

今回、取り上げたいのは、かつて、アイデア・ブレーン、チーフアシスタントとして、赤塚不二夫を支え、フジオ・プロの大黒柱とも謳われた古谷三敏が、自身にとって初のヒット作となる『ダメおやじ』を世に放つまでの半生と、その人となりを余すところなく綴った『まんが狂の詩 古谷三敏伝』である。
「まんが狂の詩」というサブタイトルが銘打たれたこのシリーズは、古谷による『ギャグ狂の詩 赤塚不二夫伝』を第一弾に迎え、そのアンサーとして発表された本作が第二弾。そして、第三弾以降は、『楳図かずお伝』(竹宮恵子)、『水島新司伝』(影丸譲也)、『池上遼一伝』(水木しげる)、『凸凹コンビ 藤子不二雄伝』(石森章太郎)、『ぼくの手塚治虫先生』(永島慎二)、『川崎のぼる伝』(ビッグ錠)と、トータルで八作に渡り、錚々たる大御所作家が、赤塚、古谷のような師弟関係、または親交の深い漫画家によって、その半生がコミカライズされた。
いずれも、1975年〜76年度の「少年サンデー」増刊号を発表の舞台にしたこれらの作品の多くは、76年に刊行された『まんが家のすべてがわかる 人気まんが家101のひみつ』(小学館)に収録されることになるが、こと赤塚パートに関しては、古谷の『赤塚不二夫伝』ではなく、赤塚本人が執筆した『これがギャグだ! ギャグほどステキな商売はない!』(「別冊少年ジャンプ」73年7月号)が採録されている。
古谷の『赤塚不二夫伝』は、大和郡山在住時代に腕白な日々を過ごした赤塚の少年時代にフォーカスを当てたものであり、漫画家としての半生を振り返った他の掲載作品と比べて、クロニクルとしての量感が希薄であること、更には、赤塚の半生を振り返った作品に関しては、前述の『ギャグほどステキな商売はない!』こそが最もドラマ的愉悦を孕んだものであるため、そこを評価されての掲載となったのであろう。
因みに、『人気まんが家101のひみつ』には、寺田ヒロオが『石森章太郎伝』を寄稿している。
この『石森章太郎伝』は、他作家の掲載作品に比べ、ロートル感は否めないものの、この頃、既に漫画家を廃業したとされる寺田が、細々ながらも、まだまだ現役として活動していたという証左であり、トキワ荘史、延いては寺田ヒロオの漫画史を紐解く上でも、重要なトピックであることをこの場にて補記しておく。
さて、世間一般に知られていないマイナーな赤塚マンガにおいて、語るべきタイトルは星の数ほどあれど、今回、敢えて『古谷三敏伝』を取り上げたのは、SNS上で、本作を取り上げたユーザーが、心ないアンチコメントによって叩かれていたからに他ならない。
実際のところ、そのユーザーというより、赤塚の『古谷三敏伝』が誹謗中傷されていたわけだが、また例によって、長谷邦夫による代筆であると、訳知り顔で語られている上、未読の泡沫ユーザーからは、アップされている扉ページを見るなり、駄作認定確定というように揶揄されていた。
赤塚憎しーズやその門外漢より、代筆、駄作認定されることこそ、赤塚理解における現在地といったところで鼻白むが、今回、赤塚の『古谷三敏伝』を取り上げることで、古谷三敏の『赤塚不二夫伝』をフィーチャーするにあたり、もってこいのタイミングだったので、ここで、赤塚マンガと古谷マンガの間に横たわる優劣の差について触れてみたい。
世間一般において、広く語られている赤塚不二夫評は、何の才能も輝きもない赤塚に対し、超優秀な漫画エリートの集団が赤塚の全作品を画からネームまで全てを代筆したというのが大半だ。
事実、同人誌でしか活動出来ていないアマチュアのエロ漫画描きにまで、そうした負のイメージから、インチキ漫画家と嘲笑われている始末である。
確かに、アイデアのブレーンストーミングを含め、赤塚作品には、多くのスタッフの手が入っているのは紛うことなき事実だが、赤塚を越える才能を備えたスタッフ達が赤塚を支えるどころか、赤塚不二夫本人として代筆していたというヘイト赤塚の共通見解は、果たして何処までリアリティを纏って語れるのであろうか……?
