Kの理論 「華麗なるブレイクアウト」 Breakout Magnificent.

脱走・・・ただ道は一つ。いつも道に一人。万人は来ない。脱線し続けるサイボーグ社会からの脱出。

ジャスト・ロード・ワン  No.28

2013-10-07 | 小説








 
      
                            






                     




    )  泥の坂  ①  Doronosaka


  秘太刀(みくにのまち)を握りしめた阿部富造だが、高野川の揺らぎ流れる瀬音が響き、朝まだきころは峰々をたどり比叡山延暦寺まで聞こえるという、清原香織にはその秋子の奏でる神寂びた篠笛の音色が泛かんでいた。
「 斑鳩(いかるが)の午(うま)の骨・・・・・ 」
  法隆寺のすぐ西に広がる西里のこの集落は、近世初期の日本で最も組織的な力をふるった大工棟梁中井正清の育った集落である。南に大和川が流れ、北には法隆寺の裏山にあたる松尾山を中心とした矢田丘陵を仰ぐ。西部には在原業平の和歌で知られる紅葉の名所、竜田川が、東部には「富の小川」として詠われている富雄川が流れる。
  古代の大和国平群郡夜麻(やま)郷、坂戸郷の地で、龍田川が大和川に合流する地点の北西にある神南備・三室山山頂に延喜式内・神岳(かむおか)神社が鎮座する。飛鳥時代には聖徳太子が斑鳩宮を営み、当時創建された法隆寺、法起寺、法輪寺、中宮寺は現在に伝わり法隆寺と法起寺が世界遺産に登録された。
「 正徳太子の薨去後は、太子の王子山背大兄王一族が住んでいたが、皇極天皇2年(643年)に蘇我入鹿の兵によって斑鳩宮は焼き払われ、山背大兄王以下の上宮王家の人々は、法隆寺で自決に追い込まれたとされる・・・・・ 」
  すると斎場御嶽(せーふぁうたき)にいた幽・キホーテは、ふと眼の前の広がる沖縄の闇が途切れて、ふんわりと紫煙のシャボン玉で包まれた中に、笛の音に踊るようにして二匹の蝶が羽ばたいていた。
「 ああ、あの鳩は、斑鳩を具象するもので、あったのかも知れない・・・・・ 」
  比江島修治は、かって阿部秋子との接点にそんな白い翼の記憶を持っていたのだ。
                                           
              



  あのとき阿部富造は伊勢の亀山を想い起こして、日本武尊の白鳥を泛かべたのだが、と、修治がそれをじっと感じて胸に拾い上げようとしたことを瞬時、幽・キホーテは脳裏に白いその姿を過(よ)ぎらせたのである。
「 あのとき秋子は、レイモンド・ロウィーの小鳩を指先でたゝいた・・・・・ 」
  彼女は軽くポンと爪弾くようにノックした。むろん、応えるはずもない。ノアの方舟のくだりで帰還する逸話の鳩である。このときクラムシェルの藍箱には、まだ残り五羽の鳩がいたはずだ。その一羽の頭を爪先でつまむと、彼女はピッと引き出した。
  もちろん、飛べるはずもない。鳩は身を火炙りにされる順番を、たゞひたすらと待っているのだ。修治の鳩は、我が身を荼毘に差し出せば大空へ飛ぶ自由を貰えることをよく自覚していた。それが買われた鳩の認識というものである。鳩は資本主義社会の常識を心得ている。
  彼らは火を神と崇める「 Tues Muslims 」なのだ。藍箱の方舟は教会である。
  殉教の道を歩もうとしていた。毎日二十羽が天昇する。
  しかし、彼女につまゝれた一羽は驚いた。残りの四羽は次ぎもそうするのかと愕然とした。火炙りを待つ鳩は、火を灯されることもなく、たゞ無用で不要な棒切れのごとく転がされた。
  秋子は静かに修治の愛用するショートピースを自在に転がしたのだ。転がる鳩は拝みながら眼をたゞ閉じていた。そのとき修治は煙草を一服し、彼女の白い爪先がする始終を眺めていた。
  飼うために箱に入れているのではない。空へ放つために買ったのだ。

          

  そのまゝ放置された鳩は、さり気なく修治のポケットに入れ、一時間後に空へ放したのだが、比江島修治が保有するアルゴリズムの色見本には、阿部秋子の転がしたその色がない。
  幽・キホーテは今、その細い指先の静かな「 わが衣手は 露にぬれつつ 」という哀れ香が果たして何色であったのかを漠然と想像している。あのとき、姿見の中の老婆を見て、阿部秋子は仰天したではないか。修治はあの顔色を見たのだ。
「 ああ、血のような空の色 」
  と彼女は叫び、両耳をギュッと圧さえ、顰(しか)めた小顔の眼を一瞬丸くした。
  その歪んだ顔を見詰め終えてみると、秋子はあどけなく笑い飛ばした。
  そうして「 今日も秋色やねッ 」と明るく爽やかに言う。
  秋子のこれが日常の遊戯である。そうすることで秋子は気分を切り換え、実際それによって新しい知識を効率的に蓄えていき、人生を面白く進捗させることができたのだ。
                              
          

  秋子の「秋」は祖父の清太郎が与えたという。雁が音の羽擦れすら淡く感じさせサラサラと光る栗梅の髪は母から貰った。
「 手短な平和・・・・・ 」
  秋子はそう言ってテーブルの上でショートピースを転がした。
  上句だけポンと転がして煙草を喫うとは文句なく斬新で意外だった。
  和訳して喫煙をいとも美しく咀嚼(そしゃく)してしまったのだ。
  たゞの紙切れが風で空へ飛ばされるように、いとも簡単に比江島修治の定形が崩れ落ちた。
  修治はその風圧でしばらく不正咬合の状態であったが、さりげなく手短でいかにも物臭なその言葉使いの妙な紫艶に巻かれながら修治はまたしばらくのまゝその軌跡の幽さに曵かされていた。
  やがて朝露の滴る窓ガラスの上に、秋子の白く細い指先が手短な平和という文字を描き、手招きで誘う夢をよくみるようになった。以来、神妙なその潮騒の揺らぎに修治は曵かれ続けている。





  そんな秋子と逢う度に、比江島修治は、赤鉛筆でラインを引いた高校当時の、すっかり変色した古典の教科書をいま怖るおそる開いてみると、まるで紅葉が降り落ちた跡が、古細菌の化石のようになっているかのような錯覚を抱いてきた。
  微化石として多産するもの以外については、通常、断片的な知識しか得ることができないが、化石として生き残る生物は偶然に左右され、その身体の部位、条件、その他きわめて限られた場合だけである。しかし秋子の場合は「種」とよばれる連続群によって最も意味深くあらわれた標本に触れるようであったのだ。
  そこに歯ぎしりするマルテルの顔が現れるかと思うと嬉しくもあった。
  祖父の名の「秋」を引き継いだことがそうである。祖父の本名は清太郎であるが、阿部家の嫡男は代々「秋一郎」を世襲するという。戦禍にて嫡男の生存を危うくしたという体験から、祖父は子女にも秋の名を残そうとしたこともあるようだ。また、栗梅の髪を母から貰ったことがそうである。 さらに、父譲りの白い指先がそうである。何よりも秋子が白露月に生まれたことがそうである。そうして白秋の詞をよく歌うことがそうである。
「 生まれ落ちた地の「生命」やその「命名」とはすでに生きる化石であろう・・・・・ 」
  修治は、その秋子の名に赤い潮騒のような緩やかで懐かしい日本の音を幾たびか聴かされた気が、生半可じゃなく絶対にするのだ。
  秋子という数奇な女が抜群に面白く滑稽な古風の存在ということもあるが、日本人にはどうしても硬軟両義の感慨をともなって語らざるをえない「秋」という主題に、ひたすら一心に向かっているところがたいそうロマンチックに見えていた。また一途にも見えていた。
                                 
  可視化ではそう白くみえる。だが御嶽から覗く不可視化では青白く感じるのは一体どうしたことか。
「 裏返せばこれは、明治維新における日本人が見誤って假定(かてい)した一つの青い照明なのであろう。それを踏襲した戦後の日本は、せわしくせわしく消滅させようとしている。新たなジステンバーの猛威とも知らずに、いかにも、もっともらしく灯り続けているのではないか!。幕末までは日本オオカミは生存していた。彼らが滅亡したのは明治になって異国よりジステンバーが襲来したからだ。青い輝きはこれと等しいウイルス性疾患の感染色帯ではないのか・・・・・ 」
  秋子が転がした白い鳩が、幽・キホーテには羽を散らされて青白く輝いて見えるのだ。
  そしてその眼には滅亡したという日本オオカミ、耳にはなぜか慟哭の遠吠えが聞こえてきた。
「 阿部秋子の留学先である北米を追いかけた、あの黒丸は、あの後一体どうしたというのだ・・・・・! 」
  しだいに修治の脳裏では、安倍家に伝わる陰陽の黙示録をめくり始めていた。
                          


