文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

ガセビア王・唐沢俊一がタモリ認定した件の人物の正体とは?

2023-10-26 19:53:20 | 論考

現在において、赤塚不二夫を取り巻く最大の悲劇は、熱烈なるファンやマニアが皆無に近いということであろう。

門外漢による矮小化された足跡や不名誉な虚伝がネット上にて揶揄するように語られ、リアルに赤塚不二夫を知らない若年層の間においても、その評価は極めて歪だ。

この悪しき現状は、ファンや味方の不在こそが一番のネックであると言わざるを得ない。

即ち、風説や事実誤認が流布される中、それらが否定、斧正されるまでには到らないということなのだ。

筆者もSNS(X 旧TWITTER)で、時折「赤塚不二夫」というキーワードを検索し、目に余る誤謬を目にした際は、逐一訂正した情報を加え、リポストしているが、孤軍奮闘したところで、詰まるところ多勢に無勢であるかの如き現状だ。

赤塚不二夫ディレッタントを自認する身としては、こうした八方塞りの状況で、通常ならば、全く読まれることなく、消費されてゆく赤塚関連の引用リポストが、ある時、147万表示、4505件のイイネ!、1853件のリポスト、319件のブックマーク、87件の引用(2023年10月23日現在)と、SNSを初めて十年余、今まで見たこともない天文学的数字を弾き出したのだ。

その風説の流布となったポストは、現在削除されているが、幸いにもスクリーン・ショットに保存していたので、改めてここに引用してみたい。

「ネットで拾った、昭和50年・赤塚不二夫と出会ったころのタモリ。眼帯を顔に描いてあて、右眉はたぶん剃っている。……全体から陰気オーラが漂っており、言われないとタモリとはわからない。人間、やはり売れる前と後では顔が変わるねえ。」(原文ママ)

そして、このポストに対する私の引用リポストが、「変わるも何もタモリさんじゃないからね。名前は不明だが、当時赤塚不二夫の側近だった人物で、赤塚番の編集者だった可能性もある。昭和54年頃の写真で、中央は女優の児島美ゆきさん。」というものだった。

何故この時、真ん中で佇む女性が児島美ゆきであることを強調しているかというと、その容姿から、当時アイドル歌手として活躍していた木之内みどりであると誤認識しているユーザーが多かったためでもある。

さて、私が引用した件のポストの主であるが、かつて「と学会」の運営委員の一人で、コラムスト、劇作家、古書収集家としても知られる唐沢俊一。幼少期において、熱烈な赤塚チルドレンであったと公言し、後に『カスミ伝』『電脳なをさん』等の代表作を持つことになるギャグ漫画家・唐沢なをきの実兄でもある。

トリビアルなネタに付随する雑文を殊の外好んでいた青年期の筆者にとって、昭和のB級文化への論説をライフワークとしていた唐沢俊一もまた、守備範囲の一つに含まれつつあったが、如何せん、唐沢が取り上げる分野において門外漢である筈の筆者ですら、唐沢が流布するトリビアの一つ一つが事実誤認、デマカセ、捏造であると観取するレベルにあり、そうしたげんなりとした感情から、いつしか私の中で、唐沢俊一の名前すら、取るに足りない存在として、忘却の彼方へと消え去ってしまった。

事実、2000年代に唐沢は、ネット記事からの剽窃や他者の著作からの無断引用、事実認識の不備による錯誤誤記等が取り沙汰されるようになり、現在では、基礎的な文章力の欠落、ボキャブラリーに対する不確かな認識など著述家としての資質についても、多くの見巧者から冷静なる批判を受けている有り様だ。

その後も「唐沢俊一検証ブログ」などという、唐沢発のデマやガセネタを検証するまとめサイト的なブログまで立ち上げられ、こうしたブログが広く読まれ、引き金となったせいか、ネットの世界では、唐沢の存在をかつての称号「トリビア王」ならぬ「ガセビア王」などと嘲謔するユーザーも少なくない。

前出の赤っ恥ポストを投稿した後も、一般ユーザーとの遣り取りを重ねる中で、唐沢は更なる恥の上塗りをしている。

当該のポストに対する一般ユーザーの質問に対し、唐沢は「まだその前、パブで芸をやっていた頃ですね。30になっても売れず、九州に帰ることを考えてた矢先に赤塚不二夫に見いだされ、赤塚氏の出ているテレビに押し込んでネタをやらせたことでブレイクしました。」(原文ママ)と答えているが、このアンサーに違和感を禁じ得ない御仁は数多くいたのではないだろうか……。

