2021/1/12
「「鬼」について(その4)各地の鬼伝説」 評論・随筆その他
日本で最も古い「鬼」は、鳥取県の鬼住山の鬼伝説の鬼だが、日本各地に多くの鬼伝説がある。
中でも、日本海側に鬼伝説は多い。鬼=渡来人だとすれば、弥生時代・古墳時代に大陸から船で日本海ルートでやってきた渡来人。彼らは「鬼」とみなされたに違いない。一方、3世紀、卑弥呼も日本海ルートで中国に使者を送っている。彼らを含め、朝鮮半島や中国へ向かう人々(多数の交易人たち)は、ほとんど日本海ルートで船で移動したようだ。卑弥呼の大切な役割は、「航海安全」の占い・祈祷だったはずである。
ちなみに、この時代、外洋航路の移動は命がけの航海であった。当然、冬の日本海は荒れて、航行不能であったに違いない。航海安全の祈祷には、気象予報能力・潮流や海流を読む能力・出航のタイミングを決める能力が必要だった。それらのエキスパートが「卑弥呼」や「台与(とよ)」たちの女性祈祷師だったのだろう。予測を外し、多くの人を遭難させた祈祷師たちは消えていった(殺された)に違いない。
主な鬼伝説は日本海側に多い。岡山県にも鬼伝説はあるが、鳥取県から中国山地を越えると、岡山(吉備地方)である。船で日野川をさかのぼり、一部区間を陸上を移動して、岡山県側の川を下れば、吉備地方に到達できる。
吉備地方に「鬼」が住み着いたという伝説がある。鬼の名は、「温羅(うら)」である。温羅は朝鮮半島からやってきた「百済」の王子だという説さえある。吉備地方に鉄材と鉄加工(鍛冶)技術・造船技術・製塩方法などを伝えた渡来人だったようだ。
岡山県総社市の山手に「鬼ノ城(きのじょう)」という山城がある。日本100名城の一つであり、観光地にもなっている。
私が初めて鬼ノ城を訪れた時、この城を見た時、不思議な感じがした。天守閣はなく、楼門らしき建物が復元されていたのだが、普通の城らしくはなかった。楯のような板が楼門の上部に掲げられていた。その楯のような板に描かれた文字または図案が不思議だった。その意味するものがまったく理解できなかった。不思議な文字か図案が描かれた(畳半分ぐらいの)大きな板(3、40枚ほど)が建物の上部の周りに掲げられていた。それらが異国ムードの雰囲気を醸し出していた。とても、日本人が作った城とは思えなかった。(「鬼ノ城」についての研究はあまり進んでいないようで、確かなことはまだわかっていない。)
岡山駅東口広場に「桃太郎像」があるのだが、西口バスターミナル近辺に「温羅像」なるものも設置されている。上半身裸で皮膚の色はやや焦げ茶色の像である。私は2度ほど見ているが、大きな男で筋肉隆々の「鍛冶職人」を連想させる像であった。
岡山県と言えば、「桃太郎」で有名だが、最近は鬼の「温羅」の方が人気が出てきたようだ。夏祭りとして、俗にいう『うらじゃ祭り』が毎年のように行われるようになっている。鬼の格好をまねて、鬼ふうの化粧をして、商店街などを踊りながらパレードしている。桃太郎よりも県民は「鬼=温羅」の方が好きになってきたらしい。
吉備の国を繁栄させた「温羅」が鬼扱いされ、「鬼退治」されることになった。この温羅を悪者扱いしたのは、大和朝廷だと考えられている。古代において、「吉備国」は繁栄していたが、大和朝廷にとって支配下にしたい。(私の勝手な想像だが)おそらく吉備国の「鉄に関するすべて」を支配したかったのだろう。「鉄を制する者が天下を制する」時代であったから。大和朝廷にとって、北九州の国・出雲国・吉備国・丹後の国の「製鉄・鉄加工技術」を奪い取る必要があったのだ。いわゆる「古代における、鉄をめぐる覇権争い」。
吉備国を助けた英雄的渡来人=温羅を「鬼=悪者」にして、退治したのだ。「良き人」なら、退治する理由にならない。
吉備国は大和国との「覇権争い」で負けてしまったのだ。
北九州の国々も出雲も丹後も、すべて大和国との争いに負け、支配下に入れられてしまったのだろう。(私は、そう思っている。)
いろいろな遺跡や古墳を発掘されるにつれて、吉備国と大和国との関係が深いことも証明されている。
前方後円墳の原型は吉備地方にある「楯築遺跡(たてつきいせき)」だと言われている。吉備地方には、巨大古墳もある。(日本で4番目・造山古墳と10番目・作山古墳など、多くの古墳が残されている。ちなみに、一般人が入っていくことができる最大の古墳は「造山古墳」。天皇の古墳ではないゆえでしょう。たぶん、豪族の墓なのでしょう。私は3度登りました。墳丘の登頂部は、戦国時代、陣地にするために削られたようで、平らになっていましたが、巨大な古墳でした。)
吉備国がいかに繁栄していたかは、遺跡や古墳が物語っていますね。
歴史は勝者が勝者の都合のいいように書かれ、史として伝えられている。敗者の側の視点から見ると、違った真実もあるに違いない。「歴史の事実」は、まったく逆の場合もあるにちがいない。そういう視点で、物事を見つめなおすことも必要でしょう。
「逆転の発想」、人生においても必要ですね。
「桃太郎」は正しい人で、「悪い鬼」を成敗した。室町時代ごろに書かれた「桃太郎伝説」の背後にあるものは、大和と吉備との覇権争いだった。大和朝廷から遣わされた「吉備津彦命」が、吉備地方で人々を苦しめていた「温羅という鬼」を成敗した、ということから、「第7代天皇・孝霊天皇の息子=吉備津彦命(きびつひこのみこと)」が「桃太郎」のモデルになったと伝えられている。
そして、吉備津神社は吉備津彦命を主祭神としている神社である。建物は国宝。
一方、温羅は吉備津彦神社(吉備津神社の近く、JR桃太郎線の一駅離れた位置にある大きな神社)の一角に小さな小さな「温羅神社」がある。この神社に一度だけ訪れたことがあるのだが・・・、「質素ながら、存在感はある」と思った。(きっと「鬼」に関心があるから、存在感を感じたのでしょうね。)
桃太郎が鬼ヶ島に住み着いている鬼を退治する話がある。こちらの方が有名で、「おとぎ話」として作られた。香川県にある女木島(めぎじま)が鬼の住まいとされ、そこを拠点に瀬戸内海を荒らしまくっていた鬼たち。鬼は海賊たちで、悪いことばかりしていた連中だという設定で話は作られている。
これも、「海賊とは何者か?」を考えてみれば・・・。「大和朝廷に従おうとしない海民たちだった」と考えられる。大和朝廷に従おうとしない人々を「鬼」とみなし、征伐しにいった「桃太郎」。
おとぎ話の背後にあるものを想像するのも楽しい。
丹後地方にも「鬼」は出現している。大江山の「酒呑童子(しゅてんどうじ)」という鬼である。この鬼も表向きは「悪い奴」なのだが・・・。さて・・・?
