文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

天知る地知る読者知る① 『トキワ荘の遺伝子』に見る北見けんいちによる風説の流布

2024-05-12 23:27:13 | 論考

今年(2024年)の2月29日、小学館から『トキワ荘の遺伝子 〜北見けんいちが語る巨匠たちの横顔〜 』なる著作が刊行された。

奥付には、「2024年3月5日 初版第一刷発行」とある。

元フジオ・プロのアシスタントであり、やまさき十三原作の『釣りバカ日誌』に作画を務めている北見けんいちがこれまで交流を持った巨匠漫画家達の素顔について触れるという内容で、聞き書きを文筆家の小田豊二が担当している。

45年生まれの小田もまた、旧満州国のハルピン市の出身であり、北見同様、所謂「引き揚げ組」だ。

そうした出自からも、北見と親しくなった小田に、インタビュアとしての白羽の矢が立ったのは想像に難くない。

企画は、元「ビッグコミックオリジナル」の編集者で、浦沢直樹作品のブレーンや原作を多数務めたほか、現在は作家としても活躍目覚ましい長崎尚志によるもので、長崎はかつて『「大先生」を読む。』で赤塚番を担当したこともある。

トキワ荘グループをはじめ、戦後漫画史を牽引し、漫画の黄金時代を築いた大漫画家が次々と鬼籍に入ってゆく状況の中、そんな巨匠達の素顔を知る北見の証言を記録に遺したいという長崎の想いは、一漫画マニアとしては理解出来ようが、本書の刊行がアナウンスされた時、「北見けんいちが語る巨匠たちの横顔」なるサブタイトルに触れ、個人的に悪い予感しかしなかったのも事実だ。

実際、その不安は杞憂に終わることなく、やはりというか見事に的中していた。

これまで北見は、インタビュー等で赤塚不二夫との想い出を回顧した際、曖昧な記憶と憶測で語っていることが多く、またその時々に応じて発言内容が大きく違っていたり、場合によっては、言葉足らずから、赤塚の偉業を矮小化してやまない風説も多々見受けられていたからだ。

具体的な例を挙げれば、フジオ・プロの分業システムについての質問から、赤塚の執筆領域について触れた際、「先生はラフに丸とか三角を描いて、高井さんが鉛筆でキャラクターの線を入れていく。で、その次が僕らがなぞって、次に背景とかベタっていう流れ作業だよね。」(『赤塚不二夫マンガ大全「ぜんぶ伝説のマンガなのだ!!」/宝島社、11年』)と語っているのに対し、23年刊行の『まんが 赤塚不二夫伝 ギャグほどすてきな商売はない!!』(光文社)では、赤塚の筆による密度の濃い下絵の実物(『赤塚不二夫の中国故事つけ漫画』/集英社、83年)を現フジオ・プロスタッフから見せられ、「おれが手伝ってたキングの『おそ松くん』(1972〜73年)とか文春の『ギャグゲリラ』(1972〜82年)なんかも、赤塚先生、このくらい克明に下絵を入れてくれてたよ! 高井研一郎さんがいた頃(1969年2月頃まで)は、もっとラフな感じだったね。」(原文ママ)と証言している。

妄言極まる北見の赤塚に対する証言は、これ以外にも枚挙に暇がないが、今回は、タイトルにもあるように『トキワ荘の遺伝子』に限り、その錯誤誤記を逐一訂正してゆきたい。

事実、赤塚以外の巨匠についても、誤謬を湛えた発言が多々あるが、当ブログは、あくまでも赤塚不二夫に特化したブログであるため、今回は赤塚に関する不備な記述のみを勘校するに留めることにした。

赤塚以外の巨匠漫画家についての記述は、それぞれの作家のディレッタント諸氏に叱正を乞いたい。

まず、北見は、赤塚不二夫を語る上で、赤塚がブレイクにするに至ったその原点に、赤塚、古谷三敏、高井研一郎の三角錐があったことを語っている。

その見解に対し、筆者も異論はない。

まだ、フジオ・プロ設立前、新宿区西大久保を仕事場としていた時のことだ。(この辺りは、本橋信宏著『60年代、郷愁の東京』(主婦と生活社、10年)に詳しい。)

ギャグの赤塚、教養と蘊蓄の古谷、キャラクターメイクの天才・高井。まさに完全な三角錐だったと北見は語る。

「『おそ松くん』のなかで高井さんが描いたキャラクター?

