中山道歩き旅(木曽路~信濃路)を2泊3日で実施。青春18切符を利用して、まだ歩いていなかった木曽路の一部と信濃路の一部を歩いてきた。
初日(12月11日)、JR堺市駅で列車に乗った時刻は、午前6時32分。東海道線でJR名古屋駅へ。中央本線に乗り換え、JR藪原(やぶはら)駅に到着した時刻は午後1時18分だった。5年前に藪原駅を利用したときは、有人駅だったが、今回、駅員はいなかった。駅舎は以前のままだったが・・・。中央本線は無人駅が増えているようだった。普通列車はワンマン列車で、降りるときは先頭車両の運転手のいる場所のドアだけが開くだけで、ほかのドアは開かない。こういうワンマン列車が(地方では)増えてきている。この日、藪原駅で降りたのは私一人だけだった。
歩く方向を地図で確認し、7km先の宮ノ越宿への行程を歩き始めた。木曽川に沿うような道がほとんどで、平坦な道が多かった。一部は人しか歩けない道もあったが、おおむね車が通れる道だった。
宮ノ越宿は木曽義仲(平安時代末期の武将)が旗挙げをした地で、『義仲館』(木曽義仲、31歳で討ち死に。その壮絶な歴史資料館)を中心にその歴史をクローズアップしている。
中山道は江戸時代に整備されたが、中山道の前は「東山道(とうさんどう・とうせんどう)」で、7世紀ごろにできた道の一部が中山道と重なる。東山道は古い道で、中山道は新しく整備された道と言える。幕末に皇女和宮が降嫁の際にさらに新しく造られた道もあるようだ。だんだん行列が通過しやすいコースが造られていったようです。古い中山道の痕跡があっても、危険で通れない道があり、「中山道歩き旅」用の地図を見ても、違うコースが選ばれている場合がある。とにかく「中山道(木曽路)」は難しい。地図を見ても迷うことが時々ありました。
宮ノ越宿・本陣は明治時代の大火で焼失したのですが、近年になり本陣(門など)が再建されていました。立派な門で、「本陣らしさ」を実感できました。
宮ノ越宿から福島宿へ向かう途中に、「中山道中間点」の碑がありました。江戸、京からそれぞれ67里28町(約266km)に位置している地点。この地点で、休憩したのですが、午後4時になっていて、(冬至が近く)薄暗くなり始めていました。ゆっくりと休憩できませんでした。「中山道中間点」での風に吹かれて、ゆっくりしたかったのですが・・・。(木曽福島駅近くの予約しているホテルに午後5時までには到着したいと思っていましたので。)
木曽路は薄暗くなり始めると、時間の経過が特に早く感じられる街道でした。中間地点で、短時間休憩後、急ぎ足で福島宿へ向かいました。巨大な関所入口(出口)のシンボル「冠木門」を目にしたときは、すでに午後5時を回っていました。薄暗かったのですが、何とか写真を撮ってみました。福島関所跡は崖の上にあり、建物の一部だけを写すことができました。見学可能時間は終了していました。(5年前に見学した関所跡でしたので、今回は通過のみ。)
5時半になり、すでに真っ暗になっていましたが、予約していたホテルに到着できました。一日目の歩き旅、終了でした。歩数計を見ると、27528歩でした。この日は、午後1時半からスタートし、約16kmの行程を歩き旅しました。
(この続きは、次のブログ【その2】へ)
宮ノ越宿への入り口
巴(ともえ)橋 この橋の下が木曽川上流部の「巴淵」といわれるところで、透き通った清らかな水が淵となっていた。巴御前(木曽義仲に仕えた女武将)は、この淵に住む龍神の化身という伝説があり、木曽義仲が討ち死にするまで、義仲(31歳で死亡)を守り通したとの女性である。
宮ノ越宿一帯は、木曽義仲が挙兵(旗挙げ)した地として、宮ノ越宿や宮ノ越駅など(色々なところ)で幟がはためいていた。この橋も中山道です。
明治時代、大火で焼失した『本陣』。復元された「宮ノ越宿・本陣」立派な門だった。
中山道中間地点の石柱碑
木曽福島宿 入口(出口)の冠木門 巨大鉄製の門(車道2車線をまたぎ、大型トラックも通過可能)
写真真っ暗の部分は、関所の石垣で絶壁で、上部の建物がうっすらと映っています。この建物は福島関所の入り口になります。ものすごい急な崖の上に関所は設置されていたのです。(現在、私が歩いてきた道は、コンクリートの道で、関所を見上げています。すぐ下は、木曽川です。暗くて石垣はまったく写っていません。)