(四) 亡国の泡 ② Boukokunoawa
誰それ一途に浮世は誰だって他人の噂話や事件の裏話などスキャンダラスでトリビアルな話題が大好きだ。
戦後突然に、登場したテレビの話題が日本の茶の間を独占するようになったせいもあって、それまで表向きは何やら敬遠していたバラエティ調の暴露意識が、テレビに火をつけられて平然となり、多くの視聴者を一層浮世好みの妙なその「つもり」にさせてきた。こうして日本人はアメリカンファッショのテレビにデレっと冒されては、劇的危険な妖しい魅力をカラダの中に入れてしまったのである。
戦後の日本人はそんな滑稽な時代を勝手気ままに切り裂き、21世紀というその先へ劇薬的独創をもって突っ込んでいった。どうやら日本人は、B29に爆撃されて以来、誰もがアメリカの呪文を忘れられなくさせられたようだ。そして沖縄は、日本国の最初にして最大のパトロンとなったアメリカが依頼した。しかし依頼後、その新ルネサンス社会は常軌を逸するめちゃくちゃの社会だった。
このようにしてアメリカが要請した社会は、一見、使徒マタイ伝のごとく映るが、これが「 反マタイの使徒 」という主題なのだ。神仙怪異のごとくあるが、ふと丸彦はその使徒を必要とする脳圧を昂進された日本人のジグザグな歩みをふりかえってみた。そして新たな「地質」と「図案」の差し替え回路をぐるぐるまわしてみると、やはり奈良の当麻寺が見えてきた。
中将姫伝説で知られる当麻曼荼羅の、あの当麻寺が主題の舞台となる。
「 そう主題したこの縄文猫のイマジネーションはとんでもない。これは今日のわれわれ猫がふだん使いするニャンニャンする類のイマジネーションではない。生体すべての観念が想定した世界のそこかしこを、双頭の面貌と律動に満ちた翼をはやして、あらゆる空間に展観していくようなイマジネーションなのだ。とくに「 おいらん 」においてはそれが著しくも喜ばしい。小生はとりあえず彼女のことをハイパーイマジネーション猫とでも言っておきたい・・・・・ 」
何か未来でも膾炙しそうなこの主題を、彼女はきっとこれは、さぞかし広大な宇宙でも見据えた人間への暗示だと思ったのだが、彼女はこれを野晒しの小さな祠(ほこら)の軒下にあるごくちっぽけなダンボール箱の中で考えていた。
「 親友の阿部幸四郎などには、あらかたバレているかもしれないけれど、何を隠そう、小生にはずっと以前から交際中の恋猫がいる 」
阿部丸彦は、そっと彼女の愛くるしいお茶目な顔を泛かべた。
ともかく丸彦は、その恋猫に、埋没的な準備運動をしながら、ようやく丸彦なりの「日本という方法」で雨田博士の行動を読み解きたくなってきたのだ。そこは丸彦の「おもかげの国・うつろいの国」である。
そして真っ先に思い浮かぶものといえば、やはり中将堂本舗の「中将餅(ちゅじょうもち)」であった。香り高い一口大のよもぎ餅にこしあんをのせ、ボタンの花びらをかたどったもので、これまでに何度も何度も食べているが、本当に美味しい草餅である。想うだけでフワッとよもぎのいい香りが漂ってきた。当麻の里に野生する蓬(よもぎ)をふんだんに使っている。
「 手土産なら、やはりコレだろう!・・・・・ 」
古くからショーキャットとして認められるペルシャ種であるこの彼女は、ときにふわふわとした遊仙感覚を、ときにカラダの内奥に響きわたる疼くような官能と膨よかな母性感覚を、またときには神秘的な魔女感覚を、さも七変化のごとく丸彦にもたらしてくれるのだ。
ある日、彼女は「 日本人が想像力を喪失した単なる動物になってしまったのだとしたら、我々はむしろその動物の方から適当に想像力などをもらって、そこに「 もう一人の有能な猫 」を引っ越しさせたって、いいではないか 」と、起伏の少ない低いピークフェイスの小鼻をクスリと啜りながらを語ったのだ。これはたいへんな猫生転換である。丸彦はそんなシャレた才覚に惚れた。
「 奈良は半年振りだ。当麻寺の本堂でも雑巾(ぞうきん)がけなどしてみるか!・・・・・ 」
イタリア生まれで沖縄育ちの彼女は、名を「おいらん・花魁」という。非常に温和な性格で、わがままを言ったり、神経質になる事もあまりない。この、おいらんは、行く末ずっと絶対老婆ではありえないのである。そうした彼女が時々発する言葉は、時と大地と天上の行方を暗示する日月とを、大きく係り結ぶほどに広大だった。そうして二人の猫は、何度かにわたっての理由のない離反と何もおこらない淡い逢瀬をくり返してきた。それが丸彦には何とも焦れったい。1年も会わないこともあれば、急にどちらかが訪ねることもある。
「 そのため小生は、ザワザワとすれば、わざわざ何度も奈良の当麻野に行った・・・・・ 」