えーとねぇ、赤塚先生が描いたのは、一松、チョロ松、カラ松、トド松、十四松、それにおそ松だろ。あとはお父さんとお母さん、おそ松の憧れのトト子ちゃんも先生が描いていたよね。 〜中略〜 チビ太は、先生だと思うけどな。そうかな高井さん? 先生の本にそう書いてある? じゃ、高井さんかも?」

これは、聞き書きの小田豊二のミスリードである。

正確には、『バカボン線友録 赤塚不二夫の戦後漫画50年史』(学習研究社、95年)で、赤塚の口実筆記を担当した編集プロダクション「メモリーバンク」代表の綿引勝美の筆記ミスで、これにより、チビ太=高井デザイン説が一気に広まったのだ。

チビ太は元々、『おそ松くん』以前に執筆していた『ナマちゃん』(「漫画王」「小学生画報」「まんが王」、58年〜62年)に登場する乾物屋の小倅・カン太郎と『キツツキ貫太』(「週刊少年マガジン」、61年)の主人公・貫太とをフュージョンさせて誕生したキャラクターである。

尚、イヤミ、デカパン、ハタ坊をデザインした高井を北見はキャラ作りの天才と称賛するものの、そんな高井でも、原作がないと、漫画は描けない。

逆にストーリーを描ける人は、キャラが描けない。

高井と赤塚を対比し、両方描ける人は少ないと居丈高に語っているが、北見もまた、『釣りバカ日誌』『愛しのチィパッパ』『サッチモ』(いずれも原作はやまさき十三)等、原作がなければ、ほぼほぼ漫画が描けない漫画家の一人である。

キャラクター作りについて、北見は相当な事実誤認をしている。

「『天才バカボン』の「ウナギイヌ」は、古谷さん自ら「俺が描いた」って言ってたなあ。」

これは古谷三敏が10年に上梓した『ボクの手塚治虫せんせい』(双葉社)に記されていた記述だが、これは古谷による記憶違いか、編集者による筆記ミスのいずれかであろう。

後に古谷は、ウナギイヌをフィーチャーしたDVDマガジン『昭和カルチャーズ「元祖天才バカボン」feat・ウナギイヌ』(角川SSCムック、16年)において、次のように訂正している。


「「今日の漫画が掲載される頃はちょうど土用の丑の日だね」なんて話をして、じゃあウナギをテーマになにか考えようという話になり、いつものように寝起きでまだ目が覚めていなかった僕はベランダでタバコを吸いながらボーッとしていた。そうしたら目の前をイヌがダーッと走り去ったんです。そこでピンときてウナギにイヌを掛けたら面白いんじゃないかと思いついたら先生が「それはイケる!」となって、ああでもないこうでもないと二人で絵を描き始めて、最終的に先生が描き上げたのがウナギイヌだったんですよ。」

長谷邦夫や『バカボン』担当の赤塚番記者だった五十嵐隆夫の証言とはディテールが若干異なるが、赤塚がウナギイヌを創り上げたという話は、両名とも一致している

また、レレレのおじさんについて、北見はこう述べている。

「あれは、先生じゃないかな。俺は、そのキャラは、手塚治虫さんの流れを汲んでると思うよ。」

レレレのおじさんは、手塚治虫をルーツとしたキャラクターではなく、『ドロンちび丸』や『猿飛佐助』で有名な杉浦茂をオマージュしたものだ。

また、レレレのおじさんは、第一期連載(「週刊少年マガジン」、67年15号〜69年9号)の『天才バカボン』で、幾度となくそのプロトタイプが登場し、試行錯誤の末、生まれたキャラクターだ

そして、厳密に言えば、「川でトリを釣るのだ」(「週刊少年マガジン」、67年27号)、「ハリとカモイがシキイなのだ」(「週刊少年マガジン」、67年42号)、「キョーレツな香水なのだ」(「週刊少年マガジン」、67年43号)に登場した三つのキャラクターを、チビ太同様にフュージョンさせ、「免許証なんて知ってたまるか」(「週刊少年マガジン」、67年48号)で、現在のスタイルとなって初登板したのだ。

