージシャンらによる野外ライヴの開催なども予定されていたが、新型コロナウイルスの感染拡大防止の観点から、来館スペースを写真撮影コーナーのみに縮小。更には、東京都により外出自粛要請が出された直後というタイミングと重なり、4日前倒しとなる3月27日に閉館を余儀なくされた。

赤塚不二夫会館のオープンから1年半後の2005年3月29日には、JR青梅駅の駅メロがアニメ「ひみつのアッコちゃん」シリーズのテーマソングをアレンジしたものが採用されたこともホットな話題を振り撒いたものの、閉館に伴い、現在のメロディへと変更されてしまった。

無論、駅構内に貫禄充分に飾られていたバカボンのパパのブロンズ像も既に撤去されてしまっている。

大御所漫画家のミュージアムの閉館にしては、あまりにもあっけない幕切れであり、いとも簡単に閉館への同意を示す公式の態度に対しては、腸が煮え繰り返る程の憤りを覚える。

オープンから長らく館長を務めてきた横川秀利氏は、閉館に対し、無念の想いを滲ませつつも、「多くのお客さんに親しまれ、様々なイベントを楽しんでもらえた。赤塚先生とキャラクターに感謝したい」という言葉を「読売新聞」の取材で遺している。

赤塚不二夫会館の閉館により、暫し放心状態となった筆者であったが、そうしたショックも束の間の2022年9月12日、今度は「下落合の象徴」「ギャグ漫画の殿堂」とまで謳われた中落合はフジオ・プロビル解体のアナウンスに更なる悲しみを募らせる。

解体に際し、赤塚のプライベート写真や想い出の品々、僅かばかりの生原稿を展示した「フジオプロ旧社屋を壊すのだ!!展」が催され、連日にわかファンも含めた訪問客により活況を呈したことは記憶に新しい。

だが、所詮それまでの展開でしかなく、この「さよならイベント」も、マスメディアを通じ、幾ばくかの話題を振り撒いただけに過ぎない。

フジオ・プロ旧社屋も建物の老朽化による原因不明の雨漏りにより、取り壊しを余儀なくされたとは、公式の弁だが、赤塚不二夫会館しかり、破壊ばかりでその末のビルドが全くないことに、怒りよりも悲しみが先行してしまう。

赤塚といえば、没後、晩年の酒浸りのイメージから、侮蔑や嘲笑を込め、その存在が益々矮小化され続けている漫画家である。

事実、赤塚不二夫会館が閉館になった際、SNSでは、一部の泡沫ユーザーらによって、閉館の理由として客足が全く延びないために、運営が成り立たなくなり、倒産したからであると、事実無根も甚だしい風説が流布されていたが、今となっては、こうした戯れ言が、当たり前の事実として認定されているかのようで歯痒さを禁じ得ない。

また、追い打ちを掛けるように、同年同月20日には、コミックパークよりオンデマンド形式によって書籍化されていた『赤塚不二夫漫画大全集』が、サービス終了となり、『天才バカボン』『おそ松くん』『もーれつア太郎』といった代表的な赤塚マンガを除いたタイトルが閲読出来るチャンスを一気に喪失してしまった。

まるで、現世において、赤塚不二夫が遺した面影が刻一刻と失われてゆくかの如き状況だ。

だが、そうした赤塚を取り巻く八方塞がりな現状において、只一筋の光明としては、2023年4月末現在、未だフジオ・プロビルが解体されていないことだ。

 まさか、  公式はフジオ・プロ旧社屋を遺し、建物内のスペースを有効活用した第二の赤塚不二夫ミュージアムを構想中だというのだろうか?