背後にある歴史を調べ、あれこれと想像するのも楽しい。
「酒呑童子」については、詳しくは調べていないけれど、「京」に近い位置(大江山と京は近い)に出没した鬼。「京」はいろいろな時代の中心地。権力の中枢でもあった。その権力に従おうとしない者たちが「鬼のモデル」になっているかもしれない…。そういう視点で「大江山」を訪れると、何かが分かるかもしれない。
青森県弘前市鬼沢という地にも「鬼伝説」がある。
「岩木山北山麓赤倉側 古代製鉄地帯の鬼伝説」らしいが、行ったことがない地なので、すが・・・。やはり「鉄」と関係があるらしい。
秋田県の「なまはげ」も、「鬼」と関係あるだろう
鬼伝説は概ね「日本海側」に多いのだが、日本全国、ありとあらゆるところにある。調べだしたら、きりがないほどあるようです。
いろいろ、「鬼について」【その1】から【その4】まで書いてきましたが、長くなりました。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。「鬼滅の刃」を知らずに書きましたので、参考にならなかったかもしれませんが、別の角度から「鬼」を見る機会になったら・・・と思っています。今回の話題は、ここまで。
さて、我が孫も「鬼滅の刃」に興味があるらしい。私も機会あれば、読んでみようか、映画を見てみようかな?
岡山駅東口広場 桃太郎像
岡山駅西口 近年、温羅像が設置された。
吉備の冠者=温羅 についての説明板。
文脈にも書かれているように、温羅は「鬼ノ城」に住んでいた。そのことが書かれている。吉備の国の繁栄は、温羅のおかげだと、人々は感謝したようだ。「うらじゃ祭り」はその感謝の踊りだ考えられる。昔(1994年以前)は「うらじゃ祭り」などなかった。
鬼ノ城近くの「鬼の住まい」とみなされている所。怪力の鬼はこの岩を持ち上げて、住まいとしたという伝説あり。
中でも、日本海側に鬼伝説は多い。鬼=渡来人だとすれば、弥生時代・古墳時代に大陸から船で日本海ルートでやってきた渡来人。彼らは「鬼」とみなされたに違いない。一方、3世紀、卑弥呼も日本海ルートで中国に使者を送っている。彼らを含め、朝鮮半島や中国へ向かう人々(多数の交易人たち)は、ほとんど日本海ルートで船で移動したようだ。卑弥呼の大切な役割は、「航海安全」の占い・祈祷だったはずである。
ちなみに、この時代、外洋航路の移動は命がけの航海であった。当然、冬の日本海は荒れて、航行不能であったに違いない。航海安全の祈祷には、気象予報能力・潮流や海流を読む能力・出航のタイミングを決める能力が必要だった。それらのエキスパートが「卑弥呼」や「台与(とよ)」たちの女性祈祷師だったのだろう。予測を外し、多くの人を遭難させた祈祷師たちは消えていった(殺された)に違いない。
主な鬼伝説は日本海側に多い。岡山県にも鬼伝説はあるが、鳥取県から中国山地を越えると、岡山(吉備地方)である。船で日野川をさかのぼり、一部区間を陸上を移動して、岡山県側の川を下れば、吉備地方に到達できる。
吉備地方に「鬼」が住み着いたという伝説がある。鬼の名は、「温羅(うら)」である。温羅は朝鮮半島からやってきた「百済」の王子だという説さえある。吉備地方に鉄材と鉄加工(鍛冶)技術・造船技術・製塩方法などを伝えた渡来人だったようだ。
岡山県総社市の山手に「鬼ノ城(きのじょう)」という山城がある。日本100名城の一つであり、観光地にもなっている。
私が初めて鬼ノ城を訪れた時、この城を見た時、不思議な感じがした。天守閣はなく、楼門らしき建物が復元されていたのだが、普通の城らしくはなかった。楯のような板が楼門の上部に掲げられていた。その楯のような板に描かれた文字または図案が不思議だった。その意味するものがまったく理解できなかった。不思議な文字か図案が描かれた(畳半分ぐらいの)大きな板(3、40枚ほど)が建物の上部の周りに掲げられていた。それらが異国ムードの雰囲気を醸し出していた。とても、日本人が作った城とは思えなかった。(「鬼ノ城」についての研究はあまり進んでいないようで、確かなことはまだわかっていない。)
