Kの理論 「華麗なるブレイクアウト」 Breakout Magnificent.

脱走・・・ただ道は一つ。いつも道に一人。万人は来ない。脱線し続けるサイボーグ社会からの脱出。

ジャスト・ロード・ワン  No.25

2013-10-05 | 小説








 
      
                            






                     




    )  亡国の泡  ③  Boukokunoawa


  雨田虎哉の老いた眼に、鮮やかに闇市の光景が蘇っていた。
「 たしかにあの( 闇米という名の米は、百姓は作らない! )という前垂(まえだれ)に、阿部和歌子の気骨と、それを助太刀する佳都子の気魄が飛び跳ねていた。二人はまだ若くて懸命だった。ああ、虎姫(とらひめ)か・・・・・ 」
  その関西ブランドの代表格が近江虎姫産の「 虎姫米 」であった。虎哉は虎姫米を思い泛かべると、栄養失調に伴う肺浸潤(初期の肺結核)のために苦しむ民衆の姿に、銃後という守りの真髄を突き付けた女性二人の衝撃が重なってくる。
「 私は、あのとき、はッとして眼を覚まし、空をみ上げたのだ・・・・・ 」
  夜明け前の滋賀県湖北の虎姫駅には密かな賑わいがあった。虎姫駅から闇米が京都駅へと輸送されていたのだ。このとき阿部一族は戦争に男手を狩られた山岳の集落を助けようとして大量の虎姫米をばら撒いた。
「 闇米列車・・・・・ 」
  と、呼ばれていた。鮮明にその記憶が虎哉の耳奥と脳奥に遺されている。





  終戦直後の北陸線は闇米を輸送する「闇米列車」という鉄道史には正式に実在しない呼称の列車が、同じ軌道上の北陸線には実在した。虎哉はこの闇の列車を何度も見かけ、また実際に乗車もした。
  そして密かな観戦者となる。大津からの列車が山科駅を過ぎるとまず次々に窓を上げ開かれる。そして鴨川の鉄橋を渡り終えた瞬間、近江米「虎姫」は九条の堤防付近で開いた窓から一斉に跳び降りた。機関車に潜伏した「闇米の運び屋」は、列車が京都駅に差し掛かる手前の鴨川の鉄橋の上から米俵を河川敷に放り投げる。投げられた米俵は大八車に載せられて闇市へと運ばれた。
「 河川敷には闇米を待ちうける役割分担の人々が立っていた。投げる人、受ける人、その完璧な手際のよさには誰もが感心した。思い返せば蒸気機関車の運転手も「運び屋」に協力していたのであろう。あの鉄橋付近での極度な失速は、そうとしか思えない・・・・・ 」
  大津駅と京都駅間の海抜高度差は大きい。琵琶湖の高さが84mで、京都駅の標高が24m、少なくとも60mほどの落差がある。したがって東山トンネルの勾配は大きい。蒸気機関車は猛烈なスピードでトンネルの中を快走した。
「 しかしトンネルを出ると鴨川の手前では急に減速し、そして鉄橋の前後では極端なほどスピードを殺した。止まるのではないかと思うぐらいのスピードの落差は明らかに意図的であった・・・。その機関士の一人は見覚えている。たしかに満鉄で見かけた貌(おとこ)だ 」
  京都駅の南界隈には戦前の1920年代に何度か訪れている。




  界隈は当時、国鉄の東海道線の工事や、東山トンネル工事、鴨川の護岸工事、九条通りの拡幅工事などの大規模な土木工事で活況に潤い、京都の地場産業のひとつである友禅染め関係の染色工場が多くじつに逞(たくま)しい下町の賑わいをみせていた。
  これによって京都駅の南、鴨川より西に位置する東九条地域は多彩多様な人口集積をみせることになる。
「 松ノ木町40番地・・・・・ 」
  虎哉はそんな密集地の一区画を指して人々が呼称した町名を記憶している。九条ネギ畑が広がるその南に、虎哉は戦前に生まれ出ては敗戦直後に集約されて行く新しい街角の光景をみた。そして耳奥に未だ止まる町名となっている。中・小の染色工場が点在するその一区画だけが未だ鮮やかにあった。
「 なるほど・・・・・。一つしかない自分の命なのだ。どうせ拾った命で再び生きるのであれば、世間体がどうと、体裁を重んじて今がどうなる。目の前に糧なくて、一体そこに何の意味があろうか。納得などまず生きてみて、その後にでもすればいゝ。そうなのだ・・・・・ 」
  と、鴨川と高瀬川に挟まれた蟹の棲む低地帯、その夕暮れの町を見つゝ虎哉は励まされた。
  終戦直後、虎哉は度胸というものをそこに拾った。そして敗戦の地にも九条ネギの畑が大きく広がる風景を突き付けられて勇気まで湧いた。すると他人でもそこに生きてさえいれば擦違う皆が「 同胞(はらから) 」に思えた。
  そのはらから等に阿部一族は焚き出しで振る舞った。