この当麻野は丘陵地の原っぱにすぎない。だがそこは昼の時間と夜の時間がまっぷたつに入れ替わる天変地異の境い目なのだ。またそこは本来、役小角(えんのおづの)行者が特定の日に遊猟するための禁苑の土地だった。古代よりじつに多くの修験道者の思い出が辺りに充ちている場所なのである。
「 おいらんは、この実景を目の前にしていつも、その時その所の前後に出入りする観念の中でひしめく遠大な光景を眺め続けてきた 」
雨田博士と清原香織が奈良へ行くということは、奈良を感じるとはこういう格別のイマジネーションに付き合えるかどうかということなのだから、丸彦のこちらにもそれなりの覚悟が必要であった。
「 きっとそのために、おいらんは、古代日本を叙景するための舞台を用意して二人の客人と小生を待っている・・・・・ 」
そっと奈良を眼差した丸彦は、おいらんの居る当麻野が、滲み出る言霊(ことだま)を秘めているようにも感じられ、長らく彼女の縦横呑吐に揺らされて、きっと沖縄の未来も浄化されるように思えた。
さてフランス西部で眼を閉じてみた駒丸扇太郎の脳裡に眼差してみる。
あの日、ノルマンディー海岸を見終えてドーヴィルを経由したパリまでの約二時間、扇太郎はA13の高速道路をひたすらと走り終えた深夜に、パリ7区街にある「 Hotel du Cadran(ホテル・デュ・カドラン) 」に着いた。
入室さえ曖昧(あいまい)で、だから朦朧(もうろう)と寝て、たゞ暗い闇の泡をみる。それでもやはり早朝には目が覚めていた。そして扇太郎はとりあえず新聞を買いにホテルを出た。7区街にあるホテル・デュ・カドランは市のほゞ中央、このホテルからは、エッフェル塔やシャン・ド・マルス公園までほんの数分である。
「 あゝ~、今朝はカブト虫(Beetle)の夢に、起こされずに済んだ。ようやく・・・・・ 」
と、歩きながら朝一番の背伸びをする扇太郎は、仰いだパリの青い空に、もうカブト虫が飛んでいない事が何よりもまず爽やかな出来事であった。南フランス地方では、収穫期を控えたフランス葡萄(ぶどう)の「カベルネ・フラン種」に大量のカブトム虫が集まり、果汁が吸われてしまう被害が発生していた。その防除のために扇太郎はフランスまで出向くことになった。
普段は、日本の森林を巡ることが多い扇太郎である。甲虫類学を専門とする。最近の扇太郎の仕事はもっぱらナラ枯れ被害の調査と対策であった。そんな日本での調査実績が、フランス政府に高く評価された。
南フランス地方のぶどう畑の収穫は八月には終わる。その収穫前に扇太郎はエクス・アン・プロヴァンス、ボルドー、ブルゴーニュのぶどう畑を巡る調査研究を依頼された。約一月の長丁場の仕事を成し終えた扇太郎は、帰国前に、束の間の休暇を取ることに決めパリ近郊で過ごすことにしたのだ。
「 休暇ほど早く過ぎ去るものはない。あゝ、残り後六日か・・・・・ 」
パリでの休暇滞在は十日間の予定である。扇太郎はすでに四日を使い果たした。
せめて後十日欲しいがと未練がましい扇太郎は、欲張りな目配りを左右の建物に触れさせながら、シャン・ド・マルス通りを右に曲がると、足早にセーヌ川に向かうブルネド通りへと出た。
「 父誠一は、今、どの上空辺りか・・・・・ 」
と、ふと仰ぐ朝の上空には、パリの灯りを待ちわびて機上にひとりいる亡き人影が懐かしく想われた。
その大空もまた夢の浮橋であったようだ。
「 父さん、こゝがパリだよ!。二人して昨日はオハマF地区の波濤をみたよ。しかし貴方はついに来られなかったではないか・・・・・ 」
昨日、9区オマル通りのホテルから7区街へと変えたのは、こゝがセーヌ川の南岸に面しているからで、明日には、父誠一が日本から初めてのパリに到着する予定だが、それはついに果たせなかった父の願望であった。セーヌ川に沿った地域のうち、イエナ橋より上流の、約8キロの区間は、この都市が辿(たど)ってきた歴史を色濃く表している。扇太郎は特にその中のマレ地区、16世紀から17世紀にかけて王侯貴族の豪華な館が建てられた界隈を、どうしても亡き父の面影と過ごす最後の日にあてたくてホテルの位置を7区街へと変えたのだ。
ホテルを出ると、新聞というより、じつは、パリの朝市が見たかった。
と、そう思うも、マルシェによって売っているものも違えば集まる人も違う、亡き父の嗜好を決めかねながら歩いた。
「 郊外のアントニー、そのマルシェにでも、バスに乗って出かけるのも悪くはないが。七月のマルシェなら「 ペッシュ・プラット 」を探すのもいゝ。これは日本人には形が珍しい饅頭(まんじゅう)をパンと手で叩(たた)いて潰(つぶ)したような平らな桃で、酸味を抑えた感じは、ほどよく甘さを引き立たせてジューシーでもある。だが、フランス各地で生産されているチーズの種類は、400近くにのぼると言われている。ソーセージ同様その魅力にはまり込んでしまう食品であるから、今日はチーズの集まるマルシェで、カマンベールとシェーヴルをひとつずつ購入しよう 」
