流星のきずな☆彡

2009.8月からの〜雑記~最近はボャッキー気味

銀行

2014-01-30 18:15:13 | 日記
27日の16時頃銀行に行ったらATMがとても混んでいた
…週明けでおまけにお給料日だからかな?

入口中央付近にいる銀行員さんがのぼりを持っている
なんて書いてあるのかな?と思ったら
「ただいま、銀行強盗の訓練中です。ご心配なさらないでください~」

…えっ?…初めて見たわ…

ただ肝心の犯人役の人がどの人だったのか見分けられず…
そして…おまわりさん待ちだったうようで
「おまわりさん10分遅れるそうです~」なんてゆるいやり取りが聴こえてきた

う~ん…訓練としてどうなんでしょね
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施設から自宅へ

2014-01-29 18:04:20 | 父 母
時系列が違いますが

亡くなった日の一日こと

兄夫婦とうちの家族が一旦帰宅して母と二人きりになって
時計を見たら4時過ぎ
医者が死亡診断に来るまで時間があると思い
仮眠しようとベッドに横になる
…寝れない…
横を見るとさっきまで息があった母が無音でそこにいる
顔色も真っ白という表現が正しいと思うくらい血の気が全くない

顔を見てると…お疲れ様…そんな言葉しか出てこなかった

何もすることが無いのだから一旦帰宅すればと言われたが
母を独りにしたく無かった

そのうち、早番の人達が出勤してきたようで
代わる代わる挨拶に来てくれた
まだ死亡診断していないので手を合せることは勿論お焼香もできないそうだ

私の誕生日に逝ったということは直ぐに皆さんの周知のこととなったようで
「凄い偶然ですね」と皆さん言ってくれた

普段から結構シビアな対応をしてくれていたナースさんが入室するなり
涙を流したことにびっくりした

このシビアな対応と言うのは語弊があるけど
性格的な印象がサバサバというかドライというか…でもそれが仕事なので当たり前の対応だと思っていたから意外に感じた
そのナースさん、自分の娘さんも1月8日がお誕生日だと言っていた

8時頃医者が来て死亡確認
瞳孔を確認、脈も確認、聴診器で心音も確認してた

ドラマでみたまま「ご臨終です」と言われた

その後、エンゼルケア
前もって帰宅時には着させてあげたい洋服を持参していたのでそれに着替えさせてもらった
もう25年くらい前のブラウスとスカートだが綺麗に保管していたので着れた
生前「これ高かったのよ~」と言っていたものだ

スカートはウエストがきつかったのかリメークしてあって
茶色の生地なのに何故か水色のボタンに付け替えてあった

なんで水色???センスないな~苦笑交じりでと付け変えようと思ったが
娘に「それがおばあちゃんらしくってそのままでいいんじゃない?」と言われたので変えなかった

メイクは家族でおこなった

ベースメイクからファンデーションのノリがもの凄く良くてびっくりした
普通よれたり、カサついたりするのに…
兄の子がチークを入れた
ちょっと赤過ぎないか?と思い粉おしろいでおさえた

最後に口紅をさしたらとても可愛らしい母のできあがり
向こうで父に会ったらまた惚れ直しちゃうかも…なんて冗談交じりで仕上げた

死化粧が終わると、施設の方でお焼香の準備をしてくれた

階が違う介護士さんまでお焼香してくれた
顔をみてくれて「あら~可愛い」なんても言ってくれた

ふと、入口を見たら同室だった静枝さんが車椅子できてくれていた
「寂しいから早く戻ってきて一緒に寝ようよ。と言っていたのにー」と号泣してくれた

丸4年、静枝さんと同室でなんのトラブルもなく穏やかに過ごしてこれたのは他の誰でも無い
母だったから、そして静枝さんだったからと言いあった
手を取り、どうか母の分まで長生きしてくださいと手を取り合って
部屋にいた全員が泣いていた