「 ああ、東京の書棚に、秋子から借りた一冊の古本がある・・・・・ 」
  借りてからもう十数年、借り忘れでもなく返さないでいる。それは河井寛次郎の『火の誓い』という一冊だ。
  後、数年すると紅蓮の赤シャツを着せてあげたい。その姿で一緒に散歩でもしよう。長らく生きてみて、そろそろ一つに生まれ還る、そんな年齢の古本である。
  彼女は返却を迫る質(たち)ではない。もう返さないことに決めた。
  そもそもこの一冊が秋子との馴れ初めであった。妻の沙樹子には悪いが、これこそが絶えない潮騒の独り占めのようで、今さら返せないのである。未だ返せない事情が、じつはもう一つこの本にあるのだ。
  河井寛次郎の『 ・・・・・これこそ病む事のない自分。老いる事のない自分。濁そうとしても濁せない自分。いつも生き生きとした真新しい自分。取り去るものもない代りに附け足す事もいらない自分。学ばないでも知っている自分。行かなくても到り得ている自分。起きている時には寝ている自分。寝ている時には起きている自分。「 火の誓い 」・・・・・ 』という本にある下りである。
  この辺りの寛次郎が言い聴かせる問答が何ともじつに奥が深い。

                                 

  真っ向から渡り合うには、分かち合うだけの想像力が問われ隔たりを埋め尽くす間を修治は自覚せねばならなかった。
  そうした自覚を導くには、さしづめ道元禅師の言葉「 自己をはこびて万法に修証するを迷いとす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり 」に突き当たることにもなろうから、いずれ秋子に案内を頼み、駒丸家とは結び付きの深い修学院の赤山禅院にでも訪ねて、千日回峰行の大阿闍梨による八千枚大護摩供の加持・祈祷の比叡術など請い学べねばならないと考えていた。
  赤山禅院(せきざんぜんいん)は比叡山の西麓にある延暦寺の塔頭である。
  慈覚大師円仁の遺命により888年(仁和4年)天台座主安慧が別院として創建した。




  本尊は陰陽道の祖・泰山府君(赤山明神)、かけ寄せの神として、また、京都の表鬼門にあり、王城鎮守、方除けの神として信仰が厚い。拝殿屋根に瓦彫の神猿が京都御所を見守っている。これは阿部家とはじつに親しい神なのだ。 この方除けの神として、古来信仰を集めた拝殿の屋根の上には、京都御所の東北角・猿ヶ辻の猿と対応して、御幣と鈴を持った猿が安置されている。
「 あんた、猿にでもならはるつもり・・・・・ 」
  かと、 秋子はきっとそう冷やかしてから承諾しようかと、問答の一つでも仕掛けてくるに違いないのである。そこに説き伏せの備えがいる。何かとてんごしたがる質であるから秋子との問答を、修治は用意し、まずその門をすり抜ける必要があった。
「 禅院の猿と、寛次郎が自宅に置いた猫とが問答する 」
  と、さて軍配や・・・・・いかに、とでもなろうか。だが、おそらくこれは理屈なく即決する。
  手に何も持たない寛次郎の猫に、やはり軍配が挙がる。猫は一言も口を開かずとも猿に優るのではないかと比江島修治はそう考えている。しかし、比叡山延暦寺の千日回峰行においては、そのうち百日の間、比叡山から雲母坂を登降する「 赤山苦行 」と称する荒行がある。これは、赤山大明神に対して花を供するために、毎日、比叡山中の行者道に倍する山道を高下するものである。
  かけ寄せの神仏として人を招くとは、屁理屈がどうにも鼻や耳に障る。かけ寄せは、五十寄せとも五十払いともいい銭をかけ寄せ、五と十のつく日に集金や支払いを行うというもので、京都をはじめ関西では集金日を五十日(ごとび)と隠に称する商いの手習いが産まれ、これを赤山明神がかき寄せた。神仏に仕える身が民衆の銭集めを先導するとは、この本末転倒の屁理屈を、禅院は法衣で平然と語り過ぎる。禅院の猿が手にする御幣と鈴は、銭かき寄せの無慈悲な旗に過ぎない。

                             

  自らの巧(うま)さを人に悟らせぬのが、本物の名人だ。知るものは言わず、言うものは知らずという。物事を深く理解する人は、軽々に語らないものである。磨きあげ積みあげた研鑽と技術をひたすらと庶民の幸福へと捧げ、市井の人であり続けた寛次郎とは、民衆の民芸に心優しい職人であり、それがための哲人であった。そうした彼の作品は、未来の民芸への温かい視線に培われた。 明治という洋風偏向の真下(さなか)、日本民芸に新たな装いを加え、和を厚くするなどして風前の灯であった陶芸の弱さを補強してみせた。
「 色彩もなく、手には何一つなく、眼を上げて何をかを招く、この男が置いた語らない猫 」
  改めてしんみりとそ思う修治は、そっと出窓を開くと、青のなかに白さをつよくしばるような高い空に向かってそのまゝ眼を西の彼方に遠くした。修治は、そう思った秋の日のことを眼に泛かべた。
  鯖雲のふらりと流れる空である。そこに、眼をそうさせていると、自らが足を運んだ35年間の京都への道を想い起こし、しだいに初めて阿部秋子と出逢った五条坂や、二人して歩いた京の都の細道が想い泛かぶのだが、五条坂の出逢いの記憶と鮮やかに結びつくもと言えば、それはやはり秋子の篠笛であった。
「 あの寛次郎の猫が、秋子の笛に合わせてスイングする・・・・・! 」
  修治の記憶を泛かべると、幽・キホーテは躍動するかの猫のトキメキを感じた。

                    


「 野の花のごとく・・・・・か 」
  あのとき、ひょいと笛の音がどこからか聞こえてきた。
  最初は祇園の祭囃子かと思ったのだが、しかしその手の鳳輦(ほうれん)に踊る節音とはどことなく違う。修治はいつのまにか佇み、しばらく野の風に揺らされる心地で神妙な笛の揺すぶり遊(すさ)ぶ音を聴かされていた。踊るでもなく、雅びるでもなく、侘びるでもなく、鄙びるでもなく、錆びるでもなく、市井の明暗から漏れ響く五感の音とはどことなく無縁のようで、どうにも裸体にさせられる。柔らかくはあるが人への手加減などない、それは逆しまに吹き野晒しに荒ぶ風神であった。
  あのレイモンド・ロウィーの小鳩をたゝいた指先と、あの人への手加減を感じさせない野に逆しまに吹き荒ぶ風神を操るような篠笛の指先と、やはりあの二つの白い指先が、高野川の春の流れに浮かんでくる。たしかにあのときは、野の風に揺り動かされる心地がした。
  修治はショート・ピースに火を点すと、いつもその燻ぶりが眼に顕れてくるのだ。
                                   


「 まだあどけない15歳ほどの娘が・・・・・ 」
  あの手の篠笛をどう習い覚えたのかは不明であるが、陰陽寮の阿部家の孫である秋子が宮家の影響を受けたことは間違いない。しかも、あのとき「 野の花のごとく 」という表現はそもそも可笑しいと、秋子にはクスクスと笑い返され、会釈とでも思ったのか軽く弾かれた。たしかに秋子は当時から世間摺れした少女ではなかった。
「 それでは、キリストはんの、あの聖書のフレーズといっしょや 」
  と、 そうあっさりと、機嫌良く微笑まれて、す~っと脇に置かれてしまったのだ。 だが、そう言われてみると、逆にそうされた去(い)なし方に薀蓄(うんちく)の一味がある。修治には益々讃美歌のように聞こえた。
  京都という市井の形成には、多くの社寺や宗派が深く関わっている。
  そうした仏派の中でも真宗は、プロテスタントと類似するではないか。京都人の質素・節約といった生活倫理の源泉を、その真宗の教えの中に見い出せば、市井にあって多様の商いに従事し、それぞれの家業を全うすることこそ凡夫の仏道と説いた蓮如の教えは、プロテスタンティズムの倫理が資本主義の精神を生み出したとするウェーバーのテーゼと、二つは結ばれて似たるものとして重なるのだ。 実際、京都の気質にはそうした宗教の基層があるではないか。またこの基層の上に、秋子のいう言葉もある。どうもそう感じたのだが、またそう感じさせる少女の妙に揺らがされた。
  宮家なら営みの目線は常に大君なのであろうから、キリストとなれば讃美歌そのものである。
  秋子の笛はシンプルな旋律ではあったが、微妙な抑揚をよく拾うと、深々と静謐(せいひつ)の漂うその曲の調べは「 野の花のごとく 」風にそよぐ草むらの野花そのものであった。



