現在において、赤塚不二夫を取り巻く最大の悲劇は、熱烈なるファ
門外漢による矮小化された足跡や不名誉な虚伝がネット上にて揶揄 するように語られ、リアルに赤塚不二夫を知らない若年層の間にお いても、その評価は極めて歪だ。
この悪しき現状は、ファンや味方の不在こそが一番のネックである と言わざるを得ない。
即ち、風説や事実誤認が流布される中、それらが否定、斧正される までには到らないということなのだ。
筆者もSNS(X 旧TWITTER)で、時折「赤塚不二夫」というキーワードを検 索し、目に余る誤謬を目にした際は、逐一訂正した情報を加え、リポストしているが、孤軍奮闘したところで、詰まるところ多勢 に無勢であるかの如き現状だ。
赤塚不二夫ディレッタントを自認する身としては、こうした八方塞 りの状況で、通常ならば、全く読まれることなく、消費されてゆく 赤塚関連の引用リポストが、ある時、147万表示、 4505件のイイネ!、1853件のリポスト、319件のブッ クマーク、87件の引用(2023年10月23日現在)と、 SNSを初めて十年余、今まで見たこともない天文学的数字を弾き 出したのだ。
その風説の流布となったポストは、現在削除されているが、幸いに もスクリーン・ショットに保存していたので、改めてここに引用し てみたい。
「ネットで拾った、昭和50年・赤塚不二夫と出会ったころのタモ リ。眼帯を顔に描いてあて、右眉はたぶん剃っている。…… 全体から陰気オーラが漂っており、言われないとタモリとはわから ない。人間、やはり売れる前と後では顔が変わるねえ。」( 原文ママ)
そして、このポストに対する私の引用リポストが、「変わるも何 もタモリさんじゃないからね。名前は不明だが、当時赤塚不二夫の 側近だった人物で、赤塚番の編集者だった可能性もある。 昭和54年頃の写真で、中央は女優の児島美ゆきさん。」 というものだった。
何故この時、真ん中で佇む女性が児島美ゆきであることを強調して いるかというと、その容姿から、当時アイドル歌手として活躍して いた木之内みどりであると誤認識しているユーザーが多かったため でもある。
さて、私が引用した件のポストの主であるが、かつて「と学会」の 運営委員の一人で、コラムスト、劇作家、古書収集家としても知ら れる唐沢俊一。幼少期において、熱烈な赤塚チルドレンであったと 公言し、後に『カスミ伝』『電脳なをさん』 等の代表作を持つことになるギャグ漫画家・唐沢なをきの実兄でも ある。
トリビアルなネタに付随する雑文を殊の外好んでいた青年期の筆者 にとって、昭和のB級文化への論説をライフワークとしていた唐沢 俊一もまた、守備範囲の一つに含まれつつあったが、如何せん、唐 沢が取り上げる分野において門外漢である筈の筆者ですら、唐沢が 流布するトリビアの一つ一つが事実誤認、デマカセ、捏造であると 観取するレベルにあり、そうしたげんなりとした感情から、 いつしか私の中で、唐沢俊一の名前すら、取るに足りない存在として、忘却の彼方へと消え去ってしまった。
事実、2000年代に唐沢は、ネット記事からの剽窃や他者の著作 からの無断引用、事実認識の不備による錯誤誤記等が取り沙汰され るようになり、現在では、基礎的な文章力の欠落、ボキャブラリー に対する不確かな認識など著述家としての資質についても、 多くの見巧者から冷静なる批判を受けている有り様だ。
その後も「唐沢俊一検証ブログ」などという、唐沢発のデマやガセ ネタを検証するまとめサイト的なブログまで立ち上げられ、 こうしたブログが広く読まれ、引き金となったせいか、 ネットの世界では、唐沢の存在をかつての称号「トリビア王」 ならぬ「ガセビア王」などと嘲謔するユーザーも少なくない。
