「青梅赤塚不二夫会館」が閉館し、今年で3年目を迎える。
「青梅赤塚不二夫会館」は、明治後期、東京都青梅市住江町に建築された土蔵造りによる二階建ての診療所をリノベーションし、オープンした赤塚不二夫ミュージアムである。
漫画家になる以前、赤塚は新潟の小熊塗装店に就職し、 見習いの域を脱した頃は、元来画を描く素養も高かったせいもあり、チャップリンの「ライムライト」をはじめとする映画看板を手掛けるようになっていた。
そんな赤塚が、映画看板による街興しに奮闘する青梅商工会の姿をたまたまテレビを通して知ったことにより関心を抱き、赤塚作品を文化遺産として後世に遺したいという二番目の妻、眞知子の切なる願いと、やはり映画看板も含め、昭和レトロによる地域復興を視野に入れていた青梅商工会の思惑が合致。話がトントン拍子で進む中、2003年10月18日、赤塚不二夫会館はオープンする。
因みに、青梅市と赤塚との結び付きは一切なく、強いて挙げるなら、赤塚が友人らと奥多摩で渓流釣りを満喫した折、宿の主人の願いを快諾し、描いて差し上げたバカボンのパパのイラスト入りのサイン色紙(1975年6月8日付け)が展示物の一つとして館内に飾られているくらいである。
オープン直前より赤塚不二夫会館は、メディアでも頻繁に取り上げられ、日に日に来客も増加。時待たずして青梅の観光スポットとなり、広く世間一般による耳目を集めるに至ったことは言うまでもない。
2008年8月2日、赤塚が逝去した際には、臨時の記帳台が設置され、八百人もの人が記帳に訪れており、取り分け、赤塚が亡くなったこの年は過去最多の三一〇〇〇人が来館したことも大きなニュースとなった。
また、青梅市は、市政60周年となる2011年、赤塚不二夫会館が青梅を象徴するミュージアムとなった関係から、ニャロメとイヤミのイラストをあしらった原動機付き自転車のナンバープレートを新規、交付済み問わず、無料で配布、交換したことでも話題を集めた。
このように、設立から閉館まで、青梅市と持ちつ持たれつの間柄だった赤塚不二夫会館とは、一体どんな記念館であったのか?
ここで改めて具体的な詳細に触れてみたいと思う。
館内一階では、赤塚の愛猫であった菊千代のフィギュアを祀った「バカ田神社」が建立されていたり、イヤミやめん玉つながりといった赤塚の人気キャラのブロンズ像がオブジェとして設置されていたりと、赤塚らしい遊び心に満ちたディスプレイが施されている。
階段を昇った二階館内には、赤塚が青春時代を過ごしたトキワ荘の一室も再現。そして、メインとなる展示コーナーでは、デビュー前の習作は勿論、赤塚が漫画家デビューした1950年代から晩年となる90年代に至るまでに描かれた美麗なカラー原画を含む百点余りが所狭しと陳列されており、その他にもトキワ荘メンバーやタモリといった漫画家仲間や有名人との交流を貴重なプライベート写真を交えて紹介するコーナーも充実の一言だ。
このような作家的偉業やその人物像にまで目配せをした展示は、ファンならずとも、時を忘れて見入ってしまうこと請け合いである。
また、二階展示室には、かつて赤塚が愛用していた巨大な机がドーンと鎮座しており、机上のパソコンからは、『赤塚不二夫漫画大全集 DVDーROM』やフジオ・プロのホームページを覗くことが出来、この会館に一日中いれば、それこそ、生い立ちも含んだ赤塚不二夫に関するほぼ全ての歴史を把握出来るというナイスな空間がコーディネートされている。
赤塚不二夫資料室では、「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」等、これまで表紙に赤塚キャラや赤塚本人をフィーチャーした数多の雑誌や、今となっては入手困難な貴重なコミックス、フィギュアをはじめとする数々キャラクターグッズをガラスケース越しに堪能することが出来る。