いや、公式に赤塚不二夫や赤塚作品へ向けたそこまでの愛情や気魄があるとは到底思えないし、そんな殊勝な展開など、妄想するだけ野暮というものだろう。

とはいえ、誰よりも赤塚不二夫ディレッタントを自認している筆者としては、藁をも掴むそんな妄想こそが、赤塚矮小化に拍車が掛かるこの現状に対する唯一の抵抗であり、癒しでもあるのだ。

 

追記

2024年8月2日現在、フジオ・プロ旧社屋は解体され、更地となっているとのこと。

嗚呼、最早何も語るまい……。

 

 


赤塚不二夫とロックンロール 1973年、矢沢永吉、キャロルとの邂逅

2023-04-06 20:49:51 | 論考

 

今回は、赤塚不二夫と、矢沢永吉率いる「ルイジアンナ」や「ファンキー・モンキー・ベイビー」のヒットで知られる伝説のロックバンド・キャロルとの関係性について、知り得る範囲内ではあるが、赤塚がキャロルに関心を示す至った経緯をはじめ論述して行きたい

赤塚不二夫とキャロル、何とも意外な組み合わせに疑問を抱く御仁もおられると思うが、赤塚は、かつてキャロルの全盛時代、私設応援団長を務めていたことがあった。

以前、筆者が、元メンバーであるリードギターの内海利勝氏にキャロル時代のことを伺った際、写真家の篠山紀信、ファッションデザイナーの山本寛斎、そして漫画家の赤塚不二夫といった当代きっての一流クリエイターが後ろ楯になって応援してくれたことも、キャロルがメジャーになる助走となったとの述懐を頂いた。

勿論、キャロルのプロデュースを務めたロカビリー歌手のミッキー・カーチス、所属事務所「バウハウス」代表取締役の漆原好夫やマネージメントを務めた中井國二(元渡辺プロダクション所属で、ザ・タイガースのマネージャーだったことでも知られる)らの辣腕ぶり、後にドキュメンタリー映画「キャロル」を製作する元NHKディレクター・龍村仁の存在も大きかったことは言うまでもない。

そもそも生前の赤塚不二夫は、専ら美空ひばりや軍歌を愛聴しており、それらを除けば、初期のエルビス・プレスリーやザ・ビートルズなどを一時期耳にしていたともいうが、基本、ロックやモダン・ジャズに関しては、ただ音がうるさいと思うだけだと語っていたほど、音楽的関心度は至って低かった。

そんな赤塚が、キャロルに対し、強く興味を抱くようになったのは、新宿を拠点に飲み歩くようになった69年頃、元々赤塚マンガのファンでもあったジャズ評論家の相倉久人との邂逅があり、相倉から、当時、ザ・フラワーズを率いていた、ロックシンガーの内田裕也を紹介されたことに端を発する。

元来イケイケな無頼漢である内田と、シャイで小心者の赤塚とでは、まさに水と油といった相性である筈だが、不思議と気が合い、その後も長く交流を重ねる間柄となった。

1971年、内田は、新進気鋭の作曲家であり、音楽出版社「アルファ・レコード」を主宰する村井邦彦、ロカビリー・ブームを牽引し、この時、自身のバンド、サムライズを解散したばかりのミッキー・カーチスらとともに新レーベル「マッシュルーム・レコード」を設立する。

マッシュルーム・レコード設立に際し、村井邦彦やミッキー・カーチスには、どういった意識があったかは不明だが、内田に限っていえば、同レーベルにて、プロデューサーという立場を活用し、若いロックミュージシャンを育成したいという願望が常にあったようだ

1970年、嵐のようなグループサウンズ・ブームが過ぎ去り、内田、ザ・モップスの鈴木ヒロミツ、はっぴいえんどの前身・エイプリルフールの松本隆、後に「ナイアガラレーベル」を主宰する大瀧詠一といった、当時のロックシーンをリードしていたミュージシャンらによる「ロックは日本語で歌うべきか英語で歌うべきか」をテーマに据えた、所謂「日本語ロック論争」が勃発する。

70年当時、国内におけるロックシーンは、まだまだ定着化しておらず、今となっては、議論の俎上に乗せるまでもないこんな論争がファンの間で耳目を集めるほど、観念的にも行き詰まっていたのだ。