前出の赤っ恥ポストを投稿した後も、一般ユーザーとの遣り取りを 重ねる中で、唐沢は更なる恥の上塗りをしている。
当該のポストに対する一般ユーザーの質問に対し、唐沢は「まだそ の前、パブで芸をやっていた頃ですね。30になっても売れず、九 州に帰ることを考えてた矢先に赤塚不二夫に見いだされ、赤塚氏の 出ているテレビに押し込んでネタをやらせたことでブレイクしまし た。」(原文ママ)と答えているが、このアンサーに違和感を禁じ 得ない御仁は数多くいたのではないだろうか……。
そもそも、タモリはお笑い芸人、もしくはテレビタレントを夢見て 上京し、新宿の場末のバーでタレント修行をしていたなんて事実は 、数あるタモリ史を辿った文献においても一切書かれていないし、 タモリ自身、そのような証言をしたことは今まで全くないわけだ。
時折しも、ツービートのビートたけしが浅草のフランス座から飛び 出し、テレビに進出し始めていた頃(1974年〜75年頃)、タ モリはタレントの卵ですらなかった。
タモリは、三年次に学費未納(このエピソードもタモリらしい心綻 ぶものがある。また別の機会にて、 タモリ史として論述してみたい。)で早稲田大学から除籍処分を受 けた、
その後、1969年、故郷福岡へとUターン。地元で朝日生命の外 交員や、当時大ブームであったボーリング場の支配人、喫茶店の雇 われマスターをするなど職を転々としていた。
そんな素人時代であった1972年のある日、渡辺貞夫自身が主催 するジャズ・コンサートが地元福岡にて開催される運びとなり、 コンサート・スタッフに早大ジャズ研時代の友人がいたことから、 終電がなくなる丑三つ時まで打ち上げに参加したことでその人生は 一転する。
この時、ツアーには山下洋輔トリオ(山下洋輔、中村誠一、森山威 男)が参加し、滞在先のホテルの一室で、酒も入っていたのだろう 。歌舞伎の舞踊や狂言のパロディー、虚無僧の真似事などの乱痴気 騒ぎを繰り広げていた。
その部屋の前をたまたま通り掛かったタモリは、運命の悪戯か、ル ームドアが半開きの状態になっていたことから、山下らの部屋に闖 入。虚無僧演じる中村が被っていたクズ箱を取り上げ、それを鼓代 わりに歌舞伎の舞を披露し、山下らを啞然たらしめた。
また、芸達者な中村がタモリの突然の乱入をインチキ朝鮮語を使っ て抗議したところ、タモリは更にその上を行く流暢な出鱈目朝鮮語 で捲し立てて応戦。その後も細部に拘った偽のアフリカ語で中村を 言い負かすなどの即興芸を展開し、 山下トリオを爆笑の渦に巻き込むこととなる。
これにより、タモリは山下トリオが九州方面にツアーで訪れた際に は、必ずやお呼ばれされる間柄となリ、タモリの抱腹絶倒のパフォ ーマンスにすっかり魅せられた山下は、その至芸を自分達だけで独 占しては勿体ないとばかりにタモリを福岡から東京へと呼び寄せ、 山下行き着けの新宿場末のバー「ジャックの豆の木」を中心に、友 人知人の前で披露させたのである。
その際、臨席していた一人がフジオ・プロの長谷邦夫で、ご多分に 漏れずタモリの面白さに圧倒された長谷は、赤塚にタモリを一目見 せたい一心で、赤塚を「ジャックの豆の木」へと連れ出す。
当初、そんな面白い人間が素人でいる筈がないと、長谷の話を訝しがっていたものの、実際、タモリの才気煥発なパフォーマンスを目の当たりに した赤塚は、一発でタモリを気に入り、 芸能界デビューさせることを決意。自身がプライベート用に借りて いた家賃十七万円の高級マンション(カーサ目白)に住まわせ、 1975年8月30日、NET(現・テレビ朝日)系の生番組「 土曜ショー マンガ大行進!赤塚不二夫ショー」のワンコーナにて、タモリを押 し込み出演させるのである。
