2011年4月30日、全国東映系にて『これでいいのだ!! 映画★赤塚不二夫』がゴールデンウィークの新作映画として公開さ
製作は、松田優作の『遊戯』シリーズや『ビー・バップ・ハイスク
筆者は、漫画マニアでもあると同時に、大の映画マニアでもあり、
そんな自らの嗜好を語った上で敢えて言わせて頂くなら、この『こ
実際、「映画・com」や「Yahoo!映画」、「Amazon
では、どんな点がこの作品に駄作の烙印を押す要因になったのか。
その一つ一つを掘り下げて検証してみたい。
まず、ストーリーから簡潔に説明すれば、遡ること昭和42年、新
当初は、赤塚の破天荒ぶりに不快感を示していた初美だったが、「
初美は、気乗りしないまま、フジオ・プロに赴くが、やがて、赤塚
主人公・赤塚不二夫を演ずるのは、『ねじ式』や『殺し屋1』等の
生尻を出して走り回るなど、浅野忠信の怪演は、実際の赤塚本人と
新人編集者を演じた堀北真希も、その佇まいからか、『ALWAY
他にも、「週刊少年サンデー」の編集長役に佐藤浩市、赤塚の最初
元来昭和キッズ特有の漫画ファンであった浅野は、1998年、ご
どんなに魅力ある俳優、人気のある俳優を起用したところで、脚本
ドラマは、長年赤塚とは公私ともに親しい間柄だった元「週刊少年
原作の武居記者の著作そのものがかなり曖昧な記憶で書かれているため、
フィクションにしては、弾け足りない。ノンフィクションにしては
また、赤塚が単なる無教養でだらしなく、傍迷惑な存在としてのバ
赤塚の言うバカとは、常識や既成概念に捕らわれない規格外の人物
そんな生き様をテーマにするのなら、赤塚の熱に浮かされたかのよ
つまり、ギャグ・メーカーとして間断のない自己増殖を続け、奇っ
ドラマの盛り上がりに乏しいのも、この作品に対する歯痒いところ
赤塚の作家としての偉業を描くなら、武居記者が赤塚番を務めてい
事実、この十年間においては、小学館漫画賞受賞(昭和40年)、
このような具体的な出来事をプロットとして正確に据え、光と影を
本作の要として、赤塚と母親の関係が重要なプロットとして描かれ
ただ、これも実に不快感を露にしたもので、取り分け顕著に感じる
佐藤監督は、どういう演出意図でこのシーンを挟み込んだのが不明
確かに、トキワ荘時代、赤塚は、息子の窮状を察し、身の回りの世
その姿を目の当たりにした仲間達から「マザコンの極致」と失笑を
しかし、赤塚で謂う所のマザコンとは、戦後間もない動乱期を、シ
原作者の武居俊樹、テーマとなった赤塚不二夫、浅野忠信、堀北真
臨終したシーンの時などは、激痩せの上、ノーメイクで出演し、そ
この監督は、映画そのものだけではなく、女優に対しても愛情がな
ただ、唯一嫌いにはなれないシーンもある。
それは、ラスト近くで、赤塚と元トリオ・ザ・パンチの内藤陳演じ
監督の佐藤は、学生時代、内藤が新宿ゴールデン街に軒を構える「
そんな佐藤の初監督作品のために、内藤はノーギャラで出演を快諾
名だたる賞とは無縁の本作が、内藤の死後である翌年、唯一日本冒険小
さて、話が横道に逸れてしまい、話題をドラマに戻すが、本作は、
物語の中盤、『もーれつア太郎』の人気が最下位に転落し、連載が
更には、スランプに陥った赤塚が、長野の温泉地に雲隠れするとい
そもそも、70年代初頭から半ばに掛けて、週刊誌五本、二本の代
その長野の旅館から、東京で赤塚の安否を心配する初美に、「ぼく
『レッツラゴン』の初回の扉ページは、遊学中のニューヨークから
美術に関しても、様々な赤塚関連の書籍で、当時スタジオを構えて
既に、市川ビル、村田ビルは取り壊されたので、
致し方ないにしても、赤塚マンガ全盛期に本拠地としていたひとみ
個人的には、こちらも好きな作品とは言えないが、市川準監督の『
セットに並べてあるフィギュア等のキャラクター・グッズもしかり
やはり、当時発売されていたマスダヤや今井科学、アオシマ文化教
