母の傍についていない時は心の中で(待っていて、私が行くまで待っていて。独りで逝かないで)と。
静養室では
私がいるよ。ひとりじゃないよ。こわくないよ。痛くないでしょ?とか
お母さん、白髪なくていいね~。シミもしわも年の割に少なくて羨ましいなぁ~。
今日は寒いから暖かくなってから帰ろうね。
大晦日の紅白一緒に聴こうね。
丙午の母だから7回目の年女を迎えようね。
明日はお兄ちゃんが来るって、会って行こうね。
等と無理を言っていた
その他にも小さい頃のことや楽しかった想い出話もたくさんした
だが、聴こえていたのか兄が来るからね
というと、呼吸も安定したり焦点はあっていなかったけど目を開けてきょろきょろした
兄は(わかっているんだよね)等と言っていたが
全然面倒もみなかったくせに
ご機嫌の良い時だけ要するに美味しいとこだけ持ってくって感じで面白くなかった
それでも母の状態が安定したのは心の底から嬉しかった
父の時は呼吸も荒く、とても苦しそうに見えたので
「お父さん、もういいよ。頑張らなくて良いよ」と言ってしまったことが
今でも心残りだから、母にはもういいよ。とは言わなかった
足の壊死が始まって1週間目
足の裏は皮がずるっと剥けて水が出てる状態
脛の方にも亀裂ができてきた
だが、脛の方は水も血も出て無かった…
こういう状態でいつまでもつんだろうという不安
これで感染症をおこしたら辛くなるのは母だという不安
3日、一旦帰宅してから再び夜19時頃行くとすぐに
「今日から誰か、ご家族が泊まってください」と言われた
夜の見周りで例えば0時に見た時は息があったが、
次の順回ではもう息が…という人が少なからずいるそうで
それはやはり可哀想という気持ちが一番なんだけど
家族の人がいれば、本人も、家族も、職員も安心ということだ
すぐにベッドを搬入してくれた
介護用のベッドだからか寝心地が良い=疲れない
だが2時間おきの体位交換や、おむつの交換だから仮眠という感じ
母は丸くなっているので心臓が動いているのか?
よく見えなかったので不安になった
肩が弱々しくも動いているのをみるとほっと安心した
実はこの3日の日中、同じフロアーの人が亡くなった
家族の人が自宅に戻っていた時に逝ったようで
ナースステーションが目の前なのでそのやりとりが自然と耳に入ってきた
「母は?母は??---」と慌てて駆け付けたご家族の人の声
「大丈夫、大丈夫、落ち着いてお部屋に行って」と看護師
その2日後今度は99歳の人が…
この方達は既に看取り期に入っていた人達なので決してインフルやノロ、院内感染ではありません
99歳の人はもう何年も前から看取り期だったようで
人間の寿命って誰にもわからないんだなと思った
6日月曜日、ナース付き添いでお風呂に入れるといわれた
一瞬躊躇ったが、綺麗な身体になれるならとお願いした
そしてこのお風呂が原因で逝ったとしてもいいと思った
足は完全に防水してくれたそう
30分位できれいさっぱりとして静養室に戻ってきた
心なしか(湯上りだからだろうけど)顔色がよくみえた
よかったね~気持ち良かった~?
…返って来る言葉はなかったけど、お風呂にも入れてよかったと安堵した
その後、湯冷めしてはいけないかなと室温を25℃に調整した
後で聴くと、室温が高いと心臓に負担がかかるし汗をかいてはいけないんだそう
少し寒いかなと思うくらいの室温が望ましいそうだ
ごめんね。おかあさん。
手も顔も冷たくて生きてるって感じがしなくて怖かったの
この日の夜に痰がたくさん出た
口元によだれのように垂れていたけど
まだ痰を出す体力が残っていたんだとびっくりした
(これもいわゆる臨終の症状のひとつらしい)
もうほとんど水分は飲めていない
口の中を湿らす程度だ
ハブラシの先がスポンジになっている口腔ケア用のものにポカリやネクターをしみこませて
唇にちょんちょんと刺激を与えるようにして
口が少し開いたらスポンジを挿入
自力で食いつくときもあったがほとんど無反応…
ワーカーさんも「がんばれ~がんばれ~ほら、好物のネクターですよ~」と励ましてくれた
母は自宅に居る時は牛乳がお茶代わりだった
牛乳=特効薬と思っていた母
それは自分の母親が晩年、兄嫁にお水ももらえていなかったというのを
親戚同士で話しているのを聴いたことがある
うちも当時は貧乏だったのでやっとの思いで買った卵やバナナ、そして牛乳を持って見舞った所
それまで声が出無くなっていたのに、牛乳を飲んだら話ができたという
あれは兄嫁がかあちゃんにご飯や水を飲ませないで早くしねーと言っていたんだと
そんな、いまでいう老人虐待なんて…50年くらい前は普通のことだったのかもしれないけど…
それもあって特に牛乳が好きだったので牛乳も飲ませたかったが、