と、扇太郎は誠一の面影の淵にそう考えた。そしてシェーヴルは非常に種類が多いのだが白くてフレッシュなものほど淡白で、かたく乾燥したものほど香も味も強くなる傾向があると聞いていたし、郊外のマルシェならば期待できると、灰をまぶしたタイプを選べるかどうかを楽しみにしていた。
「 父さん・・・・・、シェーヴルで、終戦後初めての祝杯だ!・・・・・ 」
パリに来たのなら、あちこちのマルシェで専門のスタンドを見つけては「 食の国・フランス 」を実感したいものだ。十日間の休暇となると、そうそうに取れるもではない。しかも亡き父の影と丸三日はパリの休日を過ごすことになる。オハマF地区を除けば今回のパリは眼と口の滋養、亡き父の目的は復讐や反逆ではなかった。彼は文学への愛着を深くし過ぎた。そうであるから、誠一のためにフランスの活字も補給したい。とりあえず扇太郎は新聞を買うことにした。
「 ふむ~う。やはり、日本は不参加か。フランスは参加、しかし入場式には出ないのか・・・・・ 」
扇太郎は朝刊「 Le Figaro(レ・フィガロ) 」に眼を通しながら、どうやら、日本を含む六十七ヶ国のIOC加盟国がモスクワ五輪に参加しないことを表明しそうだという記事に、予想は抱いていたが、ソ連のアフガニスタン侵攻の影響を強く受け、西側諸国の集団ボイコットという事態に至ろうとする経緯が妙に胸を暗くさせた。
その影で小さく、小さく、鈴木善幸首相内閣誕生の記事がかすむように載せられていた。
「 昨日までの暑苦しさ、あれは、一体どうしたというのか。日本の中春ぐらいの陽気じゃないか・・・・・ 」
しかし七月とはいえ、パリの盛夏にしては、めずらしく爽やかな気温で、適度な潤いで街を包む空気は、扇太郎におだやかな日本のやゝ南風の春を感じさせた。
「 さあ~、今日でこの街での一人暮らしとも最期か。午後にはきっと亡き父が鳩籠を下げて到着してくれるであろう 」
どうやら昨日の微妙に快適な爽やからしき気温は、乾燥し過ぎた翌日にはありがちな気まぐれであるらしい。朝食を終えた扇太郎は再リフレッシュしようと、予定通りマルシェへと出掛けるための道順をたしかめるためフロントに立ち寄った。
すると「 古い歌の中に、パリはやはり春が一番、たとえ天気が気まぐれでも 」という一節があることを聞かされた。先日のオハマF地区の体験を見通せるはずもないのだが、外出しようとする客人の背に「 パリはどの季節の時期でも活き活きとしていますからね 」と、さりげないが、禊(みそぎ)のさも爽やかな言葉を掛けて送り出してくれた。
「 La ville d'amitiés de Paris il comme vigueur qui devient en permanence libre de danger par toutes les saisons. 」
休暇の一切を素敵な花束の良き出来事として束ねてくれた。
しかし「 Une bulle, une bulle, une bulle. 」と、聞こえたあの余韻は一体、何だったのであろうか。それがフロントクラークの言葉の余韻であったのかどうかは解らない。送られた言葉の後を追うようにして、あれはたしかに「 泡、泡、泡 」とさゝやくような声が聞こえた。しかし扇太郎がそうこだわるのには、さゝやいたと思うその声は、栗駒系♂一乗寺六号が飛翔した瞬間にも聞こえたのだ。
そしてエッフェル塔の上空を三度旋回した後に、日本の方向を見定めた彼が一翼を一矢のごとく鋭くして天心へと飛躍したときに、泡、泡、泡と六(ろく)の声は、たしかにそう聞こえたのだ。
「 哀悼の、あの一乗寺六号は、パリから京都の鳩舎へと飛び発った 」
かの大戦の戦場には、人間のために命を捧げた鳩がいた。
父誠一は、1000羽の軍鳩にそれぞれ2薬用オンス(約60グラム)ずつのカプセル型爆薬を装着させている。
陰陽寮の誠一は通信兵の特業教育師範として歩兵連隊に応召し、新設された軍鳩班の要員として中国大陸を転戦した。鳩籠をさげて、あるいは背に担いで戦場を行く姿はおよそ近代戦の兵士とは見えなかったが、有線も無線もほとんど役に立たないとされた近代戦にあって軍鳩班の遊撃戦力は奇特な重責を担う存在であった。それらの軍鳩の多くは、旧陸軍がフランスから輸入した鳩の直仔が基礎鳩となっている。