近年、伝説の浅草芸人・深見千三郎のもとで芸人修行に励むビート
だが、死して尚、赤塚不二夫という存在が国民のサンドバッグであ
何故ならば、タモリという稀代のエンターテイナーを持ち上げるた
尚、本編を監督した佐藤英明だが、その後、商業映画において再び
佐藤英明は、『これでいいのだ!! 映画★赤塚不二夫』に向けられた世の批判を発奮材料に、暫し雌
佐藤監督の次回作を鑑賞してみたかったとは露程も思わなかったが
この場にて、改めて佐藤監督のご冥福をお祈りしたい。
「まりっぺ先生」は、1958年11月29日より翌59年9月2
日本テレビをキーステーションに、毎週土曜日19時からテレキャ
また、NHKラジオ番組「日曜娯楽版」の人気コーナ「冗談音楽」
実際、松島トモ子や浅野寿々子、小鳩くるみといった、この時期テ
人気ドラマのコミカライズは、あらゆる雑誌媒体において、今尚連
事実、そのレア度は至って高く、「りぼん」の別冊付録として発行
何故、赤塚が『まりっぺ先生』のコミカライズを担当するに至った
それも、連載開始の4月号から11月号まで、毎号別冊付録での掲
そうした点を鑑みても、赤塚に対する「りぼん」編集部からの期待
「りぼん」掲載『まりっぺ先生』は、人気ドラマのコミカライズ版
因みに、オリジナル版の『まりっぺ先生』の脚本は、須崎勝哉、津
全九話の中で、筆者イチオシのお気に入りは、8月号別冊付録に掲
まりっぺ先生のもとに、東京に住む母親から、夏休みに帰省するよ
まりっぺ先生と生徒達が、お互いを想い合うが故、すれ違いとなり
また、素朴な風合いで描かれたローカル色豊かな風景も、本作を語
登場人物達の一挙一動や悲喜こもごもを包み込むような牧
赤塚版『まりっぺ先生』は、連載終了以降、メディアにおいても、
「まりっぺ先生のプレゼント」「消えたプレゼント」「うさぎとどろぼう」「うたのプレゼント」の四タイトルは、まりっぺ先生が生徒達一人一人にうさぎをプレゼントするも、そのうちの二匹がいなくなってしまったことで、村人を巻き込んだ大騒動へと発展するエピソード、「山羊と子どもたち」は、教え子が里子に出されると聞いたまりっぺ先生が、それを阻止せんと奮闘する姿を綴った傑作掌編で、ユーモラスな落ちへと巧みに数珠繋ぎされたストーリーテリングが何とも小気味良い。
書籍としては、2005年のオンデマンド版『赤塚不二夫漫画大全
この『秋本治セレクション』は、『こちら葛飾区亀有公園前派出所
その後も、2008年に刊行された『赤塚不二夫裏1000ページ
権利上の問題もあるのだろうか。
しかし、もしそうならば、「まりっぺ先生のプレゼント」をはじめ
現在、公式(フジオ・プロダクション)は赤塚本を刊行する際、未
従って、そうした状況下において、この『まりっぺ先生』もまた、
ギャグ漫画の神様と謳われた赤塚不二夫のパブリックイメージを覆
尚、ドラマ「まりっぺ先生」で主演を務めた宮城まり子は、女優と
漫画家・赤塚不二夫を語る上で、誰よりも欠かせない人物が、長谷
赤塚不二夫に無理解を示す局外者の間では、晩年の赤塚が酒浸りで
しかしながら、世間一般の人間にとって、長谷邦夫の名前は、今ひ
赤塚不二夫の代表作といえば、『おそ松くん』『天才バカボン』『
長谷邦夫とは、果たして何者なのか……‥。
ここで、漫画家としての長谷邦夫のプロフィールとその人物像を簡
1937年4月7日、現・東京都葛飾区金町に生まれ。幼少期より
同年夏、石ノ森の初上京の際、赤塚を交えた三名で、当時、豊島区
翌56年、高校卒業と同時に、大手製薬メーカー・塩野義製薬に入
その後、漫画家として身を立てることを再度決意。若木書房より『
また、石ノ森、赤塚らとの親交から、長谷自身、寺田ヒロオを総裁
暫し、SNSの泡沫ユーザーらによって、曙出版が『おそ松くん全
事実、赤塚が曙出版で最後の描き下ろしとなった『消えた少女』(
さて、このように、デビュー後、職業漫画家として、曙出版を中心
また、同時期に赤塚不二夫が「スタジオ・ゼロ」に合流した流れか
