2018/8/4
「鬼井江・伝 その3」 創作
70歳を迎えた鬼井江。
畑作業ばかりではなく、堺観光ボランティアガイド活動も(少しだけだが)するようになっていた。活動歴はまだ4年余りだった。
ボランティア仲間と懇親会を持つ機会も増えていた。親しくなったのは、6人グループのメンバーだった。中でも、ダジャレの多い細身の太田さんと気が合うようだ。
酒を酌み交わしながら、出身地が話題になった時だった。
太田は鬼井に声をかけた。
「鬼井さんは、堺のどこで生まれたの?」
「僕は、堺で生まれていないんだ。幼い時から堺市で過ごしているんだけれど…。生まれたのは石川県だけれど、幼いころの記憶は、すべて堺市なんだ。だから、堺市出身って言った方がいいらしい・・・」
「でも、生まれたのは石川県なんだろ? それで、石川県について、何か関心があるの? 知ってることは?」
「うん、最近興味があって、調べてみたことなんだけれど・・・聞いてくれる?」
「ああ、いいよ!」と太田の声が元気。
その声にひきづられて、鬼井は目を輝かせるようにして話し始めた。
「石川県って、調べてみると、歴史的興味をそそられるところで・・・」
「石川県イコール加賀藩ってところだな? きっとそうだろう?」
「いやいや、もっと昔に戻って・・・。弥生時代から古墳時代へと移り行く時代の石川県。そのころは、石川県って名前ではなかっただろうがね・・・」
「そんな古い時代の石川県って、どんなところだったの?」と、太田が怪訝な顔つきでさらに尋ねた。
「
この続きは その4(後日書く予定です。まだ下書き作りの段階です)
*以下、下書きメモ
北朝鮮の漁船が漂流した結果、日本海側沿岸部に流れ着いている。弥生時代にしろ、古墳時代にしろ、対馬海流の流れは変わらない。
北朝鮮の船(エンジンが故障すれば)は沿海部を離れると、リマン海流の流れに漂って南下するが、対馬海流とぶつかる海域で、東へ向かう。能登半島方面へ流れていくことになる。古代においても、同じように船が流されていったであろう。
能登半島に至るまでに、出雲や伯耆、丹後などで上陸した渡来人たちを想像することができる。
弥生時代は、姫川で採れる翡翠(ひすい)が中国や朝鮮半島の国々との交易品で最も価値を持つものであったようだ。丹後や出雲方面へ翡翠をいち早く運びたい。
能登半島をぐるっと回っていては、時間もかかるし、危険な航海になる。当時は不可能な船旅だったに違いない。おそらく能登半島を回る航海は何度も失敗したに違いない。
能登半島の地図をじっくり見ると、能登半島の付け根近辺で地溝帯らしき低地を見つけることができる。能登半島先端部(禄剛崎)を船でぐるっと回るよりも、この地溝帯低地(陸上)を船を引っ張って横断すると短時間で通過できそうである。
船で長距離を一日ではすすめなかった弥生時代。帆船による航海技術もなかった時代。手漕ぎの船でしか航海できなかった時代。
それが弥生時代の航海方法であった。
畑作業ばかりではなく、堺観光ボランティアガイド活動も(少しだけだが)するようになっていた。活動歴はまだ4年余りだった。
ボランティア仲間と懇親会を持つ機会も増えていた。親しくなったのは、6人グループのメンバーだった。中でも、ダジャレの多い細身の太田さんと気が合うようだ。
酒を酌み交わしながら、出身地が話題になった時だった。
太田は鬼井に声をかけた。
「鬼井さんは、堺のどこで生まれたの?」
「僕は、堺で生まれていないんだ。幼い時から堺市で過ごしているんだけれど…。生まれたのは石川県だけれど、幼いころの記憶は、すべて堺市なんだ。だから、堺市出身って言った方がいいらしい・・・」
「でも、生まれたのは石川県なんだろ? それで、石川県について、何か関心があるの? 知ってることは?」
「うん、最近興味があって、調べてみたことなんだけれど・・・聞いてくれる?」
「ああ、いいよ!」と太田の声が元気。
その声にひきづられて、鬼井は目を輝かせるようにして話し始めた。
「石川県って、調べてみると、歴史的興味をそそられるところで・・・」
「石川県イコール加賀藩ってところだな? きっとそうだろう?」
「いやいや、もっと昔に戻って・・・。弥生時代から古墳時代へと移り行く時代の石川県。そのころは、石川県って名前ではなかっただろうがね・・・」
「そんな古い時代の石川県って、どんなところだったの?」と、太田が怪訝な顔つきでさらに尋ねた。
「
この続きは その4(後日書く予定です。まだ下書き作りの段階です)
*以下、下書きメモ
北朝鮮の漁船が漂流した結果、日本海側沿岸部に流れ着いている。弥生時代にしろ、古墳時代にしろ、対馬海流の流れは変わらない。