「 誠一の指揮した栗駒系の直仔もそうであった。彼らの血の故国はフランスなのだ。父が最期に指揮した戦略が、軍鳩千羽による特攻であった。その先頭に一乗寺六号はいた。六号は先陣を斬る特攻鳩として飼練された。その一乗寺六号は直系♂のみが世襲する!・・・・・ 」
イエナ橋(Pont d'Iéna)より放った一乗寺六号は、父誠一の遺した種鳩の第26代直系である。血統の故国より放鳩することが亡き父のあこがれであった。そして戦地にて国難に殉じ血翼を散らさせた軍鳩への追悼を捧げ果たそうとした。
陰陽を零(こぼ)すから名を「六号」とした。
「 戦場の特攻鳩・・・・・か、その扇太郎はまだ着いてないようだ・・・・・ 」
東福寺駅に着くと雨田虎哉はまず腕時計をみた。
その眼には黒く弾ける泡から哀悼の一翼が泛かんでくる。戦場に斃(たお)れ、あるいは国内で戦火に焼かれた戦没者の御霊もじつに甚大であるが、その陰に多勢の英霊と呼べる鳩たちがいた。そして洛北には、その鳩らに哀悼の涙を注ぐ一族がいる。
東福寺駅は相対式ホーム2面2線を持つ地上駅である。
駅舎と改札口は下りホームの東側にある。上りホームにも改札口があり、JRの駅舎および外へ直接出られる通路に通じている。
「 かさね!、どこへ行く。そうじゃない・・・・・ 」
虎哉は慌てゝ香織の手をステッキで引き掻いて止めた。互いのホームへは地下道で連絡している。したがって三条方面からJRに乗り換える場合、上りホームの改札口から出て、JR駅舎への階段を上ることになる。香織はそのJR側へと行こうとしたのだ。
「 何や、JR乗りはるんと、違うんかいな? 」
東福寺駅は、京都の玄関口である京都駅の南東部に位置する駅である。京阪電気鉄道の京阪本線と、JR西日本の奈良線が乗り入れている。しかしかっては、京阪駅への出入り口は東側の本町通側のみ、JR駅は橋上駅舎のため両線の乗り換えは跨線橋を渡らなくてはならなかった。虎哉は改札口近くで扇太郎の到着を待った。
「 ヴェルレーヌと、亡国の泡か・・・・・。そして一乗寺六号は7月のパリから9月の京都へと無事帰還した。正確には63日10時間34分18秒後に、夏から秋の奇跡の時差を超えて帰国した・・・・・! 」。
「 9千キロ・・・・・あれは奇跡ですよ 」
と、嬉しそうに語っていた駒丸扇太郎が東福寺駅に姿をみせたのが午前9時であった。
「 香織ちゃん・・・・・、おはよう 」
と、突然、背後から肩を軽くポンと叩かれて香織は驚いた。臨済宗東福寺派の大本山として、また、京都五山の一つとして750年の法灯を連綿として伝える東福寺、駅で落ち合った三人はその東福寺へ行く予定である。
「 何やまた寄り道かいな。いつ奈良ァ着くんやろか・・・・・ 」
扇太郎と落ち合うなど聞かされてない。香織は少し泛かぬ顔をした。
源氏物語は、現実の歴史とは逆に、常に藤原氏が敗れ、源氏が政争や恋愛に最終的に勝利する話となって物語を構成させた。そこを藤原氏の一員である紫式部が書いたとするのは虎哉の眼にどうにも不自然なのだ。初出は長保3年(1001年)、このころには相当な部分までが成立していたと思われるが、後世においてこの物語が読み砕かれるのは東福寺造営の始まる時代であった。
「 近代文学観の呪縛(じゅばく)から離れてみれば、源氏物語は、近代の心理小説を遥かに超越する描写がみられるではないか 」
と、扇太郎の父誠一は語っていたという。
その小説は虚構の連続性と因果律のある話の構造を持たねばならないことを条件とする。九条道家によって造営された東福寺とは藤原氏と密接である。虎哉の眼は密かに輝いていた。そうして三人はその360余ヶ寺の末寺を統括し信仰の中心となっている境内へと向かった。
そこは東山の月輪山の麓、東山三十六峰、南の恵日山は三十五峰目にあたる。
人の眼に一目瞭然とは映らないほど広い東福寺。渓谷美を抱くその広々とした寺域には、平安仏教の変遷を重ねて結実したごとくの由緒ある大伽藍が勇壮に甍をならべ佇んでいた。そんな東福寺の名は「 洪基を東大に亜つぎ、盛業を興福に取る 」と奈良の二大寺にちなんで名付けられる。摂政九条道家が、奈良における最大の寺院である東大寺に比べ、また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で、「東」と「福」の字を取り、京都最大の大伽藍を造営したのが、慧日山東福寺の始まりであった。
そして嘉禎二年(1236年)より建長七年(1255年)まで実に19年を費やして完成した。
