このひとみマンションに拠点を移した辺りから、赤塚は、その盛名と熱狂的人気に支えられながら、生来の疲れを知らぬ活動性を著しく発揮。躁状態の高揚した気分の波にも乗って、以前にも増し、仕事、遊び、人脈拡張と、境目なく取り組んでゆく。
60年代後半から、当時、あらゆる先端カルチャーや反体制的ジャーナリズムを渾然一体に引き寄せていた「躍動する都市」新宿をホームグラウンドに飲み歩くようになった赤塚は、性とバイオレンス、造反有理に関わるパンキッシュなフィルムを撮り続け、全共闘世代に大きな衝撃を与えた映画監督の若松孝二、若松の右腕として活動するも、後に日本赤軍、PELPにシンパシーを抱き、彼らと共闘すべく、パレスチナへと渡るシナリオライター兼映画監督の足立正生、状況劇場主宰の唐十郎といった当時のアンダーグラウンド文化の若き旗手らと出会い、交流を深めていった。
そうした流れから、既に松竹ヌーベルバーグから日本を代表する映画監督となり、文化的スキャンダリストとして、その存在を強烈にアピールしていた大島渚、大島主宰の創造社所属の名俳優・戸浦六宏と佐藤慶、一連の創造社ワークスのシナリオを手掛けていた脚本家の佐々木守、元祖プレイボーイにして「焼け跡闇市派」を自称する直木賞作家の野坂昭如、前衛SF作家として、ポテンシャルの高い作品を連続して発表し、一気に文壇の注目を浴びていた筒井康隆、ライトパブリシティ出身で、タイポグラフィー制作の先達として名高いアートディレクターの浅葉克巳、当時ワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレ賞を受賞したばかりの新進気鋭のイラストレーター・黒田征太郎、80年代以降、鉄のゲージツ家、タレント、エッセイストと幅広く活躍する篠原勝之といった錚々たる芸術文化活動の才能人とも共鳴し、豊富なクリエイター人脈を築き上げてゆく。
また、赤塚の略年譜において、これまで一切語られることがなかったが、自身のバンド、ザ・フラワーズを母体としたフラワー・トラベリン・バンドのプロデュースを手掛け、和製アートロックをリードするなど、この頃、世界に照準を向けた音楽活動を展開していたロックシンガー・内田裕也との交流から、日本ロックンロール振興会会長なる役職に就き、その延長から、矢沢永吉率いる伝説のロックバンド・キャロルの私設応援団団長を、赤塚自ら名乗り上げ、務めたりもした。
作品の充実を図る為なら、私生活の全てを犠牲にしても厭わないという、ある意味トラジックにしてストイックなその創作活動もさることながら、このように生まれ持っての好奇心の旺盛さから、起業しては破綻させる会社経営、極端なまでに孤独を恐れる性格故か、夜の盛り場に取り巻き、スタッフ、編集者らを引き連れ、時には酒場に居合わせた見ず知らずの人間をも巻き込んでの、ただ酒、無駄酒の大盤振る舞いを幾度となく繰り広げるなど、まさに赤塚は、公私に渡り、波乱含みの日常に我が身を委ねることとなる。
そんなテリトリーを越境した自身の半生を、赤塚は総じてこう振り返る。
「人間って波乱万丈の世界に生きると、自分の人生にきびしさというものが出てくる。だから人間って刺激がなきゃだめなのよ。」(『ボクの満州 漫画家たちの敗戦体験』亜紀書房、95年)
一見破滅型で、道化に徹した無鉄砲とも受け取れるそれらの営為は、幾多の傑作ギャグを生み出すインスピレーションの刺激となって余りあるモーティブパワーとなった。
金銭的に追い詰められ、自らをハングリーな状況に置くことで、執筆に対するコンセントレーションを高めていったと言うのも、強ちジョークではないだろう。
そして、そのマルチプル且つ放埒無頼な活動は、赤塚にとって、その後狂騒の渦へと、更に自己の全てを投じてゆく劇的な助走でもあったのだ。
第一部了