その後も、赤塚は本業執筆との忙しい合間を縫いながら、必死にタ モリを業界内に売り込み、この遅咲きの偉大なる素人は、あれよこ れよという間に、テレビタレントとしてのスターダムへと駆け上が って行く……。
これがタモリが芸能界デビューを果たすまでの道程であり、タモリ が自らの意思で笑芸の世界に入るべく修行を重ねていたという事実 はないのだ。
つまりは、自らの意思とは全く関係のないところで、テレビ出演を 果たし、いつの間にか、押しも押されもせぬ人気タレントとして君臨していたというのが正解であろう。
だが、唐沢は、タモリが芸人として売れずに燻っていたという新た な嘘情報を流布しただけではなく、 これを一般常識であるかの如く語り、その主張に疑問を投げ掛けて きた一般ユーザーに対しても、「まぁ、 無知な人とは会話しても益がないので、ミュートしますね。悪しか らず。」(原文ママ)と一刀両断し、更に馬脚を現すことになるの だ。
無知は唐沢の側か、それとも件の一般ユーザーの側か、論を俟つま でもないだろう。
唐沢はかつて、タモリが番組内で品評会会長を務めたフジテレビ系 列の人気番組「トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜」(02年〜06年)で、監修、スーパー バイザーを務めていた立場で、無論タモリとも面識があった筈だ。
また、1970年代、サブカルチャーの洗礼を受け、多感な少年期 を過ごしてきたであろう唐沢が、日本のテレビメディアにおいてセ ンセーショナルな登場を果たした当時のタモリの存在を認識してい ないとは到底考えられない。
加齢により、過去の記憶を保持出来ないとでもいうのだろうか…… 。
また、若年性によるレビー小体型認知症が進行した現れなのか、唐 沢が投稿したポストに「全体から陰気オーラが漂っており……」と あるように、曲がりなりにも、かつてタモリと仕事をし、知遇を得 ている人間が、このような悪態を付くこと自体、人格面においても 、破壊的、不適切なそれに推移したと言わざるを得ない。
近年では、原稿料を前借りしておきながら、一向に筆を進めようと もしないその無責任ぶりから、出版社(四海書房) サイドより返金を求められる事案まで発生している。
「心理的リアクタンスでなかなか書けない」とは唐沢の弁だが、こ んな詭弁、通用する筈もなく、これでは、著述を生業とする者、否 、一人の社会人として失格の烙印を押されても致し方ないといった ところだろう。
閑話休題。唐沢俊一の人物像等、前置きが長くなってしまったが、 そろそろ本題に入りたい。
そもそも唐沢がポストに添付した赤塚不二夫、児島美ゆき、そして 唐沢にタモリ認定された人物が収まったスリーショットは、元々ネ ット上で出回っていた一枚である。
ただ、賢明なる読者諸兄には既にお気付き頂いていると思うが、こ の写真、実は反転したものである。
まず、センターの児島美ゆきが身に纏っているブラウスの襟合わせ が逆になっていること。そして、本来ならば、左分けである赤塚不 二夫の髪型が、この写真では右分けになっていることが、その根拠 として挙げられるが、これは唐沢にタモリと誤認識されている人物 が眼帯メイクを左目側に描かれていることから、写真を流布した人 物が意図的に反転したものと思われる。
何故なら、タモリがアイパッチをしているのは、右目の方であり、 これは、リアリティーを持たす為に造られたあくまでフェイク写真 であるのだ。
以前、筆者が児島美ゆきに直接お会いした折、この写真をお見せし たところ、「(赤塚)不二夫ちゃんと私は正解だけど、こちらの方 はタモさんじゃないわよ」と答えて下さったことがあった。
その後私が、ならば、このアイパッチをしたタモリ風の人物はどな たなのか伺ったところで、如何せん、 四十数年も時を経た遠い過去の話。当然ながら、なかなか思い出せ ず、辛うじて、当時、赤塚と頻繁に行動を共にしていた昵懇の人物 であり、児島自身、幾度か顔を合わせたことがあったと語る程度に 留まった。