葬儀屋の寝台車が指定した11時に到着したと連絡がきたので下に降りようと
エレベーターに向かう

通常使うエレベーターでは無く別のエレベーターを使うと思っていたら
いつも通りのエレベーターを使用したので嬉しかった
(病院では人知れずこそっとした覚えが…)

このとき、フロアーにいる全員が、ある人は車椅子である人は介護士さんに介助されながら
母を見送ってくれた
これを見て我々家族全員非常に感激した

エレベーターを降りてまたびっくり
デイサービスで来ている見知らぬ人からどこにこんなにたくさんの職員さん居たの?
というくらい人が待っていてくれて
卒業式の花道のようにして母を見送ってくれた

後日、息子に「おばあちゃん、あの施設で良かったね。幸せだったね。お母さんも不満なんてないでしょ?」と言われた
本当に感謝の言葉しか出てこないわ

あの時のお見送りが母の告別式だとさえ思っている
祭壇もなく、お寺のお坊さんのお経もなかったけれど
すばらしい葬送だったと思う

その後の通夜告別式は、親戚の為のもの、そして火葬の為の単なるセレモニーとも思えた

兄の長女は有料老人ホームの介護士だったが(1年で辞めてしまった)
前職場がいかに劣悪だったか思い知らされたと言っていた

母のお世話になった特養老人ホーム、母の気持ち、家族の気持ちをとても大事にしてくれたところでした

自分もお世話になるならここがいいなと思ったが
入所待ちが今現在200人超…

自分の頃にはもっと多くなっているだろう
…不安しかないわ…




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葬儀まで

2014-01-29 11:19:59 | 父 母
母、1月8日1時、永眠

食べなくなって約2週間

よく頑張ってくれたと思う
この頑張るというのは私達子供に時間をくれたということ
生きることに頑張っていたというのとは少し違うと思っている

(まったくお前達はのんびりしてるからね。ちゃんと準備が整うまで待っていてあげるから)

臨終を告げられすぐに葬儀屋に電話した

年末に菩提寺と懇意にしてるという葬儀屋を紹介されていたので話は早かった

担当者はすぐに火葬場の予約をしてくれたのだけど
年末年始の影響で予約が取れたのは16日の11時30分だった

あんなに帰りたがっていた自宅に1週間も居れて良かったと安堵した

通夜と告別式も安い公営の火葬場と併設してる所でやりたいと言ったら
そちらは2週間先じゃないと空きがないですと言われた

火葬じたいは無料

民間の斎場を予約
ここの会場使用料が200000円(本来は270000円だが檀家割引してもらった)
←何?檀家割引って…なんか変な感じ…でも安ければ安いに越した事無しだし

一応…公営の斎場の場合は1日、5万円通夜告別式2日間なら100000円
霊安室1日5千円(1週間だと35000円・2週間なら7万円)
ドライアイス1日8千円として(単純計算で1週間だと56000円・2週間なら112000円)
ドライアイスの使用は季節が関係するので冬ならもう少し安く済むと思うが
しかし2週間先だと軽く民間の式場より総額で高くなってしまう

うちの場合、母は最初お布団で寝ていたけど
4日目に納棺した(冷蔵庫状態になるので)
ドライアイスの溶け具合をみて追加するか検討したが
結局、5回使用予定が4回で済んだ

納棺の際に母を見たらドライアイスがある付近の肌が赤黄色になっていた(霜焼け?)
頭の下というか首の後ろ付近と
お腹・脇・うちの場合壊死した左足甲の付近にもあてがっていたようだ
見えている顔と頭をなでると言い方が悪いが凍っているぐらいの冷たさだった
この状態は人間であるべき姿ではないと思う
とはいえ、火葬できないのだから臭い等の対策には冷凍するしかないのだから仕方ない