「 美(うるわ)しのさくら咲く林ぬち・・・・・ 」
  自然とついて出た歌詞を呟くと、これは都内桜美林中学の秋子は到底知らないであろう古い時代の校歌なのであるが、これは駒丸慎太郎の父誠一がよく口吟(くちずさ)んでいたという歌で、ふと過ぎる慎太郎の思い出のその記憶とも、秋子の篠笛の音は修治の脳億でピタリと重なってきた。篠笛は旋律であり、旋律と詞を切り離せる人はいいが、修治は切り離せない。そう秋子には説明した。するとどうだろう彼女の笑顔たるや、それまで笹ゆりの慎ましき常態だった筈の顔が、まるでカサブランカが突然咲いたような別顔の綺麗で鮮やかな艷めきをみせた。
「 笛を愛でるにも、そんなルールがあるのですね 」
  と、一転して上品に切り返し、魂でも行き来させるかのように声を弾ませたのだ。
  秋子はさも虫の歌声を楽しむように、笛の音を楽しもうなんて、風流な人ですねと能(よく)した言葉遣いでそう言った。しかし修治はそう仕切られたことに思わずハッとした。秋の虫を籠で楽しみ、風流に愛でようとするのは都人の十八番(おはこ)ではないか。それでは上手に修治が仕返しされたことになる。だがそれだけでは秋子の嬉しい仕返しは終わらなかった。
  篠笛を仕舞い入れようと秋子が手にした西陣の筒袋の直ぐ脇に、目敏(めざと)くみると三品の湯呑が黒漆の丸盆の上にシャンと佇んでいる。その佇まいが洗練を感じさせた。門外漢の修治が眺めても、その陶器である湯呑は、その場に似合う景色を創りシャンとした姿勢で佇んでいた。お世辞抜きに正直そう思えたし、ありていの直感として素直にそう感じた。何か簾(すだれ)越しに中庭を見るような風通しのよさを感じさせたのだ。そうした修治の視線を鋭く感取った秋子は、篠笛を仕舞い終えようとした手をピタリと止めて、さも嬉しそうな笑みを零しながら、丸盆ごと修治の手前にす~っと引き寄せた。瞬間、互いの頬と頬とが擦れそうになり、修治にはたしかにそう思われたので、一抹の危うさを感じ、咄嗟に彼女の頬を片手で遮ろうとした。
  しかし彼女の所作は、片手をスルリとくゞり躱(かわ)し、はしゃぐような素早さで瞬く修治の顔を横に向かせると、さらにその耳元に頬を寄せて密やかに囁(ささや)いたのだ。



「 これ、秋の賦(くばり)という名のゆ・の・み・・・・・ 」
  と、だけ囁かれて、秋子のつるんとした指先は湯呑の中をさしていた。
  そう促されて湯呑一つを強ばる手のひらに乗せられてみると、意外にその陶器の肌触りは軽やかで、仄かな温もりを帯びていた。しかも万辺なく枯れた秋景色を眺め見渡すと、誰にでも分る描かれ方、あるいは巧みな削り方で、湯呑の底に澄み透る羽をしてくつばる一匹の蟋蟀(こうろぎ)が、さも草場の陰で啼くかのように棲んでいた。そして一言、湯など注いで殺さないでと言った。
「 そうか、湯を入れると、蟋蟀が死んでしまうよねッ!・・・・・ 」
  と答え返すと、一度小さく頷くが、さらに首をさりげなく左右に振った。
「 死にはるのも、そうやけど・・・、湯ゥ注ぎはると、黄蘗(きはだ)の釉薬が効かへんようになるんやわ 」
「 えっ、効かなくなる・・・?。綺麗に効いているようだけど・・・・・ 」
「 そうやないわ。この釉薬なッ!、菩提樹の涙やして、私(うち)それ入れてるさかいに、湯ゥ入れはると菩提寺の声消えてしまいはる。そしたら、ほんに可哀そうや・・・・・ 」
  今、その湯呑の蟋蟀が、比江島修治の書棚の硝子ケースの中に棲んでいる。書斎のそのケースだけは常秋の国だ。春開く小さな硝子戸の密かな楽しみがある。何よりも妻沙樹子が秋の訪れを喜んでいる。



「 いつもよりうまく作れた気がする 」
  と、あの時、じつに福々しい笑顔で陶器を手にして、寛次郎作品の魅力を伝えることに夢中にみえた秋子の姿が愛らしくある。しかしそんな彼女と出逢ってから、また方々を訪ね歩くまでの間、寛次郎という男の作品を見定めるようになる修治には、そこに至る半世紀ほどの長々しい見極めにのめり込む道程があった。
  床屋に行ってバリカンで刈り上げた後、修治は五厘の頭をスウスウさせながら書店の片隅で文庫本を手にとり、中学生だから無心で小銭を数えつゝ、さんざん迷ったすえにやっと念願の一冊を手にするくらいなのだが、それでもその一冊を箱詰めのダイナマイトのようにもち抱えて部屋に戻ってページを開くまでの出会いの緊張というものは、今でも思い出せるほどに至極ドギマギさせるものであった。
  秘密のトンネルにこっそりと足を踏み入れ、宝石箱の鍵を密かに握りしめている、そういうドギマギの繰り返しによって修治は、古い時代の生き物の死がいは、海や湖の底にしずみ、砂やどろが積もった層にうずもれていることを知ることができた。
  15歳のころの文庫本とは、一冊ずつが予期せぬ魔法のようなものである。装幀が同じ表情をしているだけに、ページを繰るまではその魔法がどんな効能なのかはわからない。さまざまな領域を横断し、しだいに修治は志賀直哉の『 城の崎にて 』や里見トンの『 極楽とんぼ 』岩波文庫などともに柳宗悦の中公文庫『 蒐集物語 』に耽った。
  少年にとってそれら白樺派の一ページ一ページが霞んだプレバラートなのであるから、それはそれで記憶の粉塵のなかを歩くようで、じつに懐かしい。いつしか白樺派云々の垣根を越えて明治・大正という時代に癒される懐かしさに共感を抱いた。
  そうさせた懐かしさと言えば、白樺派作品を読み足していくと、柳宗悦から派生して引き出された河井寛次郎とう男の存在に注目するようになったことだ。つまり生活に即した民芸品に注目して「用の美」を唱え、民藝運動を起こした同志たちに強く感心を抱きはじめた。
  同志を一つ完成するには、長期の期間を必要とする。想像力を全開して構想を組立てるのに手間がかかるし、そうやって築かれる物語の基礎の部分は、丁寧に調べ尽くした現実的な細部に、支えられねばならない。良書とは何よりそうした堅苦しく思われるところから綺想に富むアイロニーが加味されることになる。
  柳宗悦という男はそういう方法を踏みはずさなかった。
  朝鮮陶磁器の美しさに魅了された柳は、朝鮮の人々に敬愛の心を寄せる一方、無名の職人が作る民衆の日常品の美に眼を開かれた。そして、日本各地の手仕事を調査・蒐集する中で、1925年に民衆的工芸品の美を称揚するために「民藝」の新語を作り、民藝運動を本格的に始動させていく。

                              



  柳宗悦の朝鮮陶磁器や古美術を収集した幾多の話などを漁り手繰ると、民藝運動のそこから波打つ人脈の一人が泛き彫りとなって、比江島修治の眼の中に潜在し燻るそれが京都の河井寛次郎であった。
  阿部秋子の篠笛に乗せて、寛次郎が生きた面影を思えば、この男もまた風神のようである。そこに秋子の言葉を借りるなら、寛次郎の作品は、ゆく春の賦(くばり)、くる秋の賦を訴訟させている。
  気随な旅人のように、たゞ漠然と京都を訪れたわけではない。
  ささやかな糸口でも丹念に掘り起こせば、万に一つの手掛かりを得ることになる。考古学は最初の入口がすでに迷宮である。手数足数を重ねながらも、報われることは当初から切り捨てている。常日頃、修治はそんな迷宮の暗渠の中で地道に手探りの作業をし続けてきた。
  その修治は、長年さる植物に適する土壌を探し求めてきた。
「 あのとき・・・の、あれが・・・。私に、夏の賦(くばり)を告白していたのかも知れない・・・ 」
  振り返ると、聞き漏らした声が、ようやく産声を上げたように思えた。
  聴くとロウソクの光でもきらめくような音色だが、どこか悲しみも帯びて聞こえる秋子の笛の音を、静かになぞりながらショート・ピースをくゆらせていると、やはりそう思われてならない。人は、たしかに、どこかの土の上に立っている。その土は干からびてから香気を立てるのだ。しかしその香気は常に地底深くにある。修治はたゞ掘削の地点に立ちたかった。

                  

「 菩提樹の、黄蘗(きはだ)の釉薬か・・・ 」
  秋子から貰った蟋蟀の湯呑をそっと握りしめた。
  握りしめると微妙に指先が震える。この土の匂いは、そこにまた風神がいることを感じさせる。神寂びて感じる漂いを人の数式で割り出せぬのと同じように、風土という匂いは、人の理屈なのでは成立しない。指先が改めてそのことを感じ取っていた。
  風土を、理屈なく人は特定して嗅ぐではないか。やはり秋子のように、そこに風神を立て、風袋で煽られた風が風土を焦すものだとすれば、固有の匂いが香りたつこともあろう。すると、やはり風神は本能として風土のなかにいる。修治はそんな仮説を立てると、す~っと鼻から紫煙を吐いた。ある特殊な匂いが、修治に五条坂のモノだと直感させたのは、古い文芸誌の対談をスクラップにするために切り取ろうしたとき、ふと眼に止まった「 その土を、泥鰌(どじょう)は好んで食べていました 」という男性の言葉であった。
  比江島修治はこの一言から五条坂を訪ねようと思い、しかし未だ探し求めて歩き続けている。終点はもう少し先にあるようだ。くゆり昇るピースの紫煙にそんな五条坂が泛かんできた。
                            
                    