この時、高井が三つのプロトタイプを創案し、赤塚が描きやすいようにリライトを施し、完成させたというのが真相である。

ニャロメ、ケムンパス、べしについてはこう語っている。

「え、「ニャロメ」? あれは高井さんじゃないよ。たしか、タイガー立石さん。 〜中略〜  先生がなんか、「二本足で歩き、言葉を話す変なネコ」のキャラを頼んだんじゃないかな。「ニャロメ」って名づけたのも彼だって話だよ。」

「「べし」とか「ケムンパス」とか。あれもアイデアは先生で、具体的に絵にしたのは、高井さんでしょう、たぶん。」

あやふやな記憶を辿りながら、「たしか」や「たぶん」といった推測の副詞を用いて保険を打っている点は、姑息な印象を拭えず、些か気分が悪いが、ケムンパスもべしも、高井がフジオ・プロを退社した後にそのプロトタイプが登場したキャラクターだ。

因みに、ケムンパスの初登場は、「ココロのボスにラブレター」(「週刊少年サンデー」69年15号)、べしのそれは、「ニャンゲンにニャリたい」(「週刊少年サンデー」69年40号)である。

高井は、早くとも68年の秋頃、遅くともフジオ・プロが西新宿の市川ビルから代々木の村田ビルに移る前の69年の年明けには、独立している。

つまり、退社した高井が、ケムンパスとべしをキャラクターメイクするためだけに、その後フジオ・プロを訪れたとは考え難い。

事実、高井はケムンパスとべしに関して次のように延べている。

「その後のケムンパスとかべしあたりになると、(あだち)勉ちゃんがやってくれたんじゃないかな。」

つまり、ケムンパスとべしも高井の退社以降に生まれたキャラクターであるため、高井もその詳細は知らないのだ。

因みに、あだち勉のフジオ・プロ入社は、71年であるので、ケムンパス、べしが登場した『もーれつア太郎』の連載が終了した一年後のことである。

また、ニャロメは元々は、『天才バカボン』に登場する夜のイヌの類縁性を示したネコであり、『もーれつア太郎』の担当編集者だった武居俊樹によれば、ドラマが一段落した際の句読点として頻出させていたリアルタッチの月の夜景に、赤塚が好んで描き加えていた尖った耳と大きな目が特徴的なマスコットキャラであった。

ここで北見が語っているタイガー立石とは、1970年代より、オリベッティ社傘下のエットレ・ソットサスのデザイン研究所を拠点に、デザイナー、前衛アーティストとして世界を股に掛けて活躍することとなる立石鉱一その人である。

立石は、赤塚も『いじわる教授』(65年7月号〜12月号)、『スリラー教授』(66年1月号〜3月号、67年4月号〜6月号、9月号)、『おそ松くん』(66年4月号〜7月号、10月号〜12月号)等、かつてレギュラー執筆していた「ボーイズライフ」誌上にて、ユーモアページを担当し、そこにアメリカンコミックにインスパイアされたと思われる小洒落たサイレントギャグを多数執筆していた。

そんな立石が描くキャラクター達が激昂した際、「コンニャロメ!!」「キショウメ゙!!」といった奇抜な言い回しをしており、その影響を受けた赤塚が件のマスコットキャラであるネコに一言「ニャロメ」と鳴かせ、ここにニャロメのキャラクターの原型が形作られることになったのだ。

北見は、ニャロメがバカボンのパパと同様に赤塚ワールドの象徴にして、ポリティカルの季節のアナロジーを体現したキャラクターに成長したことに対し、「いまだったら、「あのキャラは俺が描いた」と権利を主張する人も多いだろうけど、あの当時はそんなこと、誰も言わなかったし、いい時代だったよね。」と、嫌味を言っているが、ニャロメというネーミングはともかく、そのキャラクター自体は、赤塚が生み出したものだから、第三者が権利を主張すること自体、頓珍漢な話なのだ。

漫画家・赤塚不二夫の最大の功績の一つに『おそ松くん』に登場するキザで出っ歯の鼻持ちならないキャラクター・イヤミが発する「シェーッ!!」の奇声がボディーアクションとともに、全国的な流行語となったことが上げられる。

