文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

躍動する都市、新宿での雷名「人間刺激がなきゃだめなのよ」

2020-09-14 19:18:50 | 第4章

このひとみマンションに拠点を移した辺りから、赤塚は、その盛名と熱狂的人気に支えられながら、生来の疲れを知らぬ活動性を著しく発揮。躁状態の高揚した気分の波にも乗って、以前にも増し、仕事、遊び、人脈拡張と、境目なく取り組んでゆく。

60年代後半から、当時、あらゆる先端カルチャーや反体制的ジャーナリズムを渾然一体に引き寄せていた「躍動する都市」新宿をホームグラウンドに飲み歩くようになった赤塚は、性とバイオレンス、造反有理に関わるパンキッシュなフィルムを撮り続け、全共闘世代に大きな衝撃を与えた映画監督の若松孝二、若松の右腕として活動するも、後に日本赤軍、PELPにシンパシーを抱き、彼らと共闘すべく、パレスチナへと渡るシナリオライター兼映画監督の足立正生、状況劇場主宰の唐十郎といった当時のアンダーグラウンド文化の若き旗手らと出会い、交流を深めていった。

そうした流れから、既に松竹ヌーベルバーグから日本を代表する映画監督となり、文化的スキャンダリストとして、その存在を強烈にアピールしていた大島渚、大島主宰の創造社所属の名俳優・戸浦六宏と佐藤慶、一連の創造社ワークスのシナリオを手掛けていた脚本家の佐々木守、元祖プレイボーイにして「焼け跡闇市派」を自称する直木賞作家の野坂昭如、前衛SF作家として、ポテンシャルの高い作品を連続して発表し、一気に文壇の注目を浴びていた筒井康隆、ライトパブリシティ出身で、タイポグラフィー制作の先達として名高いアートディレクターの浅葉克巳、当時ワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレ賞を受賞したばかりの新進気鋭のイラストレーター・黒田征太郎、80年代以降、鉄のゲージツ家、タレント、エッセイストと幅広く活躍する篠原勝之といった錚々たる芸術文化活動の才能人とも共鳴し、豊富なクリエイター人脈を築き上げてゆく。

また、赤塚の略年譜において、これまで一切語られることがなかったが、自身のバンド、ザ・フラワーズを母体としたフラワー・トラベリン・バンドのプロデュースを手掛け、和製アートロックをリードするなど、この頃、世界に照準を向けた音楽活動を展開していたロックシンガー・内田裕也との交流から、日本ロックンロール振興会会長なる役職に就き、その延長から、矢沢永吉率いる伝説のロックバンド・キャロルの私設応援団団長を、赤塚自ら名乗り上げ、務めたりもした。

作品の充実を図る為なら、私生活の全てを犠牲にしても厭わないという、ある意味トラジックにしてストイックなその創作活動もさることながら、このように生まれ持っての好奇心の旺盛さから、起業しては破綻させる会社経営、極端なまでに孤独を恐れる性格故か、夜の盛り場に取り巻き、スタッフ、編集者らを引き連れ、時には酒場に居合わせた見ず知らずの人間をも巻き込んでの、ただ酒、無駄酒の大盤振る舞いを幾度となく繰り広げるなど、まさに赤塚は、公私に渡り、波乱含みの日常に我が身を委ねることとなる。

そんなテリトリーを越境した自身の半生を、赤塚は総じてこう振り返る。

「人間って波乱万丈の世界に生きると、自分の人生にきびしさというものが出てくる。だから人間って刺激がなきゃだめなのよ。」(『ボクの満州 漫画家たちの敗戦体験』亜紀書房、95年)

一見破滅型で、道化に徹した無鉄砲とも受け取れるそれらの営為は、幾多の傑作ギャグを生み出すインスピレーションの刺激となって余りあるモーティブパワーとなった。

金銭的に追い詰められ、自らをハングリーな状況に置くことで、執筆に対するコンセントレーションを高めていったと言うのも、強ちジョークではないだろう。

そして、そのマルチプル且つ放埒無頼な活動は、赤塚にとって、その後狂騒の渦へと、更に自己の全てを投じてゆく劇的な助走でもあったのだ。

第一部了


スタジオ・ゼロの発展的解消とアニメ製作会社「不二アートフィルム」の設立

2020-09-14 07:48:59 | 第4章

フジビデオ・エンタープライズが解散した頃、時同じくして、スタジオ・ゼロもまた、経営悪化により、ブレイクアップを余儀なくされる。

かつて、赤塚の『おそ松くん』のほか、東京ムービーと交代で製作が行われた一連の『オバケのQ太郎』、『パーマン』、『怪物くん』のTBS藤子アニメ路線の成功から、飛躍的な成長を遂げ、社員数八〇名を有する大プロダクションへと膨れあがったスタジオ・ゼロであったが、1969年に入ると、スマッシュヒットを期待されていた『ウメ星デンカ』が、劇画全盛の時勢に抗しきれず、視聴率の低迷から、僅かツー・クールで打ち切られ、その後に続く企画が間に合わずにいるというアクシデントに見舞われる。