赤塚不二夫名義でのゴースト仕事で特筆すべきは、「ニャロメのう
元々趣味的に現代詩を書いていたというだけあって、短いセンテン
「桜三月散歩道」は、日本初のミリオンセラーとなったアルバム「
また、傑作にはなり得ていないものの、筒井康隆の長編小説『東海
その後も、「赤塚不二夫責任編集」と銘打った「まんがNo.1」
赤塚が体調を崩し、長期入院していた1986年には、集英社主催
1960年代後半以降、貸本文化が衰退してゆく中、多くの漫画家
それは、長谷が名を連ねていた「+画人会」も例外ではなく、貸本
だが、そこは、長谷の転んでもただでは起きない所以たる所で、超
つまりは、赤塚のスタッフとして、フジオ・プロに身を委ねること
そういった意味でも、長谷が「最も興味のある人間(漫画家)は、
1970年代、赤塚が、夜の新宿を舞台に、様々な業種の異才、鬼
だが、そうした長谷の趣味、素養がフジオ・プロのアイデア会議の
後に稀代のエンターティナーとして国民的人気を博すことになるタ
ただ、長谷の最大の欠点は、赤塚とは違った意味で金遣いが荒く、
つまりは、赤塚のように、印税や著作権使用料等、莫大な不労所得
そのため、仲間内では「お呼ばれおじさん」という有り難くない仇
その趣味人としての生き方は、晩年に至るまで続き、先にも述べた
だが、そうした趣味人としての活動も、ある日突然、ピリオドを打
その性格上の問題から、社長である眞知子夫人や、番頭役である元
フジオ・プロ設立から加わり、27年目を迎えた1992年のこと
長谷にしてみたら、長年の女房役である自分を赤塚が引き留めるで
だが、赤塚も過度の飲酒により、この時期、情緒も不安定になって
他人の感情にヅケヅケと土足で踏み込んで来る長谷に対し、赤塚が
周囲から何と言われようとも、常々「俺も赤塚不二夫だ!」と公言
その結果、長谷は淀んだ感情の全てを赤塚にぶつけるに至り、終生
暫し、ネット等で、長谷が赤塚サイドに、膨大な赤塚作品の中には
そもそも、長谷による『ニャロメの地震大研究』や『ニャロメの異
まさか、1994年以降、復刻ブームに乗じ、竹書房、講談社、小
いや、それはないだろう。
いくら長谷が、永年に渡り、赤塚作品のアイデアブレーンを務めて
赤塚周辺のみならず、業界内でも、決して芳しい評判があったとは
長谷作品をろくに読んだことすらない長谷シンパの御仁には、『バ
優劣の差については、ここでの言及は避けるが、少なくとも、赤塚
ただ、そうした事実を踏まえ、確実な情報として書けることは、2005年に、小学館とコンテンツ・ワークスより『赤塚不二夫漫画大全集』がオンデマンド出版された際、赤塚がキャラクターデザインを担当し、長谷がその全てを執筆した『しびれのスカタン』(全3巻)の印税分を、「週刊少年サンデー」最後の赤塚番記者であり、武居俊樹とともに、底本となる『赤塚不二夫漫画大全集 DVD−ROM』の編集に携わった赤岡進へ要求し、支払われたというエピソードだ。
これは底本含め長谷への許諾なく収録されたことに原因があり、版元側のミスである。
従って、長谷による各出版社への印税要求のエピソードは、この事
因みに、長谷は、この『赤塚不二夫漫画大全集 DVD−RОM』を発売するに辺り、小学館が三〇〇〇万円の赤字見込みで発売に踏み切ったとブログに記しているが、商業性を第一に捉えている大出版社がそんな大赤字を前提に刊行するとは到底思えない。
これも、赤塚マンガの不人気ぶりとその憐憫さを印象付けたい長谷による悪意に満ちた記述と見て間違いあるまい。
実際のところ、もし全てが売れなかった場合、三〇〇〇万円の赤字となるというのが正解であろう。
筆者は、『赤塚不二夫漫画大全集 DVD−RОM』(税込・73500円)が発売された2002年当時、ローソンのCSほっとステーションにて、発売一ヶ月にして、限定一九三五(赤塚の生誕年である1935年と掛けている。)セットの內、既に七〇〇セット以上を販売したというアナウンスを耳にしている。
