文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

音楽プロダクション「フジビデオ・エンタープライズ」の立ち上げ

2020-09-13 20:55:40 | 第4章

またこの頃は、漫画家というスタンドポイントに捕らわれず、映像、音楽、演劇等、様々なクリエイティブ活動に興味を広げていた時期であり、音楽プロダクションやアニメ製作会社の経営も、本業と平行して開始してゆくこととなる。

音楽プロダクション「フジビデオ・エンタープライズ」は、当時、国民的人気歌手であった水前寺清子が司会を務める歌謡番組『歌う王冠』の構成作家を担当していた詩人の奧成達が、赤塚漫画の爆発的な人気に目を付け、水前寺のアシスタントMCとして、赤塚を番組に引っ張ってきたことが、設立の発端であった。

1969年4月から番組タイトルも『チータとバカボン』と一新し、赤塚はこの番組に半年間レギュラー出演するが、この時、チーター(水前寺)の宣伝担当者だったポリドール・レコードの井尻新一と近しい間柄となり、 その井尻から、新人歌手を集めた深夜のオーディション番組の製作会社の立ち上げを持ち掛けられたのだ。

元々、テレビ番組の企画製作等に強い関心を抱いていた赤塚は、二つ返事で、会社設立を快諾したが、その企画を耳にした他局のプロデューサーが、アイデアを拝借し、番組をオンエアしたため、結局、実現には至らず、企画倒れのまま終わってしまった。

フジビデオ・エンタープライズは、新人歌手を育てる名目で立ち上げられた会社であるため、芸能プロダクションも兼ねていたが、赤塚自身、本業の連載をどっさりと抱えていたので、実務をほぼ井尻に任せっきりにしていた。

これがそもそもの失敗であった。

井尻が、最初に売り出そうとしていた秋山まりもという新人歌手が、デビュー直前に恋人と失踪してしまい、また次にスカウトしてきた歌手志望の少女に至っては、突然難聴を患い、活動を断念せざるを得なくなってしまうなど、スタート当初より、幸先の悪いトラブルに見舞われる。

また、後に大ブレイクする藤圭子や井上陽水(当時はアンドレ・カンドレ)がまだ新人だったこの時、フジビデオに所属したいと売り込みにやって来たが、絶対に売れると太鼓判を押す赤塚に、井尻は聞く耳を持たず、井尻の独断により、彼らのマネージメントの話もお流れにしてしまう。

結局、フジビデオ・エンタープライズで成果を上げたのは、原盤製作部門だけで、それも当時ブームの渦中にあったニャロメをフィーチャリングした『ニャロメのうた』が公称十万枚(オリコンチャート最高62位)の中ヒットとなったのみだった。

この歌をレコーディングした謎の新人歌手・大野進は、当時ポリドールのサウンドミキサーとして辣腕を振るっていた人物で、高校時代、バレーボールの練習で、大声を叫び続けていたため、声帯を潰してしまい、それが長年のコンプレックスであったというが、逆にこのしゃがれた悪声が、卓越した持ち前のリズム感と相俟って、ニャロメのイメージボイスとピッタリと重なり合ったのだ。

そう、ヒットの最大要因は、この大野進のヴォーカルにあったと言えるだろう。

この『ニャロメのうた』の作詞クレジットには、赤塚不二夫と明記されているが、実際にペンを執ったとされるのは長谷邦夫である。

以前より同人誌等で、趣味的に現代詩を書き、独自の感性を発揮していたという長谷は、『ニャロメのうた』とそのカップリング曲で、純演歌路線を狙った『ケムンパスでやんす』のほかにも、『この歌きくべし』、『ココロのシャンソン』、『ココロのウエスタン』、『ケイコタンのラブコール』といった『もーれつア太郎』のイメージソングや、人気絶頂のお笑いコント・てんぷくトリオの為に書き下ろされた『走れバカボン』なる楽曲の作詞を、やはり赤塚名義で引き続き受け持つが、いずれもニャロメのように、ムーブメントを巻き起こした花形キャラではなかったため、これらの楽曲が、コマーシャリズムとの接点を持ち得ることはなかった。

しかしながら、『ココロのシャンソン』は、元フォーク・クルセダースの加藤和彦による、当時注目されつつあったAOR路線を取り入れた美麗なメロディーラインが、長谷の抒情的な詩のイメージと鮮やかにフィットし、単なる漫画のキャラクターソングでは収まりきれない良質なスローバラードへと編曲され、今でも、ディープな邦楽マニアの間では、高い評価を誇るカルト的名曲として知られている。

人気歌手を育て上げ、業界にセンセーショナルを巻き起こしてやろうと目論み、意欲満々で立ち上げたフジビデオ・エンタープライズであったが、このように取り立てて話題になることもない楽曲の原盤製作費だけが積み重なり、結局漫画で稼いだ金銭を注ぎ込むだけという赤字経営から、赤塚自身、完全にやる気を失い、程無くして経営から撤退することとなった。