  関東という東京からは箱根で関西となる。長いトンネルをくぐる辺りから京都駅に着くまでに関西の泥鰌について考えていた。駒丸慎太郎の父誠一は京都伏見の育ちである。その伏見から南に淀川を越えて巨椋池(おぐらいけ)はほどなく近い。学童のころ駒丸誠一はその巨椋池の痕(あと)でよく遊んでいたという。
  ある日、慎太郎は新幹線の車窓に父誠一の思い出話を泛かべては面影を痛く感じたそうだ。
「 私(誠一)は子どもの頃、よく泥鰌(どじょう)を掘った・・・・・ 」
  池のすぐ脇に、水のなくなった田んぼに小さな穴がある。そこを掘っていくと泥鰌がいる。かなり太い泥鰌が捕れた。あれは冬眠しているのだろうか。泥鰌も随分と災難だろうよね。
  小学校から帰ると直ぐに、友だちの幸太郎と、弘子と、「 ドジョウ掘りにいこか 」などといって、ブリキのバケツを持って稲の刈り取られた田んぼに行った。穴を見つけそこを掘ると必ず泥鰌がいた。何匹か捕ると飽きてしまって家のほうに戻り、ベーゴマとかビー玉などをやった。しかし少し大人になって京都の歳時記で「泥鰌掘る」を見つけ、ふと、また泥鰌を掘ってみたくなった。
  泥鰌掘る、は季語として使われる。そう書いてある。冬になると泥鰌は田や沼や小川、水溜りなどの泥の中に身を潜め、冬期は水も涸れているので、泥を掘り返して容易に捕えることができる。だから、冬の季語だという。
「 だがな。これは少しおかしな話だと思った・・・・・。巨椋池の跡地辺りでは、夏場でも掘るとよく泥鰌は捕れた。たしかに冬場は田んぼを掘ったが、夏場は沼地の泥を掘ると泥鰌はいたよ 」
  四条河原町から鴨川の右岸を下りながら、三十三間堂付近まで、修治は慎太郎の父がそういう泥鰌のことを考えていた。
「 夏場に掘っても泥鰌は捕れる・・・・・! 」
  どじょうの歴史的仮名遣いは「どぜう」とする。この「どぜう」は江戸時代に鰻屋の暖簾や看板にそう書かれていた。しかしそれ以前の室町期、文献に「土長」「どぢゃう」の表記がある。だとしたら「どぜう」に泥鰌の起源を求めてもさほど意味はない。また泥鰌は、泥土から生まれる意味で「土生(どぢゃう)」ともいう。その泥鰌が水中の酸素が不足する夏場の池を掘ると捕れたと慎太郎の父はいう、そんな小椋池の泥鰌がいることが不思議であった。
「 泥鰌は池の泥を食べれるのであろうか・・・・・? 」
  巨椋池は干拓されて農地ではあるが、往年は多様な動植物の生息地として、豊かな環境を育み多くの人に恩恵を与えてきた。歩きながら泥鰌が一体何を食べていたかを考えていると、もう目前は五条坂であった。清水寺に程近い、東山五条。大通りからひと筋それて路地に入ると、そこは静かな住宅街である。河井寛次郎記念館はその京都五条坂にある。

                              


  車一台がやっと通り抜けられるほどの狭い道沿いに、鐘鋳町の古民家が建ち並んでいるのだが、いかにも人通りが少ない若宮八幡宮を少し南に入ると、京都の人々の生活に溶け込むようにして閑静に建っているのが、かつての寛次郎の住居である。タクシーの運転手に「 東山五条西入一筋目下がる 」と伝えるとよい。寛次郎が他界したのは1966年(昭和41年)11月のことだが、その9年後の昭和50年、比江島修治は四条河原町からとぼとぼと歩いた。建仁寺を過ぎた辺りから徒歩10分ほどであったろうか。
  記念館は昭和48年に公開された。修治はその二年後に訪れたことになる。
「 阿部富造が斑鳩で午(うま)の骨を拾い直したとき、雨田博士は(ほ・の・ほ・の・ほ)と吐息を漏らした・・・・・! 」
  そう感じた修治である幽・キホーテは、河井寛次郎記念館のある京都五条坂の界隈、そして祇園祭の7月に暮れる落日の光景をふと泛かべた。そうすると雨田博士のいう、河井寛次郎の腹にある泥の湖(うみ)で一匹の泥鰌が泳ぐ光景が五条坂の夕暮れに重なってきた。






                                      

                        
       



 河井寛次郎記念館









ジャスト・ロード・ワン  No.27

2013-10-07 | 小説








 
      
                            






                     




    )  午の骨  ②  Umanohone


  古事記の中巻に倭健命(やまとたけるのみこと)の望郷歌で「 倭(やまと)は国のまほろば・・・ 」とある。
  この健命の人生こそ悲劇そのもので、この歌は彼の辞世である。
「 この歌は大御葬歌だ。天皇の葬儀に歌われる 」
  富造はおもむろに東へと向き直り、足を止めて伊勢・亀山の能褒野(のぼの)の地を泛かばせた。
  久しく足が遠のいていたが、古事記の舞台をはるばる訪ね、あるいは対峙するようにたたなづく青垣を望郷する人の肖像を描き出そうとすると、今はひからびてみえる奈良の盆地が、いかにも瑞々しく見えてくるではないか。
  ここのところが古事記という作品の中巻を成す富造にとっての要(かなめ)なのだ。
  その源泉は現在までの阿部家に息づいていた。
  子代にしか見えぬ風景がある。それは現代人に、あたかも直じかに創世の絵巻を見せつけているかのようで、まことに迫力に満ち、息継ぎさえ許してくれないほど、不易なる時の筆捌(さば)きが感じられ、異国にて白鳥となって果てるしか手立てのなかった人の哀しみが鮮やかによみがえるのである。
               


  八瀬童子はそれと同じく小さな哀しみに生きている。これが一つには古事記のもつ底力であり、ひからびた奈良の魅力なのであろう。富造がそうしたことを確かめるための法輪寺とは、法隆寺の夢殿、中宮寺の前から北へ約10分ほどのところにある。
  しかし、斑鳩(いかるが)の里の小道を歩き、法輪寺、法起寺をたずねる人影は、今はあまりないようだ。やはり法隆寺にて見疲れをして、その多くが奥を見過ごしにして戻るのであろう。春の斑鳩は、まず虚空蔵(こくうぞう)をみて、春の芽ぶく法輪寺あたりから、きた春泥の道をみかえれば法隆寺の塔がひときわ輝いてみえるのだ。
  この哀しみには誰もが、この次はきっと、法隆寺を素通りして法輪寺を志した方が、どれほどのびやかであろうかと思うはずだ。そうした哀しみは、北に座して朱雀(すじゃく)を守護する天使の哀しさであった。
  そして虚空蔵は淡々として掴みどころのない表情で立っていた。
  虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)という修法は、頭脳を明快にし、記憶力を増大させる法力をもっているという。大和法輪寺の虚空蔵は、大変すなおな六等身の立ち姿である。だから、他の飛鳥像よりその法力もさらに自由自在なのであろう。飛鳥(あすか)の匂いは面ざしに濃いが、相変わらず斑鳩のそれは、まったく素朴な木像であった。



  このうつし世に立ち、その何気なく上むけてさし出した右のてのひらに、今まで有ることも知らないでいた、虚空とやらが確かにのせられていた。富造はのせられている虚空を確かに見た。そんな仏の法力に茫然として、ながめて苦しくなるような御光にくるまれていると、小石をぶつけられたように苦々しくさえ思う怠情さの中で、仏の仕事とは、人の心に石を投げつける仕事なのだ、と、それがわかる。
  するとその石を抱きながら、正しいことをくりかえし言う、この世にある人の言葉を、噛み刻みながら、石を投げた仏の前に衿(えり)を正して座ることになる。奈良とはそうした富造を蘇らせてくれる国なのだ。阿部家の先祖代々がそう教わってきた。
  538年( 日本書紀によると552年。元興寺縁起などでは538年 )、百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典、仏具などを献上したことが仏教伝来の始まりとされている。
  その後、公伝によると、推古天皇の時代に「 仏教興隆の詔(みことのり) 」が出され、各地で寺院建設も始まるようになる。命ある者がこの世で受ける恩の中でも最も大切な親の恩に対して、感謝をし冥福を祈るために仏像を身近に置きたいと考えた。これが日本における仏教信仰の始動であり、その仏教は、まず飛鳥から広まり斑鳩へと継がれた。
  そう語り詰めた扇太郎は、少し間を置くとかるく唇をなめた。すると虎哉は、その一瞬、鋭く眼を光らせた。
「 そうか・・・・・、午(うま)の骨か! 」
  虎哉はおのれの記憶と向き合うかの声を甲高くあげた。
「 えッ、どうして・・・・・それが・・・・・」
  扇太郎には虎哉のその声が、横紙破りのように響いた。
  法隆寺を総本山とする斑鳩の里の、法起寺、法輪寺、門跡寺院の中宮寺などの末寺は、聖徳太子を宗祖とする聖徳宗であるが、この宗派創建の基もといには係わる一冊の本があった。
  日本国内で現存する最古のその本は、かの聖徳太子の自筆だと伝えられる『 法華義疏(ほっけぎしょ) 』である。
  伝承によればこの本は、推古天皇23年(615年)に作られたもので、日本最古の書物だとされている。
  日本書紀によると推古天皇14年(606年)聖徳太子が勝鬘経・法華経を講じたという記事があることもあり、法華義疏は聖徳太子の著したものと信じられてきた。そうであるならば、この本は、現存する最古のモノであると同時に、残存する日本最古の写本形でもある。 つまり中国の書が600年ないし607年の隋との交流から日本にもたらされ、これらを聖徳太子が写し著作したことが推察される。
  また、このようにして太子が写し執った法華義疏とは『 三経義疏(さんぎょうぎしょ) 』の一部でもある。



