何故、コトバを発するのか?何故、コトバを綴ろうと想うのか?
かねてより抱き続けて、答えの出ない問いをそのままにして
また、コトバを連ねずにはいられない私です。
先ほどのお話を書き上げて、借りていた本の返却と延長をしに
F大学の図書館まで行って来ました。
春休みに入って、卒業式も終わっているのでしょうか
人影もまばらなキャンパスにも、新しい学生さんの入学を待つかのように
やさしげな春の風が吹いていました。
不思議な偶然といいましょうか
往きの電車の中で、借りていた向田邦子さんの最後のエッセイ集「夜中の薔薇」をめくっていると
最後に載っていた「女を斬るな狐を斬れ 男のやさしさ考」の中で
(私が、別の短編を先日読んでいた)
菊池寛の短編「狐を斬れ」についてのお話を皮切りに
偶然、四国の小学校6年生の時に菊池寛氏の講演を聞いたお話をなさっていました。
菊池寛氏のお話から、さらに「男のやさしさ」について
すべるような流れにのって、さりとて作者の編み出した乗り物に
乗せられていることにも気づかぬほどのさりげなさのままに
お話が展開していきます。
そのソツのない…と申しましょうか、心憎いほどの話術にも似た
さりげない筆の運びが、ほんとうに心地よく感じます。
「男のやさしさ」については…残念ながら、私にはお話できるほどの経験がございませんので…
コチラでは、申し上げかねますが
菊地寛という方も向田邦子という方も
それはそれは、人の心の機微に深く通じた方に違いなく
だからこそ、そのお書きになる物語やお話の中に
実際に生き生きと生きて呼吸をして、モノを語り、何者かに視線を向ける
ほんとうにいるであろう人の気配や仕草やセリフを書くことができるのでしょうね。
私には、新しいお話を創作するなどという才能は全くなさそうで
目の前にあったことや、自分自身が見聞きしたり感じたり考えたりしたことを
ナントカカントカ言葉にしようと試みるのが精一杯です。
それはそれとして…
自分の中にある思いや考えを、物語として紡ぎだすことのできる方は
ほんとうに凄いなぁと想います。
そんな方の中で、私が特に好きな語り手が梨木香歩さんでしょうか。
今日もまた延長して借りてきた梨木さんの本を眺めながら
そろそろ、梨木さんの本との出会いなど、皆様にお話したくなりました。
そのためにも…もうあと一息「私のこだわり」のお話をさせてくださいね。
いつか…どこかでお話ししたことがあるかとも想いますが
単科の薬学部に市内の医学部の教授が講義にいらしていて
私が大学の2年生の頃…ちょうど二十歳の誕生日の前くらいに
病理(科目が生理解剖学だったかも?)解剖の実習の見学に参加しました。
どういうわけか、ハッキリとした記憶は思い出せないのですが
ご遺体を目の前にして、それが物体のようにしか感じられず
それに反して、今目の前にある「自分の手は、暖かくって動いている」ということが
余りにも鮮明に自分の中で対比されて
『この違いは、一体なんなんだろう?』という大きな疑問が私の中に深く刻まれました。
(その後、一度は医学部を受験したりして、紆余曲折を経て今に至っておりますが
お医者様には、なれなくって良かったかもしれないと
最近、南木佳士さんの「からだのままに」を読んで納得しました。
もちろん、能力的にもムズカシかったと思いますが
こんな気の小さな…何事も気になってしまう私には、到底勤まらなかったと想います。
やはり、お医者様には相当のタフネスが必要だと思いますので。)
それから、夫の父を見送った時、看護師さんと一緒に遺体を清拭したり
翌日、遺体に丁寧に湯灌を施していただくという経験をしました。
ご遺体は、とても尊いものということは感じられますが…
やはり生きていた時の父とは、どうしても違うものに私には思えてなりませんでした。
そのことは、亡くなった父の存在が
今もどこかにいるように感じられることとは、全く別の次元のお話で
ただ、今自分が生きて動いていることの不思議さが、ますます深まったような気がしています。
かといって、この疑問に対して
今現在における科学的な答を求めようとしても、まだ得られないであろうこともわかりますし
反対に、何か神秘的なものの存在や宗教の存在と意義も十分に認めたうえで
それらを否定もできない代わりに
今のところ私自身が納得できる答がそれらから得られるとは、まだ想えないような気がします。
おそらく、今の科学や宗教などの語るものから、
そのままスッと得心できるような答を求めることは、まだ私には見えていないように感じています。
だからどうなの~?と言われれば、まさにそれまでのことです。
ただ、30年前に感じた疑問をいまだに持ち続けていることと
そのことを、これから先もズ~ッと持ち続けていくだろうことが
もうひとつの「私のこだわり」のような気がしています。
とにかく、そんな疑問を抱えたまま
飄々と生きていくことができたら、本望というものかもしれません。
そんな中で、お会いしたりお話させていただく方々との「一期一会」の関わりが
何よりいまの自分のあることを確実に証明してくれるもののように思えてなりません。
それが一体何故なのか?が、自分自身にもよく解らないことがあるということが
どういうわけでしょうか?
余りにも当たり前でありながら、不思議に思えてなりません。
きっと余りに当たり前すぎて、普通の方は敢えて問うたりしないことなのかもしれません。
そんな私にとっての気がかりを、ようやく言葉にして皆様にお話しすることができました。
皆様に、私の想っていることを少しでもお分かりいただけるように
お話できた自信は全くありませんが
私なりに言葉にできたことで、
ほんの少しだけ気持もスッキリとホ~ッとできました。
コレでもう少し、皆様にお聞きいていただいて
楽しんでいただけるお話ができるかもしれません。
オカシナお話にお付き合いいただきまして
ほんとうに、ありがとうございました!!