岡山駅東口広場に「桃太郎像」があるのだが、西口バスターミナル近辺に「温羅像」なるものも設置されている。上半身裸で皮膚の色はやや焦げ茶色の像である。私は2度ほど見ているが、大きな男で筋肉隆々の「鍛冶職人」を連想させる像であった。
岡山県と言えば、「桃太郎」で有名だが、最近は鬼の「温羅」の方が人気が出てきたようだ。夏祭りとして、俗にいう『うらじゃ祭り』が毎年のように行われるようになっている。鬼の格好をまねて、鬼ふうの化粧をして、商店街などを踊りながらパレードしている。桃太郎よりも県民は「鬼=温羅」の方が好きになってきたらしい。
吉備の国を繁栄させた「温羅」が鬼扱いされ、「鬼退治」されることになった。この温羅を悪者扱いしたのは、大和朝廷だと考えられている。古代において、「吉備国」は繁栄していたが、大和朝廷にとって支配下にしたい。(私の勝手な想像だが)おそらく吉備国の「鉄に関するすべて」を支配したかったのだろう。「鉄を制する者が天下を制する」時代であったから。大和朝廷にとって、北九州の国・出雲国・吉備国・丹後の国の「製鉄・鉄加工技術」を奪い取る必要があったのだ。いわゆる「古代における、鉄をめぐる覇権争い」。
吉備国を助けた英雄的渡来人=温羅を「鬼=悪者」にして、退治したのだ。「良き人」なら、退治する理由にならない。
吉備国は大和国との「覇権争い」で負けてしまったのだ。
北九州の国々も出雲も丹後も、すべて大和国との争いに負け、支配下に入れられてしまったのだろう。(私は、そう思っている。)
いろいろな遺跡や古墳を発掘されるにつれて、吉備国と大和国との関係が深いことも証明されている。
前方後円墳の原型は吉備地方にある「楯築遺跡(たてつきいせき)」だと言われている。吉備地方には、巨大古墳もある。(日本で4番目・造山古墳と10番目・作山古墳など、多くの古墳が残されている。ちなみに、一般人が入っていくことができる最大の古墳は「造山古墳」。天皇の古墳ではないゆえでしょう。たぶん、豪族の墓なのでしょう。私は3度登りました。墳丘の登頂部は、戦国時代、陣地にするために削られたようで、平らになっていましたが、巨大な古墳でした。)
吉備国がいかに繁栄していたかは、遺跡や古墳が物語っていますね。
歴史は勝者が勝者の都合のいいように書かれ、史として伝えられている。敗者の側の視点から見ると、違った真実もあるに違いない。「歴史の事実」は、まったく逆の場合もあるにちがいない。そういう視点で、物事を見つめなおすことも必要でしょう。
「逆転の発想」、人生においても必要ですね。
「桃太郎」は正しい人で、「悪い鬼」を成敗した。室町時代ごろに書かれた「桃太郎伝説」の背後にあるものは、大和と吉備との覇権争いだった。大和朝廷から遣わされた「吉備津彦命」が、吉備地方で人々を苦しめていた「温羅という鬼」を成敗した、ということから、「第7代天皇・孝霊天皇の息子=吉備津彦命(きびつひこのみこと)」が「桃太郎」のモデルになったと伝えられている。
そして、吉備津神社は吉備津彦命を主祭神としている神社である。建物は国宝。
一方、温羅は吉備津彦神社(吉備津神社の近く、JR桃太郎線の一駅離れた位置にある大きな神社)の一角に小さな小さな「温羅神社」がある。この神社に一度だけ訪れたことがあるのだが・・・、「質素ながら、存在感はある」と思った。(きっと「鬼」に関心があるから、存在感を感じたのでしょうね。)
桃太郎が鬼ヶ島に住み着いている鬼を退治する話がある。こちらの方が有名で、「おとぎ話」として作られた。香川県にある女木島(めぎじま)が鬼の住まいとされ、そこを拠点に瀬戸内海を荒らしまくっていた鬼たち。鬼は海賊たちで、悪いことばかりしていた連中だという設定で話は作られている。
これも、「海賊とは何者か?」を考えてみれば・・・。「大和朝廷に従おうとしない海民たちだった」と考えられる。大和朝廷に従おうとしない人々を「鬼」とみなし、征伐しにいった「桃太郎」。
おとぎ話の背後にあるものを想像するのも楽しい。
丹後地方にも「鬼」は出現している。大江山の「酒呑童子(しゅてんどうじ)」という鬼である。この鬼も表向きは「悪い奴」なのだが・・・。さて・・・?
