Kの理論 「華麗なるブレイクアウト」 Breakout Magnificent.

脱走・・・ただ道は一つ。いつも道に一人。万人は来ない。脱線し続けるサイボーグ社会からの脱出。

ジャスト・ロード・ワン  No.22

2013-10-02 | 小説








 
      
                            






                     




    )  六の辻  Rikunotsuji


  ステッキを夢の浮橋址に打ちすえると、雨田博士は眼を遠く奈良の地へと静かに眼差した。
  花をみて闇へと向かう浮橋(きさらぎ)がある。
  余光あり夢の間を渡る浮橋(こもりく)がある
  あくがれて世に架ける浮橋(たらちね)がある。
「 そう感じれる人間の皮膚や体表とは一体何なのか?・・・・・ 」
  阿部丸彦はジロリと博士の顔色をみた。
  かって丸彦は随分フロイトをまめに引いたことがあるが、そのフロイトはヒトの精神や意識の奥ではたらくものを「イド(無意識)」などと呼んでいた。つまりこれは「エス」である。本能的なエスに対してこれをなんとかコントロールをする自己意識のことが「エゴ(自我)」で、エスの欲望(短期的な利益衝動)を制約し、ときにあきらめさせる機能をもっているとされる。
  そしてさらに「スーパーエゴ(超自我)」は、幼児からの発達心理の順でいえばエスや自我の芽生えよりずっとあとから形成されるもので、善悪の判断や禁忌力をもつ。いわば理性的で倫理的な自己である。
  博士の皮膚呼吸から感じれるものには、たしかに、いくつもの「多数の私」や「妙な自己」というものがある。これはきっと幼児の頃からさまざまな快感や不快、陶酔や安定感、拒否や包摂のフィーリングを培ってきたようだ。





「 すでに音羽六号は、岐阜、各務原(かがみはら)市上空を過ぎ恵那山へと差しかゝっている・・・・・ 」
  どうやら天敵にでも遭遇したのか、通常の進路を少し南へと修正し、南アルプスを越え、富士山を目印にした。高度三千メートル、やがて箱根、そのまゝ関東へと翔ける気なのか。
「 一乗寺の駒丸鳩舎を飛び発って、早一時間半・・・・・ほゞ順調なフライトだ・・・・・ 」
  その背には細い筒状のカーボン、黒いカプセルを載せている。
  この輸送物は皆子山(みなごやま)の花折断層から採掘した岩塩のサンプル、さらに陰陽寮博士が用いる方違(かたたがえ)の暗譜が納められている。カプセルは東京の雨田鳩舎に到着後、サンプル岩塩を理工学研究所に持ち込み元素分析が行われる予定だ。未だ日本の地層から岩塩の発見はない。二十五度目の査定を試みていた。
  方違とは方角の吉凶を占い、天一神(なかがみ)のいる方角を犯すことにならないよう適時に方向を整える陰陽道の施術。この暗譜によって音羽六号の安全な飛行ルートを確保することができた。
  そして音羽六号はこの暗譜に反射する能力を備える。そこで音羽六号は北アルプス越えから飛行ルートをやや南よりに切換えたようだ。六号の翼は六陽律に風を切る羽の仕掛けがある。
「 あの鳩の感情が丸彦には分かるのかい。そういうことは必ずしもフロイトの理論を知らなくとも、あの空を飛ぶ感じってきっと自意識なんだろうな、これって潜在意識なんだろうな、あんなにも空の上で人間のために欲情するなんて、これはきっと本能なんだろうななどと思ってしまうゼッ!。あの鳩はああやって完璧に洗脳されたんだね、きっと・・・・・ 」
  音羽六号の飛翔をながめながら、そう友猫の幸四郎が言ったことがあった。
「 そう言われてみると、たしかに、あの音羽六号の意識がはたして自分の心身の発達や転換の、いったいどのあたりから芽生えてきたのか、それとも一人でに途中で加速したのか、人間に委嘱されてきたものなのか、あるいは何かのきっかけで何か歪んでいたものが快感や熱意というものに変じていったものなのか、そのあたりが今一つ小生にも分からない・・・・・ 」
  うんちくのある幸四郎の眼力もなかなかのものだ。丸彦はそっと親友の姿が想われた。
「 せいぜい、精神の異常とか変化という告白や出来事は、感情の起伏で判断するしかないが、音羽六号の場合、つまりは彼の脳のなかの心的現象と結びつけるしかないと思われる。しかし、それではエスであれ自我であれ超自我であれ、「自分」の発生の起点や快不快の出どころがなかなか突きとめられない。そこで鳩の心の正体が脳だとしても、脳の中なんて容易に覗きこめるはずがない。ようするに「自分」のなかの自分という奴は、いつもいつも適当に扱われてきたわけだ。うむ~、何とも難解だ・・・・・ 」
  幸四郎は駒丸鳩舎の近くに住む生粋の京都猫である。よく二人で屋根の上から音羽六号の調教風景をながめながら、鳩の自意識について論じ合ったものだ。丸彦は音羽六号の飛翔を想いながら、ふと何とも雄弁な親友の面影が泛かんでいた。