それから数年が経った1973年、一向にロック熱が高まらないでいる状況を打破すべく、内田が立ち上げたのが「日本ロックンロール振興会」なる団体なのだ。

そもそも「日本ロックンロール振興会」は、この二年程前(71年)、グループサウンズ・ブームを牽引したザ・スパイダース、ザ・タイガース、ザ・テンプターズのピックアップメンバーがロックバンド・PYGを結成した際、内田裕也、かまやつひろし、写真家のケン影岡らが音頭を取り発足した「ロック・セクション❜71」がその母体となっている。

「ロック・セクション❜71」は、当時、ロック人口が増えつつあった我が国において、本格的なロックイズムの普及を旗印の下、PYGの中心に、グループサウンズの残党組からは、ザ・ハプニングス・フォー、ザ・ゴールデン・カップス、ミッキー・カーチスとサムライズ、GS以外においても、シローとブレッドバター、ロック・パイロット、アラン・メリルといった新進気鋭のアーティストがメンバーとしてその名を連ねていたものの、ロックファンの間で、渡辺プロダクションによるプロデュースで、商業主義の権化と見做されていたPYGが支持されるムードが高まることなく、またPYGそのものが商業的成功を収めるには至らなかったことから、組織そのものが空中分解を余儀なくされてしまった。

GSの二大アイドルと謳われた沢田研二、萩原健一であるが、その両雄が並び立つことはなかった……。

即ち、「日本ロックンロール振興会」は、そんな深い挫折があった上での再出発でもあったのだ。

内田の中で、そうした忸怩たる過去を踏まえた上で、日本のロックの未来のためにも、「ロックンロール・セクション」改め「日本ロックンロール振興会」の活動を本格化したい。

そのためにも、会長には若者に影響力のある著名人を名誉会長として迎えたい。

当初は、作家の五木寛之、イラストレーターの横尾忠則、エッセイストの植草甚一等も候補に挙がっていたというが、そうした著名な文化人よりも、73年当時、サブカルチャーにおけるオピニオンリーダーとして、若者達に浸透していたのは、「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」「週刊少年キング」「週刊文春」と、週刊誌4本の連載を持つ超売れっ子の漫画家であった赤塚不二夫にほかならないという内田独自の判断より、赤塚に会長職としての白羽の矢を立てたのだ。

1972年12月20日、日本フォノグラムより「ルイジアンナ」を引っ提げ、キャロルがデビューする。

キャロルは、川崎在住の矢沢永吉(ベース&ヴォーカル)を中心に、ジョニー大倉(大倉洋一、サイドギター&ヴォーカル)、内海利勝(リードギター)、今井英雄(ドラムス、後にユウ岡崎と交代)が集まったインスタントバンドであったが、結成から二ヶ月後の10月1日、当時ヤングの人気者であった愛川欽也がMCを務めるフジテレビの若者向け生番組「リブ・ヤング!」でメディア初登場。フィフティーズ・スタイルのロキシー・ファションをテーマとした企画で、この時キャロルは、テレビ局側からオファーを受けてではなく、あくまで一般公募での出演だった。

とはいえ、キャロルは、ツイスト・パーティのコーナーでは、ハンブルク時代のビートルズを彷彿とさせるリーゼントヘアに黒革ジャン、黒革パンツというスタイルで登場。「ジョニー・B・グッド」や「グッド・オールド・ロックンロール」といった50年代ロックンロールの名曲をダイナミック且つグルーヴィーなノリでパフォーマンスし、観る者を圧倒した。

その後、この番組を観ていたミッキー・カーチスがキャロルに惚れ込み、自らプロデュースを申し入れ、早速、メンバーのジョニー大倉、矢沢永吉作詞作曲による「ルイジアンナ」をレコーディング。以降、彼らの伝説的な活躍は説明するまでもないだろう。

だが、このレコーディングまでには、すったもんだがあった。

実は、前述の「リブ・ヤング!」には、内田裕也がゲスト出演していた。

内田といえば、ヒット曲のないシンガーと揶揄されながらも、日本のロックンロールの開祖的存在であり、その影響力は甚大だ。

番組共演を機に、初対面ながら内田との距離を縮めた矢沢は、内田にキャロルがプロデビューするに辺り、「先生!僕らを男にして下さい!」つまりは、バンドをプロデュースして欲しいと懇願。意気に感じた内田はこれを快諾する。