背後にある歴史を調べ、あれこれと想像するのも楽しい。
「酒呑童子」については、詳しくは調べていないけれど、「京」に近い位置(大江山と京は近い)に出没した鬼。「京」はいろいろな時代の中心地。権力の中枢でもあった。その権力に従おうとしない者たちが「鬼のモデル」になっているかもしれない…。そういう視点で「大江山」を訪れると、何かが分かるかもしれない。
青森県弘前市鬼沢という地にも「鬼伝説」がある。
「岩木山北山麓赤倉側 古代製鉄地帯の鬼伝説」らしいが、行ったことがない地なので、すが・・・。やはり「鉄」と関係があるらしい。
秋田県の「なまはげ」も、「鬼」と関係あるだろう
鬼伝説は概ね「日本海側」に多いのだが、日本全国、ありとあらゆるところにある。調べだしたら、きりがないほどあるようです。
いろいろ、「鬼について」【その1】から【その4】まで書いてきましたが、長くなりました。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。「鬼滅の刃」を知らずに書きましたので、参考にならなかったかもしれませんが、別の角度から「鬼」を見る機会になったら・・・と思っています。今回の話題は、ここまで。
さて、我が孫も「鬼滅の刃」に興味があるらしい。私も機会あれば、読んでみようか、映画を見てみようかな?
岡山駅東口広場 桃太郎像
岡山駅西口 近年、温羅像が設置された。
吉備の冠者=温羅 についての説明板。
文脈にも書かれているように、温羅は「鬼ノ城」に住んでいた。そのことが書かれている。吉備の国の繁栄は、温羅のおかげだと、人々は感謝したようだ。「うらじゃ祭り」はその感謝の踊りだ考えられる。昔(1994年以前)は「うらじゃ祭り」などなかった。
鬼ノ城近くの「鬼の住まい」とみなされている所。怪力の鬼はこの岩を持ち上げて、住まいとしたという伝説あり。
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タグ: 鬼は日本各地に
2021/1/10
「「鬼」について(その3)鬼の出現」 評論・随筆その他
鬼の姿が日本で歴史的に初めて記述されたのは、日本書紀(720年ごろ)とのこと。
その書物において、「鬼魅(おに)」という表現がある。ここでの「鬼魅」は、妖怪というよりも、「異国人・渡来人・はるか遠い国からやってきた人」に対して表現しているようです。つまり、妖怪ではなく、「外国人=正体のよくわからない人間」を表現した言葉だとみなされています。妖怪ではなく、あくまでも人間だった。
ところが、733年頃の書物「出雲風土記」では、「目一鬼(まひとつのおに)」という表現が出てきています。そして、その鬼は畑を耕す農民の人々を食っていた、という「悪鬼」になってしまっているのです。
また、仏教の影響もあり、鬼は宗教上の悪神と結びついていったようです。「夜叉(やしゃ)」や「羅刹(らせつ)」、「餓鬼」などが、まさに「鬼」のイメージを作り出していきました。
日本古来の悪神や外国人などのイメージがミックスされ、鬼のイメージが形作られて行きました。
古来中国の暦法から、鬼は「鬼門(きもん)」から出入りするとされています。その鬼門は丑寅(うしとら)の方角にあるので、「丑寅の方角=北東」にいると考えられています。 鬼が活発に活動するのは「丑寅」の時刻です。現代風にいうと深夜2時から4時頃。鬼は真夜中に活動するとされています。
鬼を描く場合、頭に「牛」の角があり、巻き毛で、腰に「虎」のふんどしをまとっている姿になることが多い。武器として巨大な金棒を持っている。
まあ、一般的な鬼のイメージは、鬼は「鬼門=丑寅の方角」に住んでいて、その方角に出入りするという考え方に基づいている。裏鬼門=南西の方角。各家の鬼門や裏鬼門の位置には、玄関を作らないほうが良い。なぜなら鬼が出入りすると、邪気=邪心が入ってくることになるから。
まあ、信じるかどうかは、別問題として、「鬼門」「裏鬼門」を恐れるのは、昔からのことである。日本の文化・風習として、「鬼」をマイナス面としてとらえる暮らしが続いてきたことは歴史が物語っている。
「鬼=悪」は風習面でも残っている。例えば、「鬼は外! 福は内!」の豆まきは消えることはなく、いつまでも続けられることだろう。
鬼が悪者扱いされるので、「本来の鬼」は悲しんでいることであろう。
少し話が本題から逸れてきたようです。話を戻します。
日本各地の伝説(伝承)においても、鬼が出現していきます。鬼はマイナス面・プラス面を持つ存在なのですが、「鬼=悪者」が定着していったことがうかがえます。
鬼は日本の各地に出没しています。いくつかの鬼を紹介してみようと思います。
日本最古の「鬼伝説」は、鳥取県の【鬼住山(きずみやま)伝説】とみなされている。
鬼住山は鳥取県米子市に近い位置(伯耆町)にあり、JR伯備線の伯耆溝口(ほうきみぞぐち)駅の東側にあり、標高は約330mの山です。日本海から日野川をさかのぼっていくと、鬼住山の麓に至ります。
伝説では、この鬼住山に「鬼」が居座って、人々を苦しめていた。その鬼たちを第7代孝霊天皇(紀元前の時代に活躍したという伝説上の天皇)が退治した話である。
「悪い鬼」を成敗し、天皇の支配下にしたという伝説。
とにかく、(実在性が薄い)第7代天皇が鬼を征伐し、人々を救うという話だが
・・・。
私の関心は、鬼住山の位置と鳥取県3大河川の一つである「日野川」にある。「鬼住」という名はどういうことからつけられたのであろうか?