                                  


「 つまりこれは、進行方向に天一神がいる。大将軍・金神・王相が遊行を行うからだ。例えばそのため、春分と、そこから15日単位の日(すなわち二十四節気)には。かって平安京のあちこちで貴族の大移動が見られた。そうして天一神のいる方角を犯さない方違の移動を平安貴族は行った。それと同じく現在の上空は、立春へと向かう二十四節気の気運が乱れやすい期間なのだ。その音羽六号は陰陽の「六(ろく)」を握り、陰六律と陽六律との音律を使い分ける・・・・・ 」
  関東では大将軍・金神・王相のいずれかが遊行を行っている。そう考えると音羽六号が予定進路をやや南へと修正したことが丸彦にも理解できる。しかし駿河湾沿いに平行して足柄山系を越える箱根関ルートは、隼など猛禽(もうきん)類の多発する危険地帯、音羽六号はその難関を越えようとしていた。鷹が気嫌う音は、偶数陰六呂(りくりょ)中の「陰八・林鐘(りんしょう)G」の呂音(りょいん)だ。
「 おそらく彼は無謀な鷹になど挑まない。富士山に差しゝかるころ、また方向を整えるのであろう 」
  地球上には人間が往来し交差する膨大な数量のターミナルポイントが存在する。そこには極小さな単位として「街角」というポイントがある。さらに少し視角を広げ山野や海浜まで含めると、単位は同じだが「山辺」「川辺」「海辺」などその数は莫大となる。そしてそれらはすでに陰陽を帯びてホール化されている。そこは京値(けいち)膨大な亡霊が飛び交っていた。
「 虎哉の後ろ影を見ていると、小生はふとそんな摂理のことを考えた。二人は奈良へと向かっている。みずからの意識でそうしているように見えるのだが、しかし二人に限らず人とは、その人なりに運命(さだめ)られたあこがれのポイントへと帰るのであろう。あるいはそれが虎哉の訪ねる(運命の、夢の浮橋)であるのかもしれない・・・・・ 」
  六道は陰陽のソリュ―ションである。束縛から解放される道であり常に人の出入り口が用意されて、死人もそこをくゞる。かって陰陽師はその処理を司った。
「 小生はこの地球上の全てのポイントへ瞬時に移動できる。そしてその瞬間移動システムがメイド・イン・ジャパンであることが丸彦の誇りだ。そしてその総合ソリューション・ターミナルが京都であることだ。古都・京のこれを六波羅(ろくはら)の辻という・・・・・ 」
  古代の日本人がこれを創り上げた。それは横軸で現在を瞬間移動する性能ばかりではない。縦軸で過去・未来へと自在に往来し、たとえば常闇(とこやみ)の国へも移動し、弥勒(みろくに)も到達は可能である。古い弔いの光景がにわかな色彩を加えられ、虎哉の眼に弔いがより鮮やかな蘇りの光景となって泛かんできた。徐々に香織の母子像が明るくなる。同時に、そこにまた阿部家の深い関わりと、山端集落との結びつきが泛かんできた。
「 音色のあかく出てくる・・・・・それが(ひなぶり)・・・・・!。そして雉は羽ばたく! 」
  この病症の「赤い色彩」が虎哉の眼を患わせているように、また同じく次は香織の胸を冒すことになる。虎哉は、赤児の文代を療養費の質(しち)として精算せねばならぬ清原茂女に絡む悲しい運命に晒された、たゞ寂しい娘にだけは香織をしたくなかった。
「 たしかに清原香織の出生は密やかである。虎哉も随分と繊細に気をすり減らしながら判断に迷っている。しかし繊細に配慮しようとすることはすでに虎哉が真相の大方を抱きしめているからだ。虎哉は茂女と古湯温泉までの関係を思い浮かべた。そうであれば清原茂女の動向からやがて眼を日本最古の書(記紀)へと向け、花雪の後方を追うことになる。そこにはもう一つ雉(きじ)の鳴女(なきめ)を弔う音羽の石塚がある。結果、それを虎哉が香織にどう語るかは、今少し待とう・・・・・。どうやら博士は夢の浮橋跡でずいぶん長居したようだ 」
  雨田虎哉と清原香織が泉涌寺バス停で降車し、参道にいる間、丸彦はその少し手前の六道の辻より二人の様子を窺いつつ、密かに尾行していたのだが、その丸彦を尾行する卦体(けたいな)影が現れた。そこで密かにその影の後方に回り込んだ。
                             