しかし、その後、ミッキー・カーチスの熱意に圧倒され、加えて、ミッキーのプロデュース案が具体性を帯びていた点から、矢沢はミッキーのレーベルでのデビューに鞍替えする。

無論、内田がこの経緯に怒り心頭となったのは言うまでもない。

だが、その後、呼び出した焼肉屋にて、矢沢が丁寧に詫びを入れたことで、内田の怒りも収まり一件落着。その際に矢沢は、内田に「自分に非があるので、一発殴って下さい」と伝えたともいう。

矢沢の男としての潔さを気に入った内田は、矢沢、延いてはキャロルが間違いなくビッグになると確信し、陰ながらキャロルを応援することを決意。以降、関西でメキメキと頭角を現していた桑名正博率いるファニー・カンパニーとキャロルをジョイントさせることで、ロックンロール業界のボトムアップを図ろうとする。

つまり「日本ロックンロール振興会」は、キャロルの登場ありきで発足したようなものなのだ。

実際、内田は至る所で、キャロルを紹介し、自身がプロデュースするロック・コンサートには、必ずやキャロルをステージに立たせた

1973年2月28日、渋谷の西武劇場で開催され、後に内田のライフワークとなる「第一回ニュー・イヤーズ・ワールド・ロック・フェスティバル」にもキャロルは出演し、新人ながらも他の名だたる共演者を圧倒したそのライヴ・パフォーマンスは、今尚語り草となっている。

彼らは、初の大舞台への緊張をほぐすべく、出番前、大量に飲酒を重ね、またその状態で超絶的ともいうべきハードな演奏を披露した結果、極度のトランス状態に陥ってしまい、何と、ステージ上で失神してしまったのだ。

つまりは、キャロルに限っての失神は、グループサウンズ時代、ザ・カーナビーツやジ・オックスといった人気のアイドルバンドが営業で失神していたパフォーマンスとは異なり、その激烈なライヴが内発的衝動となって発生した、前代未聞のドキュメントでもあったのだ。

そんなキャロルと赤塚不二夫が邂逅を果たしたのが、73年1月23日、当時新宿区河田町にあったフジテレビの第1スタジオで、東京12チャンネル系の「私の作った番組     マイテレビジョン     赤塚不二夫の激情No.1」(1月25日放送)の収録に際してであった。

この時、石川社中の総勢一三〇名の貴婦人方が花笠をかざす下稽古の最中で、キャロルもまた、デビュー曲「ルイジアンナ」を懸命にリハーサルしていた。

「赤塚不二夫の激情No.1」で、ディレクターを務め、当時テレビマンユニオン所属だった佐藤輝は、ミッキー・カーチスよりデビュー間もないのキャロルを紹介されていた。

佐藤は、その時点ではまだプレイすら聴いていないにも拘わらず、高いヴォルティジで将来のヴィジョンを挑戦的に語る矢沢のキャラクターに圧倒され、赤塚の承諾のもと、その一週間後の収録予定である「激情No.1」に出演させてしまう。

もしかしたら、赤塚もまた、事前に内田と会った際に、あれこれキャロルについて窺っていたのかも知れない。

赤塚はキャロルについて、彼らとの対談の際、このように語っている。

赤塚「局の人(名和註・恐らく佐藤輝のことだと思われる。)と打ち合わせしていて、歌手を決めていくうちに今キャロルがすごくいいって言うんだ。それまで僕はキャロルって知らなかったんだけど、録画撮りでつきあって、いっぺんにファンになっちゃった。」(「ロックンロール+マンガ=???」/「ガッツ」73年9月号)

また、キャロルは初めて見た時の衝撃については、このような言葉を残している。

赤塚「君ら(名和註・キャロル)の歌を聞いてて面白いのはね、言葉の意味より、感じで歌詞を作るってことね。僕もセリフに凝るほうだけど・・・・・・。最初、英語かと思ったら、よく聞くと日本語なんだ。(笑)」