これは私の勝手な推測だが・・・。
大陸からの日本海ルートに船で渡ってきた渡来人たちが漂着し、住み着いた一箇所が、「鬼住」となったと考えられる。日本海から米子近くの大きな川をさかのぼって適当な微高地を探したに違いない。微高地は、外敵(つまり日本人)から身を守るために適した地であったようだ。海辺よりも少し小高い地に「弥生時代の遺跡」が発掘されることが多い。具体的には、米子近くで発見、発掘されている弥生時代の遺跡として、「妻木晩田(むきばんだ)遺跡がある。海から少し離れた小高い丘の上で発見されている。妻木晩田遺跡は日本人の遺跡だが、渡来人の影響も推測されている。渡来人は、鉄材を日本にもたらしている。弥生時代に渡来人が日本に鉄材をもたらし、鉄工技術も伝えたとみなされている。鉄工所(鍛冶場)があった遺跡は、燃料となる木が生えている場所にあることがほとんど。それも、日本海側(山陰地方・北近畿・丹後半島・能登半島など)に多く見つかっている。
渡来人が日本に来るルートは、北九州から日本海沿岸部だったと考えられる。渡来人は、日本人にしてみれば、正体のわからない人間であり、「鬼」として警戒されたに違いない。 鬼として住み着いた山=鬼住山 という名称になったと推測できる。
渡来人たちは、外敵(現地人=日本人)から身を守るためと、鉄工(鍛冶)を行うための適地を日野川を船でさかのぼって探したのであろう。と、私は勝手に想像しているのである。
妻木晩田遺跡は現在の発掘中で、弥生時代の巨大遺跡である。鳥取県には、「妻木晩田」以外にも、「青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡」がある。この遺跡からは弥生時代の人骨や遺物がたくさん発見されている。どちらも、魅力的な遺跡である。私はどちらも2度訪れている。弥生時代の遺跡として、横綱級と言えるだろう。
鬼住山へは行ったことはないが、3年ほど前にJR伯備線に乗った時、車窓から「伯耆溝口駅」の写真を撮ったことがありました。駅舎の外観壁面上部に「鬼(ブロンズ像かな?)」が飾られていた。「おっ、流石、鬼伝説の地だ!」と、一瞬思った。
時間がなかったので、下車しなかったが・・・。
(この続きは【その4】へ)
JR伯備線 伯耆溝口駅(車内よりホームを写す)
駅舎の壁に「鬼」が二人?
その書物において、「鬼魅(おに)」という表現がある。ここでの「鬼魅」は、妖怪というよりも、「異国人・渡来人・はるか遠い国からやってきた人」に対して表現しているようです。つまり、妖怪ではなく、「外国人=正体のよくわからない人間」を表現した言葉だとみなされています。妖怪ではなく、あくまでも人間だった。
ところが、733年頃の書物「出雲風土記」では、「目一鬼(まひとつのおに)」という表現が出てきています。そして、その鬼は畑を耕す農民の人々を食っていた、という「悪鬼」になってしまっているのです。
また、仏教の影響もあり、鬼は宗教上の悪神と結びついていったようです。「夜叉(やしゃ)」や「羅刹(らせつ)」、「餓鬼」などが、まさに「鬼」のイメージを作り出していきました。
日本古来の悪神や外国人などのイメージがミックスされ、鬼のイメージが形作られて行きました。
古来中国の暦法から、鬼は「鬼門(きもん)」から出入りするとされています。その鬼門は丑寅(うしとら)の方角にあるので、「丑寅の方角=北東」にいると考えられています。 鬼が活発に活動するのは「丑寅」の時刻です。現代風にいうと深夜2時から4時頃。鬼は真夜中に活動するとされています。
鬼を描く場合、頭に「牛」の角があり、巻き毛で、腰に「虎」のふんどしをまとっている姿になることが多い。武器として巨大な金棒を持っている。
まあ、一般的な鬼のイメージは、鬼は「鬼門=丑寅の方角」に住んでいて、その方角に出入りするという考え方に基づいている。裏鬼門=南西の方角。各家の鬼門や裏鬼門の位置には、玄関を作らないほうが良い。なぜなら鬼が出入りすると、邪気=邪心が入ってくることになるから。
まあ、信じるかどうかは、別問題として、「鬼門」「裏鬼門」を恐れるのは、昔からのことである。日本の文化・風習として、「鬼」をマイナス面としてとらえる暮らしが続いてきたことは歴史が物語っている。
「鬼=悪」は風習面でも残っている。例えば、「鬼は外! 福は内!」の豆まきは消えることはなく、いつまでも続けられることだろう。
鬼が悪者扱いされるので、「本来の鬼」は悲しんでいることであろう。
少し話が本題から逸れてきたようです。話を戻します。
日本各地の伝説(伝承)においても、鬼が出現していきます。鬼はマイナス面・プラス面を持つ存在なのですが、「鬼=悪者」が定着していったことがうかがえます。
鬼は日本の各地に出没しています。いくつかの鬼を紹介してみようと思います。
日本最古の「鬼伝説」は、鳥取県の【鬼住山(きずみやま)伝説】とみなされている。
鬼住山は鳥取県米子市に近い位置(伯耆町)にあり、JR伯備線の伯耆溝口(ほうきみぞぐち)駅の東側にあり、標高は約330mの山です。日本海から日野川をさかのぼっていくと、鬼住山の麓に至ります。
伝説では、この鬼住山に「鬼」が居座って、人々を苦しめていた。その鬼たちを第7代孝霊天皇(紀元前の時代に活躍したという伝説上の天皇)が退治した話である。
「悪い鬼」を成敗し、天皇の支配下にしたという伝説。
とにかく、(実在性が薄い)第7代天皇が鬼を征伐し、人々を救うという話だが
・・・。
私の関心は、鬼住山の位置と鳥取県3大河川の一つである「日野川」にある。「鬼住」という名はどういうことからつけられたのであろうか?
