文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

『赤塚不二夫漫画大全集DVD‐ROM』の発売と赤塚不二夫会館の設立 そして長い眠りへ…

2021-12-22 17:06:55 | 第8章

 

2002年4月、『ニャロメをさがせ!』執筆の最中、赤塚は脳内出血で倒れ、緊急手術を受けることになる。

手術により、無事一命を取り留めたものの、意識を失い、以後、天寿を全うするその日まで、再び目を覚ますことなく、長い眠りへと就くことになった。

その後、作品はスタッフの手によって、丁寧に仕上げられるが、この『ニャロメをさがせ』が、漫画家・赤塚不二夫にとって、最後の作品となってしまった。

因みに、最後のマスメディアへの登場は、「週刊プレイボーイ」誌上(02年№17)で企画された、全日本プロレスの取締役会長であり、現役の人気レスラーでもある、グレート・ムタこと武藤敬司との対談ページだった。

初対面ながらも、二人は意気投合し、特に赤塚は、クレバーで男気溢れる武藤のキャラクターをことのほか気に入ったという。

この年の7月、これまで四〇年余りに渡って描かれた、赤塚漫画の約3分の2を収録した『赤塚不二夫漫画大全集DVD︱ROM』が、小学館より発売される。代筆分、凡そ2000ページを含む、52000ページ以上に渡る赤塚漫画のアンソロジーで、このような全集が編纂されたのは、巨匠漫画家としては、講談社の『手塚治虫全集』(全400巻)、中央公論社の『藤子不二雄ランド』(全301巻)、集英社の『ちばてつや全集』(全135巻)に続く、四番目の壮挙となる。

尚、2005年には、オンデマンド形式によって、DVD︱ROMに収録された全てのタイトルが、全271巻(平均192ページ)の内訳により書籍化された。DVD︱ROMを購入しなければ、通覧出来なかった単行本未収録等のレア作品が、気軽に手に取って読めるようになったことは、文化遺産を後世に伝えるという社会的意義を鑑みても、非常に喜ばしい。 

因みに、このDVD―ROMの編集にあたったのが、『のらガキ』、『母ちゃん№1』、『不二夫のギャグありき』等、「週刊少年サンデー」で、最後の赤塚番を務めた赤岡進と、この年小学館を定年退職することになる武居俊樹だった。

武居の編集者生活は、『おそ松くん』の編集担当に始まり、この『赤塚不二夫漫画大全集』で終わった。

武居にとって、この『赤塚大全集』は、感慨一入のラストワークだったに違いない。

翌2003年、妻である眞知子の尽力により、青梅市に、赤塚漫画の生原稿やグッズ、貴重な写真や資料などを展示した常設ミュージアム〝赤塚不二夫会館〟が設立される。

明治時代後期に建てられた病院を改造した館内には、赤塚がクリエーターを志す原点となったジョン・フォード監督の「駅馬車」の看板が掲げられているほか、トキワ荘の一室が再現されているなど、アットホームな空間の中にも、赤塚の足跡を追体験出来る、臨場感一杯の仕掛けが施されていて、興味深い。(但し、2020年3月27日、施設の老朽化により閉館。)

2000年代は、様々な雑誌メディアで赤塚特集が度々組まれ、90年代にも増して、復刻本、関連書籍が続々刊行されるという、再評価の機運が一気に盛り上がった、赤塚にとって、第二のルネッサンス期でもあった。

赤塚不二夫のDNAを受け継いだ、漫画家、イラストレーター、作家、ミュージシャン、論客といったサブカルチャーの現役の担い手達が、赤塚ワールドから受けた多大な影響やリスペクトを、至る媒体を通して、語るようになり、彼らを支持する若いサブカルファンからも、赤塚は、良しにつけ悪しにつけ、カリスマ的評価を得るに至った。

またこの頃は、パチンコ、パチスロ機の題材に赤塚漫画が使用されたり、赤塚キャラを刷り込んだあらゆるグッズが製品化されたりと、三次媒体における赤塚需要が最も活性化した時期でもあった。

そのため、それらから発生した多額のロイヤリティが、フジオ・プロに転がり込み、この時全ての創作活動を停止していた赤塚の名が、長者番付の上位に食い込むという意想外の余波を生むことになる。

時折、泡沫ブログ等で、師弟関係にあるタモリが、赤塚の高額な治療費、入院費の一切合切を工面したという話が流布されるが、これも事実無根の讒訴であることを、この場にて物申しておきたい。