赤塚不二夫を越える才能…。これに対し、その時、赤塚をサポートしていた漫画家のオリジナル作品と、現にそれらの漫画家や担当編集者らとのブレーンストーミングを経由して生まれた赤塚マンガとを比較、検証しなければ、そのリスポンスは導き出せないというのが、筆者の見解である。
では、今回、その好サンプルとなる『古谷三敏伝』と『赤塚不二夫伝』という二つの作品を分析、比較を重ね、その答えを導出してゆきたいと思う。
まずは、赤塚の『古谷三敏伝』から検証してみよう。
茨城県鹿島郡神栖村立中学校を二年次で退学した古谷三敏が、大阪のテーラーに丁稚奉公として住み込みで働いた後、大好きな絵を描くことがやめれず、再び神栖村へと舞い戻ってきたところから、ドラマは始まる。
そんな古谷が利根川の土手で昼寝をしているところ、かつての同級生らが学生服を着て、下校しているところを見て不思議に思う。
古谷は、高等学校の存在を知らなかったのだ。
尚、古谷が高校の存在を知らなかったというのは、この三年前に発表された『天才バカボン』(「天才マンガ家レポートなのだ」/「週刊少年マガジン」72年25号)でも、古谷の天才たる所以を物語る武勇伝として書かれているが、六・三・三制の実施、所謂学制改革が誕生した1948年当時、古谷は小学六年生であり、その後、二年で中退したとはいえ、古谷が通っていた中学校は、新制中学である。
いくら、勉強嫌いであったとはいえ、古谷が新制高校の発足を知らなかったというのは、到底考えられず、あくまでそれも、赤塚によるギャグの一環であったのではないかと、筆者はそう睨んでいる。
その後、古谷は近所に住む画家の杉浦先生より漫画家になることを勧められ、少女漫画家としてデビュー。『みかんの花咲く丘』(島村出版)ほか、複数の単行本を上梓した後、念願叶って手塚治虫のアシスタントとなるが、初日に大失敗を犯してしまい、僅か二年で退職。独立を決意する。
しかしながら、鳴かず飛ばずの古谷は、その後、超売れっ子となった赤塚の元にアシスタントとしてやってくる。
「週刊少年サンデー」の赤塚番記者・樺島基弘による紹介だ。
当初、赤塚に対し、面と向かって「ボク ギャグ漫画大嫌いです。」と曰う古谷だったが、赤塚と関わるうちに、絵のみならず、アイデア面でもサポートするようになり、日々赤塚が格闘しているギャグ漫画の世界に次第に惹かれるようになる。
そして、長い苦節の上、1970年、『ダメおやじ』がヒットし、押しも押される人気漫画家の仲間入りを果たすわけだが、前述の高校の存在を知らなかったというエピソードを伏線に敷いたギャグがオチとして描かれ、実に粋なかたちでドラマの幕は閉じる。
一方の古谷による『赤塚不二夫伝』は、お世辞にも垢抜けているとは言えない、そのボテッとしたタッチによる違和感も相俟ってか、画面そのものが貧しく見えるだけではなく、ストーリーテリングに至るまで全体的に盛り上がりに乏しい。
大和郡山時代に焦点を当てて描かれているため、不足あると言えば、それまでだが、後に、『不二夫のワルワルワールド』(「別冊コロコロコミック」82年〜83年)で、赤塚自らが回想した大和郡山での腕白時代の世界観を比較した際、全五話中、その一話分をもってしても、作品としてのグルーヴ感、更には、ドラマが齎す高揚感が段違いに異なるのだ。
『赤塚不二夫伝』では、後に、赤塚ワールドの花形スターとなるチビ太やニャロメのモデルとなるキャラクターの登場が、プロットの一つとして扱われているにも拘わらず、悲しいかな、ノリの悪さが露呈してしまっている。
こうした、赤塚、古谷間における歴然とした差は果たして何に起因するのだろう。
筆者は、古谷が後にインタビューで語った次のような言葉に、その全てが集約されているように思えてならない。
「バカボンのアイデアは面白い物を出すのに何で自分の漫画は面白くないんだ」(『昭和カルチャーズ「元祖天才バカボン」feat.ウナギイヌ』 角川SSCムック、16年)
この辛辣な発言は、「週刊少年マガジン」で赤塚番を務めていた五十嵐隆夫記者が古谷に言い放った一言だが、つまりはスタッフ、編集者らによって呈示されたアイデアの数々を自家薬籠中の物として、更に面白いドラマへと昇華出来る、漫画家としてのトータル的な資質においての違いであろう。
いくら、ブレーンストーミングを務めたアシスタントや編集者が有能であったところで、提供出来るとしても、それは切っ掛けに過ぎす、断片的なアイデアを一本の物語へと纏めるのは、誰あろう赤塚不二夫本人である。
赤塚作品が様々なタレントの集大成となって成立し得ているというのは、一理も二理もある。
だが、どんなスタッフであっても、漫画を描く上で、絶対的に踏み込めない作業工程に、ネーム入れとアタリがある。
この二つの工程を赤塚本人が施さなければ、赤塚マンガでありながらも、似て非なる作品となってしまう。
これは、横山孝雄や斉藤あきらといった、かつてのスタッフらが何人も証言している通りだ。
事実、ブレーンストーミングの結果が冴えなくても、その際に存在しなかったアイデアが、ネーム執筆の際、ふんだんに盛り込まれることがあったというのは、歴代の担当編集者達による弁だが、まさに、そうした資質など、天才・赤塚の面目躍如といったところであろう。
従って、赤塚を越える圧倒的な才能を持つスタッフらが、箸にも棒にも掛からない、五流以下の駄目人間、ゴミ漫画家である赤塚に代わって、その作品を創り出していたというのは、論理性がないどころか、極論も甚だしい妄言と言って憚らない。
こと赤塚不二夫に関しては、その作品を語る上で、全てにおいて「物言えば唇寂し」宜しく、虚無感しか込み上げてこないが、今回、赤塚による『古谷三敏伝』と、古谷による『赤塚不二夫伝』の二作にスポットを当て、両作品を対比することで、赤塚マンガにおけるある種の不確実性を少なからず削減出来たようにも思える。
尚、このエントリーを読まれ、興味を抱かれた御仁におかれては、『古谷三敏伝』、『赤塚不二夫伝』の両作を読み比べてみるのも一興であろう。
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