「 山城の「八瀬の庄」には大明神の社が座り、神々の存在を感じる鬼伝説のアララギの里があるという・・・・・ 」
  影はその入口を探している。丸彦にはそう語る二つの影の会話が聞こえてきた。しかしどうにも不可解なことは影者の足音にどこか懐かしい響きがある。その音は「 しす、すし、しす、すし、しす、すし、しす、すし、しす、すし 」と聞こえてきた。
「 八瀬の庄、そこで暮らす人々の営みの実体とは、未だ正に古(いにしえで)あり、その交感を描き遺すために、都を逃れた気随な旅人は、遠路はるばるそのアララギの里をひたすらとめざしていた。時代は太古の・・・・・大国小国国造(くにのみのやつこ)を定めたまい、また国々の堺、及び大県(おおあがた)、小県(おあがた)の県主(あがたぬし)を定めたまう時節の、そう申しても呼称すら未だあいまいに広狭三様としているではないか・・・・・ 」
  それは、ようやくヤマトに王権が胎動しようかとするころであった。



「 旅人の名を犬養部黒彦(いぬかいべのくろひこ)という・・・・・ 」
  犬養部とは、大化前代の品部の一つで、犬を飼養・使用することを「業」とし、その能力を持って中央政権に仕えた。
「 嫌な世だとお捨てになった世の中も、いまだ未練がおありだとは、これより厄介なことが増えねばよいが・・・・・。紙の浮橋なるモノが、まことあるのか・・・・・! 」
  と、いう小さな影が、山城をめざす犬養部黒彦の人影の中にピタリと溶けこんでいる。
  黒彦には悟られまいとして影となり、擦り音一つさせることなく主人に寄り添っていた。
  子飼いの黒丸である。黒彦が愛顧してきた妙手の守衛犬だ。奈良の倭(やまと)の都では「 今より以降国郡に長を立て、県邑に首を置かむ。即ち当国の幹了しき者を取りて、其の国郡の首長に任ぜよ 」という。そのような時代である。
  さらには「 国郡に造長を立て、県邑に稲置を置く 」「 則ち山河を隔(さかい)て国郡を分ち、阡陌(せんぱく)に随ひて、邑里を定む 」という(阡陌は南北・東西の道の意。道路の交差している所)。またこの時代とは、成務天皇13代で、応神(15代)仁徳(16代)や倭の五王よりも遡る4世紀のことで、すなわちこれが古墳時代の前期にあたる。
  黒彦の逃れた都とは、いわゆる初期ヤマト政権なのであった。この政権において、服属させた周辺の豪族を県主として把握し、その県主によって支配される領域を県(あがた)と呼んでいた。
  かってヤマト皇軍が北へと辿った道を、どうやら逆に南へと向かうようだ。
  当初大倭やまとを発った旅人の犬養部は、河内(かわち)へと出て、摂津(せっつ)から山背(やましろ)を廻りながら西海の道をひたすらと歩いた。そして筑前の伊都県から奥山へと分け入り、荒々しい阿蘇の山並みを渡りながら、熊県へと向かう山路を左に逸それた。そこはこれより諸県ともいえる境界である。迷いながらも玄武峠へとさしかゝっていた。