「 松ノ木町40番地、ここでの同胞の花形産業は、古紙・古着・古鉄などを回収して売りさばく(寄せ屋)で、その親方は多くの子方(バタヤ)を低賃金で雇い入れていた・・・・・ 」
  当時、東九条の人口は約3万人余、そのうち朝鮮人は約1万人が住んでいた。
  しかし戦後の復興と、高度経済成長の終わりとともにこれらの産業は廃れ、20代~40代の若い世代の多くはこの地域を離れた。一世を中心とする高齢者家族だけが残された。松ノ木町40番地は、しだいにまた戦中・敗戦直後の状況に引き戻されている。
  劣悪な居住環境は、一度火が出ると大火災となり、多くの人命が失われた。また、鴨川と高瀬川に挟まれた松ノ木町40番地(現:東松ノ木町)は、国・行政から「不法住宅」と呼ばれ、長い間放置され無視され続けてきた。
「 京都に九条(くじょう)という地名は遷都に因む由緒なのであるが、そこを(トンク)と呼称するのであれば、それは日本語でもなければ他国語でもない。人に殺生な話など都には似合わない・・・・・ 」
  万寿寺の裏筋へと廻る虎哉の背は、そんな東九条の光景を泛かばせている。
「 昭和初期、たしかに社会は暗い深刻な不安のなかを揺れつゞけていた・・・・・ 」
  阿部富造が生まれたのは大正七年、第一次世界大戦が終戦した年である。
  古閑貞次郎が坂道で口にした「1000円」という大金には、雨田虎哉も少なからず心当たりがあった。
  大正中期ごろより「説教強盗」なる犯罪が連続に横行していた。
「 あの・・・・・、松吉のことだな・・・・・ 」
  虎哉は阿部富造とは二歳下の年齢だ。ほぼ同年代の直感がある。
  昭和4年2月6日に銀座松屋前で模倣犯である「説教強盗二世」岡崎秀之助が逮捕された。岡崎は、三宅やす子宅、下田歌子宅など有名人の家を襲い、7箇所で強盗を働いていたが、この男は警視庁が追う「第一世説教強盗」ではなかった。
  2月16日警視庁は再調査の結果、1926年夏の犯行も説教強盗によるものであることを突き止め、現場に残された指紋から、かつて甲府刑務所に服役した妻木松吉のものであると断定した。
  捜査員が出所後の松吉の行方を追う中で、ついに2月23日午後6時50分、松吉は自宅にて逮捕された。
  何の抵抗もなく「お手数かけてすみません」と神妙な態度だったという。逮捕に至るまでに動員された警察官は1万2千名に及んだ。朝日新聞が懸けていた賞金1000円はその警官たちに贈呈された。
  懸賞金1000円のことは、当時12歳であった小学生の虎哉でさえ耳にしていた。