そもそも、タモリはお笑い芸人、もしくはテレビタレントを夢見て上京し、新宿の場末のバーでタレント修行をしていたなんて事実は、数あるタモリ史を辿った文献においても一切書かれていないし、タモリ自身、そのような証言をしたことは今まで全くないわけだ。

時折しも、ツービートのビートたけしが浅草のフランス座から飛び出し、テレビに進出し始めていた頃(1974年〜75年頃)、タモリはタレントの卵ですらなかった。

タモリは、三年次に学費未納(このエピソードもタモリらしい心綻ぶものがある。また別の機会にて、タモリ史として論述してみたい。)で早稲田大学から除籍処分を受けた、

その後、1969年、故郷福岡へとUターン。地元で朝日生命の外交員や、当時大ブームであったボーリング場の支配人、喫茶店の雇われマスターをするなど職を転々としていた。

そんな素人時代であった1972年のある日、渡辺貞夫自身が主催するジャズ・コンサートが地元福岡にて開催される運びとなり、コンサート・スタッフに早大ジャズ研時代の友人がいたことから、終電がなくなる丑三つ時まで打ち上げに参加したことでその人生は一転する。

この時、ツアーには山下洋輔トリオ(山下洋輔、中村誠一、森山威男)が参加し、滞在先のホテルの一室で、酒も入っていたのだろう。歌舞伎の舞踊や狂言のパロディー、虚無僧の真似事などの乱痴気騒ぎを繰り広げていた。

その部屋の前をたまたま通り掛かったタモリは、運命の悪戯か、ルームドアが半開きの状態になっていたことから、山下らの部屋に闖入。虚無僧演じる中村が被っていたクズ箱を取り上げ、それを鼓代わりに歌舞伎の舞を披露し、山下らを啞然たらしめた。

また、芸達者な中村がタモリの突然の乱入をインチキ朝鮮語を使って抗議したところ、タモリは更にその上を行く流暢な出鱈目朝鮮語で捲し立てて応戦。その後も細部に拘った偽のアフリカ語で中村を言い負かすなどの即興芸を展開し、山下トリオを爆笑の渦に巻き込むこととなる。

これにより、タモリは山下トリオが九州方面にツアーで訪れた際には、必ずやお呼ばれされる間柄となリ、タモリの抱腹絶倒のパフォーマンスにすっかり魅せられた山下は、その至芸を自分達だけで独占しては勿体ないとばかりにタモリを福岡から東京へと呼び寄せ、山下行き着けの新宿場末のバー「ジャックの豆の木」を中心に、友人知人の前で披露させたのである。

その際、臨席していた一人がフジオ・プロの長谷邦夫で、ご多分に漏れずタモリの面白さに圧倒された長谷は、赤塚にタモリを一目見せたい一心で、赤塚を「ジャックの豆の木」へと連れ出す。

当初、そんな面白い人間が素人でいる筈がないと、長谷の話を訝しがっていたものの、実際、タモリの才気煥発なパフォーマンスを目の当たりにした赤塚は、一発でタモリを気に入り、芸能界デビューさせることを決意。自身がプライベート用に借りていた家賃十七万円の高級マンション(カーサ目白)に住まわせ、1975年8月30日、NET(現・テレビ朝日)系の生番組「土曜ショー マンガ大行進!赤塚不二夫ショー」のワンコーナにて、タモリを押し込み出演させるのである。

その後も、赤塚は本業執筆との忙しい合間を縫いながら、必死にタモリを業界内に売り込み、この遅咲きの偉大なる素人は、あれよこれよという間に、テレビタレントとしてのスターダムへと駆け上がって行く……。

これがタモリが芸能界デビューを果たすまでの道程であり、タモリが自らの意思で笑芸の世界に入るべく修行を重ねていたという事実はないのだ。

つまりは、自らの意思とは全く関係のないところで、テレビ出演を果たし、いつの間にか、押しも押されもせぬ人気タレントとして君臨していたというのが正解であろう。

だが、唐沢は、タモリが芸人として売れずに燻っていたという新たな嘘情報を流布しただけではなく、これを一般常識であるかの如く語り、その主張に疑問を投げ掛けてきた一般ユーザーに対しても、「まぁ、無知な人とは会話しても益がないので、ミュートしますね。悪しからず。」(原文ママ)と一刀両断し、更に馬脚を現すことになるのだ。

無知は唐沢の側か、それとも件の一般ユーザーの側か、論を俟つまでもないだろう。

唐沢はかつて、タモリが番組内で品評会会長を務めたフジテレビ系列の人気番組「トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜」(02年〜06年)で、監修、スーパーバイザーを務めていた立場で、無論タモリとも面識があった筈だ。