通天橋より眺める洗玉澗(せんぎょくかん)の紅葉の美しさには、通天もみじ(三葉楓)というトウカエデが京都で一味違った紅葉の趣を添えてくれるのであるが、今は一月、冬枯れた木立に埋もれるようにある天通橋の肌を刺す静けさは、本堂へと渡ろうとする三人の心を引き締めていた。方広寺のものとは違う「京の大仏」がこの東福寺の本堂には半ば幻の大仏として存在する。それは高さ15mほどの坐像で、奈良の大仏を意識して作られた京の大仏である。だがそれは明治14年の大火で焼失した。現存するものはその片手のみだ。五体が壊滅したといえ巨大な大仏の片手は、本堂の天井を天上のごとく指して安置されていた。
「 当時、本尊の高さ5丈というのは、あながち誇張ではなかったようだ。火災から救出された大仏の手、とはこれか・・・・・ 」
指先までの高さを見て驚いている香織をみつめながら、虎哉にはそう思えた。
その約2mはあろう左手の指のしなりがまたじつに美しい。奈良の大仏を男手とするなら、これは女手であろう。そう見渡して福よかな手相などみつめる虎哉に、駒丸扇太郎は静かな口調で阿部家について語りはじめた。
「 じつは・・・・・、焼け遺されたこの大仏の片手と、阿部家とには密かな因縁がありましてね・・・・・ 」
現在の仏殿は昭和9年(1934年)に再建されたものだ。虎哉はそう聞いている。
延焼が明治14年というから再建まで53年間の歳月がある。密かな因縁と聞かされゝば、自然、虎哉は明治14年の政変を想い泛かべた。
「 あの政変と・・・・・、阿部家? 」
それは当時、自由民権運動の流れの中で、憲法制定論議が高まり政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文と井上毅が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生を、政府から追放した政治事件である。
「 1881年政変ともいう・・・・・ 」
近代日本の国家構想を決定付けたこの事件により、後の1890年(明治23年)に施行された大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まったともいえる。
「 当時、大隈は政府内にあって財政政策、つまり西南戦争後の財政赤字を外債によって克服しようと考えていた問題を巡って松方正義らと対立していた。密かなとは、そのような事かね。あるいはその三年前の紀尾井坂の変、大久保の暗殺・・・・・ 」
と、声低く響かぬように篭(こも)らせていうと虎哉は眼を鋭くさせた。
「 やはり雨田先生は鋭い。大本(おおもと)はそこに繋がるといえます。その政変に絡んでは、宮中にいた保守的な宮内官僚も「天皇親政」を要求して政治への介入工作を行うなど、政情は不安定でありました。薩長土肥四藩の連合が変化し、薩長二藩至上主義的方向へ姿を変えていましたからね。またこのとき、太政大臣・三条実美が薩長と談合し、(自由民権運動と結託して政府転覆の陰謀を企てた)として、大隈の罷免を明治天皇に願い出た場面がありました。ご存じのように阿部家と天皇家とは密接な因縁がありますからね。その大元の人物と・・・・・ 」
政変の大元、やはり大久保利通(おおくぼとしみち)なのだ。
そう眼を晃(ひか)らせた扇太郎もまた一段声を重くして答えた。そうして何か心奥に潜む見果てぬ夢の美でも語るかに、扇太郎は溌剌(はつらつ)とした貌(かお)に切り替えた。真冬の広い法堂は、たゞ凛としている。
「 これが、印象(いんしょう)の蒼龍か! 」
本尊の真上を龍が翔けている。しかし、どことなく想定していた印象の描き方ではない。扇太郎の話を聞きながら虎哉はそう感じた。
「 これなら衣笠と対になるが 」
すると見上げる天井の一面に、きぬかけの路を敷き、そこに夏の雪を泛かばせてみた。
自身でもよく判らぬが、ふと、そんな思いが衝(つ)いて出た。
金閣寺から龍安寺、仁和寺へといたる沿道の立命館大学衣笠キャンパス正門前に、虎哉が何度か足を運んでみた堂本の美術館がある。堂本印象(どうもといんしょう)は明治24年京都に生まれた。
「 たしか彼が逝去したのは、昭和50年の9月だった・・・・・ 」
同年には版画家の棟方志功(むなかたしこう)が死去したこともあり、同時期に二人の芸術家を亡くしたことから、印象の死も虎哉の脳裏には鮮やかにある。何しろその同月には、昭和天皇と皇后が史上初めてアメリカ合衆国を公式に訪問した。
「 たしか志功は享年72、印象は享年83、昭和天皇74歳 」
だったと記憶する。それぞれの年齢に自分の年齢を比べ合わせて、昭和という時代を省みた記憶が虎哉には明らかに刻まれていた。
「 その天皇といえば・・・・・ 」