デビューから暫くの間、キャロルの放つオリジナル曲の数々は、これまでの日本人の感覚で作られた楽曲とはフィーリングが異質だと、評論家や音楽ファンから頻繁に評されていた。

それは作詞、作曲を受け持ったジョニーにしても、矢沢にしても、ビートルズやローリング・ストーンズの撒いたロックン・ロールの種から芽吹いたそのスピリッツを自身の原点として捉えていたからに他ならない。

当時、キャロルのファンだった中学生が、代表曲である「ルイジアンナ」や「ファンキー・モンキー・ベイビー」を聴き、「僕らが知らないマニアックな洋楽をそのまま日本語に訳したものかと思った」と語っていたが、まさに言い得て妙な賛辞である。

矢沢はこの対談で、赤塚に次のような悩みを吐露している。

矢沢「ファンから色々と手紙で言ってくるんですよ。ここはこうしたほうがいいとか。」

それに対し、赤塚はこうアドバイスする。

赤塚「漫画にも共通すると思うんだけど、読者のご機嫌をとっちゃダメなんだよね。ナメられちゃうわけだよ。こんなものでどうでしょうかって出すと、ダメだ、もっと面白いものを持ってこいってことになるんだ。ザマアミロって感じで出すと、面白いですねってくるわけだよ。(笑)」

要するに、逐一読者の要望を伺ってばかりだと、作家としての個性が損なわれてしまう。

訳のわからないことを書いてくる読者など無視して、読者よりも優位に立つ。少し前に歩むことが大切であり、それは音楽に限っても同じことだと、赤塚は結んでいる。

だが、矢沢はそうは思いつつも、自信がないとも告げる。

また、現段階では、与えられたものをガムシャラにやってきただけであるとも。

その後の矢沢の圧倒的なキャラクターを見ると、何だか別人のように見えなくもないが、昨日今日までキャバレーのドサ回りをしていたようなバンドが一夜にして、時代の最先端に立つロックバンドとして世の注目を集めてしまったのだから、矢沢としても、現状への戸惑いや一歩先の未来への不安など隠し切れない部分もあったに違いない。

むしろ、この時の赤塚の発言の方が矢沢のパブリック・イメージと重なり合って見えるかのようだ。

しかし、赤塚はそんな矢沢に対し、次のような言葉をぷつけている

赤塚「でも、自分たちで作詞作曲してやってきたんだろ。与えられたものとは言えないんじゃないか。」

その上で、ロックンロールを離れず、毎回、リスナーにショックを与える新鮮味があればいいと語り、ひたすらに前進あるのみだとキャロルを奨励する。

赤塚が述べるロックンロールを離れないというのは、住宅に例えれば、土台にあたる部分は非常にオーソドックスなものを下敷きにして、その上で新たな冒険を繰り広げてゆくという意味だ。

そういう意味において、矢沢は敬愛するビートルズを手本にし、音楽をやるからには、人に何と云われようとも、彼らのようなスターになりたいと、その夢を語る。

赤塚はそんな矢沢やキャロルに対し、烈々たるロマンを感じたようだ。

事実、この頃の赤塚は、自身の漫画の中で、キャラクターにキャロルを絶賛するセリフや歌を幾度となく喋せている。

『天才バカボン』では、ノラウマが「ルイジアンナ」を三味線で弾き語りをしたかと思えば(「ノラウマ社員の無責任なのだ」/「週刊少年マガジン」73年20号)、『おそ松くん』では、爆発の被害に遭ったイヤミが這這の体で「ファンキー・モンキー・ベイビー」を歌ったりと(「ウソ発見爆弾だス」/「週刊少年キング」73年47号)、画稿越しからも、キャロルに対する傾倒ぶりが如実に伝わって来る。