北見は「シェーッ!!」誕生についてこう語っている。

「あのポーズはね、お花見から生まれたんだってね。先生から聞いたことがあるよ。え、新説? いやホントだよ。俺、その時、参加してないんだけど、ある時、みんなで新宿御苑に花見に行ったんだって。

ただ、桜の下で酒を飲んでいるだけじゃつまらないから、サイコロを使った「チンチロリン」っていうゲームがあってさ、それをやって負けたヤツが罰ゲームとして、なんかおもしろいポーズをとらなくちゃいけないというルールにしたんだって。赤塚先生なら考えそうなことだよね。

誰だったか聞き忘れたけど、高井さんか、古谷さんか、松山(名和註・しげる)さんか、負けたんで、両手を逆に伸ばして、片足曲げて、あの「シェー」のポーズをしたんだそうだよ。声は「シェー!」じゃなかったって言ってたけど。「ヒョエー!」とか言ったんじゃないの。

みんなひっくり返って笑ったんだけど、それを見た全然関係のない花見のグループの客が輪の中に入ってきて、「あんまりおもしろいから、俺たちも仲間に入れてくれ」って、大盛り上がりだったんだって。それで、あの「シェー!」のポーズが生まれたって、聞いたよ。」

これも完全に北見の記憶違いで、真相は下記の通りである。

「仕事が一段落したある日、みんなでめずらしく散歩などとしゃれこんで、新宿御苑へ出かけたものでした。

そこで、誰が言い出したのか、ジャンケンでまけた者が『シェー』をやろうといいだしたものです。みんなで御苑の芝生の上で車座になり、ジャンケンをして負けたものがまんなかに進みでて『シェー』をやるのです。

まわりの人は遠くから、なにを変なことをやっているか……。不思議そうな顔をして見ていましたが、中から一人こちらへやってきて『おもしろそうだから仲間に入れてくれ』としばらく遊んですごしました。

そのとき、その当人は『シェー』の何であるかも知らずやっていましたが、あとになってマスコミでさわがれ、その実体を知ったとき、おそらく『おれはまっ先にシェーをやった』と手をうったことだろうと、今でもこのことが私たちの仲間の語り草になっています。」(『おそ松くん全集』第11巻、巻頭エッセイ「『シェー』のこと/曙出版、68年)

この北見の証言は、「新説」でもなければ、「真実」でもないことを声を大にして伝えたい。

フジオ・プロのルーツについても、北見は大きな勘違いをしている

「一回、先生の自宅(名和註・西大久保の第三さつき荘)からすぐ近くに、仕事場だけが移ったんだよ。 〜中略〜 「永光荘」って言ったかな。六畳一間。竹中健治さんというアシスタントも増えて、先生入れて六人。これが「フジオ・プロ」のはじまりだね。」

実際は、赤塚も参加していた石ノ森章太郎主宰の「東日本漫画研究会」が、新党員を中心とした人間関係のトラブルが発生し、自然消滅したことにより、その灯を絶やしたくないという想いから、62年頃、当時、『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』の連載開始により、既に人気漫画家に仲間入りを果たしていた赤塚を中心に、長谷邦夫、横山孝雄、高井研一郎、よこたとくお、山内ジョージといったその残党と、この時、赤塚の最初の妻であった稲生登茂子らによって結成された「まんが七福神・プロダクション」が母体となっている。

この頃は、忙しくなりつつあった赤塚の執筆をサポートする赤塚主体のプロダクションというよりも、それぞれ独立した漫画家達が、お互いを刺激し合いながら、新しい漫画を創造してゆこうという高邁な理念のもとに組織された、謂わば「新漫画党」のスタイルや規模を矮小化したファクトリーであったが、参加した面々を見ても、これがフジオ・プロのルーツであったことに論を俟つまでもないだろう。

ただ、ここで北見が語った「永光荘」については、筆者も初耳であり、今となっては、そのアパートも取り壊されているであろうが、近々新宿区内の図書館に赴き、当時の住宅地図を調べて確認を取るつもりだ。