衣笠山に、宇多天皇が真夏に雪見をしたく白絹を掛けたという。印象の美術館からその衣笠山を望むことになる。本名を「堂本三之助」、彼は京都市立美術工芸学校を卒業後しばらく西陣織の図案描きなどをした。またその西陣といえば応仁の乱。しだいに虎哉には戦後は抽象画も手がけた堂本印象と東福寺本堂の再建とが重なり合ってきた。
「 そうか、印象は、二面性とも思える画家・・・・・、そういうことか 」
印象の画風は、戦前と戦後とでは別人のように違うからだ。
堂本印象は、戦禍や敗戦の惨状をみて画風を大きく変えた。龍は戦前に描かれたものだ。東福寺は明治14年(1881年)に仏殿と法堂が焼ける。その後七年を経た大正6年(1917年)から再建工事にかゝり、昭和9年(1934年)に本堂は完成した。入母屋造、裳階もこし付きの高さ約25メートル、間口約41メートルの大規模なその堂は、昭和期の木造建築としては最大級のものである。
「 阿部家と・・・・・、この本堂と、どう交わるというのだ・・・・・? 」
雨田虎哉は駒丸扇太郎が粛々と語る阿部富造の話に耳を傾けながら、静かに天井の蒼龍をまた睨にらんでいた。
どうにも眼をむく龍の視線が妙に意外で心なし気障りに感じられたからだ。
「 どこに、何をみようとしてるのか・・・・・? 」
よく見据えると、逆に龍が虎哉を睨み返すかのようにある。あるいはその鋭い両眼を輝かせた天井の龍の絵は、描いた堂本印象が虎哉を睨むような姿にも見えてくる。
「 龍は釈迦の説法を助けるというが・・・・・ 」
印象の龍は見ようによって、穏やかさと迫力の両方が感じ取れた。すると印象がそう感じさせる筆の勢いをたどりながら飛天する蒼龍の全体を眼で追うまゝに、視線をグッと真下に落とすと、虎哉の眼は本尊の両眼とピタリと合致した。
「 なるほど、こゝを見ていたのか 」
妙心寺で見た天井の龍は「八方睨み」で、どこから見ても龍と目が合うのだが、印象の龍は視線の先が一定で正面をただ睨みつけている。虎哉がこの蒼龍と眼を合わせるには、人の立ち位置というものが定められていることになる。
虎哉はそこに新たな堂本印象がいることを発見した。
「 かってこゝに大仏が座っていた。本来ならそうだ。全寸15mの・・・・・ 」
眼を閉じては、眼を開き、また閉じては開きと、虎哉はそのしばたきを繰り返してみた。すると、焼失した大仏の大きな面影でも抱くように印象の蒼龍が空を翔けている。
そして、龍頭から龍尾までの先を眼で追いかけてみる虎哉には、今では片手しか現存しない大仏であるが、往時の仏殿本尊の釈迦像高さ15メートル、左右の観音・弥勒両菩薩像の約7メートルという巨大仏の御姿が、鮮やかに泛かぶようにみえてきた。
幻の大仏となって、御姿の一切はこの本堂から消えてはいるが創建当時、これは新大仏寺の名で喧伝され、足利義持・豊臣秀吉・徳川家康らによって保護修理も加えられ、その大仏を保持することで東福寺は永く京都最大の禅苑としての一大面目を伝えてきたわけだ。
「 消滅した・・・・・大仏・・・・・! 」
この大仏の行方が、京都の変遷をすべて物語っている。
そもそも遷都の経緯からして穏やかではなかった。堂本印象の龍が妙心寺のモノと違うように感じさせるのは、どうやら印象は、消滅した大仏が本堂に座ることを想定して描いたと思われる。印象は描き摂とる視点をその一点に据えた。京都の歴史とは、世にまつろわぬ者を集約させては離散させて生きてきた。
そう思えた虎哉は堂元印象の美術館の様相が訝(いぶか)しくも滑稽であった。そこには京都人の表裏を垣間見るようだ。
「 あれは・・・・・、きっと反骨なのであろう・・・・・ 」
京都の町屋とは共存しそうもない堂本印象美術館の風景を、虎哉は眼に泛かばせていた。
それは、本堂天井の蒼龍を入れるには、どうながめても似つかわしくない容器なのだ。
「 陰陽の不調和は彼が体験した内面の落差なのであろう・・・・・ 」
戦前と戦後、二人影の堂本印象がいることに虎哉はぼんやりとしていた。そのぼんやりとは、日本人が戦火に愕然(がくぜん)と立ち竦(すく)んだ体験の放心である。無論、その焦がされた地に虎哉も立っていた。
「 冷えてきましたね・・・・・、万寿寺(まんじゅじ)の裏に一部屋、ご用意しています。移りましょうか・・・・・ 」
膝の震えを感知したのであろうか。にわかに扇太郎は、くるりと虎哉と香織の方へ目線を向けた。そうして香織に止めた扇太郎の眼は、やさしげに微笑んでいる。どうやら患う脚への気遣いではなさそうだ。虎哉もまた香織の顔をみてニヤリと笑った。
二人は香織の大欠伸(おおあくび)を見過ごしてはいない。しかも香織は扇太郎が語る間、始終つまらなそうな顔をして俯いていた。どうやら早起きの香織には刺激のない退屈な長話のようであった。