その後、このDVD−RОMが絶版品切れ状態となった際、ネットオークション等でプレミア価格で取り引きされていた事実を鑑みると、長谷の印象操作も虚しく、このDVD−RОMが小学館サイドに経済的な損失を与えたとは思い難い。
フジオ・プロ退職後、長谷は、1993年の暮れに飛鳥新社が新創
その後、2000年代からは、赤塚不二夫の元ブレーンという肩書
因みに、大垣女子短期大学を教鞭を執るまでに至ったのは、長谷に
このように、独立して以降、漫画家というよりも、講師として後進
この頃から、長谷は漫画研究家、漫画評論家という立ち位置から、
人気少女漫画「キャンディ・キャンディ」の著作権の帰属を巡る裁
「キャンディ・キャンディ」裁判において、本来ならば、門外漢で
加えて、水木への誹謗を自身のブログにて書き連ねてしまったこと
長谷は、その時裏覚えで耳にし、何の検証もなく、書き綴った水木
その後、長谷が水木サイドに対する謝罪文をブログに掲載したこと
そんな長谷の講義が、低レベルな内容であると一部の事情通から批
それは、講師として知識面や技能面において、稚拙さを禁じ得なか
虚言という観点から、長谷を振り返った際、取り分け忘れ難いのが
この移籍事件は、1969年当時、『あしたのジョー』の大ヒット
無論、「サンデー」連載の『ア太郎』が、ニャロメのブレイク前で
だが、長谷は、後年になってこれを否定。長谷は、この時、赤塚の
1987年より、講談社によるアート通信講座「講談社フェーマス
そんな長谷も、2013年、脳出血で倒れ、幸いにも一命を取り留
事実上、漫画家としての活動に終止符を打つことになり、2018
今や天上人となった赤塚と長谷は、再会し、何を語り合っているの
赤塚と決別し、数年を経た1999年、「小説新潮」にて、赤塚と
今、手元にその資料がないため、正確な一文ではないが、その締め
これは、重度のアルコール依存症に陥り、昼夜問わず、のべつ幕な
赤塚はそれにどう応えるのか……?
執筆を一段落させた赤塚が、新宿ではないが、天国のバーで、夕方
今回は、その底本となった『赤塚不二夫大先生を読む』『赤塚不二
無論、書店からの注文は出来ますが、お買い求めにあたり、日数を
本文中書かれた内容は、当ブログに書かれたそれと同様のものです
諸事情により、3960円(税込)と高額ではございますが、是非
名和広
2006年6月、糟糠の妻として、再婚以来赤塚を陰日向なく支えてきた眞知子夫人が、くも膜下出血により、緊急手術を受けることになる。
術後の経過は良好で、会話を交わせるまでに回復したものの、再び容体は悪化。7月12日、遂に帰らぬ人となってしまった。
まだ、56歳という若さでの逝去だった。
眞知子夫人の急逝から丸二年を経た08年7月30日、前妻で、愛娘・りえ子の実母である登茂子が、子宮頚癌に侵され、鬼籍へと入る。
そして、三日後の8月2日、自身を愛し、支え続けてきてくれた眞知子夫人、登茂子前夫人の今生からの旅立ちを確認したかの如く、今度は赤塚が、入院先の順天堂大学病院にて、静かにその息を引き取った。
享年七二歳。
「人生はギャグ」を信条に、人を、笑いを、漫画を、酒を、そして自由を誰よりも愛し、激情の赴くままに生きてきた豪傑のラストシーンとしては、あまりにも呆気ない幕引きであった。
死因は、肺の炎症性疾患による抹消循環不全。
赤塚の死去は、新聞各紙にトップ記事として報じられ、テレビ媒体においても、NHK、民放各社でその悲報が大々的に取り上げられた。
また、没後間もなく、追悼本が多数緊急出版され、更に、民放、NHKと相次いで放映した追悼番組が、いずれも高い視聴率をマークするなど、改めて、赤塚が戦後の漫画文化を牽引した偉大なる巨人であることを、皮肉にも、その死によって世に知らしめる結果となった。
*