空前のベストセラーバリアフリー絵本『よ~いどん!』と漫画家生活最後の作品『ニャロメをさがせ!』

2021-12-22 17:06:03 | 第8章

『よ~いどん!』は、視覚障害者と晴眼者が一緒に楽しめ、お互いがコミュニケーションが取り合える漫画を描きたいという一心から、点字コーディネータの協力を仰ぎ、実現化した渾身の一冊だ。

ニャロメ、チビ太、イヤミ、ダヨーン、デカパン、ケムンパス、べし、ウナギイヌといったお馴染みの赤塚キャラ達が、隆起印刷により縁取りされており、指で辿りながら、キャラクターのデザインを理解し、点字による説明で物語を追って楽しむというコンセプトによって作られた。

B5版のプラスチック素材にタッチプリントされた本書は、絵と触図、文字と点字が至るページでミックスされ、描かれているが、途中、晴眼者がハンディキャップを背負った立場にある彼らから点字を教えてもらうことを主眼としたページも挟み込まれており、遊び心の中にも、赤塚らしい配慮が行き届いている点も見逃せない。

この本は、点字本としては異例とも言える一五〇〇〇部を売り上げる空前のヒットセラーを記録したが、赤塚は、定価を少しでもリーズナブルに抑え、提供したいという願いから、印税を辞退する。

そして、その一部は全国の盲学校に寄贈され、良質の教育ツールとして、今尚活用されているというから驚きだ。

『よ~いどん!』が刊行された二年後の2002年、「赤塚不二夫のさわる絵本」第二弾『ニャロメをさがせ!』がリリースされる。

主人公・ニャロメの仲間への思い遣りを綴った人情譚で、意外な展開を迎えながら辿り着くその粋なラストシーンには、ホロリとさせられると同時に、膝を打つこと請け合いだ。


『これでいいのだ。』『バカは死んでもバカなのだ』 底知れぬ人間力の一端を伝える対談集

2021-12-22 17:04:49 | 第8章

『酒仙人ダヨーン』が描かれた同じ頃、暫し休眠状態だった赤塚アニメの方も復活を遂げるなど、幸運が続く。 

三作目の『ひみつのアッコちゃん』(東映動画)や『天才バカボン』の四作目に当たる『レレレの天才バカボン』(スタジオぴえろ)が、それぞれフジテレビ系、テレビ東京系で放映開始され、平成生まれの新世代にも、赤塚ワールドをアピールする好機が到来したのだ。 

だが、1980年代後期~90年代初頭の赤塚アニメのリバイバルラッシュの時とは異なり、再び赤塚の手によるリメイク漫画が描かれることはなかった。

2000年、赤塚にとって久方ぶりとなるベストセラーが、二冊続けてリリースされる。

一つは、メディアファクトリーから刊行された『赤塚不二夫対談集 これでいいのだ。』、そしてもう一つは、『赤塚不二夫のさわる絵本 よ~いどん!』(小学館)という、視覚障害を持つ子供達を対象にしたバリアフリー絵本である。

『赤塚不二夫対談集 これでいいのだ。』は、生きている間に、赤塚らしい対談本を作って欲しいという眞知子夫人たっての希望で、実現した豪華対談集だ。

この時期、赤塚は食道癌の摘出手術により、声も出ないという最悪の健康状態にあったが、担当プロデューサーであった長薗安浩の積極果敢な働きもあり、タモリ、北野武(ビートたけし)、立川談志、荒木経惟といった旧知の間柄である人物や、ダウンタウンの松本人志や芥川賞作家の柳美里、山形弁を操る外国人タレント、ダニエル・カールといった異色のメンバーらがラブコールに応じ、99年の6月から8月に掛け、全七回の対談が執り行われる運びとなった。

弛緩とエッジが程好く効いた、七人の侍ならぬ七人の異才、奇才とのトークバトルは、当然、噛み合わない箇所も少なからずあるものの、その言葉の端々には、一般人の常識に固執した硬直思考を吹き飛ばす独自の美意識とダンディズムが溢れており、赤塚の底知れぬ人間力の一端を垣間見ることが出来る。

尚、同時期に『バカは死んでもバカなのだ 赤塚不二夫対談集』(01年)という、もう一冊の対談集が、毎日新聞社より刊行されている。

元旦、酒風呂で赤塚が溺死したという、些か冗談の過ぎた架空のシチュエーションによる、生前葬的な意味合いを込めた弔問対談で、「サンデー毎日」誌上(『赤塚不二夫の読む漫画 これでいいのか』00年1月16日号~01年7月30日)に連載された記事に加筆、訂正を加え、単行本化したものだ。