また、1970年代、サブカルチャーの洗礼を受け、多感な少年期を過ごしてきたであろう唐沢が、日本のテレビメディアにおいてセンセーショナルな登場を果たした当時のタモリの存在を認識していないとは到底考えられない。

加齢により、過去の記憶を保持出来ないとでもいうのだろうか……

また、若年性によるレビー小体型認知症が進行した現れなのか、唐沢が投稿したポストに「全体から陰気オーラが漂っており……」とあるように、曲がりなりにも、かつてタモリと仕事をし、知遇を得ている人間が、このような悪態を付くこと自体、人格面においても、破壊的、不適切なそれに推移したと言わざるを得ない。

近年では、原稿料を前借りしておきながら、一向に筆を進めようともしないその無責任ぶりから、出版社(四海書房)サイドより返金を求められる事案まで発生している。

「心理的リアクタンスでなかなか書けない」とは唐沢の弁だが、こんな詭弁、通用する筈もなく、これでは、著述を生業とする者、否、一人の社会人として失格の烙印を押されても致し方ないといったところだろう。

閑話休題。唐沢俊一の人物像等、前置きが長くなってしまったが、そろそろ本題に入りたい。

そもそも唐沢がポストに添付した赤塚不二夫、児島美ゆき、そして唐沢にタモリ認定された人物が収まったスリーショットは、元々ネット上で出回っていた一枚である。

ただ、賢明なる読者諸兄には既にお気付き頂いていると思うが、この写真、実は反転したものである。

まず、センターの児島美ゆきが身に纏っているブラウスの襟合わせが逆になっていること。そして、本来ならば、左分けである赤塚不二夫の髪型が、この写真では右分けになっていることが、その根拠として挙げられるが、これは唐沢にタモリと誤認識されている人物が眼帯メイクを左目側に描かれていることから、写真を流布した人物が意図的に反転したものと思われる。

何故なら、タモリがアイパッチをしているのは、右目の方であり、これは、リアリティーを持たす為に造られたあくまでフェイク写真であるのだ。

以前、筆者が児島美ゆきに直接お会いした折、この写真をお見せしたところ、「(赤塚)不二夫ちゃんと私は正解だけど、こちらの方はタモさんじゃないわよ」と答えて下さったことがあった。


その後私が、ならば、このアイパッチをしたタモリ風の人物はどなたなのか伺ったところで、如何せん、四十数年も時を経た遠い過去の話。当然ながら、なかなか思い出せず、辛うじて、当時、赤塚と頻繁に行動を共にしていた昵懇の人物であり、児島自身、幾度か顔を合わせたことがあったと語る程度に留まった。

私にとって気の置けない親友であり、赤塚不二夫ディレッタントとしても名高い才賀涼太郎(ブログ「赤塚不二夫保存会」主宰)も、X上で児島本人に訊ねたところ、同様の答えを頂戴している。

因みに、この後、児島本人がX上で、改めて撮られた一枚なのだろう。児島が赤塚の鼻の下にマジックインキでバカボンのパパ風の髭を描いている写真をアップしていた。

この時の赤塚と児島のファッションが、件のスリーショット時と同一のラガーシャツとブラウスであったことからも、写真中央の人物が児島であることがわかるし、もしかしたら、唐沢にタモリと間違えられた件の人物のアイパッチも児島によって描かれたものかも知れない。

では、このアイパッチメイクの偽タモリ氏は、一体何者なのか。愈々本題に入るとしよう。

手前味噌で恐縮だが、我が邸宅には、単行本や付録、未収録作品掲載誌やカバーフィーチャーされた雑誌等、凡そ数千冊に及ぶ赤塚不二夫関連の書籍か埋まった本棚のほか、貴重な赤塚グッズや赤塚フィギュアで埋め尽くされた通称「赤塚部屋」がある。

誰もその足跡を振り返えらない、それも愚民どもに愚弄される存在にまで成り下がった赤塚不二夫
を不憫に思い、三〇年ほど前からコツコツ集めていた、筆者にとっては国宝級のお宝というべき秘宝の数々である。