「 この峠の向こうにアララギの里があるという・・・・・ 」
  その地には天孫降臨の伝えがある。だがそれは出口、裏返せば黄泉の国へと通じる入口であった。入口の方は鬼八(おにはち)という剛力者が支配しているという。降臨の地とは、天岩戸(あまのいわと)の出口、天真名井(あまのまない)の入口、西国のアララギにはこの二口があった。
「 やはり我が犬がおらぬと、能(よき)ことは何一つ無い。こゝに黒丸がおればのう・・・・・。一体、夢の浮橋とはどこぞよ!。橋を渡り、そして雉(きじ)の鳴女(なきめ)を殺やれば、天寿を得るという・・・・・ 」
  倭では屯倉(みやけ)の守衛に番犬が用いられた。この番犬を飼養していたのが犬養氏なのだ。犬養部は犬を用いて屯倉の守衛をしていた人々である。黒彦もその一人なのであった。その黒彦が愛犬黒丸の影を見失ったのは、英彦山(ひこさん)から阿蘇山へと向かう険しい山岳を渡り歩くころである。
「 しかし、はぐれた黒丸ではないわ・・・・・ 」
  黒彦にそれが見えぬだけである。黒丸は途中から幽かな影の姿となって、この世からは消えたように見せかけていた。
  黒丸にはそうするだけの仔細がある。
「 まことに捨てがたいことが多い都でも、主人が、明け暮れ日の経つにつれて、思い悲しんでおられる様子が、じつにお気の毒であった。そのことが剰(あまり)にも悲しいので、別れ別れになりても、再び逢えることは必ず・・・・・ 」
  と、お思いになる場合でも必ずや有りやと思い、こうして姿を消している。
  しかしやはりこゝ一、二日の間、別々にお過ごしになった時でさえ、気がかりに思われ、これぞ不憫で主人が心細いばかりに思えたものよ。さてさて、主人は「 何年間と期限のある旅路でもなく再び逢えるまであてどもなく漂って行くのも、無常の世に、このまゝ別れ別れになってしまう旅立ちにでもなりはしまいか 」と、たいそう悲しく思われなさるのであろう。じゃが、しかしやがて「 こっそりと一緒にでは 」と、お思いになる時が必ずやくる。そうじゃ、ほどなくその時はくるのじゃ。しかしそのほどなくの間がいかにも気掛かりよのう。
「 未だ足腰の力衰えぬ主人ではあるが、このような心細いような山峡の雨風より他に訪れる人もないような所に、このようないじらしいご様子ではともかくも早々に浮橋を渡らねば 」
  このように心砕く黒丸は「 どんなにつらい旅路でも、ご一緒申し上げることができたら 」と、それとなくほのめかしてみたいのだが、こゝは主人の為、一つ堪えねばならない。黒彦はその気配さえ感じず、たゞ、黒丸とはぐれたことを恨めしそうに思っていた。
「 黒い影は、どうやら六道の辻から這いだしたようだ・・・・・! 」
  太古の二つの影が時空を超えて現代に顕れてきた。六道の辻は京都ばかりにあるのではない。ソリュ―ションさえ整えば諸国のいたる所に辻はできる。おそらく西街道のどこかで辻の扉が開いたのであろう。二つの影は「夢の浮橋」を探していた。
  それにしても夢と言えば、夢の浮橋という数奇な運命をたどった水石すいせきがある。
「 どうもあの足音が気になる・・・・・! 」
  阿部丸彦は一度、六道の辻に引き返すことにした。
  京都東山区松原通り沿いに大椿山(だいちんざん)はある。六道珍皇寺(ろくどうちんこうじ)、山号を大椿山という。この付近が京都奇怪伝説に名高い六道の辻である。
「 こゝは平安京の火葬地であった鳥部山(とりべやま)、(とりのべ・鳥辺野)の入口にあたり現世と他界の境にあたる。この坂井から冥府へと入る。現在の地図でなぞると、五条通(現在の松原通)沿いの六道珍皇寺門前やその西方の西福寺付近となる・・・・・ 」
  藤原道長は、日記『御堂関白記』寛弘元年(1004年)の三月十二日の条に「珎光寺」と記している。これは珍皇寺を指すとみなされる。また近世の地誌類には「珍篁寺」と書かれることもあり寺号は本来「ちんのうじ」ではなく「ちんこうじ」と読まれていた。
  さらにこの珍皇寺には念仏寺、愛宕寺(おたぎでら)などの別称もあり、『伊呂波字類抄』『山城名跡巡行志』は珍皇寺の別名を愛宕寺とするが、愛宕寺が珍皇寺と念仏寺に分かれたともいう。東山区松原通大和大路東入る弓矢町(現珍皇寺の西方)には念仏寺という寺があったが大正年間に右京区嵯峨鳥居本に移転した。