尚、まんが七福神・プロは、神田に構えた事務所が安普請で、南京虫の巣窟と化した衛生上の問題もあり、その活動は不活発のまま、ピリオドを打つこととなった。

赤塚、古谷、高井が三角錐と語っていた北見だが、フジオ・プロの分業制、また執筆量ついても、大きな記憶違いをしている。

「すごい時は、週刊誌の連載が二本、月刊誌の連載が十本、その他読み切りが十五本ぐらいあったもの。もちろん、先生ひとりじゃ描けないから、先生はストーリーとコマ割り、絵は古谷さんが描いたり、高井さんが描いたり、三人と担当編集者でアイデアを考え、三人で描いたって感じだね。」

まだ、高井がフジオ・プロに在籍していた頃、週刊誌に関しては、「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」「少女フレンド」の三誌連載が通常の仕事量であり、赤塚のキャリアにおいて、週刊誌の同時連載の最高記録は、1974年から75年に掛けての「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」「週刊少年キング」「週刊少年チャンピオン」「週刊文春」の五誌である。

分業制についても、この時北見は、アイデア会議には呼ばれていなかったので、不明瞭なのかも知れないが、高井はアイデアブレーンは一切務めていない。

あくまで作画スタッフとして、赤塚をサポートしていただけだ。

アイデアのブレーンストーミングをしていたのは、赤塚、古谷、担当編集者の三名に長谷邦夫を加えた四名である。

古谷は、アイデアに関しては、赤塚と古谷、担当編集者の間でディスカッションを交わし、長谷は基本的に書記の係りだったと反芻するが、長谷もアイデアマンとして機能を果たしていた筈であると、筆者個人としては踏んでいる。

また、赤塚の作業範囲についても、ストーリーの作成とコマ割りだけではなく、当たりというラフな下絵をこの時入れており、この当たりこそが赤塚マンガの作風を決定する重要なキーとなっていることは言うまでもない。

事実、赤塚が当たりを入れなければ、赤塚マンガであって赤塚マンガてはない、古谷、高井の癖を湛えた似て非なる代物になってしまうことは必至で、この発言も、北見による毎度お馴染みの言葉足らずか、聞き書きを務めた小田豊二の不確かな筆致が災いしての結果なのか、知る由もないが、このような思慮の浅い記述こそが、連綿と続く赤塚矮小化をより一層深める要因となるのだ。

赤塚不二夫史におけて、ターニングポイントとなったタモリとの邂逅についても、北見は「先生、芸能プロも作ったけど、タモリ氏を入れなかった。田辺エージェンシーの方が、きっとタモリ氏の才能を活生かしてくれるって思ったからだと思う。」と述べているが、赤塚が主宰していた芸能プロとは、音楽プロダクション「フジビデオ・エンタープライズ」を指しているの明白で、共同経営者の井尻新一とのビジョンの相違や、漫画家として多忙な赤塚が経営に携わることが物理的に不可能であったなどの諸事情から、1970年代に入る頃には経営から撤退していた。

タモリが「田辺エージェンシー」へ所属することになった経緯を説明すれば、元々タモリは、赤塚同様タモリの世話人であった山下洋輔とスナック「ジャックと豆の木」のママであったA子女史がその窓口として設立した「オフィス・ゴスミダ」の第一号タレントであった。 

だが、タモリ出演によるとある学園祭での金銭トラブルから「オフィス・ゴスミダ」は解散を余儀なくされる。

そんな中、放送作家の高平哲郎や田辺エージェンシー所属タレントの堺正章との繋がりが生まれ、その縁から、その後、新たな窓口として移籍した高平主宰の編集プロダクション「アイランズ」を経て、田辺エージェンシー所属となったというのが真相である。

今回、赤塚不二夫関連のみ、錯誤誤記を指摘してみたものの、それだけでもこれだけの多くの誤りがあり、本書が如何に杜撰且つ不誠実な編纂の上で成り立ったものか、当記事を通読された御仁には、お解り頂けたと思う。

聞き書きの小田豊二も、赤塚に対しては勿論、漫画全般に興味のない門外漢であることは明らかで、曖昧な北見の記憶を補足するかのように、ウィキペディア等のネット情報から孫引きした記述さえ目に付く有り様だ。

まさに、手塚治虫が言うところの「天知る、地知る、読者知る」を体現した存在だ。

北見けんいち、小田豊二という二人の老害による近年稀に見るこの駄本は、戦後漫画史におけるミッシングリンクを解き明かすという本来の目的とは、程遠い結果となってしまった。