私にとって気の置けない親友であり、赤塚不二夫ディレッタントと しても名高い才賀涼太郎(ブログ「赤塚不二夫保存会」主宰)も、 X上で児島本人に訊ねたところ、同様の答えを頂戴している。
因みに、この後、児島本人がX上で、改めて撮られた一枚なのだろ う。児島が赤塚の鼻の下にマジックインキでバカボンのパパ風の髭 を描いている写真をアップしていた。
この時の赤塚と児島のファッションが、件のスリーショット時と同 一のラガーシャツとブラウスであったことからも、 写真中央の人物が児島であることがわかるし、もしかしたら、唐沢 にタモリと間違えられた件の人物のアイパッチも児島によって描か れたものかも知れない。
では、このアイパッチメイクの偽タモリ氏は、一体何者なのか。愈 々本題に入るとしよう。
手前味噌で恐縮だが、我が邸宅には、単行本や付録、未収録作品掲 載誌やカバーフィーチャーされた雑誌等、凡そ数千冊に及ぶ赤塚不 二夫関連の書籍か埋まった本棚のほか、貴重な赤塚グッズや赤塚フ ィギュアで埋め尽くされた通称「赤塚部屋」がある。
誰もその足跡を振り返えらない、それも愚民どもに愚弄される存在 にまで成り下がった赤塚不二夫
を不憫に思い、三〇年ほど前からコツコツ集めていた、筆者にとっ ては国宝級のお宝というべき秘宝の数々である。
これだけの資料があれば、件の偽タモリ氏の正体に近付けるのでは ないか。そう結論に達した筆者
は半日掛け、赤塚部屋の資料と久方ぶりに向き合ってみた。
そこで一枚の写真を見付けた。
「週刊少年サンデー」(68年9号)の特別企画として掲載された 「赤塚不二夫寄席」所収の写真である。
このページ中で、赤塚不二夫の交遊録を特集したコーナーに、藤子 不二雄、石森章太郎、つのだじろう、鈴木伸一、園山俊二といった トキワ荘時代からの盟友やフジオ・プロの面々、「 まんが海賊クイズ」での共演で親交を深めた漫画家の森田拳次や黒 柳徹子、人気絶頂のコメディアン、ドンキー・カルテットの小野ヤ スシといった人気タレントと並んで、全く無名な「弘岡隆」 なる人物が、その一角として取り上げられている。
この弘岡隆なる人物は、『おそ松くん』の特大ヒットで急激に成金 となった赤塚不二夫に何台もベンツも売り込んだ(株)「ヤナセ」 のやり手セールスマンで、赤塚とは意気投合した関係から、 ヤナセを退職し、後にフジオ・プロ経理部に在籍するようになった 変わり種だ。
同時期に、『オバケのQ太郎』『パーマン』『怪物くん』『忍者ハ ットリくん』等のスマッシュ・ヒットで、赤塚と並ぶギャグ漫画の 第一人者となった藤子不二雄コンビが、ベンツのセールスマンから 「ベンツなんて、藤子先生クラスの売れっ子になれば、所詮は下駄 代わりの買い物ですよ。免許がなければ、私が運転手を用立て致し ますから」と勧められたといったエピソードを、以前、筆者は藤子 A本人から伺ったことがあるが、このセールスマンこそ、藤子、 赤塚と同じく西新宿「市川ビル」で軒を構えていた関係を勘案する に、弘岡隆であることに疑いの余地はないだろう。
この弘岡隆は、後に赤塚がオーナーを務めることになるレーシング ・チーム「ZENY」の主要メンバーになり、 その界隈で有名だった、今でいう半グレ集団「 新宿紀伊國屋二期星」の残党と同様に積極果敢に鈴鹿のレース等に 関わっていた。
以前、別のエントリーで詳しく論述したが、この「紀伊國屋二期星 」には、第八方面交通機動隊中隊長を実父に持ち、今尚「府中・ 三億円強奪事件」の真犯人ではないかと囁かれているS・ A少年も、副リーダー格として関わっていたグループだ。
このS・A少年と赤塚は顔見知りの存在だった。