バカボンのパパもまた、キャロルの大ファンであることを語り、バカ田大学時代のニックネームがキャロルであったことも述懐している。(大学卒業後は、東洋工業(現・マツダ)に入社し、マツダ・キャロルを作る仕事に就く予定でもあった。)

かつて、パパとバカボンがハードロックにエスノックをフュージョンした怪作、モップスの「御意見無用」の一節である「えーじゃないか   ええじゃないか!」とおどけるシーンがギャグとして挟み込まれていたり(「週刊ぼくらマガジン」71年20号)、彼らにとって最大のヒット曲となった「月光仮面」のパロディーをウナギイヌのテーマソングに採用したりと(「週刊少年マガジン」72年36号)、一時的ではあるが、モップスネタを『バカボン』に仕込んでいたこともあった。

だが、キャロルを扱ったギャグの頻度はモップスのそれを遥かに凌いでおり、その熱中度をとって見ても、キャロル私設応援団長の名に恥じない肩入れぶりだ。

赤塚とキャロルは、その後も「内田裕也大芸能生活15周年記念リサイタル・ロックンロールBAKA」(73年9月10日、於・中野サンプラザ)でも、ともにゲストとして招致されるなど、公の場において、複数回共演する。

「ロックンロールBAKA」は、9月12日にも渋谷公会堂でも催され、この時既にソロアーティストとなり、意気軒昂な活躍を見せていた元ザ・タイガース、元PYGの沢田研二がゲスト出演。赤塚が出演した中野サンプラザにおいては、後にタモリが所属することになる田辺エージェンシー社長、元ザ・スパイダースのリーダー・田辺昭知や、PYGを前身とする井上尭之バンド、赤塚とは「まんが海賊クイズ」の共演を機に昵懇の間柄となった黒柳徹子、更には、日本シャンソン界の母であり、「ブルースの女王」の名を欲しいままにした淡谷のり子も来賓として駆け付けた。

このリサイタルでは、赤塚はポスターやチケットのイラストを無償で提供し、赤塚やキャロル以外にも、後援が赤塚の他、アントニオ猪木、倍賞美津子、梶芽衣子、篠山紀信、藤田敏八、横尾忠則といった豪華メンバーで、内田の多彩な交友関係の一端が垣間見れよう。

1975年4月13日、メンバー内の確執から、小雨が降り頻る日比谷野外音楽堂で、キャロルは解散ライヴを開催する。

アクシデント(スタッフによる演出)により、ステージのセットが炎上し、「CAROL」と書かれた電飾が焼け崩れてしまう様は、まさしく青春の燃焼そのものを象徴しており、今尚伝説として日本のロック史に名を刻んでいる。

尚、キャロル解散後、元メンバーらと赤塚の間に交流があったというエピソードは、寡聞にして一切聞かない。

だが、赤塚にとってキャロルは、タモリと出会う以前、最も肩入れしたアーティストであったのは紛うことなき事実だ。

赤塚がタモリと邂逅を果たすのは、キャロル解散から二ヶ月程経ってからのことである。

因みに、藤井フミヤをはじめとする元ザ・チェッカーズの面々、元BOOWYの氷室京介ら、キャロルの大ファンであったことを公言して憚らないアーティストは大勢いる。

お笑いコンビのとんねるずもその一つだ。

そんなキャロルチルドレン、矢沢チルドレンのとんねるずが公開オーディション番組「お笑いスター誕生!」に出演した際、他の審査員達が、とんねるずが繰り出すパフォーマンスに対し、勢いだけの素人芸であるとジャッジを下す中、赤塚とタモリだけは、その面白さを絶賛したという。

また、石橋貴明の述懐によれば、赤塚とタモリの二人から、とんねるずはこのままのスタイルでやればいいというアドバイスも受けたそうな。

筆者は、そんな石橋の回想に触れ、かつて赤塚がキャロルに向けて語った同様のアドバイスを思い起した。

感性だけは過激にして生意気。一方で礼儀正しく、いつまでもピュアなハートを抱いている。

いつの時代にも、赤塚がそんな若者達に強いロマンと愛惜を抱いていたことに疑いの余地はあるまい。