「 どうも・・・・・、やはり普段ではなさそうだ・・・・・」
  どこが、どうと、要領はえぬのだが、虎哉は妙な尻の座りの悪さを感じた。
  扇太郎が用意した部屋、庭に面した8畳の座室である。その欄間の角隅に小さな赤い束が括り吊るされていた。それはどう眺めても万願寺や伏見唐辛子ではない。その吊るされ方に、ふと、満州でみた遠い記憶が虎哉に蘇ってくる。あるいは終戦直後の東九条界隈で見かけた赤い影が曳くような気もぼんやりと湧いた。
「 老先生・・・・・、あれ、何やろか?・・・・・ 」
  と、漏らした。香織も気づいていたみたいだ。やはり京都では普段見かけない趣のモノなのであろう。そう言って香織は虎哉の袖口をツンツンと引っ張った。
「 よしなさい香織・・・・・、後にしなさい! 」
  虎哉は手の指を取って、香織へとその手をそっと突き返した。香織はつまらなさそうな顔で鼻をツンと揺らしたが、その場はどうしてかそうする方がよさそうな感じに虎哉はさせられていた。
「 寺の一部屋ではない。裏手に設えた古い数寄屋、どうやら法衣の手とは無関係な別の慣習のモノのようである・・・・・ 」
  神仏の教理とは異なるその特殊な用い方に、ひとまず距離を置こうと思った。
  明らかに日本種とは違う辛みが少ない大きめの唐辛子が魔除けのごとく吊るされている。隣国のそれを感じた虎哉は、トウガラシの赤から視線を逸らすようにして腰を少し泛かし、やゝ体を斜はすに座りなおした。
  正座にはすでに耐えきれぬ片足である。虎哉は座り直しゝつ定まらぬ片足に自らがじれったくて苦笑した。それをみて扇太郎も微笑んだ。
「 まずこの音をお聴きください。水鶏(くいな)鳴くと人の云へばや佐屋(さや)泊・・・・・ 」
  そういうと扇太郎は、一句を引き出した後、ていねいに脇の包み袱紗(ふくさ)を開き、さらにていねいに丸い陶器を取り出した。
  句は芭蕉、丸い緑釉の陶器は水鶏笛(くいなぶえ)である。
  すると扇太郎はかるく口にあて、涼しげにその笛を吹いた。この笛の音を聴かされていると、耳に覚えの湧いた虎哉には俄かに重なり想い泛かぶ一筋の細い坂がある。その坂道は、すでに虎哉の記憶する二人の奇遇な坂道であった。



  日比谷高校の正門前から外堀通りへと下り通じる一丁ほどの坂道がある。
「 これを遅刻坂という・・・・・ 」
  現在は、メキシコ大使館がある舗装された80メートルほどの坂道である。
  大使館の北裏には衆議院、参議院、両議院長の公邸などがあるが、かっては、坂と呼ぶには極短い切り通しの道であった。終戦久しく時を経て阿部富造はまたこの坂へと向かっていた。
  富造の眼に泛かばせるその坂道には、一中が日比谷から現在の永田町の敷地に移転した1929年(昭和2年)以降の人物として水野惣平(そうへい・元アラビア石油社長)、嶋中鵬二(ほうじ・元中央公論社社長)、岡義達(よしさと・政治学者)、木原太郎(物理学者)らの青春期の沓音(くつおと)が記されている。これらの同輩らと共に雨田老人もまたこの坂を歩いた。
  したがって扇太郎が語ろうとする坂道は、今は「 新坂 」ともいうが、旧制一中に係わる世代にはやはり「 遅刻坂 」が好ましい。
「 これは、あのときの坂、そしてあの笛の音だ・・・・・! 」
  にわかに現れた自身の過去の姿を、目の前で露(あら)わにみつめられる人の眼の輝きというものが虎哉には妙に尻をくすぐられ可笑しかった。
「 剃髪の仏頂面に肩首から丹あかい半袈裟(はんげさ)を吊るした、ちょつとあやしいネクタイ姿の老人である。その夜は闇間を濡らす雨夜であった。そして、この笛の音は、たしかにこの耳で聞いた。そうか、あのときの、この音色が、水鶏笛(くいなぶえ)だったのだ 」