ゲストには、『月光仮面』の原作者で知られる作家の川内康範、野坂昭如、嵐山光三郎、タレントの所ジョージ、黒柳徹子、女優の秋野暢子、映画監督の若松孝二、森田芳光、手塚真、劇作家の唐十郎、考古学者の吉村作治、漫画家仲間の東海林さだお、藤子不二雄Ⓐほか、総勢二十七名による赤塚ゆかりの各界著名人が招かれ、こちらもまた、500ページ近いボリュームを誇るデラックスな対談集として編纂された。

各ゲストとの対談中、話の腰を折ってしまったり、酔い潰れて眠ってしまったりと、赤塚のトホホな現状をリアルに活写した、対談本としての体裁から幾分外れた構成が為されているが、赤塚と向き合うゲストらの対話の節々からは、然り気無い赤塚愛が感じられ、赤塚の人徳、人望がナチュラルに伝わってくるようで微笑ましい。


最後の連載漫画『酒仙人ダヨーン』 最愛の友へのラブレター

2021-12-22 00:25:00 | 第8章

年明けの99年元旦、突如として赤塚漫画の新作連載が「ビッグコミックスぺリオール」誌上にてスタートする。

『酒仙人ダヨーン』(「ビッグコミックスペリオール」1号~2号)なるタイトルの作品で、イヤミによく似た風貌の老仙人が、若者に酒道の奥義を伝授するとともに、崇高な人生哲学も教え説いて行くという、その深淵なテーマからも、赤塚自身、長期連載を意識していたことがよく分かる。

扉ページのクレジットには、赤塚の名前以外に、作画協力・あだち勉とあるが、あだちの担当箇所は清書とペン入れのみに留まり、下絵は全て赤塚によって描かれたのだという。

この時代の赤塚にしてみたら、それだけでも本作品に並々ならぬ意気込みを懸けていたのだということが伝わってくる。

赤塚が記者会見の時、やりたい仕事があると語っていたが、その仕事とは、まさにこの『酒仙人ダヨーン』だったのだろう。

『酒仙人ダヨーン』を執筆するモチベーションを刺激したのは、ある人物との出会いだった。

その人物の名は、東隆明。

かつては、俳優、演出家、脚本家、劇団主宰、プロダクション経営等、芸能畑を中心に活躍していたが、現在は、〝自然会〟なるコミュニティー・ネットワークを発足させ、大自然の摂理による究極の愛と平和を伝導している、まさに仙人然としたカリスマ的人物である。

元内閣総理大臣・近衛文麿の実子にして、元大日本帝国陸軍中尉であった近衛文隆の所謂庶子という、近衛家の血を引く特異な生い立ちの持ち主としても有名で、政財界においても彼の信奉者は多い。

そうした身分の高い立場にある人間でありながらも、〝巷の酔っ払い仙人〟と自らを名乗り、別け隔てなく人と接するざっくばらんな性格の持ち主としても知られ、老若男女、多くの人から愛される好人物でもあった。

したがって、赤塚が東の人間的魅力に惹かれ、深い親交を持つようになったことも、充分理解出来る。

東隆明の証言「〝竜の湯〟という下落合にある温泉施設で、ワシが教え子相手にセミナーを開いとったら、酔っ払ったあのオッサン(名和註・赤塚)がいきなり乱入して来て、「このインチキ教祖が!」とか抜かしやがったんや(笑)。で、ワシも「なら、お前さんは三流漫画家かい?」って突っ込んだら、「ふざけるな! 俺は元超一流の今は五流だ」とか言ってなぁ。こりゃ、噂通りのおもろいオッサンやってことで、すぐ意気投合して、以来飲み友達になったんや」

実際、双方ともインチキ教祖、三流漫画家といった概念から対極に位置する、ステージの高い存在であるが、初対面にも拘わらず、そうしたドギツイことを言い合い、寛容し合えるほど、お互いを近しい間柄に感じていたのだろう。

赤塚は、ある時酒を飲みながら、東にこう語ったという。

「あんたをモデルにした漫画を描きたい」

この頃既に、漫画家として現役を引退していたに等しく、またガン宣告を受けながらも、四六時中酒を手離さず、酩酊している赤塚が、再び連載を起こすなんて、東にしたら、それ自体が全く現実感のない絵空事のように思えたそうだ。