「 すでに迷宮のごとく思われる。不可視の人間は、このように万事をかき混ぜるから困る・・・・・ 」
  六道珍皇寺は臨済宗建仁寺派の寺院で、本堂、閻魔堂、鐘楼があり、本尊は薬師如来、閻魔堂に弘法大師、小野篁(おののたかむら)、閻魔王(えんまおう)が祀られている。これなども妙にねじれた。しかもこの寺の創建については諸説あって不詳である。開基についても大安寺の僧・慶俊、空海、小野篁などとする説がある。かつてこの地に住した豪族鳥部氏の氏寺(鳥部寺、宝皇寺)がその前身ともいう。東寺百合文書の「山城国珍皇寺領坪付案」という文書(長保四年・1002年)には、珍皇寺は承和三年(836年)に山代淡海(やましろのおうみ)が創建したとあるが、地の豪族、これなどは比較的信憑性は高い。
「 さて、それら不詳は脇に置き、小生は境内にある古井戸をのぞき込んでみた。すると暗い井戸の底に(しす、すし、しす、すし、しす、すし)と、懐かしい呪文が渦巻き無量壽経(むりょうじゅきょう)の泡立つ音波を拾った。やはりあの影者の足音と同じではないか! 」
  小野篁が地獄と行き来したと言われている井戸で境内奥の右側にある。六道とは、仏家のいう地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六種の冥界をいい、死後、霊は必ずそのどこかに行くとされる。
「 六道の辻は、その分岐点で冥土への入口である。子子子子子子子子子子子子の、小野篁はこの井戸を出入り口とした。小野篁は、昼間は朝廷に仕え、毎夜、冥土に入り、閻魔庁第二冥官として大王のもとで死者に対する裁判に立ちあっていた。つまり彼は、弁護士でもあり検事でもあった・・・・・。彼の弁護によって藤原高藤、藤原相良など蘇生した。これなどまさしく六道の珍であろう・・・・・ 」
  それにしても子子子子子子子子子子子子は、丸彦には何とも快哉なリズムである。
  寝付かれぬ夜に丸彦はよくこの「 ねこのここねこ、ししのここじし 」の問題を引き出して唱えるが、いつしかうとうと眠くなる。問題を考え出したのは嵯峨天皇、「 猫の子子猫、獅子の子子獅子 」と解いたのは小野篁であった。その小野篁は小野小町の祖父これなどもまた六波羅(ろくはら)に因む珍である。この井戸の音に、主人秋一郎は陰陽寮博士の解釈をした。
  六波羅とは、北は建仁寺より南は五条通りまで、西は鴨川より東は東大路に至る東西700メートル、南北350メートルの地域をいう。もとは六原とかき、鳥辺野と同一地域をいゝ、その名の起こりは、霊の多く集まるところ。すなわち六の「ろく」は霊の古語であり、その「六」の字を当てた。これは六の訓「む」が墓地に関係ある語とされたからで、墓所(むしょ)がなまって六所となったごとく、霊の多く集まる原野ということから六原(ろくはら)の名が付いた。
  この六波羅から東に鳥辺野(とりべの)の葬送の地がひろがり、六波羅はその墓場への入り口でもあった。
  しかし平安のころ墓場だとはいっても墓石があるわけでなくほとんどは野ざらしの死体置き場で、京の人々にとってはまさにあの世への入り口で、まことに六(ろく)な処ところであったのだ。ちなみに六道への出入りには二口がある。井戸から冥土へ通っていた小野篁の帰り口は上嵯峨の大覚寺前の六道町あたり、六波羅の「死の六道」に対しこちらを「生の六道」という。
「 つまり死の道は(陰の六)、生の道は(陽の六)となる・・・・・ 」
  そして子子子子子子子子子子子子の12子を、陰陽十二律、呂律(りょりつ)六の二分割にし、陰六呂(りくりょ)の子子子子子子と、陽六律(りくりつ)の子子子子子子とに並べた。さらに秋一郎は「子」の読み方を陰の「し」と陽の「す」の二配列に、陰陽五行道に変換する。そして陰に「死し」を陽に「寿す」を転用した。
  つまり陰に死の六種子を、陽に寿の六種子を暗示させた。その転用の配列は陰六種子の自然死・病死・変死・殺死・刑死・憤死、陽六種子の無量寿・天寿・南山寿・老寿・康寿・仁者寿となる。
「 これを秋一郎は、死(し)六寿(す)六の陰陽呂律として呪文した・・・・・ 」
  この死六寿六の呪文は無量壽経、死す、寿し、死す、寿し、死す、寿しと転回し、暗示させた接点で停止する。つまり「死す」か「寿し」のいずれかとなる。したがって変死もあれば天寿ともなる。丸彦には黒彦という亡霊の足音がどの呂律音で止まるかが心配だ。

  