「 富造さんは・・・・・、それらの書と、八瀬に伝承される諸紙を、重ね合わせるために、法起寺あるいは法輪寺を尋ねたのではないのかい。どうもそんな気がする・・・・・ 」
  塗炭に扇太郎を圧倒させた虎哉の喋りは、数多くの臨終に立ち会ってきた医師が説く最期の匙でも投げる宣告ような鋭い響きを伴って扇太郎の耳を叩いた。虎哉のそういう三経義疏とは、「 法華義疏(ほっけぎしょ) 」、「 勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ) 」、「 維摩経義疏(ゆいまきょうぎしょ) 」この大乗仏教経典三部作の総称であるが、この、それぞれ法華経、勝鬘経、維摩経の三経を写し、注釈書( 義疏・注疏 )として書き表したモノの一部が法華義疏なのである。
  現在では法華義疏のみ聖徳太子真筆の草稿とされるものが残存しているが、勝鬘経義疏、維摩経義疏に関しては後の時代の写本のみ伝えられている。虎哉はそろそろ確信を得たようだ。こうなると、虎彦は逆説的に語りはじめた。 厩戸皇子(うまやどのおうじ)である聖徳太子は、このように仏教を厚く信仰した。聖徳太子自筆とされている法華義疏の写本(紙本墨書、四巻)は、記録によれば天平勝宝4年(753年)までに僧行信(ぎょうしん)が発見して法隆寺にもたらしたもので、長らく同寺に伝来したが、明治11年(1878年)、皇室に献上され御物となって秘蔵の品されている。
  元来、「本」という漢字は、「 物事の基本にあたる 」という意味から転じて書物を指すようになった。古くは文(ふみ)、別に書籍、典籍、図書などの語もある。そんな虎哉の解き明かしに、逆に扇太郎が身を乗り出してきた。
  英語のbook、ドイツ語のBuchは、古代ゲルマン民族のブナの木を指す言葉から出ており、フランス語のlivre、スペイン語のlibroはもともとラテン語の木の内皮(liber)という言葉から来ている。日本で作られた本、いわゆる和書の歴史は、洋書の歴史とは異なり、いきなり紙の本から始まっている。
  日本書紀によれば610年に朝鮮の僧曇徴が中国の製紙術を日本に伝えたと言われ、現在残っている最古の本は7世紀初めの聖徳太子の自筆といわれる法華義疏であるとされている。また、奈良時代の本の遺品は数千点にのぼり、1000年以上昔の紙の本がこれほど多数残されているのは世界に例が無い。また、日本では製紙法の改良により、楮(こうぞ)、三椏(みつまた)などで漉(す)いた優れた紙の本が生まれている事も特筆すべき点である。
「 さて・・・・・、そろそろ、山背大兄王(やましろのおおえのおう)だね! 」
  と、そう言うと、扇太郎はさらに眼をグィと光らせた。
  推古天皇の時代(7世紀前半)、聖徳太子と蘇我馬子の娘・刀自古郎女とのあいだに生まれる。
  誕生の地は岡本宮( のちの法起寺 )で、三井の井戸の水で産湯をつかったと伝えられる。異母妹の舂米女王( 上宮大娘姫王 )と結婚して7人の子をもうけ、聖徳太子没後は斑鳩宮(法隆寺夢殿の辺り)に居住した。
  太子および推古天皇薨去後、皇位継承をめぐる政争に巻き込まれ、蘇我氏より迫害をうけたのち、皇極2年(643年)に、蘇我入鹿らの軍によって生駒山に追い込まれた。
  しかし大兄王は、聖徳太子の遺訓「 諸悪莫作、諸善奉行(すべての悪いことをするな、善いことをなせ )」を守り、蘇我の軍に戦を挑んで万民に苦を強いることをいさぎよしとせず、斑鳩寺で一族とともに自害した。
  富造の訪れた法輪寺は、推古30年(622年)に聖徳太子の病気平癒を祈って山背大兄王とその子由義(弓削)王が建立を発願したとするほか、聖徳太子が建立を発願し山背大兄王が完成させたという伝承も伝えられている。
「 この気魄!、これでは・・・・・、私が攻め陥落(おと)されるようだ!・・・・・ 」
  虎哉の導こうとする結論に、息をつめてその先を聞き急ぐかに居る自分であることにハッとした扇太郎は、それでも古文書の「ぬめり感」を手堅く攻立てる虎哉のそんな口調が、どうにも時代ぶる風神のようで、逆に圧倒されそうであった。
  不動の姿勢で虚空蔵菩薩を、たゞじっと見据えていた。
  法輪寺を訪ねた阿部富造の目的は、虚空蔵求聞持法を修めることにあった。だが、これは、そうそうに会得できるものではない。修法は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというものだ。
  空海が室戸岬の洞窟「 御厨人窟 」に籠もって虚空蔵求聞持法を修したという伝説がある。空海のように、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという。富造は、この現世利益を京都八瀬に持ち帰るため法輪寺へときた。
  日蓮もまた12歳の時、仏道を志すにあたって虚空蔵菩薩に21日間の祈願を行っている。
  虚空蔵菩薩の像容は、右手に宝剣左手に如意宝珠を持つものと、右手は掌を見せて下げる与願印(よがんいん)の印相とし左手に如意宝珠を持つものとがある。後者の像容が求聞持法の本尊となる。



  明星をもって虚空藏の化身とし、ゆえに虚空藏求聞持法を修するには明星に祈祷する。
  富造はその明星を待たねばならなかった。
  またさらに、眼を巽(たつみ)の方角へ向いて祈祷する場所を富造は探さねばならなかった。
  心得として行者用心というものがある。
  行者は「 修行中は他の請待を受けず。酒、鹽(しお)の入りたるものを食はず。惣じて悪い香りのするものは食はず。信心堅固にして、沐浴し、持斎生活し、妄語、疑惑、睡眠を少なくし、厳重には女人の調へたものを食はず。海草等も食はず。寝るに帯を解かず。茸等食ふべからず。但し昆布だけは差し支えなしと云う。要するに婬と、無益な言語と、酒と疑心と睡眠と不浄食、韮大蒜(にらにんにく)等臭きものを厳禁せねばならぬ。浄衣は黄色を可とす。どんな場所が良いのかは、経中に、( 空閑寂静の処、或は山頂樹下・・・・・其の像、西或は北へ向かう・・・・・ )とある。見晴らしが良い東、南(西も開けていれば最上)は開けている。修行者は東方又は南方へ向かう 」とある。これは明星を虚空蔵菩薩の化身とし拝むためであった。
「 このとき・・・・・、空海には、口中に明星が飛び込む神秘体験が起こったのだ・・・・・ 」
  法輪寺の虚空蔵菩薩は飛鳥の古い仏像である。
  みつめると、しだいにその虚空に空海の姿が泛かぶように映る。
  富造は虚空の上の空海を現世へと引き出すために、五芒星と九字が描かれた安倍吉祥紋を虚空蔵菩薩の左手に押さえつけた。
  その富造の眼は鋭く輝いている。

           

  眼には、阿部晴明がある時、カラスに糞をかけられた蔵人少将を見て、カラスの正体が式神であることを見破り、少将の呪いを解いてやったことが一つ、また、藤原道長が可愛がっていた犬が、ある時主人の外出を止めようとし、驚いた道長が晴明に占わせると、晴明は式神の呪いがかけられそうになっていたのを犬が察知したのだと告げ、式神を使って呪いをかけた陰陽師を見つけ出して捕らえたことが二つある。
  十訓抄の記述から引きだしたその二つの故事を富造は泛かばせていた。
  このとき富造には、陰陽道によって占筮(せんざい)せねばならぬことが一つあったからだ。
「 11月1日・・・・・。知花昌一ちばなしょういち・・・・・ 」
  虚空蔵の文殊は、この男の行為をどうみなすのかを、阿部富造はしずかに考えた。
  11月1日とは、「大化改新」のはじまる2年前の643年、蘇我入鹿そ(がのいるか)が、聖徳太子の息子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を自害させる事件がおきた日である。
  子代(こしろ)を今に継ぐ阿部一族は、代々この日を忌日として畏れてきた。
  昨年の11月1日、その6日前の10月26日に掲揚されていた沖縄国民体育大会会場の日ノ丸を富造は浮かばせている。
  国体は「 きらめく太陽 ひろがる友情 」をスローガンに開催された。