「 香織ちゃん。昼食は、駅前の大黒ラーメン、あれを食べようかね 」
やはり花より団子の乙女なのである。香織はそう扇太郎から促されると丸い両眼を輝かせてニコリとした。とたんに、その眼に濃厚かつ軽やかな豚骨醤油のスープが泛かんでいた。
「 京は和だけやあらへん。中華(しな)もあるんや。そう言うてはった 」
それは祇園時代に、置屋の佳都子に何度か連れられてきて食べた佳都子一押しの京風支那ソバなのであった。
そんなことなど扇太郎が知るよしもないことであろうが、香織に憑(つ)いた睡魔は大黒の一言で退散して消えた。何しろストレートの細麺は喉越しもいゝ。東福寺駅前店とは別に本店が桃山にあることも佳都子から聞いていた。ふと香織は腰にある赤い勾玉(まがたま)をみた。
「 具は太めのもやし、多めのネギは・・・・・じつに嬉しい 」
眼に大黒ラーメンのスープを注がれた香織は朗らかになった。
何とちゃっかりした質(たち)であろうか。香織は本尊にこっそりと諸手を揉んで密やかに合わせた。何やら賽銭泥棒が礼儀でもするようで虎哉は可笑しかった。香織の拝んだ本尊は大仏の代身として現在の法堂に座る。その本尊釈迦三尊像(中尊は立像、脇侍は阿難と迦葉)は、明治14年の本堂焼失後に同境内の万寿寺から移されたもので、これは鎌倉時代の作である。
万寿寺はかつて下京区万寿寺通高倉にあった。京都五山の第五位として大いに栄えて、天正年間に現在地に移された寺で、本堂を後にした三人はその万寿寺へと向かうことにした。
「 少し歩くことになりますが・・・・・ 」
「 あゝ、構わない。そう気を遣わないでくれ。大丈夫だ・・・・・ 」
と、虎哉はチラリと香織の顔色をみた。気丈夫にみせる物言いに香織がけげんそうな眼をみせる。
患う脚に気遣いをされ、労わりだと分かるが、施しの眼ほど心苦しいのだ。しかしそこは苦笑して始末した。肩に手を添えようとする香織に合わせ、虎哉はステッキの柄を固く掴みなおした。
向かおうとする万寿寺は、昭和10年(1935年)には京都市電と東山通、九条通の開通により境内が分断され、東福寺の飛び地のような位置に置かれている。だが幸いに東福寺駅には近い。このときまで虎哉は、扇太郎がなぜ距離のある東福寺本堂へと先に案内したのかがよく解らないでいた。
「 大仏の片手と・・・・・、先に・・・・・、この一樹を見て戴きたいと思いましてね・・・・・ 」
虎哉のそんな内心を射抜くかのように、扇太郎は本堂外の一樹を指している。
虎哉はぼんやりとその指先をみた。
漠然とながめても図太い古老の大樹ではないか。寒空の下に毅然と立っていた。
しかしこの老木と大久保利通とに何の因みがあるというのだ。
「 どうです見事な大樹でしょう。樹高およそ16メートル幹回り4メートルほど・・・・・ 」
扇太郎がそう説明したが、虎哉も樹木に関してはプロである。しだいに虎哉の眼は鋭くなった。
この大樹が1780年の「都名所図会」や1700年前後に書かれた「東福寺境内図」にもすでに大樹として描かれていることを想えば、400~500年の樹令でもおかしくはない。たしかにその一樹だと思われた。
「 これが・・・・・あのイブキか! 」
ビャクシンともいうのだが、目前にある大樹は、そのヒノキ科の常緑高木であることは明白であった。
虎哉はおもむろに大樹に近寄ると木肌に両手で触れてからそっと樹皮に鼻尖(はなさき)を押しあてた。
「 明治の火災のおり損傷を受け、北側の樹皮が失われていますが未だ健在の古老です。火の伽(とぎ)であり明治の語部(かたりべ)ですね。じつはこの古老樹には兄弟がいましてね・・・・・! 」
みずからの祖父でも讃えるかの口調で、扇太郎はやゝ自慢気に言った。
虎哉はかって山口県西部の「恩徳寺」という寺の境内にある「結びイブキ」という国定の樹齢450年と伝わるイブキを見たとき少なからぬ驚きを覚えた。これはそれ以上の樹齢だと推察できた。
「 この樹は、空に向かって伸びようとするのだよね。しかも兄弟の樹があったとはね! 」
葉の付いた枝はすべて上に向かって伸び、一樹全体としては炎のような枝振りになる。虎哉はそのことを言った。それは以前に一度大徳寺仏殿前にあるイブキを見上げながら感じたことだ。
イブキは開山国師が宋国(中国)から携えてきたと伝わる。大徳寺のイブキの方が大ぶりだが、香気は東福寺のイブキが強いように虎哉は感じた。
「 この一樹を誰がどこから運び、植えたのかゞ、重要なのです。先に見て戴いたのは・・・・・ 」
と、そう言って扇太郎はイブキの高みをじっと見上げた。
「 なるほど・・・・・、どうやら阿部家との関わりは兄弟樹の方にあるようだねッ・・・・・! 」