「 京都の地夭(ちよう)とは、地上に生じた不思議な兆しなのである・・・・・ 」
  その地夭といえば、源氏物語がある。
  そしてその底辺の立川流真言を見落としてはならない。
  日本人はこれを見落とし現在では壊滅した。物語および紫式部と立川流真言とは密接に関わっている。源氏物語とは立川流密言の呂律を並べ真言を構えてその全容が未来への暗示で占められている。
「 平安京が造られたころ、都には紫草という花の咲く野原があった。これに因みその場所を紫野(むらさきの)という・・・・・。源氏物語にはこの蜃気楼があるだ・・・・・ 」
  紫草は染料として使われた。天皇や貴族が身につけるモノの染料として紫野で採取された「紫草」は重宝された。堀川北大路交差点界隈はその紫野にあたる。そして、その交差点近くに紫式部と小野篁が一つ敷地に眠る墓所がある。
  丸彦の主人秋一郎は幾度となくこの紫野に足を運んでいた。
「 ところで源氏物語は三部構成となっている長編作で百万文字もある。さすがに世界最古の長編小説、百万文字はどのくらの量かと気になるが、300ページ弱の文庫本で十五万文字程度なのであるから、約九冊強の文庫量、和紙の分厚さなど加味すると随分なボリュームである 」
  紫式部はこれを夫の藤原宣孝(ふじわらののぶたか)を失って後に執筆し始めた。
  紫式部とは云うものゝ、この名は正しいものではなく、いわば呼び名である。一説では実名を藤原香子だというも、よく判らないのが正しい。平安期の女性は誰々の娘とかの記述しか残っていなかったりする。藤原為時の娘ということは確からしく、当時、宮廷の後宮に仕えた女官は、その血筋の役目から女房名が決められた。為時は式部省の役人だったので、藤原式部と呼ばれていたのであろうが、紫の上を主人公とする「源氏物語」の作者であったことから、いつしか紫式部と呼ばれるようになった。そしてこの「紫」とは納音である。
  紫式部の父、為時は役人として名を馳せたと云うよりは文人、詩人としての名の方が通りが良かった。そんな環境の中で式部の文才も磨かれた。その式部の結婚は遅く三十近くになってからだ。今の時代では珍しくもない年齢かも知れないが、当時は十五歳まで、早ければ十二、三歳で結婚をする時代、彼女はかなりの晩婚だった。
  それも父親と年齢が変わらずほどの藤原宣孝という人物と結婚する。
  この当たりも当時としてはかなり異例なこと。この辺の境遇というのか、生き方が源氏物語に反映しているのではないかと思ってしまう。宣孝と過ごす期間は短く、三年ほどで宣孝は流行病で他界する。その後、身の上のはけ口を求めるかのように源氏物語の執筆に取り掛かる。当時の結婚の形は「通い婚」というものが相場であった。世間に名の広まる何処そこの才女は美形、品が良いなどの噂や評判を信じ、詩歌を送り女性が返歌を送るところからお付き合いが始まることになる。そして段取りが進めば、夜に男が女性の家へ通い、女性がそれを認めて三日三晩続くことで結婚というものを成立させた。
  この最終的な決定権は女性側にある。
  だが男性の結婚の相手は一人とは定まっていなかった。いわば一夫多妻であって、生まれた子供は女性側、母方で育てられる。現代の感覚からすれば、貧しくおかしな社会なのだが、それが平安貴族の普通の形態であった。この当たりを理解して源氏物語を読まないと情景がよく判らない。よく源氏物語はフィクションだといわれるが、登場人物は架空であっても、その文面には当時の男女間の恋愛のありかた、宮廷や貴族社会の内面が色濃く表現されている。そうした色濃く、極めて色濃くつゞり終えた女性という本質が阿部丸彦は以前から気掛かりであった。


             