北朝鮮の船(エンジンが故障すれば)は沿海部を離れると、リマン海流の流れに漂って南下するが、対馬海流とぶつかる海域で、東へ向かう。能登半島方面へ流れていくことになる。古代においても、同じように船が流されていったであろう。
能登半島に至るまでに、出雲や伯耆、丹後などで上陸した渡来人たちを想像することができる。
弥生時代は、姫川で採れる翡翠(ひすい)が中国や朝鮮半島の国々との交易品で最も価値を持つものであったようだ。丹後や出雲方面へ翡翠をいち早く運びたい。
能登半島をぐるっと回っていては、時間もかかるし、危険な航海になる。当時は不可能な船旅だったに違いない。おそらく能登半島を回る航海は何度も失敗したに違いない。
能登半島の地図をじっくり見ると、能登半島の付け根近辺で地溝帯らしき低地を見つけることができる。能登半島先端部(禄剛崎)を船でぐるっと回るよりも、この地溝帯低地(陸上)を船を引っ張って横断すると短時間で通過できそうである。
船で長距離を一日ではすすめなかった弥生時代。帆船による航海技術もなかった時代。手漕ぎの船でしか航海できなかった時代。
それが弥生時代の航海方法であった。
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タグ: 石川県
2018/7/11
「鬼井江・伝 その2」 創作
「陣痛が始まった・・・」
産婆の低い声が部屋の中に響いた。
「さあ、がんばれ!」
産婆は落ち着いた声で励ましていた。
母は天井を睨みつけながら、うんうんと踏ん張っている。産婆の声を信じて、指示に従って呼吸し、汗をふき出しながら、耐えている。
自宅での出産が普通の時代であった。
陣痛が始まってから、夜中が過ぎ、昭和23年6月27日になっていた。その日の夜は長かった。
母は、初産ではなかったが、陣痛が始まってからの時間が、長く長く感じられた。二人目の出産。二人目とはいえ、母は顔をしかめてうなっている。
「あっ、ああ・・・!」
母の絶叫の声が何回も響き渡るが、まだ生まれなかった。
もうすぐ夜が明ける。
「いつになったら生まれるんだろう・・・」
母の女親が、部屋の中を落ち着きもなく、立ったり座ったりしだした。挙句の果てにうろうろしだした。
「うろうろしなさんな!」
産婆の厳しい声が朝の訪れと重なっていた。
長い長い夜が明けたのだった。
(* ここから つづきです)
外がほんの少し明るくなってきた頃だった。
産婆が(そろそろですよ、そろそろですよ)と、口を動かしているようだった。産婆自身は言っていなかったかもしれないが、周りにいた者には聞こえた。
疲れ果てた母に、「生まれましたよ。男の子です」と産婆が囁いた。
「この子、オギャーって、泣かない・・・」と、母の女親が首をかしげながら言った。
「どうしたんだろう?」
「ものが言えない子じゃないのか?」
「産婆さん、どうなんだろうかな?」
周りにいた者たちが心配そうに、それぞれが話しだした。母にもそれらの声は聞こえていた。
母の顔色も不安そうな表情になった。
その時、突然産婆は生まれてきた赤子の両足を左手でつかみ、空中にぶら下げたのだ。
赤子のお尻をぴしりぴしりと二度ひっぱたいたのだ。
周りにいた者はびっくり。ひっぱたかれる赤子への視線が点になった時だった。
「オギャー! オギャー!! オッギャー・・・!」
母はその声を聞きながら、涙を流していた。表情にも余裕がうっすらとでてきた。
「この子は我慢強い子になるよ」だの、「口数の少ない子になりそうだね」だの・・・と、ささやく声が、母の耳に届いていた。
「これで一安心」と産婆の声が響きわたった。
こうして「鬼井江」は、1948年(昭和23年)6月27日に無事誕生したのだった。
石川県の能登半島中部、穴水という町に近い「鵜川」という漁村で誕生。そこは鬼井江の母の故郷である。
「口数の少ない人間」になっていくのか、「我慢強い人間」になっていくのか・・・。さて、それは? 人間の性格や生き方は生まれた時の印象で予測できるものだろうか・・・。
鬼井江が誕生して、みんなもゆっくりとした気分で6月28日を過ごしていた。昨夜は仮眠しかしていなかった家族たち。赤子はスヤスヤと眠り、母も気持ちよくお乳を与えたりして過ごしていたのだった。
午後4時13分、ドーンと突き上げられ、グラグラと家が揺れだした。
母はとっさに赤子を抱きかかえたまま、近くにあった座敷机の下にもぐりこんだ。座敷机の下の隙間は狭かった。赤子の頭を右手で覆いながら、しっかり守る姿勢で「ぐらぐら」がおさまるのを待った。待っている間、棚が落ちて、置いていた荷物がドサッ、バサーァと音を立てながら落下してきた。
(危ない!)