扇太郎の鋭く見上げた眼光がすでにそう語りかけるように言っていた。
駒丸扇太郎も樹木に関しては職業人である。その筋で飯を喰っているわけで、すでにお膳立てはできているのであろう。大久保利通と大仏の片手、そして兄弟のイブキがじつに密やかであった。
「 えゝ・・・・・、詳しくは、万寿寺の裏の方で・・・・・ 」
こゝで話を一旦絶って、万寿寺の近くにて語るという。その口調から虎哉の脳裏には、ふと赤星病のことが浮かんだ。
「 赤星病とは、垣根等に植えられるビャクシン類が寄生植物となり、病原菌が春先の風によって飛ばされ梨の木に感染し、葉を落としてしまう恐ろしい病気で梨の大敵の一つとされている。イブキもそうなのだ。そうしたビャクシン類が梨の果樹園から1・5キロ圏内にあると、必ずといって良いほど病気が発生する・・・・・ 」
扇太郎はその果樹の専門家だ。その男が、場所を方違(かたがえ)のごとく変えて万寿寺の近くで語り直そうとする姿勢に、どこか赤星病から梨を保護でもするかのようで虎哉には少し可笑しみが感じられた。
その万寿寺の正面までやってくると、誰もが胸をジ~ンと叩くものを見る。虎哉もやはりその鐘楼の佇まいをじっと見た。上層に鐘を吊り、下層は門を兼ねている。
これを「東福寺鐘楼」といゝ、なるほど京都五山の禅宗(臨済宗)寺格、小ぶりだがその風格はいかにも重い。ちなみにその京都五山とは、南禅寺を別格として位づけすると天龍寺第一位、相国寺第二位、建仁寺第三位、東福寺第四位、そして万寿寺第五位の寺格となる。今日では京都五山は、京都禅寺の格付と一般に勘違いされやすいが、しかしそれは決して正しい解釈ではない。京都五山とはあくまで足利氏の政治、政略的な格付けである。大徳寺は同様の理由から格を下げられ、後に五山制度から脱却した。
「 そのような権力の寺格とは何と愚かなことか・・・・・ 」
静かに万寿寺の鐘楼をみつめるとその正体を暴くかに覚えさせられる虎哉は、鐘の重みに包まれた界隈に、ふと真逆の喧騒を感じた。
「 またなぜ今、万寿寺の、この鐘楼なのか・・・・・? 」
万寿寺は京都でも一般公開されてない寺の一つである。どうやら扇太郎には何か特別の謀り方があるようだ。寺の裏に用意したという一部屋が妙に密やかで気にかゝる。
「 それにしても随分、静かになったものだ・・・・・ 」
界隈が様変わりしている。鐘楼をみつめていた虎哉の脳裏にはふと、終戦直後の京都駅南口界隈での光景が泛かんだ。
「 あの当時、闇米(やみごめ)の買出しで賑わっていた・・・・・ 」
東京から岡山へと向かう途中、関ヶ原を過ぎて車窓から伊吹山の頂きが見え始めると、久しく眼に触れていない京都の景観が懐かしく思われた。列車が米原駅を通過してみると、にわかに予定を変えて途中下車することにした。そして東寺に立ち寄ってみたくなった1945年9月、虎哉は京都駅でその列車を降りることにした。
「 虎姫(とらひめ)・・・・・か! 」
と、当時、京都駅南口界隈で聞いた「 だんな、虎姫だよ 」という男らの呼び声が妙に懐かしく思い出された。
終戦直後、八条通り一帯(現在のJR新幹線京都駅八条口)にできた大闇市での光景である。小さな改札口が一つしかない京都駅南口は「闇米」の買出し客で混雑していた。
「 阿部和歌子・・・・・、そして祇園の佳都子・・・・・ 」
闇市で幾度となく聞いた「虎姫」の響きには、どうしても思い出す勇みな女子の名前があった。
敗戦によって満州・朝鮮・台湾といった穀物の供給源を失い、またそれら外地からの引揚者によって人口が激増、日本の食糧事情は極めて劣悪なものとなっていた。その最中、阿部和歌子という女性の奮闘は、洛中の闇に衝撃をもって迎えられ、無法の太陽論争を巻き起こした。太平洋戦争の終戦後の食糧難とは、食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ続け、栄養失調で死亡する時代であった。
和歌子はその食糧管理法違反で起訴された被告人らを真正面から助勢した。佳都子はその子分である。二人は、配給食糧以外に違法である闇米を食べなければ生きていけないのに、それを取り締まる側こそが非国民だと堂々と絶叫しては太陽のごとく暴走した。
そして二人は、配給のほとんどを多くの子供達に与え、自分らは共にほとんど汁だけの粥などをすゝって生活した。虎哉は戦後の闇市に、そんな女性戦士二人と出逢った。虎哉にはこの馴れ初めがある。そこには未だ青年の和歌子と少年の佳都子がいた。
「 闇米という名の米は、百姓は作らない! 」
と、そう書かれた前垂(まえだれ)を締めて二人は闇とは与(くみ)しない闇市に立っていた。
東福寺 秋