これだけの資料があれば、件の偽タモリ氏の正体に近付けるのではないか。そう結論に達した筆者
は半日掛け、赤塚部屋の資料と久方ぶりに向き合ってみた。

そこで一枚の写真を見付けた。

「週刊少年サンデー」(68年9号)の特別企画として掲載された「赤塚不二夫寄席」所収の写真である。

このページ中で、赤塚不二夫の交遊録を特集したコーナーに、藤子不二雄、石森章太郎、つのだじろう、鈴木伸一、園山俊二といったトキワ荘時代からの盟友やフジオ・プロの面々、「まんが海賊クイズ」での共演で親交を深めた漫画家の森田拳次や黒柳徹子、人気絶頂のコメディアン、ドンキー・カルテットの小野ヤスシといった人気タレントと並んで、全く無名な「弘岡隆」なる人物が、その一角として取り上げられている。

この弘岡隆なる人物は、『おそ松くん』の特大ヒットで急激に成金となった赤塚不二夫に何台もベンツも売り込んだ(株)「ヤナセ」のやり手セールスマンで、赤塚とは意気投合した関係から、ヤナセを退職し、後にフジオ・プロ経理部に在籍するようになった変わり種だ。

同時期に、『オバケのQ太郎』『パーマン』『怪物くん』『忍者ハットリくん』等のスマッシュ・ヒットで、赤塚と並ぶギャグ漫画の第一人者となった藤子不二雄コンビが、ベンツのセールスマンから「ベンツなんて、藤子先生クラスの売れっ子になれば、所詮は下駄代わりの買い物ですよ。免許がなければ、私が運転手を用立て致しますから」と勧められたといったエピソードを、以前、筆者は藤子A本人から伺ったことがあるが、このセールスマンこそ、藤子、赤塚と同じく西新宿「市川ビル」で軒を構えていた関係を勘案するに、弘岡隆であることに疑いの余地はないだろう。 

この弘岡隆は、後に赤塚がオーナーを務めることになるレーシング・チーム「ZENY」の主要メンバーになり、その界隈で有名だった、今でいう半グレ集団「新宿紀伊國屋二期星」の残党と同様に積極果敢に鈴鹿のレース等に関わっていた。

以前、別のエントリーで詳しく論述したが、この「紀伊國屋二期星」には、第八方面交通機動隊中隊長を実父に持ち、今尚「府中・三億円強奪事件」の真犯人ではないかと囁かれているS・A少年も、副リーダー格として関わっていたグループだ。

このS・A少年と赤塚は顔見知りの存在だった。

にも拘わらず、赤塚は弘岡に対して「私が三億円事件の犯人ですって、自首しちゃいなよ」と頻繁に軽口を叩いていたという。

つまり、そのくらい、弘岡と例の有名なモンタージュ写真はそっくりだったのだ。

実際、赤塚は、自身の連載漫画『母ちゃんNo.1』の最終話(「母ちゃんの会社がパーになった」/「週刊少年サンデー」77年12号掲載)なるエピソードで、お世話になった主人公・山田フキ子の窮地を救う従業員が、実は三億円強奪犯人だったというシチュエーションで、弘岡を楽屋ネタ的に登場させている。

弘岡は、フジオ・プロの経理部に在籍した後、1974年、古谷三敏、芳谷圭児が独立し、「ファミリー企画」を設立した際、古谷らに付いて移籍することになるが、それでも、その後、赤塚とは
付かず離れずの関係を続けていたと見え、79年当時、赤塚が主催する酒席に顔を出していたのは想像に難くない。

実際、弘岡の顔写真とこのアイパッチメイクを施した件の偽タモリを比較してみた結果、この時より遡ること九年前の写真とはいえ、右眉の形、頬から顎に掛けてのライン、鼻筋から小鼻の張り具合に至るまで、同一人物に思えてならないのだ。

ただこれも、あくまで私個人の見解であって、読者諸兄はどのような感想を持たれたであろうか?

今回、この一件において、SNSを媒体にデマそのものが恐るべきスピードで拡散して行く事象を、好サンプルとして再認識した。

実際、私のそれよりも圧倒的な偏りを指し示したリツイート数が物語るように、唐沢の虚伝を鵜呑みにし、件の偽タモリがタモリ本人であると信じて疑わないユーザーが大半であろう。

タモリと言えば、ビートたけし、明石家さんまと並び、半世紀近くに渡って活躍してきた国民的人気タレント。我々にとって、ある意味親族に近い存在だ。

それなのに、実に嘆かわしい。

まさに、ネットリテラシーの欠如、ここに極まれりである。

また、今回、私の引用リポストがバズったのも、話題の中心があくまでタモリだからであって、もし赤塚単体のものであれば、これほどまでの反響はなかったであろうし、ヤフー・ニュース等でも取り上げられるといった展開を得られなかったことも、本稿の締め括りに代えて指摘しておく。