「 現代において文学的評価は多彩に論じられているが、形而上学としてはどうも地夭なのだ。しかも小野篁と墓所が隣り合わせであることが、小生には地夭の介在が臭うのである・・・・・ 」
  冥界の番人である小野篁、方や平安王朝文学、物語文学の傑作と云われる源氏物語の作者。この取り合わせの関係は、まことに摩訶不思議な光景であった。一つ敷地に二つの墓を並べ取り合わせたことの妙、そのよりどころは室町時代に四辻善成が顕したとされる「 河海抄(かかいしょう)」と云う文献による。それには「 式部の墓は雲林院白毫院の南、小野篁墓の西にあり 」との記述があり、これが根拠になっている。
  たしかに式部は源氏物語で、雲林院は主人公の光源氏が参籠した所として登場させてはいるけれど、丸彦、この墓の真偽には大きな疑問を抱いている。源氏物語には光源氏の寵愛をうける夕顔が物怪(もののけ)に取り殺されたり、光源氏の愛人である六条御息所が正室の葵上を取り殺すなどする。これは見ようではたしかに小野篁の領域ではある。怨霊にまつわるであろう話もあるにはあり、関わりらしきものも見え隠れもする。
  さらに一説として。小野篁と紫式部の墓が建ち並ぶのは紫式部が狂言綺語(きょうげんきご)、ふしだらな物語を描いた大罪人で、閻魔大王の前に引き出された紫式部を篁が取りなしたとの伝説によるものというのさえある。多分、これは武士が台頭してくる平安末期から鎌倉時代にかけてのものであろう。時代が変われば、価値観、規範意識も変わる。平安時代の普通も武士の時代ではそぐわなくなったと解釈もできる。
ともかくも雲林院は応仁の乱で荒廃し、天正年間に千本閻魔堂に移され、今の千本閻魔堂に残る十重石塔は紫式部の供養塔と伝わる。たしかに実際として、篁と式部、この二人の墓所は堀川北大路交差点から南へ少し下がって島津製作所の傍らにある。丸彦もすでに何度となくその現実は確認した。
  丸彦の問題は二人の墓が一つ所にあることではない。むしろそう二つあるからこそ源氏物語の正体が既成とは真逆に見えてくる。紫式部の真意は唐輸入による密言の変化(へんげ)にある。
「 作品は問いかける。何を揺らがしたかの解答がある。さて、虎哉と香織の二人が東福寺駅へと歩きはじめた・・・・・ 」
  今、奈良へ向かう雨田虎哉と清原香織の二人は気づかないであろうが、密かなあの影が二つピタリと寄り添っている。そして二つの影は「夢の浮橋」探している。そして数奇な運命をたどった水石がある。その石は、南北朝時代に、後醍醐天皇が肌身離さず持ち歩いていた。戦国時代には、豊臣秀吉、江戸時代には、徳川家康の手に渡り、「お守り」の石とされてきた。この石が彼らの命を本当に守ったかは定かではない。だがしかし、心をなぐさめていたことは間違いない。幾度か丸彦もこれをながめて見た。
  その銘ゆえか、ツルリと心の垢でも洗われるかの福与かな美形の石である。そして水石は幽かな光を纏(まと)って橋を架けたごとく棚引いていた。未だおぼろげだが虎哉の眼にも御醍醐天皇譲りの水石がそろそろと泛かんできたようだ。二つの黒い影がそうさせようとしている。そして密言の妖気が漂っている。その石の名前は、「夢の浮橋」である。丸彦はこの石の伝承を阿部秋一郎から聞かされた。

   

  水石は、鎌倉武士の時代から流行っていた書院作りでの室礼として、一室に据え置き自然界に思いを巡らした。世に奇石、銘石など星の数ほどある中で、由緒正しき石はたった九石のみで「浅間山」、「末の松山」、「万里江山」、「廬山」、「九山八海」、「飛龍」、「残雪」、「八橋」、「夢の浮橋」が挙げられる。これらはもっとも由緒ある水石で他とは一線を画し伝承九石という。夢の浮橋は、後醍醐天皇が笠置、吉野へ遷幸された際にも常にこれを懐中にしていた。
  長さ29㎝、高さ4㎝、奥行5㎝、その石底には朱漆で後醍醐天皇宸筆があり、夢の浮橋とその銘が書かれている。
  これは中国江蘇省江寧山産の霊石と伝えられて、底面には短く細い四足があり両側が支えられ、水石全体が浮き上がるごとくみえる。五山の禅僧が中国から持ち帰ったこの「夢の浮橋」は、初め足利将軍に献上され、その後南北朝時代に後醍醐天皇の愛頑石となった。戦乱のさ中にも天皇はこの石を懐中にして、鎌倉幕府倒幕計画が知れ、捕えられて隠岐(日本海側島根半島沖)に流された時には、肌身離さず持って愛頑し、そして、足利尊氏の反乱に際しては幽閉されたが、脱出して吉野に赴き、南朝を開いたときにも護身用として持って廻った。この水石はともかく数奇な運命をたどって現存する。
「 徳川美術館蔵をながめて以来、この石の景色が眼にとり憑(つい)ている・・・・・ 」
  丸彦の奥底でそれは久遠(くおん)のごとく怪しげに輝いている。止むこともなく人を魅了し続けるこの水石、たゞ侘びの悪戯でこの銘を冠するはずはない。形はいわゆる長石(ながいし)という名石形の石、左に丸い小山があり、その前に平たい岡があって、右に延びるにしたがって土坡(どは・平野)があるという段石形の土坡石である。雄大な景色をもち、しかも長年月に渡る持ち込み味の石肌を沈ませている。この石を水平の地板などの上に置くと、たしかに底部の中央付近が少し浮き上がる。つまり空間をつくり、天空を創る石なのである。そしてまたこの石は、いく度かの戦乱の中をくぐり抜け、世の人々の栄枯盛衰、天変地異の日本の歴史の中をよく生き続けてきた。丸彦は洛北の山河に育った幼児体験のせいか、自然に山水石を好むようになり、それを基盤にして京都周辺の石と交わってきた。