  読谷村のソフトボール会場に掲げられた日の丸が引き下ろされて焼き捨てられる。知花昌一は、天皇の戦後初の沖縄訪問により強まる日の丸・君が代の強制に対する抵抗だと主張した。彼は学生時代に自治会委員長として復帰闘争に参加した。そして沖縄戦の集団自決の調査などの平和運動を行っていた。1948年5月の戦後生まれの男である。建造物侵入、器物損壊、威力業務妨害被告事件の扱いとなる。 国内は地価狂騰のころ、この事件発生に、富造は忌日の前兆としての嫌な危うさを感じた。
  さらに何よりも9月23日には、皆既日食が起きていたからだ。
「 太陽が覆われる日食・・・・・その後に・・・・・日ノ丸の焼き打ち・・・・・ 」
  連続して重なると、富造にとって、それらはじつに暗い兆候であった。
  聖徳太子が亡くなって約20年後、蘇我入鹿は古人大兄皇子(ふるひとのおうえのおうじ)を独断で次期天皇にしようと企て、その対抗馬とされる山背大兄王を武力で排除しようと、巨勢徳太(こせのとくだら)に命じて斑鳩宮(いかるがのみや)を急襲した。大兄王と側近たちはよくこれを防ぎ戦い、その間に、大兄王は馬の骨を寝殿に投げ入れ、妃や子弟を連れて生駒山へと逃れた。宮殿を焼きはらった巨勢徳太は、その灰の中から骨を見つけて大兄王らは焼け死んだと思ったのだ。
  囲みを解いてあっさりと引きあげた。
  大兄王たち一行は生駒の山中に逃れるのだが、十分な食糧を持ち合わせていなかったため、部下のひとりが「 いったん東国に逃れて、もう一度軍をととのえて戻ってくれば、必ず勝つことができます 」と進言した。
  すると大兄王は「 一つの身の故によりて百姓を傷やぶり残そこなはむことを欲りせじ。是を以って、吾が一つの身をば入鹿に賜う 」 
 ( 自分は人民を労役に使うまいと心に決めている。己が身を捨てて国が固まるのなら、わが身を入鹿にくれてやろう)と答え、生駒山を出て、斑鳩寺に入った。
  大兄王たちが生きているという知らせを受けた入鹿は、再び軍を差し向けたところ、大兄王は、妃や子どもたち20人以上と共に自決して果てていた。この事件からおよそ80年後に編纂された『 日本書紀 』には、悲惨な上宮(かみつみや)王家である聖徳太子の家系の滅亡に同情して、「 おりから大空に五色の幡(はた)や絹笠が現れ、さまざまな舞楽と共に空に照り輝き寺の上に垂れかかった 」と、昇天の模様を記している。
  入鹿の父である大臣(おおおみ)の蘇我蝦夷(そがのえみし)は、山背大兄王の死を知ると、「 ああ、入鹿の大馬鹿者め、お前の命も危ないものだ 」と、ののしる。そして、2年後にそれが現実となった。
  中大兄皇子( のちの天智天皇 )や中臣鎌足らが、入鹿を殺害するクーデター( 大化の改新のきっかけとなった事件 ) により、古墳時代から飛鳥時代を通して巨大勢力を誇っていた蘇我一族が滅亡することになった。馬の骨とは、素性の解らない者をあざけっていう言葉である。どこの馬の骨か解らない、などと使われるが、八瀬童子もその馬の骨であった。
              
「 さて・・・・・、絹笠を掛けるか・・・・・ 」
  そう言うと富造は、脇にいる竹原五郎をチラリと見た。
  あらかじめ住職には許しを乞うている。おもむろに五郎は、笈の中から白絹の一枚取り出した。そして富造はその白絹で、さも虚空蔵菩薩を包み隠すかのように包んだ。
「 一時間ほど・・・・・、この状態を保たねばならない 」
  その言葉が合図なのか、二人は法起寺へと向かった。
  法起寺(ほうきじ)は、法輪寺と同じ聖徳宗の寺院。斑鳩町岡本にある。
  その岡にあるため、古くは岡本寺、池後寺(いけじりでら)と呼ばれた。山号は「岡本山」。ただしこれは、奈良時代以前創建の寺院にはもともと山号はなく、後世付したものである。この寺院は聖徳太子建立七大寺の一つに数えられるが、寺の完成は太子が没して数十年後のことであった。富造にとってはこの寺院の位置が重要であった。
「 北緯34度37分22.75秒 東経135度44分16.40秒 」
  長年の親しみもあり、富造は「 ほっきじ 」と読む。この法起寺の位置から北に直線を引くと、京都市北部の桟敷ヶ岳とが結ばれ真南北に向かい合う関係になる。
  三重塔をみつめる二人はしばらく境内に佇んでいた。
  火中の栗を拾うという例えがある。猫が猿におだてられ、炉で焼けている栗を四苦八苦して拾わされる話だ。
  これは、お人好しを戒める寓話ともなっている。だがこれは、身を捨てて難儀を背負った話ともなろう。
                       
「 さて、火中の、馬の骨を拾うぞ・・・・・! 」
  見る側の五郎は、興ざめを通りこして呆れた。しかし、倒れた古老の大樹の切り株からも、新しい芽が吹くことを富造は知っている。創建当時の建築で現存するものは三重塔のみである。その三重塔の建立時期、および寺の建立経緯については、『 聖徳太子伝私記 』(仁治3年・1242年の顕真著)という中世の記録に引用されて「 法起寺三重塔露盤銘 」の史料をよりどころとする。
  それによれば、聖徳太子は推古天皇30年(622年)の臨終に際し、山背大兄王に遺言して、岡本宮を寺院に改められることを命じている。そして富造は広く境内と連なる景観を見渡した。佇む法起寺は、法隆寺東院の北東方の山裾にある。さらに、京都の北山に桟敷ヶ岳(さじきがだけ)という山がある。
  この山は伝説のある山で、王位継承の争いに敗れた惟喬親王(これたかしんのう)がこの山に桟敷を作って京の街を眺めた。
  山名の由来はそこにある。
  ここ桟敷ヶ岳は北山の奥地だけあって、今の季節、山頂付近の樹木はやっと芽吹き始めたばかりであろう。惟喬親王が京都北山に隠棲の時、桟敷ヶ岳山頂より京の都を眺め、懐かしみ、小亭いわゆる桟敷を建てさせた。建てたのが阿部家の祖先らであった。
「 惟喬親王は聡明なお方であったようだ・・・・・ 」
  父の愛情もことのほか深く、皇太子になる筈のところ、当時、権勢高い藤原良房の娘で藤原明子が、第4皇子惟仁親王を誕生させると、天皇は良房をはばかられて、生後9ケ月の惟仁(これひと)親王を皇太子とされました。この方がのちの第56代清和天皇となられた。
  さて、惟喬親王は858年(天安2年)、清和天皇の即位に先立って太宰権帥に任命され、その後は太宰帥・弾正尹・常陸太守・上野太守などを歴任され、872年(貞観14年)、病のために出家なさり、比叡山麓の小野の地に隠棲された。それ以後、惟喬親王は時勢を観察され、山崎・水無瀬みなせに閑居し、河州交野で紀有常(紀名虎の二男)在原業平(紀有常の娘を妻とする)らと観桜されている。さらに京都雲林院の傍らにしばらく新居を構えて住まわれた。さらにその後、江州・小椋庄へ移られ、轆轤ろくろを開発して、緒山の木地屋に使用を教えられた。その間、阿部富造の先祖らが従事し、以後阿部家では、惟喬親王を轆轤の始祖として崇拝をし続けてきた。 都に戻られてからの親王は、洛北の大原、雲ケ畑、二ノ瀬、小野郷・大森にと隠栖され、貞観14年7月11日(872年)疾に寝て、仏に帰依し素覚浄念と号された。
  そのように聞かされてきた祖先の声が『伊勢物語』の中につづられている。
「むかし、惟喬の親王と申す親王おはしましけり。山崎のあなたに、水無瀬といふ所に宮ありけり。年ごとの桜の花ざかりには、その宮へなむおはしましける。その時、右の馬頭なりける人を、常に率ておはしましけり。時世経て久しくなりにければ、その人の名忘れにけり。狩はねむごろにもせで酒をのみ飲みつつ、やまと歌にかかれりけり。いま狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りてかざしにさして、上中下みな歌よみけり。馬頭なりける人のよめる・・・・・ 」
  阿部富造は、その「 馬頭なりける人の 」という祖先の人の影をそっと泛かべた。
  以前から探しあぐねていた敷地がある。
  八方手を尽くした。だが輪郭ほどの消息しか掴めていない。
  十三参りの帰路、後ろを振り返るようなことはしていないと思う。嵯峨野の法輪寺で授かった智恵を使い尽くすほど働かせたかと問えばそれほどの自信もないのだが、返さなければならないというほどの罰あたりもない。 富造にはその未探索が心遺しで、半ばその決着を諦める高齢の息切れが何とももどかしくある。未だ埋め得ないでいる京都市井図の赤い丸囲いの部分が泛かんでいた。惟喬親王が出家される以前に住んでいたのは、大炊御門(おおいみかど)大路の南、烏丸(からすま)小路の西詰まりであったはずだ。そう伝えられてはいる。
  親王の没後、その広い邸宅は、藤原実頼(さねより)から実頼の孫で養子の藤原実資(さねすけ)へ、そして、実資の娘の千古へと伝領されていく。もとは親王の御所であって「 小野の宮 」と呼ばれた。しかし、どのような経緯で藤原氏の物になったのかは明らかでない。富造にはそこが、どうにも不可思議なのだ。いくら阿部家の伝承を遡って漁(あさ)るも確たる先の見通しがない。隔世にいつしか欠落したようである。