しかしながら、フジオ・プロの元アシスタント出身であり、映画化までされ、大ヒットとなった『釣りバカ日誌』の作画を務めているという北見のバリューから、この駄本に記されていることが全て真実として認識され、そう遠くないいつか、赤塚不二夫史に上書きされてゆくことだろう。

今や、長谷邦夫こそが全ての赤塚作品を代筆したという誤謬が当たり前の事実として罷り通っているように……。

北見、小田の両名には、己の発言の影響力の強さ、そして風説を流布することで、一つの戦後文化史に如何程の形骸化を齎すか、今一度考えて頂きたい。

こうした八方塞がりの状況において、今後も、赤塚不二夫とその作品群が文化遺産として語り継がれて行くことなど最早ないと、常々諦観を抱いている筆者であるが、このような万死に値する低レベルの駄本が二度と刊行されないことを、赤塚不二夫ディレッタントとして、また一人のアーキビストとしてただただ祈念するばかりである。

追記

今回、『トキワ荘の遺伝子』について、忌憚のない見解を述べてきたが、唯一、個人的に膝を打った北見の証言がある。

「ケンカ? 俺、一回派手な殴り合いをしたことあるよ。相手は、当時、フジオ・プロのマネージャーだった横山孝雄さん。 〜中略〜  助手席に横山さんを乗せてさ、原稿用紙にする紙を神田の神保町に買いに行ったんだよ。全紙をロールで買うからさ、車じゃないと運べないから。

で、紙を買いました。その帰りさ、助手席の横山さんがうるさいんだよ。まっすぐ行けばいいのに、「次の信号、右曲がって」とかいちいち言うんだよ。こっちはさ、両親とも江戸っ子だしさ、俺も生まれこそ満州だけど、引き揚げてからずっと東京だろ。だから、俺の方が道は詳しいわけ。

最初は遠慮して、「まっすぐ行った方が早いですよ」とか答えていたんだけど、「黙って俺の言う通りに運転すればいいんだ」みたいな偉そうな命令するようになったからさ、俺もカッとなって、車を止めて、横山さんに「ここで降りろ」って降ろしちゃった。

そしたら、横山さん、仕事場に戻ってきて、怒った。怒った。「北見、表に出ろ!」って言うわけだよ。ハハハ。「おもしれぇじゃねぇか」って外に出てさ、本気でボコボコにしてやったよ。俺、身体はチビだけどさ、ケンカは強いんだよ。子供の時、転校五回もしただろ。そのたびにケンカしてたからさ。だって、負けて帰ってくると、母親が家に入れてくれないから。

それ以来、「北見ちゃんって、ケンカが強いんだって?」ってみんなに言われるようになってさ。」

若き日の北見のこの武勇伝は、メディアでは初めて語られたものと思われるが、北見の漫画家仲間の間では、よく知られたエピソードで、筆者が2011年に社会評論社より『赤塚不二夫大先生を読む「本気ぶざけ」的解釈 Book1』を上梓した際、赤塚不二夫の人となりや、ご自身のギャグ漫画観について語って頂くべく、藤子不二雄A、森田拳次の両御大にインタビューを敢行したことがあったが、その際、両氏から北見のケンカの強さについて伺ったことがあった。

特に森田拳次からは、北見のケンカの強さは、学生時代のボクシング経験の賜物ではないかとも伺った。

ただ、北見は語っていないが、この北見と横山の大喧嘩に対し、赤塚は怒髪天を突く勢いで、二人にブチ切れたという。

その理由は、仲間同士が殴り合いをするなんて以ての外だと怒ったのだと思いきや、赤塚が放った一言はこうだった。

「どうして、どっちかが死ぬまで、殴り合わないんだ!」

森田拳次曰く「こんな発言、赤塚さんをよく知らない人間が聞けば、何たる非常識だと、ドン引きされるかも知れないけど、何よりも強烈なギャグを産み出そうとするなら、赤塚さん自身、常に自分を非日常に持って行かなければならないという強迫観念に駆られていたんだと思う。ホント、ギャグの殉教者だよね。」

そう語っていたのが忘れられない。