牛乳って口の中に残るのでこういう状態の母にはあまりよろしくないと言われた…残念だった
静養室では
私がいるよ。ひとりじゃないよ。こわくないよ。痛くないでしょ?とか
お母さん、白髪なくていいね~。シミもしわも年の割に少なくて羨ましいなぁ~。
今日は寒いから暖かくなってから帰ろうね。
大晦日の紅白一緒に聴こうね。
丙午の母だから7回目の年女を迎えようね。
明日はお兄ちゃんが来るって、会って行こうね。
等と無理を言っていた
その他にも小さい頃のことや楽しかった想い出話もたくさんした
だが、聴こえていたのか兄が来るからね
というと、呼吸も安定したり焦点はあっていなかったけど目を開けてきょろきょろした
兄は(わかっているんだよね)等と言っていたが
全然面倒もみなかったくせに
ご機嫌の良い時だけ要するに美味しいとこだけ持ってくって感じで面白くなかった
それでも母の状態が安定したのは心の底から嬉しかった
父の時は呼吸も荒く、とても苦しそうに見えたので
「お父さん、もういいよ。頑張らなくて良いよ」と言ってしまったことが
今でも心残りだから、母にはもういいよ。とは言わなかった
足の壊死が始まって1週間目
足の裏は皮がずるっと剥けて水が出てる状態
脛の方にも亀裂ができてきた
だが、脛の方は水も血も出て無かった…
こういう状態でいつまでもつんだろうという不安
これで感染症をおこしたら辛くなるのは母だという不安
3日、一旦帰宅してから再び夜19時頃行くとすぐに
「今日から誰か、ご家族が泊まってください」と言われた
夜の見周りで例えば0時に見た時は息があったが、
次の順回ではもう息が…という人が少なからずいるそうで
それはやはり可哀想という気持ちが一番なんだけど
家族の人がいれば、本人も、家族も、職員も安心ということだ
すぐにベッドを搬入してくれた
介護用のベッドだからか寝心地が良い=疲れない
だが2時間おきの体位交換や、おむつの交換だから仮眠という感じ
母は丸くなっているので心臓が動いているのか?
よく見えなかったので不安になった
肩が弱々しくも動いているのをみるとほっと安心した
実はこの3日の日中、同じフロアーの人が亡くなった
家族の人が自宅に戻っていた時に逝ったようで
ナースステーションが目の前なのでそのやりとりが自然と耳に入ってきた
「母は?母は??---」と慌てて駆け付けたご家族の人の声
「大丈夫、大丈夫、落ち着いてお部屋に行って」と看護師
その2日後今度は99歳の人が…
この方達は既に看取り期に入っていた人達なので決してインフルやノロ、院内感染ではありません
99歳の人はもう何年も前から看取り期だったようで
人間の寿命って誰にもわからないんだなと思った
6日月曜日、ナース付き添いでお風呂に入れるといわれた
一瞬躊躇ったが、綺麗な身体になれるならとお願いした
そしてこのお風呂が原因で逝ったとしてもいいと思った
足は完全に防水してくれたそう
30分位できれいさっぱりとして静養室に戻ってきた
心なしか(湯上りだからだろうけど)顔色がよくみえた
よかったね~気持ち良かった~?
…返って来る言葉はなかったけど、お風呂にも入れてよかったと安堵した
その後、湯冷めしてはいけないかなと室温を25℃に調整した
後で聴くと、室温が高いと心臓に負担がかかるし汗をかいてはいけないんだそう
少し寒いかなと思うくらいの室温が望ましいそうだ
ごめんね。おかあさん。
手も顔も冷たくて生きてるって感じがしなくて怖かったの
この日の夜に痰がたくさん出た
口元によだれのように垂れていたけど
まだ痰を出す体力が残っていたんだとびっくりした
(これもいわゆる臨終の症状のひとつらしい)
もうほとんど水分は飲めていない
口の中を湿らす程度だ
ハブラシの先がスポンジになっている口腔ケア用のものにポカリやネクターをしみこませて
唇にちょんちょんと刺激を与えるようにして
口が少し開いたらスポンジを挿入
自力で食いつくときもあったがほとんど無反応…
ワーカーさんも「がんばれ~がんばれ~ほら、好物のネクターですよ~」と励ましてくれた
母は自宅に居る時は牛乳がお茶代わりだった
牛乳=特効薬と思っていた母
それは自分の母親が晩年、兄嫁にお水ももらえていなかったというのを
親戚同士で話しているのを聴いたことがある
うちも当時は貧乏だったのでやっとの思いで買った卵やバナナ、そして牛乳を持って見舞った所
それまで声が出無くなっていたのに、牛乳を飲んだら話ができたという
あれは兄嫁がかあちゃんにご飯や水を飲ませないで早くしねーと言っていたんだと
そんな、いまでいう老人虐待なんて…50年くらい前は普通のことだったのかもしれないけど…
それもあって特に牛乳が好きだったので牛乳も飲ませたかったが、
牛乳って口の中に残るのでこういう状態の母にはあまりよろしくないと言われた…残念だった