これは私の勝手な推測だが・・・。
大陸からの日本海ルートに船で渡ってきた渡来人たちが漂着し、住み着いた一箇所が、「鬼住」となったと考えられる。日本海から米子近くの大きな川をさかのぼって適当な微高地を探したに違いない。微高地は、外敵(つまり日本人)から身を守るために適した地であったようだ。海辺よりも少し小高い地に「弥生時代の遺跡」が発掘されることが多い。具体的には、米子近くで発見、発掘されている弥生時代の遺跡として、「妻木晩田(むきばんだ)遺跡がある。海から少し離れた小高い丘の上で発見されている。妻木晩田遺跡は日本人の遺跡だが、渡来人の影響も推測されている。渡来人は、鉄材を日本にもたらしている。弥生時代に渡来人が日本に鉄材をもたらし、鉄工技術も伝えたとみなされている。鉄工所(鍛冶場)があった遺跡は、燃料となる木が生えている場所にあることがほとんど。それも、日本海側(山陰地方・北近畿・丹後半島・能登半島など)に多く見つかっている。
渡来人が日本に来るルートは、北九州から日本海沿岸部だったと考えられる。渡来人は、日本人にしてみれば、正体のわからない人間であり、「鬼」として警戒されたに違いない。 鬼として住み着いた山=鬼住山 という名称になったと推測できる。
渡来人たちは、外敵(現地人=日本人)から身を守るためと、鉄工(鍛冶)を行うための適地を日野川を船でさかのぼって探したのであろう。と、私は勝手に想像しているのである。
妻木晩田遺跡は現在の発掘中で、弥生時代の巨大遺跡である。鳥取県には、「妻木晩田」以外にも、「青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡」がある。この遺跡からは弥生時代の人骨や遺物がたくさん発見されている。どちらも、魅力的な遺跡である。私はどちらも2度訪れている。弥生時代の遺跡として、横綱級と言えるだろう。
鬼住山へは行ったことはないが、3年ほど前にJR伯備線に乗った時、車窓から「伯耆溝口駅」の写真を撮ったことがありました。駅舎の外観壁面上部に「鬼(ブロンズ像かな?)」が飾られていた。「おっ、流石、鬼伝説の地だ!」と、一瞬思った。
時間がなかったので、下車しなかったが・・・。
(この続きは【その4】へ)
JR伯備線 伯耆溝口駅(車内よりホームを写す)
駅舎の壁に「鬼」が二人?
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2021/1/9
「「鬼」について(その2)「おに」という読み」 評論・随筆その他
では、なぜ「鬼」を「おに」と読むようになったのでしょうか?
調べてみたところ・・・
*ここから【その1】の続きです。
「鬼」という言葉・字は、中国から入ってきました。「き」という読みでしたが、日本では、日本の文化・思想と関係づけられ「おに」と読むようになったようです。
日本の古来からの文化・思想として、物事は陰と陽で成り立っているという「陰陽思想」があります。この世には、目に見える存在と目に見えない存在があり、「目に見えない存在」として、「霊魂」や「精霊」・「物の怪(もののけ=強い霊気を持ったもの)」などがあるとみなしたのでしょう。
鬼は「死者の霊」というとらえ方をする中で、「死者の霊」=目に見えない存在→陰(または隱)と認識されていったと考えられます。
隱(おん)の読み方が(おに)へ
陰(いん・おん)の読み方が(おに)に変化したと考えられます。
(霊魂=目に見えない存在 → 陰(隱)と結びつき、鬼の読み方に影響をもたらした。)
死者の霊=「鬼」の日本での読み方として、隱または陰(オン)が転化して、「おに」になったと推定される。
日本古来からの「陰陽(おんみょう)思想」の影響は現代にも残っている。陰と陽との対比は、地名や考え方の基本になっている場合がある。山陰や山陽、陰暦や陽暦など。
古来日本の暦は、月の動きを中心に作られていた(陰暦)。月=陰。それに対して、太陽は陽とみなされた。現代の暦は、陽暦(太陽の動きをもとに作られた暦)である。
中国から伝わった当初の「鬼(キ)」は、姿が見えないこの世のものではないものを意味する「日本での隱(おぬ・おん)」(または陰)と、結びついたようです。
人が死ねと、「鬼籍に入る(きせきにいる)」と言います。つまり、人間が死ぬと「鬼世界の帳簿に名前や死亡年月日などが記入される」わけです。人間みんな鬼籍に入るのです。恐ろしいわけでもなんでもなかったのです。大昔の人々の意識としては。
ところがどっこい、鬼が「恐ろしい存在」になった(イメージさせられる)のは、どの頃(時代)からなのでしょう?
鬼という漢字の象形文字について、もう一度考えてみたいと思います。
漢字の「田」の部分が「この世の人とは思えないほど超大きな頭」をさして作られたようです。つまり、「普通の人間の頭部ではない」ということであり、「この世の人ではない」ということを示す形として、字形にしたようです。鬼は「死者の霊」という意味でした。霊は目に見えない存在ですが、目に見える形にしようとした結果が、普通の人間ではない「超巨大な頭を持つ人間」の字体になったのでしょう。死者の超巨大な頭蓋骨を連想して、「鬼」の字体が作られたのではないでしょうか? (私の勝手な想像ですが)
「死者の霊」を漢字にすることの経過をたどってみたのですが、的外れかもしれません。
さて、本論に戻ります。
中国では、鬼とは「死者の霊魂そのもの」であり、「姿かたちのないもの」と認識されていた。「恐ろしいもの」という認識はなかったようです。
三国志の時代、魏という国の書物の中に、倭(日本)の国に「卑弥呼」がいて、乱れていた倭を「鬼道」を用いて統一した、という記述があります。
この当時の中国において、「鬼道」とは、「怪しい方法」ととらえており、倭の国をさげすんで使われている記述内容らしい。(私は、この筋の専門家ではないので何とも言えないが…)
要するに、中国での「鬼」の字の意味は、「死者の(目に見えない)霊魂」という認識だった。「恐ろしいもの」という認識はなかったようです。
それが、「鬼」が日本に伝わると、「死に対する恐怖」や「陰陽思想」の影響もあってか、「鬼は恐ろしくて怖いもの」というとらえ方に変わっていったようです。
日本が、「鬼」の本質を変えてしまったのだ!