  そのとき老人には高みから傘をかざして坂を下りる人影がぼんやりと見えていた。
  白と思えば白、青と思えばほのかに青く、動きに不規則な輝きがある。ときおりくるくると傘を回したりするらしく、暗い秋雨の中に老人は眼を凝らしつゞけていた。
  人ひとりが通れるほどの細い道であるから、坂下でその人影を待つことにしたが、者影が背の高い男だと判る間合いまで互いに近づくと、また同じく老人であるらしきその男は、ふと道中で立ち止まり、ていねいに一礼をするや老人を待ち構えていたかに道を訊(たず)ねかけた。そしてふと高貴な香りをふわりと散らして富造の鼻に飛ばせた。
「 私の道はどこでしょうか・・・・・ 」
  と、背筋をピンと張った隙のない一声の響きである。
  なぜか老人には、ぴかぴかと粒の輝く白い朝ごはんが泛かんだ。焚きしめた虎哉の匂いが朝の白米だとは、おもしろいリアリティーだが、そんな風変わりな臨場感も露(あらわ)に演みせて、ていねいに扇太郎は語り続けた。
「 あなたの前にあります。真っ直ぐにお行きなさい・・・・・ 」
  富造老人は直(ただち)にこう答え返していた。正覚を求めて修行する法師にでも強引に仕立てたのか、それとも坂を下る老人は、上る老人の身なりを暗がりに禅僧だと見間違えたのであろうか。夜道に狸の化かしでもなかろうに。富造は得体(えたい)の知れぬ老人と摩訶不思議な問答を交わした。しかし互いが、ふしぎにきれいに息をのんで、たまたま出逢うことのできた秋雨の白さをひとつ心に大切にしようとする厳粛なほどの姿勢がそこにあった。
  小さなトゲにでもチクリと刺されたかの富造老人が、それでも清すまし顔で脇により、道を譲ると、その老人は深々と一礼を残して静かに下り去った。たしかに阿部老人は頭陀(ずだ)袋をさげ半袈裟を肩首から吊るしていた。虚無僧の類に見間違ったとしても何ら不思議ではない。平然と行くその老人の後影が消えるまでの間が、もし無理問答であれば、すでに阿部老人は敗者となっている。間合いにそんな風が吹いた。そこが老人には嬉しかった。そのとき今晩わ、と声掛けなどされるよりも、老いさらばえる身上を爽やかに見透かされたようで下る老人の影が嬉しさを曳(ひ)いた。だから富造はその老人への返礼としてそっと水鶏笛を吹いた。





「 そう、あのとき、この笛の音を背に、私は坂を下りた・・・・・ 」
  そして虎哉がしばし眼を閉じていると、扇太郎はそこで笛を吹き、また語り始めた。
  小さな茅葺の門はしっとりと濡れていた。この門前に「面会謝絶」の立札がある。
  但し書きには、やはり「 やむなく門前に面会御猶予の立札をする騒ぎなり 」と添えられている。庇(ひさし)からの雨だれが、かすかな光をともなって立札の字面(じづら)をしたゝりながら落ちていた。それらは終戦直後から、四半世紀もそのまゝであった。
  門をくゞるとすぐに手水(ちょうず)がある。薬臼(くすりうす)の刳(く)り貫きを活かした古風なものであるが、左右庵を訪ねる来客は、まず最初にこの手水と向き合うことになる。あるいは問答しなくてはならない。あえて人の道を塞(ふさ)ぐように真正面にそうしつらえてある。
「 これも昔のまゝだね・・・・・ 」
  老人は思わず懐かしさを覚えて言った。この日は午後から雨であったが、冷たさを感じさせない雨である。
  ふと見上げると、黒々と暗い欅(けやき)の梢(こずえ)が、さも蛇の目傘をさしかけるように、陽の消えた雨空を支えてくれていた。初めてみたのは四半世紀ほど前の晩春、たしかあの日は晴天で、満月の夜空を支えていた。終戦後三年のとき、土埃(つちぼこり)をかぶった褪(さめ)た茶のくたびれた軍靴の足で老人は初めてこの庵にやってきた。
  直立する高札は、官弊(かんぺい)大社としての格位が廃止された昭和21年の騒動を記すもので、未だに仮の世の、仮の住いの、仮の札なのである。手水もそのまゝに在(あ)るのだから、老人はしばらく、諸々が語り掛ける景色の前に佇(たたず)んでいた。
  東京大空襲で焦土となった当時、この界隈はまだ人気もまばらで白い蛾がひっそりとした道端の街灯に集まっていたことをよく覚えている。焼失した日枝神社の本殿、星ヶ岡茶寮の痕(あと)もそのまゝに人家もなくあたりは低く風の中に眠っていた。
  左右庵という命名は手水のしつらえ方に現れている。それは客人を、この手水の前で不惑(ふわく)へと立ち変えらせる、能(よく)したしつらえである。戦禍の爪痕の中に、隠れ棲むように逃れて処世の楽しみを風雅に施した、その先代貞次郎もすでに他界して久しいのだが、同時期から老人の足もこの場所から遠のいていた。
  こゝに穢(けが)れを祓う禊(みそぎ)の工夫があることを、鎌倉極楽寺の忍性(にんしょう)に教化されての趣向であることを、先代古閑貞次郎から度々そう聞かされている。以来、好んで老人は足を運ばせていた。
  敗戦の衝撃にうつ伏せしたくなる老人にとって、じっと日本という国と真対まむかう場を与えられたことは、心しずまる喜びの一時であった。終戦の時代とは、限られた眼の行方ゆくえしかなく、誰もが俯きながら暮らす毎日であった。
                              