にも拘わらず、赤塚は弘岡に対して「私が三億円事件の犯人ですっ て、自首しちゃいなよ」と頻繁に軽口を叩いていたという。
つまり、そのくらい、弘岡と例の有名なモンタージュ写真はそっく りだったのだ。
実際、赤塚は、自身の連載漫画『母ちゃんNo.1』の最終話(「 母ちゃんの会社がパーになった」/「週刊少年サンデー」77年1 2号掲載)なるエピソードで、お世話になった主人公・山田フキ子 の窮地を救う従業員が、実は三億円強奪犯人だったというシチュエ ーションで、弘岡を楽屋ネタ的に登場させている。
弘岡は、フジオ・プロの経理部に在籍した後、1974年、古谷三 敏、芳谷圭児が独立し、「ファミリー企画」を設立した際、古谷ら に付いて移籍することになるが、それでも、その後、赤塚とは
付かず離れずの関係を続けていたと見え、79年当時、赤塚が主催 する酒席に顔を出していたのは想像に難くない。
実際、弘岡の顔写真とこのアイパッチメイクを施した件の偽タモリ を比較してみた結果、この時より遡ること九年前の写真とはいえ、 右眉の形、頬から顎に掛けてのライン、鼻筋から小鼻の張り具合に 至るまで、同一人物に思えてならないのだ。
ただこれも、あくまで私個人の見解であって、読者諸兄はどのよう な感想を持たれたであろうか?
今回、この一件において、SNSを媒体にデマそのものが恐るべき スピードで拡散して行く事象を、好サンプルとして再認識した。
実際、私のそれよりも圧倒的な偏りを指し示したリツイート数が物 語るように、唐沢の虚伝を鵜呑みにし、件の偽タモリがタモリ本人 であると信じて疑わないユーザーが大半であろう。
タモリと言えば、ビートたけし、明石家さんまと並び、半世紀近く に渡って活躍してきた国民的人気タレント。我々にとって、 ある意味親族に近い存在だ。
それなのに、実に嘆かわしい。
まさに、ネットリテラシーの欠如、ここに極まれりである。
また、今回、私の引用リポストがバズったのも、話題の中心があくま でタモリだからであって、もし赤塚単体のものであれば、これほど までの反響はなかったであろうし、ヤフー・ニュース等でも取り上 げられるといった展開を得られなかったことも、 本稿の締め括りに代えて指摘しておく。
この悪しき現状は、ファンや味方の不在こそが一番のネックである
即ち、風説や事実誤認が流布される中、それらが否定、斧正される
筆者もSNS(X 旧TWITTER)で、時折「赤塚不二夫」というキーワードを検
赤塚不二夫ディレッタントを自認する身としては、こうした八方塞
その風説の流布となったポストは、現在削除されているが、幸いに
「ネットで拾った、昭和50年・赤塚不二夫と出会ったころのタモ
そして、このポストに対する私の引用リポストが、「変わるも何
何故この時、真ん中で佇む女性が児島美ゆきであることを強調して
さて、私が引用した件のポストの主であるが、かつて「と学会」の
トリビアルなネタに付随する雑文を殊の外好んでいた青年期の筆者
事実、2000年代に唐沢は、ネット記事からの剽窃や他者の著作
その後も「唐沢俊一検証ブログ」などという、唐沢発のデマやガセ
前出の赤っ恥ポストを投稿した後も、一般ユーザーとの遣り取りを
当該のポストに対する一般ユーザーの質問に対し、唐沢は「まだそ
そもそも、タモリはお笑い芸人、もしくはテレビタレントを夢見て
時折しも、ツービートのビートたけしが浅草のフランス座から飛び
タモリは、三年次に学費未納(このエピソードもタモリらしい心綻
その後、1969年、故郷福岡へとUターン。地元で朝日生命の外
そんな素人時代であった1972年のある日、渡辺貞夫自身が主催
この時、ツアーには山下洋輔トリオ(山下洋輔、中村誠一、森山威
その部屋の前をたまたま通り掛かったタモリは、運命の悪戯か、ル