葬儀は、喪主をりえ子が、葬儀委員長を友人代表の藤子不二雄Ⓐが各々務め、8月6日に通夜、翌7日に告別式が中野区内にある宝仙寺にて営まれる。
その際に、藤子Ⓐをはじめ、フジオ・プロ黄金期、赤塚の懐刀として苦楽を共にした古谷三敏、高井研一郎、北見けんいち、そして、芸能界デビューに際し、赤塚から物心両面に渡り、恩顧を受けたタモリらが、祭壇に向かい弔辞を読み上げた。
中でも、タモリが捧げた哀悼の辞は、衷情を湛えた文語にして、頗る感動が行間から零れており、取り分け、締め括りとして結んだ「私もあなたの数多くの作品のひとつです。」というフレーズは、この年の新語流行語大賞にノミネートされるほど、多大なインパクトを放ち、広く人々の快哉を集めることとなる。
タモリによる、この心揺さぶる手向けの挨拶は、赤塚逝去の翌日、葬儀委員長であり、タモリにとっても昵懇の間柄にある藤子Ⓐたっての希望ということもあり、応諾したという。
途中、途切れることなく、朗々と述べられた、七分五六秒に及ぶこの弔辞は、白紙の台本を読み上げるという、歌舞伎の演目でも知られる勧進帳に見立てた、タモリならではの〝本気ふざけ〟だったと言えよう。
まさに、〝この師にして、この弟子あり〟という言葉をそのまま体現したパフォーマンスであり、私はこの究極の至芸に、改めてタモリというエンターテイナーの途方もない底力を見せ付けられた想いすらした。
告別式には、漫画家仲間のほか、出版、芸能関係者、ファン、友人知人ら、凡そ一二〇〇人が参列し、葬送曲である『天才バカボン』(第一作)の主題歌が流れる中、その出棺を見送った。
その後、赤塚の遺骸は、フジオ・プロのお膝元でもある新宿・落合斎場にて荼毘に付される。戒名は、〝不二院釋漫雄〟。
古谷三敏は、赤塚の死に際し、インタビューで、ギャグ漫画というジャンルは、赤塚不二夫で始まり、赤塚不二夫で終わったと語った。
赤塚以降、ギャグ漫画を描く才能が何人か追従したが、その多くは、物語を絡めたストーリーギャグに区分されるもので、赤塚のように、ひたすらナンセンスに徹し、ラディカルな笑いを追求し続けた漫画家が、現在に至るまで一切現れていないのは、紛れもない事実でもあるのだ。
そういった意味でも、ギャグ漫画というジャンルは、赤塚不二夫という一国一人の天才漫画家の為だけに設えられた、特別な指定席だったのかも知れない。
暫し、赤塚の歴史と本質に無理解を示す局外者は、酒で身を滅ぼした破滅型の漫画家であると、訳知り顔で、赤塚を揶揄するよう語りたがる。
確かに、過度の飲酒が、自らの気力や体力、創作意欲をスポイルしたことに、疑いの余地はない。
とはいえ、最晩年においても、新連載を立ち上げ、またマイナーな境涯に生きる子供達のために、笑いをプレゼントしたいという願いから、時代に先んじたバリアフリー絵本を完成させたりと、漫画家としての底意地を見せ付けた赤塚に、アルコールがその才能を全て奪い去ったという嘲謔は、当てはまらないだろう。
*
日本のギャグシーンを活性化し、劇的に広げた最初の開拓者・赤塚不二夫。
2009年には、アニメーションの分野でも、ヒットアニメの原作提供という観点から評価され、東京国際アニメフェア第5回功労賞を受賞。
同年夏からは、東京・銀座の松屋百貨店を皮切りに、『追悼 赤塚不二夫展 ギャグで駆け抜けた72年』が全国巡業で開催され、11年には、浅野忠信主演による『これでいいのだ‼ 映画☆赤塚不二夫』(監督・佐藤英明、4月30日公開)が東映系で、翌12年には、綾瀬はるかを主演に迎えた実写版『映画 ひみつのアッコちゃん』(監督・川村泰祐、9月1日公開)が松竹系で、それぞれ劇場公開された。
更に「赤塚不二夫生誕80周年」を迎えた2015年には、二次媒体における赤塚需要が活発化し、『天才バカボン』と名作アニメ『フランダースの犬』とのコラボレート作品『天才バカヴォン〜蘇るフランダースの犬〜』が、CGクリエーターのFROGMANによって長編アニメーション化され、全国東映系にて5月23日に劇場公開される。