「 ああ・・・・・、あれは・・・・・むかしおとこ・・・・・ 」
  法起寺(ほうきじ)の三重塔の上に薄暗い雲がのっぺりとある。流れようとはしないその雲と、真下にある甍(いらか)との空間が少し揺れるような気がした。どうやら空気だけは動いているのであろう。しかし富造がよくみると、燻銀の甍が、じんわりと炎立てるように見える。すると雲と甍のそこに挟まれたかのように在原業平(ありわらのなりひら)の姿が泛かんできた。
  何とも雅なその馬上の男こそ、伊勢物語の「 馬頭なりける人の 」姿であった。
「 忘れては夢かとぞ思う思ひきや 雪ふみわけて君をみんとは 」
  と、甍の上の浮雲で、その男が歌を詠んでいる。その歌は、親王と縁深い在原業平が、冬の一日訪ねた時のものである。親王は「 夢かとも何か思はむ浮世をば そむかざりけむ程ぞくやしき 」と返歌された。在原業平とは伊勢物語で「むかしおとこ」として語られる主人公である。その在原業平が心からお仕えしていた方こそが惟喬親王であった。
  在原業平は「薬子の変」を起こした平城天皇の第一皇子・阿保あぼ親王の第五子として天長2年(825年)に生まれた。
  惟喬親王よりは19歳年上であったが、業平の義父(紀有常)と惟喬親王の母(紀静子)が ともに紀名虎(きのなとら)の子供で 兄妹の関係にあったことなどから、藤原氏の圧倒的な勢力のもと、同じく不遇を託っていた業平は、紀有常らとともに 惟喬親王に仕えた。業平はその無聊のサロンで和歌に親しむことにより、親王の無聊さを慰めでもするかのように仕えた。
  主人は28才の時、剃髪して出家し「 小野の里 」に幽居する。
  伊勢物語に描かれる時の人々は、そんな親王を「 水無瀬の宮 」「 小野の宮 」などと称した。その親王は御在世中、小椋庄に金竜寺、雲ケ畑字中畑に高雲寺(惟喬般若)、大森字東河内に安楽寺、長福寺を建立されて、東河内で寛平9年(897年)54歳で薨去される。
御陵墓は左京区大原上野町と北区大森東町にある。
「 伊勢物語は、それ以後の古典作品に大きな影響を与えた歌物語でもあるね・・・・・ 」
  どうにも聞かされる話が感慨深い虎哉は、目尻を指先でつつきながらそう言った。
  源氏物語もその例外ではない。源氏物語には伊勢物語からの引き歌が多くある。内容にも伊勢物語を意識して書かれたと思われる箇所が散見される。そう虎哉が口を挿むと、扇太郎はポンと膝を鳴らした。



「 大鏡の内容にも、・・・・・ありますよねッ 」
  と、そういう扇太郎が持ち出したのは、裏書きの話だ。大鏡の裏書には、文徳天皇が惟喬親王を皇太子にと希望されながらも 周囲の反対をはばかられ、また、右大臣藤原良房に気を遣われて、その娘・明子(あきらけいこ・染殿后)所生の惟仁(これひと)親王(後の清和天皇)を皇太子に立てられたことが伝えられている。
「 平家物語だって・・・・・、しかりだ 」
  と、虎哉はさらにし返した。江談抄や平家物語には、立太子を巡って、惟喬親王の母方である紀氏が惟喬親王を立てて真済僧正を、また、藤原氏が惟仁親王を擁して真雅僧正を、それぞれ祈祷僧に起用し、死力が尽くされた。という話まで伝えられている。虎哉はそこらを丁寧に解説した。こうした伝承が後世に度々発生するほどに、生母「 紀名虎(きのなとら)の娘静子」の出自の低さにもかかわらず、惟喬親王への信望が高かったことが覗えるのである。
「 五郎・・・・・、みくにのまち、をそこに据えてくれないか 」
  そう言って、富造は三重塔の角下を指さした。そして五郎は指された裏鬼門の角へとすばやく動いた。その角が東大寺に対する裏鬼門であることを、すでに五郎も心得ていた。まずその封印を解き外す必要があった。そうせねば新たな封じ手が効かない。そこまでは五郎にも解る。しかし、角にこれをどう据えてよいのかが見当もつかない。木彫りの椀を手に握る五郎は、角隅に立つもたゞ足踏みをした。
「 ところで雨田博士・・・、今夜お会いになるM・モンテネグロ氏、それは日本刀の件ですよね!・・・・・ 」
  と、流れを絶って挿んだ扇太郎の言葉が、虎哉には突飛だった。
「 そろそろ・・・・・、その御霊太刀のことに触れますが・・・・・ 」
  さも神妙な顔をして扇太郎は虎哉を見た。そして香織の顔色もみた。
「 ごれいたち・・・・・? 」
「そうです・・・・・、御霊太刀です。お探しの・・・・・! 」
  ハッと虎哉はしたが、微妙な間合いの意外な外されように、妙にぼんやりともさせられた。
「 椀の底を逆さに、地に伏せるようにして角に据えてくれ。そうして動かぬよう両手で押さえといてくれ! 」
  何かに覆い被せるかのようにして五郎は木彫りの椀を角に据えた。するとその椀の正面に富造は晴明桔梗の護符を貼った。
  紋様には呪文が記されている。
  それは、急急如律令の呪文を文字で書きつけた呪符である。その急急如律令とは元来、中国漢代の公文書の末尾に書かれた決り文句で「 急いで律令(法律)の如く行え 」の意であるが、それを転じて「 早々に退散せよ 」の意で悪鬼を払う呪文とされた。それによってすでに五郎も気づかぬ内に、東大寺の裏鬼門封じは解除されている。次に富造は太上神仙鎮宅霊符を加えた。
  この霊符を司る神を鎮宅霊符神というが、それは玄武を人格神化した北斗北辰信仰の客体である。京都行願寺(革堂)から出されたこの霊符を祭ることで、すでに南北の運気が開かれたことになる。
  そうして次に「 式神(しきがみ) 」を呼び出すために、富造は禹歩(うほ)を始めた。
「 ヤギハヤノ トツカノツルギ コレホムスビトナリ・・・・・ヤギハヤノ トツカノツルギ コレホムスビトナリ・・・・・ヤギハヤノ トツカノツルギ コレホムスビトナリ・・・・・ヤギハヤノ トツカノツルギ コレホムスビトナリ・・・・・夜芸速(やぎはや)の十拳剣(とつかのつるぎ)此れ火産霊(ほむすび)と成り 」
  神威の発揮を強く求めるために、富造は禹歩に合わせて呪文を唱えた。
  しばらくは法起寺の境内をその富造の呪文が地を祓うごとく舞い立っていた。
  椀を押さえ続ける五郎を巻くように舞い廻っていた。足で大地を踏みしめて、呪文を唱えながら、富造は千鳥足様に前進する。その禹歩とは、歩く呪法を指す。阿部家伝承の基本は、北斗七星の柄杓方を象ってジグザグに歩くものであった。それは魔を祓い地を鎮め福を招くことを狙いとする。この起源は、葛洪『抱朴子』に、薬草を取りに山へ踏み入る際に踏むべき歩みとして記されている。
  奇門遁甲における方術部門(法奇門)では、その術を成功させるためにこれを行った。
「五郎・・・・・。さて・・・・・その椀を表返しに直してくれ。もう手を放してもよい。手を放したら静かに声を立てずに寺の外で待て。出たら門のところで般若心経を唱えてくれ。俺が後を終えて門を出るまで・・・・・ 」
  そう言って五郎の姿が消えるのを待った富造は、また新たな呪文を唱えはじめた。
「 イワクスノ フネニナレシモ イカズチノタマフリ・・・イワクスノ フネニナレシモ イカズチノタマフリ・・・・・イワクスノ フネニナレシモ イカズチノタマフリ・・・・・イワクスノ フネニナレシモ イカズチノタマフリ・・・・・石楠(いわくす)の 船に鳴れしも雷(いかずち)の布都(たまふり)・・・・・ 」
  長い呪文であった。唱えながら富造は神威の顕れを静かに待っていた。
  これを反閇(へんぱい)という。この秘伝だけは人知れず密かに行わねばならない。富造の額は汗を滲ませていた。反閇とは、道中の除災を目的として出立時に門出を祓う呪法である。また自分自身のために行うこともあるが、その多くは天皇や摂関家への奉仕として行われた。その反閇では、まず最初に玉女を呼び出して目的を申し述べる。
  呼び出すときにはやはり禹歩を踏む。最後は6歩を歩いて、そのまま振り返らずに出発する。家伝の掟(おきて)である、その詰めの6歩を踏み終えた富造は、もう何事もなかったかのよに静かに門前へと向かった。門前で心経を唱え続けていた五郎は、その富造が門を出て、立ち止まることもなく法起寺へと向かう後ろ姿が消え去るのを待ってピタリと般若心経を止めた。
  陰陽道には「 魂清浄 」という呪文がある。魂清浄を唱えることで御魂の輝きの増やし、魂の正しい位置への鎮まりや、心と精神面の安定を整える。五郎はその呪文を唱えながら富造の後を追った。
「 一魂清浄・二魂清浄・三魂清浄・四魂清浄・五魂清浄・六魂清浄・七魂清浄・八魂清浄・九魂清浄・十魂清浄 」
  五郎はそう唱えながら、腹の底より息を長く吐いた。 陰陽道に触れると、不意に霊体に憑依されてしまうことがある。気の流れを変えた。奈良も同じなのだが、平安時代は、平安という言葉とは裏腹に、闇と迷信が支配した恐ろしい時代だった。現在の価値観では到底計り知ることの出来ぬ感覚が根づいていた。遺体の処理にしても現代とは、だいぶ異なるものであった。
  人が死ぬとそのまま川に流したり、一か所に集められて放置されるのである。もし、疫病が流行ろうものなら、人がバタバタと死に、たちまち、どこもかしこも死体だらけとなる。それが一つには陰陽道がこの世生まれ出た背景であった。
  何千何万という死体が方々に山積みにされ、野犬が人間の手足の一部をくわえて、街中を走り回るという身の毛もよだつ光景が展開されるのである。鴨川は、遺体を水葬にする場所と変わり、清水寺は遺体の集積所に成り果てた。
  雨が降って水かさが増すと、半分腐りかけて死蝋化した死体が、プカプカと民家の床下にまで漂って来るのである。そして、災害や疫病の大流行などは、恨みを残して死んだ人間の怨霊や悪霊の祟りであり、わけの分からぬ奇怪な自然現象は、物の怪など妖怪変化の起こす仕業であると信じられるようになっていった。
  こうして、人々は、闇におびえ、ないはずのものに恐怖するようになった。
  貴賎の区別なく、人々はさまざまな魔よけの儀式を生活に取り入れるようになる。大きな屋敷では、悪霊や物の怪が入り込み、人に取り憑くことがないように、随身(ずいじん・護衛の者)が定期的に弓の弦をはじいて大声を上げるという呪いなどが夜通し繰り返されていた。
  そういう時代を阿部一族をはじめ八瀬の童子は継ぎ継ぎにくぐり抜けてきた。