仕事がストップした八〇名の社員の人件費だけでも、毎月五〇〇万円以上もの出費が嵩み、日毎莫大な赤字が累積されてゆくスタジオ・ゼロは、これ以上の赤字を出さないうちにと、発展的解消を表明し、1970年12月、その活動に事実上の終止符を打つことになったのだ。

市川ビルにフジオ・プロを構えていた頃、赤塚は自作の『おそ松くん』の絵コンテや原画チェック、監修等を受け持つことも少なくなかったが、『おそ松くん』の放映終了以降は、『天才バカボン』の連載開始も重なるなど、更に多忙を極めるようになったことから、専ら雑誌部のみの所属となり、鈴木伸一が主宰するアニメ部門の活動においては、一切ノータッチの状態となった。

しかし、1971年、どういう心境の変化なのか、突然赤塚は、アニメーションの企画製作会社の設立を思い立ち、吉良敬三を中心とするスタジオ・ゼロの残党メンバーを中核スタッフに据えた株式会社「不二アート・フィルム」を立ち上げる。

前年の70年9月、古谷、芳谷のスタッフも増員し、更に大所帯となったことで、多忙がピークに達する中、フジオ・プロは、後に赤塚ファンにとって馴染み深い存在となる、新宿区中落合に新築されたマンション「ひとみマンション」へと移転する。

この時赤塚は、このひとみマンションのすぐそばにある古い木造モルタル建築の二階屋を購入したが、中野時代のスタジオ・ゼロ同様、余りにも安普請のオンボロハウスだったため、スタッフ全員、ひとみマンションに移り住んでしまったという。

結果、全二四室ある同マンションの七室をフジオ・プロが占領することになり、そのうちの一室には、四六時中各社の赤塚番記者が屯していた。

このひとみマンションの一室で、不二アート・フィルムも発足する。

赤塚自身、生前のインタビュー等で、この不二アート・フィルムの設立について、全く語ることがなかったので、その企図については、未だ定かではないが、赤塚がアメリカ製のスタット・キングなる巨大コピー機を大枚を叩き、誤って買い入れてしまったことが、そもそも立ち上げの切っ掛けになったのではないかとも言われている。

既に売れっ子の漫画家になりつつあった古谷や芳谷、とりいかずよしといったフジオ・プロの面々にも、複数の読み切りや連載等の依頼が舞い込むようになり、そうした状況から、赤塚はフジオ・プロ作家の作画補助に活用出来ないかと、当時の金額で二五〇万は下らなかったというスタット・キングを購入するが、このスタット・キング、操作マニュアルが複雑なうえ、アメリカ製の最新コピー機という触れ込みの割には、ゼロックスシステムがプログラミングされていない、極めて原始的且つ大雑把な機能構造で作動する非能率機であった。

そうした勝手の悪さから、誰もこのスタット・キングも使いたがらずにいたという。

勿論、赤塚自身、アニメ製作の夢も抱いていたのであろうが、主にその管理と使用目的を第一義にして、アニメ製作会社設立を思い立った可能性もなきにしもあらずだ。

不二アート・フィルムは、当然ながら赤塚自らが資金援助していたアニメ会社であったが、手塚治虫の虫プロのように、自作をアニメ化したり、プロデュースしたりという、その後の赤塚史を彩るような発展的展開を見せることはなく、NHKの『みんなのうた』やフジテレビの『ひらけ!ポンキッキ』といった子供向け番組で放映されるミュージッククリップやバラエティー番組のオープニング動画、政府広報のCMフィルム等、商業性が希薄な短編アニメの製作を基盤として、1981年まで約一〇年間機能した。

赤塚自身、かつて動画製作に携わっていたものの、やはり連載漫画の締め切りを膨大に抱えていたため、不完全燃焼に終わってしまった無念さがあったのか、アニメ製作への直接的な関与はなかったにしても、一向に黒字経営には至らない不二アート・フィルムのアニメーター達の奮闘を寛大な心で奨励していたそうな。