また、芸達者な中村がタモリの突然の乱入をインチキ朝鮮語を使っ
これにより、タモリは山下トリオが九州方面にツアーで訪れた際に
その際、臨席していた一人がフジオ・プロの長谷邦夫で、ご多分に
当初、そんな面白い人間が素人でいる筈がないと、長谷の話を訝しがっていたものの、実際、タモリの才気煥発なパフォーマンスを目の当たりに
その後も、赤塚は本業執筆との忙しい合間を縫いながら、必死にタ
これがタモリが芸能界デビューを果たすまでの道程であり、タモリ
つまりは、自らの意思とは全く関係のないところで、テレビ出演を
だが、唐沢は、タモリが芸人として売れずに燻っていたという新た
無知は唐沢の側か、それとも件の一般ユーザーの側か、論を俟つま
唐沢はかつて、タモリが番組内で品評会会長を務めたフジテレビ系
また、1970年代、サブカルチャーの洗礼を受け、多感な少年期
加齢により、過去の記憶を保持出来ないとでもいうのだろうか……
また、若年性によるレビー小体型認知症が進行した現れなのか、唐
近年では、原稿料を前借りしておきながら、一向に筆を進めようと
「心理的リアクタンスでなかなか書けない」とは唐沢の弁だが、こ
閑話休題。唐沢俊一の人物像等、前置きが長くなってしまったが、
そもそも唐沢がポストに添付した赤塚不二夫、児島美ゆき、そして
ただ、賢明なる読者諸兄には既にお気付き頂いていると思うが、こ
まず、センターの児島美ゆきが身に纏っているブラウスの襟合わせ
何故なら、タモリがアイパッチをしているのは、右目の方であり、
以前、筆者が児島美ゆきに直接お会いした折、この写真をお見せし
その後私が、ならば、このアイパッチをしたタモリ風の人物はどな
私にとって気の置けない親友であり、赤塚不二夫ディレッタントと
因みに、この後、児島本人がX上で、改めて撮られた一枚なのだろ
この時の赤塚と児島のファッションが、件のスリーショット時と同
では、このアイパッチメイクの偽タモリ氏は、一体何者なのか。愈
手前味噌で恐縮だが、我が邸宅には、単行本や付録、未収録作品掲
誰もその足跡を振り返えらない、それも愚民どもに愚弄される存在
を不憫に思い、三〇年ほど前からコツコツ集めていた、筆者にとっ
これだけの資料があれば、件の偽タモリ氏の正体に近付けるのでは
は半日掛け、赤塚部屋の資料と久方ぶりに向き合ってみた。
そこで一枚の写真を見付けた。
「週刊少年サンデー」(68年9号)の特別企画として掲載された
このページ中で、赤塚不二夫の交遊録を特集したコーナーに、藤子
この弘岡隆なる人物は、『おそ松くん』の特大ヒットで急激に成金
同時期に、『オバケのQ太郎』『パーマン』『怪物くん』『忍者ハ
この弘岡隆は、後に赤塚がオーナーを務めることになるレーシング
以前、別のエントリーで詳しく論述したが、この「紀伊國屋二期星
このS・A少年と赤塚は顔見知りの存在だった。
にも拘わらず、赤塚は弘岡に対して「私が三億円事件の犯人ですっ
つまり、そのくらい、弘岡と例の有名なモンタージュ写真はそっく
実際、赤塚は、自身の連載漫画『母ちゃんNo.1』の最終話(「
弘岡は、フジオ・プロの経理部に在籍した後、1974年、古谷三
付かず離れずの関係を続けていたと見え、79年当時、赤塚が主催
実際、弘岡の顔写真とこのアイパッチメイクを施した件の偽タモリ
ただこれも、あくまで私個人の見解であって、読者諸兄はどのよう
今回、この一件において、SNSを媒体にデマそのものが恐るべき
実際、私のそれよりも圧倒的な偏りを指し示したリツイート数が物
タモリと言えば、ビートたけし、明石家さんまと並び、半世紀近く
それなのに、実に嘆かわしい。
まさに、ネットリテラシーの欠如、ここに極まれりである。
また、今回、私の引用リポストがバズったのも、話題の中心があくま