「 ああ・・・・・、秘太刀(みくにのまち)・・・・・が空を翔けた・・・・・! 」
  再び法輪寺の境内に立った富造は、そう五郎に呟くと、静かに閉じた眼にその秘太刀を泛かばせた。
  惟喬親王の母方(紀氏)の末裔である星野市正紀茂光が、紀名虎(祖父)の秘蔵していた御剣を、親王が御寵愛されていたことを知り、これを親王の御霊代として奉祀したと伝えられている。
「 その御霊太刀の銘を・・・・・、みくにのまち、という 」
  富造はそう聞かされていた。
  惟喬親王には兼覧(かねみ)王と呼ばれた息子があった。神祇伯、宮内卿などを歴任し古今集にも歌を残している。
  その兼覧王の娘は兼覧かねみ王女とも呼ばれて、これもまた和歌をよくし、後撰集に一首が残っている。富造は、この王女あたりから、藤原実頼へと親王の邸が伝領されたのではないかと思っている。だがこれは推測の域を出るものではない。しかし阿部家の家伝によって確かなことは、惟喬親王には「 みくにのまち 」と呼ばれた娘があったことだ。
  星野市正紀茂光は御剣を親王の御霊代として祀るに当たり、その秘宝の娘の名を御霊太刀の銘として偲ばせた。それが富造が眼に泛かばせる「 秘太刀(みくにのまち)」であった。
「 このとき・・・・・、富造さんは、馬の骨を拾った、とそう確信したはずです 」
  という、扇太郎のその眼は、夢でも叶ったかのようにキラりと輝いている。
  しかしそう見える虎哉は、未だ狐にでも耳を抓まれて動けぬ悟りの悪い坊主のようだ。
「 拾ったことになるのか・・・・・? 」
  ただ空を切るような始末に、眼がくるりとぼんやりとする。
「 ええ、拾ったことになりますね。言霊(ことだま)の世界では・・・・・! 」
  と、念を押されても、巨漢に伍(ご)して抜くにはおのれの刀が鈍(なまくら)なのか、虎哉は竹光でも握らせられたような心もちであった。しかし、香織は、うんうんと、やはり眼を輝かせて何度も頷いている。いずれも得体の知れぬ連中だと思われた。
  どうやら人が伍して掛れる世間話ではなさそうだ。

「 しかし、そんなことよりも、惟喬親王についての最大の謎は、なぜ惟喬親王が木地屋(きじや)師の業祖とされるに至ったのかということですよね。八瀬の集落は、そのことを固く語ろうとしません。理論立てについては障りとして始末されている。そこを・・・・・ 」
  扇太郎は一つ長い溜息をついた。
  そうしておもむろに香織の顔をみて微笑んだ。おそらく香織に木地屋師の匂いを感じ取れるのであろう。虎哉も同じ匂いを嗅いでいる。それが生地屋師の匂いかどうか分からないが、京都の山端の人々にはたしかに森の匂いを放つ人が多い。あるいはそれは、森深いところの土の匂いではないかと以前から感じていた。木地屋は「 ろくろ 」を用いて木材を削り、鉢や盆などの木製品を作る人たちであり、中世には、山中に原材を求めて、山から山へと渡り歩いた漂泊の山人たちであった。
  彼らは、惟喬親王が藤原氏から差し向けられた刺客を逃れて、滋賀県神崎郡永源寺町の山奥の小椋谷(おぐらだに)に隠れ、ここで里人たちに「ろくろ」の技術を教え、これより木地屋は始まったとしている。もとよりこれは史実ではなかろう。しかし今、小椋谷の金龍寺は親王の御所「高松御所」であったとして、親王の木像なるものを伝え、全国の木地屋たちの総名簿である「 氏子狩(うじこがり)帳」を蔵し、筒井八幡宮は「 筒井公文所(くもんところ)」と称して「木地屋木札」「通行手形」を発行する。そして小椋谷よりも更に山奥の君ガ畑にある「 皇太器地祖神社 」は惟喬親王を祀る。
  各地の木地屋たちは、しばしば親王の随身従者の末裔と称し、「 木地屋文書 」と云われる木地屋の由緒書や、親王が与えたとする諸役御免の綸旨を所有し、墓には皇室の紋である菊水紋を用いるのだ。これらは、非定住民であるために下賤視された彼らが、定住民たちの軽蔑の目への反発として作り出したものであると共に、原木伐採の自由と、山中通行の自由を得るためのものであることは論ずるまでもない。民俗学的には虎哉はそう考えてきた。
「 しかし・・・・・、なぜここで惟喬親王の名が使われたのか・・・・・ 」
  と、考えると、そこは一定の領域を超えた、学識では割れぬ異界の摂理でもあるようだ。
  中世、小野巫女と呼ばれた「 歩き巫女 」たちがいて、「小野神」という神に対する信仰を全国に流布したことに起因するという見解が、あるといえばある。これはすなわち、惟喬親王が隠棲した山城愛宕郡の小野とは、比叡山を隔てて東側、近江国滋賀郡にも小野という所がある。いずれも小野氏と称される人たちの住んだ所である。この琵琶湖湖畔の小野に住む小野氏の人たちは、自分たちの祖先である「 タガネツキオオミ 」( 鏨着大使主、または米餅搗大使主 )を「小野神」として信仰した。この神は「タガネ」という文字から鍛冶の神と考えられている。
  その小野氏の女たちが小野巫女として、近江の製鉄地域などに小野神信仰を広めていった。
  小野小町や小野猿丸の伝説を全国に広めたのも彼女らであるという。そうした鍛冶師も木地師もいずれも山の民である。またその分布地域も重なっている。その木地師たちが、その信仰を受け入れた時、「小野神」と「小野宮」とは習合して、そして、小野宮惟喬親王が木地師たちの業祖とされるに至ったと見立てられている。
「 しかし・・・・・、それにしても何か漠々とした話ではあるがね・・・・・ 」
  日本史には虚と実が、じつは混在している。古文書の存在のついては、歴史過程を査証する手本となるかも知れないが「 不都合な過去を消す為 」と言う政治的効用も在り、「 必ずしも事実とは受け取れないもの 」と心得るべきである。古典もそれと同様な側面がある。そう改めて思う虎哉もまた深い溜息の一つもつきたくなる。
「 しかし・・・・・、秋子さんご存じすよね。彼女こそ、小野巫女です。そうだよね香織ちゃん・・・・・ 」
  そう促されて耳にした香織は、妙にぼんやりとしていた。
  だが、しだいに、うっとりして虎哉に向き直ると、丸い瞳をほんのりと潤ませている。
  その潤む瞳の湖(うみ)では、秋子の吹く篠笛の音がさざ波のように揺らいでいた。






                                      

                        
       



 秋子の笛