皆さんこんにちは。昨日は更新出来ずに申し訳ございませんでした。昨日は東日本大震災が発生した前日という事もあり少し更新する事にためらいがあり、更新するのは止めて明日更新しようと思ったのです。楽しみにして頂いてお待ちしていただいた皆様には申し訳ない気持ちです。そして今回のブログは東日本大震災の日の私のお話を書くので、もしもこれを見て当時の辛い気持ちを思い出してしまったり不快な気持ちになってしまって見るのが辛いなと思った方は、ご無理をなさらず読まなくて大丈夫です。
本日は3月11日東日本大震災から10年の日です。私は当時小学校6年生でした。東日本大震災発生時刻の午後14時46分、私は丁度図工の時間でものづくりを皆でしていた頃でした。急に電気が消えて大きな左右に揺れる地震が来たのです。クラスメイト全員がパニックになり机の下に避難したものの、あまりの怖さに泣き出す子もいたし当時の私に関しては泣きながら過呼吸になりました。揺れが少し収まってから校庭に一斉に非難を開始し、恐怖で震える中各学年が校庭に集まり先生方の指示を待ちました。校庭はいつもの光景とは違い地面が割れている所やヒビが入っている所もあり、近づけないようなところもありました。先生方も集結し緊急会議を校庭でした後に私達生徒のケアをしてくれました。そして沢山の親達が子供をお迎えに来て各自の自宅に下校していたのですが、私は夕方になってもお迎えが無くて当時職場で働いていた母親に何かあったのではないかとか家に一人でいる祖母が何かあったのではないかと思い始めてしまい、学校から徒歩数分に家があり歩いて行ける距離だった私は家の事が不安になり担任の先生の隙を見て学校から帰ろうとしましたが他の先生に止められてしまい泣きながら家に帰らして欲しいと頼んでいました。担任の先生は「帰りたい気持ちも分かるけど今は皆の安全は勿論、状況の把握も大事だからお母さんがお迎えに来るまで一緒にまとう。」と言っていましたが小学生だった私は理解が追い付かず「おばあちゃんが家にいるの!しかも一人だから何かあったらどうするの!?」と泣き叫んでいたのを覚えています。それから夕方を先生方と残っているお迎え待ちの仲間と共に待ちましたが本当にお迎えが来る気配が無く、先生方も私の親の職場に何度も連絡を電話回線が繋がるまで取ってくれたりなどの対策をしてくれていました。残っている生徒たちも不安になりだして泣き出す子もいました。残っている子達にお茶が配られ寒くない様にしてくれました。お迎えを待つこと数時間後、母親が職場から車でお迎えに来たとの報告があり私は母親に抱き着いて号泣しました。母親は「お迎え遅くなってごめんね、怖かったね。もう大丈夫だからね。」といってくれて私を抱きしめてくれました。そして担任の確認も取れて先生達にさよならをして家に帰りました。
家に帰ると私の視界に最初に入ったのは私を見るなり安心しきった表情をした祖母の姿でした。私は急いで駆け寄ると祖母は「無事で良かった。怖かっただろ?」と言って優しく頭を撫でてくれました。ケガも無く無事でいてくれた祖母の姿を見て安心したのか涙を流した私。でも私にはまだ安心出来ない要素がありました。それは東日本大震災発生当時、父親は仕事の都合上海外で仕事をしていたのですが地震の影響で電話も中々繋がらなかったので父親の事も不安でした。すると近くの駐在さんが家に来てくれてどうやら父親と連絡が出来たらしく、私たち家族のことを心配していたし日本が大丈夫か等の連絡があり全員無事だと言ってくれたとの事を報告しに来てくれたのです。これで家族の不安も解消され取り敢えず家族は大丈夫でした。そしてテレビをつけると東北地方の様子が映し出された時の私の思いも覚えていますが、このブログを見ている方の中には東北地方にお住まいの方もいると思うので控えさせていただきます。
東日本大震災発生から10年。日本はまだ苦しい状況や辛い状況にあります。仮設住宅で生活している方や心に傷を負って辛い思いをしている方も沢山いらっしゃいます。私も今このブログを書きながらとても辛い気持ちでもありますし、改めて東日本大震災発生から10年の節目である今日の日を忘れてはならないと強く思っています。それは10年20年30年40年・・・これから先の未来でも忘れてはならない日になると思いますし忘れてはならないですし、東日本大震災発生の事を知らない人達にも当時の事を伝えていくのが大切だと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。最後に復興に向けて頑張ってくださっている皆様に感謝の思いと早く復興できます様にという願いを込めて本日のブログは終わりにします。