「私が示したい一つの興味深い点は、
偏極が完全に肉体に、もしくは完全に情緒体にある限り、
瞑想を行う必要性は感じられないということである。
たとえメンタル体が活発であっても、
多くの変化と人生を経験し、
多くの転生を通して苦楽の盃を味わい、
完全に低位我に没頭した人生の深みに沈み、
それに不満を抱くようになるまで、
そのような衝動は起こらない」
(「秘教瞑想に関する手紙」27頁 アリス・ベイリー著)
スピリチュアルなことに関心がある、
もしくは、それを仕事にしているけれど、
継続的な瞑想をしていないとするならば、
まだ、単なるエンターテイメントの範囲に
留まっていると言えるかもしれません。
上の文章にあるように、
自分が単に物質世界に生きている、
物質的な肉体そのものであるということに対する、
不満や違和感、苛立ちなどを感じはじめ、
何か内なる衝動が起きて来た時は、
次なる成長への合図となります。
ただ、世の中を見ると、
スピリチュアル・エンターテイメントと
というようなものをたくさん見かけるので、
その、内なる衝動は、そうした機会に惹きつけられ、
表層的な満足を得ることはできるかもしれません。
玉石混交の中から、時には石を拾い、時には宝石を拾いながら、
長い長い魂の旅の真なる地図を見つけ出すことも、
自分の経験であり、成長の糧となるものであると
捉えるならば、回り道や寄り道も悪い事ではありません。
ただ、言えることは、
大事なものほど地味でよくわからないもの、
効果がすぐには出ないものであったりします。
しかし、必要な時には必要なものに出逢うことも確か。
私は瞑想は苦手で、しかも、集中瞑想が苦手でした。
しかし、それはやるしかないわけで、
人間やればできるようになります。
最近はマインドフルネス瞑想が一般的にも受け入れられています。
マインドフルネス瞑想は、今ここで起きていることに気付いていく
アウェアネスの訓練となります。
一方で、何かイメージや言葉などに集中する瞑想は、
意識の焦点をあわせ、マインドをコントロールして行き、
エネルギーを動かしたり、意志により世界を構築する
訓練となって行きます。
どちらも重要であり、必要に応じて切り替える、
または、同時に行える、というバランス感覚を
養っていく事が、とても大事なことかなと思います。
Earth Spiral 安珠
偏極が完全に肉体に、もしくは完全に情緒体にある限り、
瞑想を行う必要性は感じられないということである。
たとえメンタル体が活発であっても、
多くの変化と人生を経験し、
多くの転生を通して苦楽の盃を味わい、
完全に低位我に没頭した人生の深みに沈み、
それに不満を抱くようになるまで、
そのような衝動は起こらない」
(「秘教瞑想に関する手紙」27頁 アリス・ベイリー著)
スピリチュアルなことに関心がある、
もしくは、それを仕事にしているけれど、
継続的な瞑想をしていないとするならば、
まだ、単なるエンターテイメントの範囲に
留まっていると言えるかもしれません。
上の文章にあるように、
自分が単に物質世界に生きている、
物質的な肉体そのものであるということに対する、
不満や違和感、苛立ちなどを感じはじめ、
何か内なる衝動が起きて来た時は、
次なる成長への合図となります。
ただ、世の中を見ると、
スピリチュアル・エンターテイメントと
というようなものをたくさん見かけるので、
その、内なる衝動は、そうした機会に惹きつけられ、
表層的な満足を得ることはできるかもしれません。
玉石混交の中から、時には石を拾い、時には宝石を拾いながら、
長い長い魂の旅の真なる地図を見つけ出すことも、
自分の経験であり、成長の糧となるものであると
捉えるならば、回り道や寄り道も悪い事ではありません。
ただ、言えることは、
大事なものほど地味でよくわからないもの、
効果がすぐには出ないものであったりします。
しかし、必要な時には必要なものに出逢うことも確か。
私は瞑想は苦手で、しかも、集中瞑想が苦手でした。
しかし、それはやるしかないわけで、
人間やればできるようになります。
最近はマインドフルネス瞑想が一般的にも受け入れられています。
マインドフルネス瞑想は、今ここで起きていることに気付いていく
アウェアネスの訓練となります。
一方で、何かイメージや言葉などに集中する瞑想は、
意識の焦点をあわせ、マインドをコントロールして行き、
エネルギーを動かしたり、意志により世界を構築する
訓練となって行きます。
どちらも重要であり、必要に応じて切り替える、
または、同時に行える、というバランス感覚を
養っていく事が、とても大事なことかなと思います。
Earth Spiral 安珠