「バギィー!」 箪笥が倒れて、座敷机の角にぶつかった。(この後、どうなるのだろう?) 母は赤子の頭を抱きしめて動かなかった。
揺れが収まったとき、家族たちの声がした。
「大丈夫か!! 誰か怪我していないか?」
「赤ちゃん、どうもないか?」
「箪笥を元に戻して!」と男の太い声。
「ああ・・・母子ともに大丈夫だ! よかった、よかった!」
「座敷机の下にいたから助かったのだ!」
「座敷机様様だよ」
ひどい揺れの地震は、その後数回の余震を繰り返したが、収まっていった。
鬼井江が誕生した翌日に発生した大地震は「福井大地震」と名付けられたのだった。
地震の規模はM7.1。福井県を中心に北陸から北近畿を襲った地震であった。震源は福井県坂井郡丸岡町付近。福井市を直撃した「都市直下型地震」であった。福井市の震度は6。(当時の震度階級としては最悪の震度。現在では震度7に該当するようだ。)福井大震災は、関東大震災・阪神淡路大震災・東日本大震災などに匹敵する「日本の災害史上最悪クラス」の震災であった。
福井県の死者=3728人。負傷者=21750人。全壊家屋=35382戸
石川県の死者= 41人。負傷者= 453人。全壊家屋= 802戸
というデータが残っている。
福井県の丸岡城は倒壊。福井県内の線路は歪み、ひずみ箇所多数発生。車両の多数が脱線、転覆。大和百貨店福井店が全壊。さらに、九頭竜川の堤防が決壊した。
これらのデータから最悪級の地震であったと想像できる。
誕生した家(母の実家)は大きな被害もなく、そのまま生活することができる状態であった。
都市直下型地震は、震源地近くかどうか、断層の上かどうかなどによって、被害はかなり違うようだ。どの地震においても、概ねその傾向だと言える。
石川県は福井県の隣だったが、被害は少なかった。
最悪クラスの大地震が隣の県で誕生翌日に発生したが、鬼井江は母に守られ、怪我をすることもなく無事だった。
「何者か」が、「鬼井江の行く末」をそっと見つめていくことになるのだろう。
さて、「何者か」とは……
(*鬼井江の生まれた時の話は以上です。)
産婆の低い声が部屋の中に響いた。
「さあ、がんばれ!」
産婆は落ち着いた声で励ましていた。
母は天井を睨みつけながら、うんうんと踏ん張っている。産婆の声を信じて、指示に従って呼吸し、汗をふき出しながら、耐えている。
自宅での出産が普通の時代であった。
陣痛が始まってから、夜中が過ぎ、昭和23年6月27日になっていた。その日の夜は長かった。
母は、初産ではなかったが、陣痛が始まってからの時間が、長く長く感じられた。二人目の出産。二人目とはいえ、母は顔をしかめてうなっている。
「あっ、ああ・・・!」
母の絶叫の声が何回も響き渡るが、まだ生まれなかった。
もうすぐ夜が明ける。
「いつになったら生まれるんだろう・・・」
母の女親が、部屋の中を落ち着きもなく、立ったり座ったりしだした。挙句の果てにうろうろしだした。
「うろうろしなさんな!」
産婆の厳しい声が朝の訪れと重なっていた。
長い長い夜が明けたのだった。
(* ここから つづきです)
外がほんの少し明るくなってきた頃だった。
産婆が(そろそろですよ、そろそろですよ)と、口を動かしているようだった。産婆自身は言っていなかったかもしれないが、周りにいた者には聞こえた。
疲れ果てた母に、「生まれましたよ。男の子です」と産婆が囁いた。
「この子、オギャーって、泣かない・・・」と、母の女親が首をかしげながら言った。
「どうしたんだろう?」
「ものが言えない子じゃないのか?」
「産婆さん、どうなんだろうかな?」
周りにいた者たちが心配そうに、それぞれが話しだした。母にもそれらの声は聞こえていた。
母の顔色も不安そうな表情になった。
その時、突然産婆は生まれてきた赤子の両足を左手でつかみ、空中にぶら下げたのだ。
赤子のお尻をぴしりぴしりと二度ひっぱたいたのだ。
周りにいた者はびっくり。ひっぱたかれる赤子への視線が点になった時だった。
「オギャー! オギャー!! オッギャー・・・!」
母はその声を聞きながら、涙を流していた。表情にも余裕がうっすらとでてきた。
「この子は我慢強い子になるよ」だの、「口数の少ない子になりそうだね」だの・・・と、ささやく声が、母の耳に届いていた。
「これで一安心」と産婆の声が響きわたった。
こうして「鬼井江」は、1948年(昭和23年)6月27日に無事誕生したのだった。
石川県の能登半島中部、穴水という町に近い「鵜川」という漁村で誕生。そこは鬼井江の母の故郷である。
「口数の少ない人間」になっていくのか、「我慢強い人間」になっていくのか・・・。さて、それは? 人間の性格や生き方は生まれた時の印象で予測できるものだろうか・・・。
鬼井江が誕生して、みんなもゆっくりとした気分で6月28日を過ごしていた。昨夜は仮眠しかしていなかった家族たち。赤子はスヤスヤと眠り、母も気持ちよくお乳を与えたりして過ごしていたのだった。
午後4時13分、ドーンと突き上げられ、グラグラと家が揺れだした。
母はとっさに赤子を抱きかかえたまま、近くにあった座敷机の下にもぐりこんだ。座敷机の下の隙間は狭かった。赤子の頭を右手で覆いながら、しっかり守る姿勢で「ぐらぐら」がおさまるのを待った。待っている間、棚が落ちて、置いていた荷物がドサッ、バサーァと音を立てながら落下してきた。
(危ない!)