「 この夢の浮橋の底部をよくながめると、石の両端のわずかな部分のみで安定し、底部の隙間を二、三枚の紙を通すことが出来る! 」
  これを泛かしたとみれば造形の美学、実用の仕掛けとみれば意図して紙を通した。
「 それが紙のたぐいであれば、果たしてどのような紙なのか。後醍醐天皇は逃げ延びながら、そこに密言の紙を通した。そして源氏物語の正体と、密言の効能は貝を合わせたごとく符合した。天皇に庇護されて立川流真言は隆盛をえた。石の景色を陸(ろく)、それは六(ろく)とまる・・・・・ 」
  と、見立てれば、丸彦は、水石に夢の浮橋とその名を冠したこゝから紫式部の思惑を思索させられ、源氏物語の正体は逆算式に詮索されて見破れることになる。すると時代を経てこれを紙の浮橋にすることも可能だ。そこで丸彦はかつて虎哉博士が語った話を思い出した。




「 今や日本の山や森は何処(いずこ)をみても面白くない。かって日本の山は山岳信仰のご神体であった。出羽三山、早池峰(はやちね)、富士山、大峰、葛城山、白山、大仙、石鎚山、英彦山(ひこさん)など、その多く修験道として畏(おそれ)られ鎮められていた。そして大衆はその山に分け入ることを畏れた。ところが現在どうだろう。畏れ知らずの旅行者が堂々とそれらの山へ分け入っている。かっての修行道がすっかり旅行道に盗って変えられた。神体や山守とは無縁者が物見遊山で悪(あし)き足音で踏み上がる。そして修行道の神体が裸体化された。これでは日本の山の神秘は枯れ尽くし、無礼も甚(はなはだし)く、非情にも面白くない。だが、だからこそ源氏物語は真言と畏れると面白いのだ・・・・・ 」
  と、博士は重く呻(うめ)いたのだ。頂きに立ち人間を自慢すれば即すなわち落伍(らくご)、博士の山は我慢なのである。
「 博士の旅路とは・・・・・、旅行道ではなく修行道なのである。また源氏物語も修行なのだ・・・・・ 」
  その虎哉は修行道として夢の浮橋を辿らねばならなかった。
  したがって源氏物語にしろ学問的に見定めようとするのではない。そこから陰陽道の実体を汲みとらねばならなかった。紫式部という女性は平安後期の陰陽とどのような交感をしたのか、その正体を見定めることによる鑑識眼で歴史の血痕をたぐり出そうとした。そこを戦禍の空白を埋める種として育もうとしたのだ。
「 その修行とは、畏(おそ)ろしくみる生活を省みる営みなの再生なのであろう・・・・・ 」
  霊峰と呼ばれるに、霊峰と呼ばしめる側の意識がある。そこには神体を祀らねばならぬ諸事情があった。霊には善と悪がある。悪霊あくりょうを鎮めるために、山とは御神体(ごしんたい)でなければならなかった。そう示現するために密言はある。同じく源氏物語には当時の密言と深く関わっている。



「 夢の石橋と密かに連なる、どうやら二つの影は密かに一枚の絵葉書を探しているようだ。それこそが紙の浮橋である・・・・・。黒彦の眼が輝いてきた・・・・・ 」
  諸天はまず天変地夭(ちよう)をもって一国を罰することがある。
  この予言は、海外情勢などにより推測する世間のそれとは全く類を異にする。まさに諸天の動きを見据えての、仏智のご断定であることが阿部丸彦にはよく判るのだ。
  一枚の絵葉書を求めて六道の辻より顕れた二つの影が雨田虎哉の肩にとり憑ついた。
  そして四方を見渡しては阿部秋子を探している。すると「 多くの神々とオモイカネは(鳴女という名の雉を派遣するのがよいでしょう)と答えた。そこで、タカミムスヒとアマテラスは、雉の鳴女なきめに(あなたが言って、アメノワカヒコにも問いただして来なさい。あなたを葦原中国に派遣した理由は、荒ぶる神々を説得して帰伏させろということだが、なのに、どうして8年間も復命しなかったのか、とそう言って来なさい)と命じたはずだ 」と妙な呟きをした。
「 地球の地平は一線を円まるく描いて水平(たいら)となる。その水平で生じた地夭とはまた円くして地球上で結ばれている。彷徨うこの影を放置したのでは、六(ろく)なことはないのだ・・・・・ 」
  二つの影を載せるべく丸彦は密かにソリューションを北米へと解放した。
  雉の鳴女を殺そうとして黒彦と黒丸が追いかける秋子とは、丸彦の主人秋一郎の曾孫(ひまご)、阿部富造の孫娘(まご)はしかし現在、日本にはいない。絵葉書と共に阿部秋子はアメリカにいた。

                           







                                      

                        
       



 六道珍皇寺