「 忍性といえば、奈良信貴山朝護孫子寺で文殊の五字呪を10歳にして唱えたという・・・・・ 」
  扇太郎の話が忍性に触れると、虎哉の眼には生まれ在所が泛かんだ。
  忍性は早くから文殊菩薩信仰に目覚めた。
  日蓮から祈雨法くらべや法論を挑まれる。何よりも救済に専念した。
  奈良の北山十八間戸(きたやまじゅうはちけん)とは彼が施設した療養院、在所はその跡に近く虎哉は佐保山に生まれた。当時の奈良坂は、京都と奈良を結ぶ街道沿いにあり、交通の要所であると同時に、賑やかな市中からは少し離れた場所であったため、旅の行き倒れや、はじかれ者、世捨て人など底辺の人々が最後にたどりつくような場所であった。忍性が出会った患者の多くも、もはや体が不自由で、奈良市中へ物乞いに出る事すらできなくなっていて、その事をしきりに嘆いた人々である。
  富造老人が貞次郎のお節介をやわらかき懐紙にくるむように温(たず)ね、できうれば三途の川の渡し場でよいから、また貞次郎という男と相塗(あいまみれ)ることを願うまでに、貞次郎の死後20年近くを費やしたことになる。
  駒丸扇太郎は、こゝまで語るとキュッと拳を握り、庭の方に逸らして眼を遠くした。
  すると二人の会話に交わらなくぼんやりと中庭をながめていたように思われた香織は、どうやら耳だけは二人の口調に澄ましていた。何かと感取りは早く器用な娘ではある。
「 秋子はん・・・・・、富造はんにえらいこと苦労しはったんや。何んぼ家のためいうたかて小さい子やし皆可哀そうやいうてはったそうや。うち、そんなん聞いたことある・・・・・! 」
  と、プィと頬を膨らませてスッと妙な口ばしを差し入れた。
「 香織ちゃん・・・・・、それはねッ。以前に、たしかにそんな話があった。せやけど、阿部家は戦争で男を全部失ったんや。その阿部家は他所の家とは違う。家継がして山端守らんとならん。そらぁ~香織ちゃんの言うのも分かる。そやけども阿部の家ェ残すのは大変なことや。若い人いうたら秋子はんしかおらへん。継がすからには悉皆修行せんことにはどうもならん。あゝ見えても富造はん、孫娘やさかいに手加減してえろう工面しはったんや。阿部家ェ継ぐの、男のわてかてそら~しんどいことや。陰陽博士、わてにかてよう務まらん話や・・・・・ 」
  扇太郎は、せっかちな香織を軽くなだめながら笑った。
「 その秋子はアメリカ、そして芹生の千賀子さんの甥おいの娘、その千賀子の姉が和歌子、そして富造という兄がいた。その富造の上に兄二人、しかしいずれも戦前に他界・・・・・! 」
  虎哉はそう思い起こすと、ふと眼にまた黒牛の鼻先に竹籠をかぶせて、手綱を引きつゝ通り過ぎた少年の姿が泛かんだ。少年といえど阿部家にとって男手は貴重なのであろう。その少年は牛の背に鳩籠を載せていた。そしてあのときもやはり笛の音が聞こえた。
「 少し訊くが、千賀子さんは笛を吹かれるのかね・・・・・ 」
  うとうとと居眠りをはじめた香織に目配りをしつ、虎哉も一つ口数を挿んだ。