この資料室での展示物で特記すべきは、1995年9月13日にホテル・センチュリーハイアットで開催された「赤塚不二夫先生の漫画家生活40周年と還暦を祝う会」で、翌日の誕生日に還暦を控えた赤塚が身に纏っていた、赤いチャンチャンコならぬ赤いチャップリン・スーツに大きな靴、山高シャポー、ステッキに至るまで飾られていた点だ。
余談だが、この時、パーティーに参列した落語家の立川談志は、この時の赤塚のスーツ姿を次のように振り返っている。
「タモリや青島(名和註・幸男)前知事もスピーチに駆けつけてくれた還暦のパーティーの時に彼は白塗り(原文ママ)のチャーリー・チャップリンの姿をして、現れましたよね。その事自体は別に面白くもなんともなかったんだけど、あの姿の中に赤塚さんの悲しみや憂い、ギャグがあったんだ、もっと 見てやらなきゃいけなかったんだ、という反省が私の中に今もありますね。」(『赤塚さんは「味の素」』/おそ松くん』第22巻・竹書房文庫、05年)
筆者もまた、当時テレビのワイドショー番組を通し、真っ赤なチャップリン・スーツを纏った赤塚が軽快にステップを踏む姿を視聴した際、談志と同様の感想を抱いていたこともあり、実物を目の当たりにした時など、感慨多端の想いに耽っていた。
他にも、還暦記念に親交の深い漫画家やタレントなどが寄せ書きをした襖絵なども瞠目に値するアイテムと言えるだろう。
順路の最後には、赤塚堂本舗なるお土産コーナーがあり、ここでしか手に入らない赤塚キャラをプリントした煎餅や青梅の特産品、Tシャツ、ポストカード、現行発売中の赤塚関連書籍などが販売されていた。
手前味噌で恐縮だが、以前、私が社会評論社より上梓した『赤塚不二夫大先生を読む』『赤塚不二夫というメディア 破戒と諧謔のギャグゲリラ伝説』の二冊も委託で置いて下さっており、来館の際、学芸員の方に伺ったところ、何人かの来館客の方が、赤塚作品とその人となりへの理解を深めるべく、お買い求め下さったとのことだった。
拙著をお買い上げ下さった皆様方には、この場にて改めて御礼申し上げたい。
青梅赤塚不二夫会館は、「宝塚市手塚治虫記念館」や「川崎市藤子・F・不二雄ミュージアム」とは異なり、規模としては幾分小さな美術館であるものの、こじんまりとしたアットホームな空気感は、奇しくも赤塚の人柄を偲ばせるかのような安らぎがあり、個人的には不平不満を訴えたくなるレベルのものではなかった。
中には、長谷邦夫が代筆した原稿や書籍まで資料として展示してあったり、赤塚グッズコーナーでは、かつて「コミックボンボン」のグラビアに掲載されたイヤミが跨がるバイクのラジコン模型をファン自作のプレゼントなどと記載ミス(実際の製作者は元ストリーム・ベースのプロモデラーである小田雅弘)があったりと、ツッコミ処は満載だが、それでも赤塚不二夫の偉業と足跡を辿れる只唯一の記念館として、貴重な存在であったことは言うまでもない。
近年は、折からの「おそ松さん」ブームも追い風となり、客足も若年層を中心に右肩上がりに急増。今後も赤塚不二夫の偉業を伝える常設の記念館として、半永久的に存続されるであろうと思われていた、まさにその矢先の出来事であった。
それは筆者にとっては、青天の霹靂というべきニュースだった。
2020年1月、建物の老朽化から耐震や雨漏り等の問題が生じ、改修が必要となったこと。更には、管理を受け持つ青梅商工会の方々の高齢化が進み、後継者不足も伴い、運営が厳しくなったとの理由から、赤塚不二夫会館の閉館が決定する。
皆までは語らないが、閉館の理由としてはそれだけではあるまい。
閉館決定に伴い、当初は閉館日を3月31日としており、「昭和の元気をありがとう!! 感謝祭」と題したイベントを開催。同月14日から閉館日に至るまで、入館料無料で開放し、28日と29日においては、地元酒造によるコラボ企画、日本酒の利き酒チャレンジや、インディーズ・ミュージシャンらによる野外ライヴの開催なども予定されていたが、新型コロナウイルスの感染拡大防止の観点から、来館スペースを写真撮影コーナーのみに縮小。更には、東京都により外出自粛要請が出された直後というタイミングと重なり、4日前倒しとなる3月27日に閉館を余儀なくされた。