この年は、成人した六つ子兄弟のその後を描いたテレビアニメ『おそ松さん』(15年10月6日〜16年3月29日)を、『おそ松くん』(第二作)と同様studioぴえろが制作。テレビ東京系列にて放映開始されるやいなや、深夜アニメとしては異例とも言える高視聴率をマークし、イベントの開催や記念切手、多数の関連書籍のリリース等、社会現象を巻き起こすほどのヒット作へと発展した。
その後も、同局同放送枠にて、第二期(17年10月3日〜18年3月27日)、第三期(20年10月13日〜21年3月30日)とシリーズ化され、19年には、松竹の配給で劇場版も公開されている。
『天才バカボン』もまた、studioぴえろ+制作により、『深夜!天才バカボン』(18年7月11日〜9月26日)のタイトルで、五度目のテレビアニメ化がなされ、『おそ松さん』と同じくテレビ東京より放映開始。アニメーション以外にも、くりぃむしちゅーの上田晋也を主演(バカボンのパパ役)に招き、日本テレビの『金曜ロードSHOW!』枠にて、『天才バカボン〜家族の絆』(16年3月11日放映)のタイトルで、実写ドラマ化された。
その後も『天才バカボン2』(17年1月6日放映)、『天才バカボン3〜愛と青春のバカ田大学』(18年5月4日)と、続編が製作、放映され、そのメディアミックス展開において、新たな可能性を拡げたことも補記しておきたい。
主題歌は、全三作ともにアニメ第一作の『天才バカボン』が起用され、タモリがこれをカヴァーしている。
また、『おそ松くん』『天才バカボン』に続く代表作である『レッツラゴン』『もーれつア太郎』も、それぞれ、『男子!レッツラゴン』(15年7月30日〜8月9日)、『もーれつア太郎 木枯らしに踊る花吹雪』(18年12月19日〜12月24日)のタイトルで、本多劇場、俳優座劇場にて舞台化されるなど、赤塚ワールドは、他メディアとのシナジーを創出しながら、作者亡き後も更なる展開を迎えている。
「赤塚不二夫生誕80周年」に当たる15年〜16年は、折からの『おそ松さん』ブームの余勢もかって、その原作者である赤塚の人物像、更には赤塚イズム、赤塚スピリットに対する再発見が様々なメディアを通し、活発化したことも、その没後において、特記すべき事柄と言えるだろう。
四ヶ月間(15年12月1日〜16年3月31日)という期間限定で、赤塚をリスペクトするアーティストや作家、タレント、ミュージャン、演出家、学者らが、其々の専門分野をテーマに掲げながら、独自の見解により赤塚イズムを解き明かしてゆく特別講義『バカ田大学』が、東京大学・山上会館にて開講され、連日盛況を収めることになる。
16年には、赤塚の波乱に満ちた生涯と漫画家としての足跡を丹念に追ったドキュメンタリー映画『マンガをはみだした男 赤塚不二夫』(企画・プロデュース/坂本雅司・監督/冨永昌敬)が、シネグリーオによって製作。ポレポレ東中野、下北沢トリウッドほか、全国にて順次ロードショー公開された。
この作品は、有名無名問わず、赤塚ゆかりの人物へのインタビューや、テレビ番組、プライベート映像等、生前の映像素材を用いて纏められたもので、赤塚の歴史を紐解くうえでも、その資料的価値は高い。
音楽家のU -zhaan作曲によるテーマソング『ラーガ・バガヴァッド』の作詞の担当は、タモリであり、タモリ自らが歌唱を務め、本編に彩りを添えたこともここに追記しておく。
赤塚ワールドの聖典である原作のコミックスも、現在はオンデマンド版『赤塚不二夫漫画大全集』を初めとする数々の復刻本で、その殆どを閲読することが出来る。
時代は移り変わっても、赤塚ギャグの先鋭的センスは永久不変であり、初めて赤塚作品を手にした新世代の読者にとって、それは、新たな知覚の扉を開く、未知なる衝撃との遭遇であるに違いない。
そう、数々の傑作と伝説を遺して去って行った、全身ギャグ漫画家・赤塚不二夫の神話は、今尚完結していないのだ。