「バギィー!」 箪笥が倒れて、座敷机の角にぶつかった。(この後、どうなるのだろう?) 母は赤子の頭を抱きしめて動かなかった。
揺れが収まったとき、家族たちの声がした。
「大丈夫か!! 誰か怪我していないか?」
「赤ちゃん、どうもないか?」
「箪笥を元に戻して!」と男の太い声。
「ああ・・・母子ともに大丈夫だ! よかった、よかった!」
「座敷机の下にいたから助かったのだ!」
「座敷机様様だよ」
ひどい揺れの地震は、その後数回の余震を繰り返したが、収まっていった。
鬼井江が誕生した翌日に発生した大地震は「福井大地震」と名付けられたのだった。
地震の規模はM7.1。福井県を中心に北陸から北近畿を襲った地震であった。震源は福井県坂井郡丸岡町付近。福井市を直撃した「都市直下型地震」であった。福井市の震度は6。(当時の震度階級としては最悪の震度。現在では震度7に該当するようだ。)福井大震災は、関東大震災・阪神淡路大震災・東日本大震災などに匹敵する「日本の災害史上最悪クラス」の震災であった。
福井県の死者=3728人。負傷者=21750人。全壊家屋=35382戸
石川県の死者= 41人。負傷者= 453人。全壊家屋= 802戸
というデータが残っている。
福井県の丸岡城は倒壊。福井県内の線路は歪み、ひずみ箇所多数発生。車両の多数が脱線、転覆。大和百貨店福井店が全壊。さらに、九頭竜川の堤防が決壊した。
これらのデータから最悪級の地震であったと想像できる。
誕生した家(母の実家)は大きな被害もなく、そのまま生活することができる状態であった。
都市直下型地震は、震源地近くかどうか、断層の上かどうかなどによって、被害はかなり違うようだ。どの地震においても、概ねその傾向だと言える。
石川県は福井県の隣だったが、被害は少なかった。
最悪クラスの大地震が隣の県で誕生翌日に発生したが、鬼井江は母に守られ、怪我をすることもなく無事だった。
「何者か」が、「鬼井江の行く末」をそっと見つめていくことになるのだろう。
さて、「何者か」とは……
(*鬼井江の生まれた時の話は以上です。)
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タグ: 出生
2018/7/5
「鬼井江・伝 その1」 創作
「鬼井江」は本名ではない。
この男について、私が知っている範囲で、この男の生きざまや考え方を書き残しておくことにした。想像したことも含んでいるので、「創作」である。
ちなみに、私は「鬼井江」の分身である。
60代後半から、鬼井は、どこに焦点を合わせるともなく、ぼんやりとしながらも、ゆったりとした気分で独り言を言う時がある。言葉を心に刻んでいるらしい。
【食べることは生きること。歩くことは生きること。書くことは生きること。】
そう、彼にとって、「書くこと」は(ちょっとだけ)楽しいことらしい。
(その2へ)
この男について、私が知っている範囲で、この男の生きざまや考え方を書き残しておくことにした。想像したことも含んでいるので、「創作」である。
ちなみに、私は「鬼井江」の分身である。
60代後半から、鬼井は、どこに焦点を合わせるともなく、ぼんやりとしながらも、ゆったりとした気分で独り言を言う時がある。言葉を心に刻んでいるらしい。
【食べることは生きること。歩くことは生きること。書くことは生きること。】
そう、彼にとって、「書くこと」は(ちょっとだけ)楽しいことらしい。
(その2へ)