「目に見えない存在」を「目に見える存在」に変えてしまった。その段階で、死もたらすマイナス面(恐怖をもたらす心理)が形となり、「妖怪の鬼」を作り出してしまったようです。死の霊に恐怖がまつわりだして、鬼=妖怪 となっていったにちがいない。
そして、妖怪は形のあるもの(実体のあるもの)へと、イメージ化が起こり、絵や伝記・話の中に「恐怖心をもたらす姿・形」となって登場するようになっていった。
鬼は「恐ろしいもの、力強いもの、超人的なものの象徴」となっていった。人に危害を与えたり、人を食べたりするなど、「悪」の存在とみなされ、人々から嫌われるようになっていったようです。そして、時代とともに鬼のマイナス面ばかりがクローズアップされていった。
しかし、「本来の鬼」には、プラス面があり、人々を救ったり、人々に幸せをもたらす「霊力」もあるのです。
その鬼のプラス面は、神秘的で、人間の力をはるかに超えた「もののけ」や「精霊」のようなパワーをもつ「神=鬼神」として人々に頼りにされ、信仰の対象にもなっていった。例えば、「鬼子母神」信仰や「うらじゃー祭り(岡山県)」で鬼(温羅=うら)を称える運動など。
鬼のマイナス面は確かに全国的に広がり、時代とともに一般化していったのですが、その歴史を探ってみると・・・。
(この続きは【その3】へ)
調べてみたところ・・・
*ここから【その1】の続きです。
「鬼」という言葉・字は、中国から入ってきました。「き」という読みでしたが、日本では、日本の文化・思想と関係づけられ「おに」と読むようになったようです。
日本の古来からの文化・思想として、物事は陰と陽で成り立っているという「陰陽思想」があります。この世には、目に見える存在と目に見えない存在があり、「目に見えない存在」として、「霊魂」や「精霊」・「物の怪(もののけ=強い霊気を持ったもの)」などがあるとみなしたのでしょう。
鬼は「死者の霊」というとらえ方をする中で、「死者の霊」=目に見えない存在→陰(または隱)と認識されていったと考えられます。
隱(おん)の読み方が(おに)へ
陰(いん・おん)の読み方が(おに)に変化したと考えられます。
(霊魂=目に見えない存在 → 陰(隱)と結びつき、鬼の読み方に影響をもたらした。)
死者の霊=「鬼」の日本での読み方として、隱または陰(オン)が転化して、「おに」になったと推定される。
日本古来からの「陰陽(おんみょう)思想」の影響は現代にも残っている。陰と陽との対比は、地名や考え方の基本になっている場合がある。山陰や山陽、陰暦や陽暦など。
古来日本の暦は、月の動きを中心に作られていた(陰暦)。月=陰。それに対して、太陽は陽とみなされた。現代の暦は、陽暦(太陽の動きをもとに作られた暦)である。
中国から伝わった当初の「鬼(キ)」は、姿が見えないこの世のものではないものを意味する「日本での隱(おぬ・おん)」(または陰)と、結びついたようです。
人が死ねと、「鬼籍に入る(きせきにいる)」と言います。つまり、人間が死ぬと「鬼世界の帳簿に名前や死亡年月日などが記入される」わけです。人間みんな鬼籍に入るのです。恐ろしいわけでもなんでもなかったのです。大昔の人々の意識としては。
ところがどっこい、鬼が「恐ろしい存在」になった(イメージさせられる)のは、どの頃(時代)からなのでしょう?
鬼という漢字の象形文字について、もう一度考えてみたいと思います。
漢字の「田」の部分が「この世の人とは思えないほど超大きな頭」をさして作られたようです。つまり、「普通の人間の頭部ではない」ということであり、「この世の人ではない」ということを示す形として、字形にしたようです。鬼は「死者の霊」という意味でした。霊は目に見えない存在ですが、目に見える形にしようとした結果が、普通の人間ではない「超巨大な頭を持つ人間」の字体になったのでしょう。死者の超巨大な頭蓋骨を連想して、「鬼」の字体が作られたのではないでしょうか? (私の勝手な想像ですが)
「死者の霊」を漢字にすることの経過をたどってみたのですが、的外れかもしれません。
さて、本論に戻ります。
中国では、鬼とは「死者の霊魂そのもの」であり、「姿かたちのないもの」と認識されていた。「恐ろしいもの」という認識はなかったようです。
三国志の時代、魏という国の書物の中に、倭(日本)の国に「卑弥呼」がいて、乱れていた倭を「鬼道」を用いて統一した、という記述があります。
この当時の中国において、「鬼道」とは、「怪しい方法」ととらえており、倭の国をさげすんで使われている記述内容らしい。(私は、この筋の専門家ではないので何とも言えないが…)
要するに、中国での「鬼」の字の意味は、「死者の(目に見えない)霊魂」という認識だった。「恐ろしいもの」という認識はなかったようです。
それが、「鬼」が日本に伝わると、「死に対する恐怖」や「陰陽思想」の影響もあってか、「鬼は恐ろしくて怖いもの」というとらえ方に変わっていったようです。
日本が、「鬼」の本質を変えてしまったのだ!