連載の構想も酔った勢いで出た戯れ言の一つだと捉え、その後も、特に気に留めることもなかったというが、作品は早急に描かれ、東を驚せた。

もはや漫画を描く意欲も失われ、酒浸りになったと思われた赤塚のクリエーター魂に再び火を付けたのが、東だった。

赤塚にとって東は、生前最後に愛した人間であり、この『酒仙人ダヨーン』も、ファンや一般の読者ではなく、東だけに読んでもらいたい一心で立ち上げた連載だったのだろう。    

しかし、再び体調が悪化し、第二話をもってこの連載は中断する。

続きを読みたかったという所感を抱いたのは、ファンだけではなく、東もまた同じだったに違いない。    


〝まんがバカなのだ 赤塚不二夫展〟の全国巡業 日本漫画家協会賞文部大臣賞と紫綬褒章の受賞、受章 

2021-12-22 00:24:15 | 第8章

1997年、静岡県伊東市の池田20世紀美術館で、〝まんがバカなのだ 赤塚不二夫展〟が開催され、好評を博す。

総勢一七〇名のキャラクターが赤塚の筆によって描き下ろされた、縦7メートル、横15メートルの横断幕がこの展覧会のイメージシンボルであり、 巨大な赤塚キャラが一同に介したその光景は、来場者を圧倒した。

デビュー前の貴重な習作から90年代初頭までの間に描かれた名作、怪作、珍作、凡そ二〇〇枚に及ぶ美麗な生原稿が展観出来るだけではなく、赤塚自ら肉体を駆使し、挑戦したエドヴァルト・ムンク、レオナルド・ダ・ヴィンチ、エドガー・ドガ、フィンセント・ファン・ゴッホといった歴史上の画家のパロディー・アートも展示されており、バカ道の境地に辿り着いたその独創的パフォーマンスは、観る者の爆笑を喚起する途方もない破壊力を孕んでいる。

フロアには、バカボンのパパやイヤミの銅像が、所狭しとディスプレイされるなど、美術展本来のイメージをぶち破る、赤塚ならではの遊び心とウィットが沸き立った大回顧展となり、客の入りを心配していた赤塚の想いをよそに、会場は連日大盛況となった。

その後、この原画展は、上野の森美術館や横浜ランドマークプラザ、箱根彫刻の森美術館、京都・美術館〝えき〟など、全国を巡業し、いずれも大入りを記録する。

上野の森美術館では、期間中六五〇〇〇人を集客。ピカソ展やゴッホ展の記録を塗り替え、同美術館の動員新記録を樹立した。

また、同美術館で行われたオープニング・レセプションには、幼少期より熱烈な赤塚ファンだったと語る元チェッカーズの藤井フミヤ、藤井尚之兄弟(この時はF︱BLOODとして活動)も駆け付け、赤塚もまた、彼らに直筆の色紙を贈呈するなど、喜悦の心情を隠し得なかったそうな。

そして、97年、98年には、連続して、日本漫画家協会賞文部大臣賞、そして紫綬褒章を受賞、受章するという大きな栄誉に輝く。

文部大臣賞受賞式の際、司会の人間がジョークで放った「文部省から一番遠い男が受賞した」という言葉が、赤塚にとって何よりも嬉しかったという。 

また、紫綬褒章の受章に関しても、元々貧乏人気質なので、貰えるものは何でも有り難く頂戴するとコメントをし、いずれも、特別な感慨が込み上げてきたわけでもなかったようだ。

漫画の第一線から離脱しながらも、個展の大成功や、日本漫画家協会賞文部大臣賞、紫綬褒章の受賞、受章で、再び脚光を浴び、連日、赤塚のもとに取材が殺到する。

そんな中、自身が食道ガンに冒されていることをたまたまインタビューに訪れた記者に吐露したことによって、その病状がマスコミへと知れ渡り、急遽記者会見を執り行う運びとなった。

97年12月、自宅で吐血して入院した際、精密検査を受け、食道ガンが発見されたという。

ガン告知を受けながらも、水割りと煙草を片手に会見に挑むその姿には、何故か悲壮感はなかった。

仕事を第一に優先すべく、敢えて手術を拒否し、民間療法でガンを克服したいと、無謀とも言える宣言をして、集まった記者達を驚かせた。

抗がん剤の投与や放射線治療により、免疫力が低下することを、赤塚は何よりも恐れていたのかも知れない。

98年6月、古くからの友人で、同じ食道ガンを患っていた落語家・立川談志に、あだち勉とともに弟子入りし、立川不二身なる高座名を談志より命名される。

談志と二人で、ウェスタンのコスチュームに身を包み、ガンファイターとして自虐的にメディアに登場したのもこの頃だった。