赤塚不二夫会館のオープンから1年半後の2005年3月29日には、JR青梅駅の駅メロがアニメ「ひみつのアッコちゃん」シリーズのテーマソングをアレンジしたものが採用されたこともホットな話題を振り撒いたものの、閉館に伴い、現在のメロディへと変更されてしまった。
無論、駅構内に貫禄充分に飾られていたバカボンのパパのブロンズ像も既に撤去されてしまっている。
大御所漫画家のミュージアムの閉館にしては、あまりにもあっけない幕切れであり、いとも簡単に閉館への同意を示す公式の態度に対しては、腸が煮え繰り返る程の憤りを覚える。
オープンから長らく館長を務めてきた横川秀利氏は、閉館に対し、無念の想いを滲ませつつも、「多くのお客さんに親しまれ、様々なイベントを楽しんでもらえた。赤塚先生とキャラクターに感謝したい」という言葉を「読売新聞」の取材で遺している。
赤塚不二夫会館の閉館により、暫し放心状態となった筆者であったが、そうしたショックも束の間の2022年9月12日、今度は「下落合の象徴」「ギャグ漫画の殿堂」とまで謳われた中落合はフジオ・プロビル解体のアナウンスに更なる悲しみを募らせる。
解体に際し、赤塚のプライベート写真や想い出の品々、僅かばかりの生原稿を展示した「フジオプロ旧社屋を壊すのだ!!展」が催され、連日にわかファンも含めた訪問客により活況を呈したことは記憶に新しい。
だが、所詮それまでの展開でしかなく、この「さよならイベント」も、マスメディアを通じ、幾ばくかの話題を振り撒いただけに過ぎない。
フジオ・プロ旧社屋も建物の老朽化による原因不明の雨漏りにより、取り壊しを余儀なくされたとは、公式の弁だが、赤塚不二夫会館しかり、破壊ばかりでその末のビルドが全くないことに、怒りよりも悲しみが先行してしまう。
赤塚といえば、没後、晩年の酒浸りのイメージから、侮蔑や嘲笑を込め、その存在が益々矮小化され続けている漫画家である。
事実、赤塚不二夫会館が閉館になった際、SNSでは、一部の泡沫ユーザーらによって、閉館の理由として客足が全く延びないために、運営が成り立たなくなり、倒産したからであると、事実無根も甚だしい風説が流布されていたが、今となっては、こうした戯れ言が、当たり前の事実として認定されているかのようで歯痒さを禁じ得ない。
また、追い打ちを掛けるように、同年同月20日には、コミックパークよりオンデマンド形式によって書籍化されていた『赤塚不二夫漫画大全集』が、サービス終了となり、『天才バカボン』『おそ松くん』『もーれつア太郎』といった代表的な赤塚マンガを除いたタイトルが閲読出来るチャンスを一気に喪失してしまった。
まるで、現世において、赤塚不二夫が遺した面影が刻一刻と失われてゆくかの如き状況だ。
だが、そうした赤塚を取り巻く八方塞がりな現状において、只一筋の光明としては、2023年4月末現在、未だフジオ・プロビルが解体されていないことだ。
まさか、 公式はフジオ・プロ旧社屋を遺し、建物内のスペースを有効活用した第二の赤塚不二夫ミュージアムを構想中だというのだろうか?
いや、公式に赤塚不二夫や赤塚作品へ向けたそこまでの愛情や気魄があるとは到底思えないし、そんな殊勝な展開など、妄想するだけ野暮というものだろう。
とはいえ、誰よりも赤塚不二夫ディレッタントを自認している筆者としては、藁をも掴むそんな妄想こそが、赤塚矮小化に拍車が掛かるこの現状に対する唯一の抵抗であり、癒しでもあるのだ。
追記
2024年8月2日現在、フジオ・プロ旧社屋は解体され、更地となっているとのこと。
嗚呼、最早何も語るまい……。