「目に見えない存在」を「目に見える存在」に変えてしまった。その段階で、死もたらすマイナス面(恐怖をもたらす心理)が形となり、「妖怪の鬼」を作り出してしまったようです。死の霊に恐怖がまつわりだして、鬼=妖怪 となっていったにちがいない。
そして、妖怪は形のあるもの(実体のあるもの)へと、イメージ化が起こり、絵や伝記・話の中に「恐怖心をもたらす姿・形」となって登場するようになっていった。
鬼は「恐ろしいもの、力強いもの、超人的なものの象徴」となっていった。人に危害を与えたり、人を食べたりするなど、「悪」の存在とみなされ、人々から嫌われるようになっていったようです。そして、時代とともに鬼のマイナス面ばかりがクローズアップされていった。
しかし、「本来の鬼」には、プラス面があり、人々を救ったり、人々に幸せをもたらす「霊力」もあるのです。
その鬼のプラス面は、神秘的で、人間の力をはるかに超えた「もののけ」や「精霊」のようなパワーをもつ「神=鬼神」として人々に頼りにされ、信仰の対象にもなっていった。例えば、「鬼子母神」信仰や「うらじゃー祭り(岡山県)」で鬼(温羅=うら)を称える運動など。
鬼のマイナス面は確かに全国的に広がり、時代とともに一般化していったのですが、その歴史を探ってみると・・・。
(この続きは【その3】へ)
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タグ: 鬼の起源
2021/1/5
「「鬼」について(その1)中国より伝来」 評論・随筆その他
『鬼滅の刃』のストーリーは、「鬼と戦う少年の成長と友情を描いた物語」と評されている。話の舞台は大正時代の日本。
私は読んでいないし、映画も見ていないので、的外れなことを書くのかもしれない。とはいうものの、「鬼」については時々考えてきているので、ブログ記述内容が、少し参考にしてもらえるかもしれない。
「鬼」について、語源と歴史を探ってみることにした。
「鬼」という言葉は、中国から入ってきている。
鬼という字は、象形文字であり、(辞書によると)「グロテスクな頭部を持つ人の象形で、死者のたましいの意味を表す。」と説明されている。象形文字だから、ものの形をかたどって描かれた文字。(絵文字からの発展によって生まれた文字とも考えられる。)
「鬼」の最古の字体=甲骨文字をよく見ると、「田」の下に、甲骨文字の「人」がついた字体になっている。想像するに、「田」の部分=この世の人間とは思えない超大きな頭部(頭蓋骨かも?)とみなしたのであろう。
(形にできず、指事によって作られた字が、指事文字。例えば、数字の「一」や「上」など。その他、会意文字・形声文字などがある。漢字の約9割は形声文字である。)
ちなみに「人」も象形文字であり、横から見た人の形が「人」の字体になっている。
そして、「鬼」という漢字の「ム」の部分は、篆刻(てんこく)文字(=実印などに使われる、甲骨文字に比べれば、比較的新しい書体)にする段階で付け加わったらしい。歴史的に一番古い「甲骨文字」の「鬼」の字体には、「ム」はないし、「田」の上についている「ノ」もない。
中国語の読み方は「gui=ぐぃ → ぎ に近い き 」のようですが、日本語になると、音読みは「き」で、訓読みは「おに」となります。中国の人に鬼という漢字を「おに」と読んでも伝わらないでしょう。訓読みは、日本人向けに作られた読み方ですから。
では、なぜ「鬼」を「おに」と読むようになったのでしょうか?
調べてみたところ・・・
(この続きは【その2】へ)
私は読んでいないし、映画も見ていないので、的外れなことを書くのかもしれない。とはいうものの、「鬼」については時々考えてきているので、ブログ記述内容が、少し参考にしてもらえるかもしれない。
「鬼」について、語源と歴史を探ってみることにした。
「鬼」という言葉は、中国から入ってきている。
鬼という字は、象形文字であり、(辞書によると)「グロテスクな頭部を持つ人の象形で、死者のたましいの意味を表す。」と説明されている。象形文字だから、ものの形をかたどって描かれた文字。(絵文字からの発展によって生まれた文字とも考えられる。)
「鬼」の最古の字体=甲骨文字をよく見ると、「田」の下に、甲骨文字の「人」がついた字体になっている。想像するに、「田」の部分=この世の人間とは思えない超大きな頭部(頭蓋骨かも?)とみなしたのであろう。
(形にできず、指事によって作られた字が、指事文字。例えば、数字の「一」や「上」など。その他、会意文字・形声文字などがある。漢字の約9割は形声文字である。)
ちなみに「人」も象形文字であり、横から見た人の形が「人」の字体になっている。
そして、「鬼」という漢字の「ム」の部分は、篆刻(てんこく)文字(=実印などに使われる、甲骨文字に比べれば、比較的新しい書体)にする段階で付け加わったらしい。歴史的に一番古い「甲骨文字」の「鬼」の字体には、「ム」はないし、「田」の上についている「ノ」もない。
中国語の読み方は「gui=ぐぃ → ぎ に近い き 」のようですが、日本語になると、音読みは「き」で、訓読みは「おに」となります。中国の人に鬼という漢字を「おに」と読んでも伝わらないでしょう。訓読みは、日本人向けに作られた読み方ですから。
では、なぜ「鬼」を「おに」と読むようになったのでしょうか?
調べてみたところ・・・
(この続きは【その2】へ)
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