「 えゝ、阿部家の血ィは、まず笛で継ぐことになります。私でもそうですが、四、五歳ぐらいまでにまず基本の篠笛、そして次の笛へと、何しろ五十種ほど笛がありましてね・・・・・ 」
  そういうと扇太郎はやゝひくりと奇妙な笑い方をした。
「 じつはその笛のことで、この屋敷に、まあご覧ください・・・・・! 」
  その笑みのまゝ、扇太郎は隣間の襖をす~っと開けた。
「 こゝは阿部家の笛蔵でしてね。笛だけを納めた屋敷です・・・・・!。壁に掛る笛と棚に納めた笛とで約七万種あります。これらは皆、阿部家伝来の品で、その多くが自家手製のモノ、じつは笛の用途は多様、主なものに、大和笛(やまとぶえ)・主笛(おもぶえ)・能笛(のうてき)・狛笛(こまぶえ)・唐笛(とうてき)・明笛(みんてき)・笙(しょう)・尺八(しゃくはち)・天吹(てんぷく)・簫(しょう)・一節切(ひとよぎり)などがあり、手前側の壁に掛る笛が一般的によく知られた篠笛(しのふえ)、これも約二千種はありますか。主笛は、龍笛(りゅうてき)とも呼ばれます。さらに他の用途になりますと擬音笛の、鶯笛(うぐいす)・鶉笛(うずら)・牛笛(うし)・雉笛(きじ)・烏笛(からす)・蝉笛(せみ)・鹿笛(しか)・駒笛(こまどり)・虫笛(むし)、そして先ほどの水鶏笛などがございます。笛は気渦をつくることで音をだしますが、陰陽道家は陰陽の渦音を奏でます。したがって富造さんが博士の背に吹きかけた水鶏の音は、おそらくその陽音かと思われます。もしあの坂道のとき陰音であれば!、雨田先生はすでに鬼籍へかと・・・・・? 」
  別に驚きもせず虎哉はこくりと頷いた。そして遅刻坂と芹生の、二つの笛音を改めて泛かべ、想い比べてみた。そう泛かび立つと、たしかに二つは似通っている。虎哉はもう一度頷いた。
                        


「 香織ちゃん・・・・・、お父さんの笛は、大和笛だったはずだよ。よく神楽笛ともいう。増二郎さんは阿部秋一郎さんに習ったのだ。そしてお母さんも一緒に・・・・・雉(きじ)笛を・・・・・ 」
  そういうと扇太郎は、言葉尻をクッと止めた。そして貌(かお)をハッと赤らめ渋々と固くした。
  塗炭に香織は黒い瞳を丸くした。
  しかし、そんな香織の表情にも、扇太郎は話を先に進めた。
「 ここから先は、昭和という時代が終わるころの話になります。したがって13、4年前のこと。東京の一件から、しだいに奈良に触れることになりますね。そこはまた雨田先生の故国でもありますね・・・・・ 」
  そう言われて、虎哉の眼はさらに輝きを増した。
「 この話は、どこかでM・モンテネグロとの件で辻褄を合せることになるのだ・・・・・ 」
  きっとそうなるのだと思われる。それを確かめる目的で、こうして扇太郎と会っている。
  そもそも虎哉が八瀬の地に、山荘を構えようとした動機が阿部富造と出逢ったことに始まるのだ。虎哉はこれまで心の隅に置いていた、終わらない終戦が明日にでも終わることを期待していた。
  それはまた阿部家の抱えた終戦が、終わることでもあった。そして扇太郎はまた阿部富造に関わる東京の話の先を語りつゞけた。その扇太郎も待ち侘びた今日に拘りがある。
  そして乗って来た黒いセルシオが遠ざかるのを、老人はさも嬉しそうに見届けた。
  その眼差しの裡うちには、ふりみふらずみの間の車窓にかげろうた外苑の残像があり、皇居の森の大きな木の下は、こんもりとした茂みの陰を掘面にうつして、いっそう暗く、小雨にけむるうす暗い空には、古閑貞次郎という傷痍(しょうい)者がかって見遺のこした十月の秋空にでも架けるかに宮城(きゅうじよう)が泛んでいた。
「 阿部富造が新しい生命を生み出そうとすることは大和精神の陰陽性に達することだった。そしてそれは肉体と魂の永遠に近づくことを象徴する。阿部家は陰陽寮博士としての使用力と行使力をもちうるのだから、それは日本社会における至高の幸を意味するにちがいない。富造は皇居の淵に立って、その眼を奈良の青垣へと向けていた・・・・・ 」
  そう思えると阿部丸彦には、富造が乗ってきた黒いセルシオの影が、さも黒い泡音の立つ乾いた車道を回想するごとく、逆回転させながら過去の時間を洗い鎮めるように感じられた。

                     






                                      

                        
       



 昭和の映像