かねてより抱き続けて、答えの出ない問いをそのままにして
また、コトバを連ねずにはいられない私です。
先ほどのお話を書き上げて、借りていた本の返却と延長をしに
F大学の図書館まで行って来ました。
春休みに入って、卒業式も終わっているのでしょうか
人影もまばらなキャンパスにも、新しい学生さんの入学を待つかのように
やさしげな春の風が吹いていました。
不思議な偶然といいましょうか
往きの電車の中で、借りていた向田邦子さんの最後のエッセイ集「夜中の薔薇」をめくっていると
最後に載っていた「女を斬るな狐を斬れ 男のやさしさ考」の中で
(私が、別の短編を先日読んでいた)
菊池寛の短編「狐を斬れ」についてのお話を皮切りに
偶然、四国の小学校6年生の時に菊池寛氏の講演を聞いたお話をなさっていました。
菊池寛氏のお話から、さらに「男のやさしさ」について
すべるような流れにのって、さりとて作者の編み出した乗り物に
乗せられていることにも気づかぬほどのさりげなさのままに
お話が展開していきます。
そのソツのない…と申しましょうか、心憎いほどの話術にも似た
さりげない筆の運びが、ほんとうに心地よく感じます。
「男のやさしさ」については…残念ながら、私にはお話できるほどの経験がございませんので…
コチラでは、申し上げかねますが
菊地寛という方も向田邦子という方も
それはそれは、人の心の機微に深く通じた方に違いなく
だからこそ、そのお書きになる物語やお話の中に
実際に生き生きと生きて呼吸をして、モノを語り、何者かに視線を向ける
ほんとうにいるであろう人の気配や仕草やセリフを書くことができるのでしょうね。
私には、新しいお話を創作するなどという才能は全くなさそうで
目の前にあったことや、自分自身が見聞きしたり感じたり考えたりしたことを
ナントカカントカ言葉にしようと試みるのが精一杯です。
それはそれとして…
自分の中にある思いや考えを、物語として紡ぎだすことのできる方は
ほんとうに凄いなぁと想います。
そんな方の中で、私が特に好きな語り手が梨木香歩さんでしょうか。
今日もまた延長して借りてきた梨木さんの本を眺めながら
そろそろ、梨木さんの本との出会いなど、皆様にお話したくなりました。
そのためにも…もうあと一息「私のこだわり」のお話をさせてくださいね。
いつか…どこかでお話ししたことがあるかとも想いますが
単科の薬学部に市内の医学部の教授が講義にいらしていて
私が大学の2年生の頃…ちょうど二十歳の誕生日の前くらいに
病理(科目が生理解剖学だったかも?)解剖の実習の見学に参加しました。
どういうわけか、ハッキリとした記憶は思い出せないのですが
ご遺体を目の前にして、それが物体のようにしか感じられず
それに反して、今目の前にある「自分の手は、暖かくって動いている」ということが
余りにも鮮明に自分の中で対比されて
『この違いは、一体なんなんだろう?』という大きな疑問が私の中に深く刻まれました。
(その後、一度は医学部を受験したりして、紆余曲折を経て今に至っておりますが
お医者様には、なれなくって良かったかもしれないと
最近、南木佳士さんの「からだのままに」を読んで納得しました。
もちろん、能力的にもムズカシかったと思いますが
こんな気の小さな…何事も気になってしまう私には、到底勤まらなかったと想います。
やはり、お医者様には相当のタフネスが必要だと思いますので。)
それから、夫の父を見送った時、看護師さんと一緒に遺体を清拭したり
翌日、遺体に丁寧に湯灌を施していただくという経験をしました。
ご遺体は、とても尊いものということは感じられますが…
やはり生きていた時の父とは、どうしても違うものに私には思えてなりませんでした。
そのことは、亡くなった父の存在が
今もどこかにいるように感じられることとは、全く別の次元のお話で
ただ、今自分が生きて動いていることの不思議さが、ますます深まったような気がしています。
かといって、この疑問に対して
今現在における科学的な答を求めようとしても、まだ得られないであろうこともわかりますし
反対に、何か神秘的なものの存在や宗教の存在と意義も十分に認めたうえで
それらを否定もできない代わりに
今のところ私自身が納得できる答がそれらから得られるとは、まだ想えないような気がします。
おそらく、今の科学や宗教などの語るものから、
そのままスッと得心できるような答を求めることは、まだ私には見えていないように感じています。
だからどうなの~?と言われれば、まさにそれまでのことです。
ただ、30年前に感じた疑問をいまだに持ち続けていることと
そのことを、これから先もズ~ッと持ち続けていくだろうことが
もうひとつの「私のこだわり」のような気がしています。
とにかく、そんな疑問を抱えたまま
飄々と生きていくことができたら、本望というものかもしれません。
そんな中で、お会いしたりお話させていただく方々との「一期一会」の関わりが
何よりいまの自分のあることを確実に証明してくれるもののように思えてなりません。
それが一体何故なのか?が、自分自身にもよく解らないことがあるということが
どういうわけでしょうか?
余りにも当たり前でありながら、不思議に思えてなりません。
きっと余りに当たり前すぎて、普通の方は敢えて問うたりしないことなのかもしれません。
そんな私にとっての気がかりを、ようやく言葉にして皆様にお話しすることができました。
皆様に、私の想っていることを少しでもお分かりいただけるように
お話できた自信は全くありませんが
私なりに言葉にできたことで、
ほんの少しだけ気持もスッキリとホ~ッとできました。
コレでもう少し、皆様にお聞きいていただいて
楽しんでいただけるお話ができるかもしれません。
オカシナお話にお付き合いいただきまして
ほんとうに、ありがとうございました!!