これを見ても先に延ばすことは母の状態をみても
金銭的にも得策ではないことがわかった

それとコインロッカーのような所に
母が2週間も独りで火葬を待っているなんてことも私は嫌だった

余談だが淡路○子さんが亡くなった時、
これまでも数多くの芸能人が行っている青山葬儀場の空き待ちだったようで
そして会葬者が少なかったことをTVで言っていました

会葬者の人数が読めないのは一般人も同じことだけど
だだっ広い会場に空きが目立つ椅子席…
なんだか寂しいなぁと感じてしまった

芸能人の懐具合は知る由もないが
我々一般人は身の丈にあった(葬儀)生活が一番とも思った

葬儀屋に父の時の葬儀代金を言うと
うちはそこまで(高く)無いですと言いきった

よく家族葬○円コースと明記されているけれど
どのようなモノがコース料金に含まれてるのか確認した方が良い

一番最初に大体の人数を聴かれた
(うちは親戚+会葬者を入れても20人いくかどうか)
そしてその次に祭壇はどうするかと
花祭壇でも普通の祭壇でも同じ料金とのこと
ただ普通の祭壇だと両サイドに生花が無いと寂しいのでそれはオプション=追加料金になる(+10万円)

花祭壇にして正解だった
リボンを模したような緩やかカーブを描いた花祭壇はとても綺麗だった
娘はおじいちゃんの時と比べると荘厳さが無い、花が少ないと言った

父の時は祭壇の花+喪主から1対(2基)子供一同1基 孫一同1基 これに親戚から頂いた供花が8基の12基
母は喪主1基、親戚からが6基の合計7基だもの差は歴然

でも家族葬としては充分過ぎる花だった

遺影にする写真もどれにしようか迷った

施設に入ってからの写真は左目が眼瞼下垂で両目が開いていなかったのもあるけど使いたく無かった
なんていうか…負い目もあったし、ベストショットが無かったのも事実だけど
直近で撮った写真は8年前ので帽子を被っていたり小さかったりして引き延ばすのは無理だった

父の時は加工修正できると言われたんだけど(着せ替えは通常どこでもできるけど
例えば目が開いていなければ開ける、顔色を明るくしたり…極端にいえば髪の毛を生やすこともできるらしい

今回の葬儀屋はそういった細かい修正はできないと言われた

結局、フルムーンで父と行った北海道旅行の写真にした
約20年前のだったけど、それと若すぎ?と心配したが
孫達のおばあちゃんのイメージが遺影にした写真の通りだというのも決め手になった

3年前に逝った父の遺影との兼ね合いもちょうど良い感じだった

北海道旅行のことは楽しかった、良かったよ~とよく聴いていたから
ある意味お気に入りの写真ということで…

羊蹄山の麓の芝桜の前の写真にした







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最期のその時

2014-01-26 16:35:55 | 父 母
7日の19時頃早上がりだったからと兄が来た
いままでだったらそんなことは無かったので驚いた
と、同時に少しほっとした

何故かと言うと、この日いつもの2時間おきの体位交換と水分摂取の時間の間隔があいていて
(あれ?なんかほっとかれてる?)と寂しくなっていたから…

寝息も耳をすませば聴こえないくらいの母と閉鎖された部屋にいたら
どうせもうすぐ亡くなるんだから…ほっておかれてるのか?なんて被害妄想まで…

2日前から尿も出無くなっていた母
おむつ交換や体位交換さえも身体に負担がかかるということで
敢えて間隔を開けたということを後で知った

尿が出ない…これは段々血管も狭まっていき、最終的には血液が滞り心臓が止まることになるとナースが言っていた

この日の朝と昼と夜にネクターを持ってきてくれたのだけど
当然飲めなかったから付いている私との介護士さんとの会話もほんの少し

母との一方通行の会話はしていたけど、なんとも言えない気持…不安感だったのかな

臨終の呼吸じゃないかと思わせる浅い呼吸、胸=肺に入っていないような
口元をぎゅと閉じて口の中だけで息をしてる感じ
うっというか言葉になっていない音、なんとも形容しがたい音が規則的に聴こえてはいた
「お母さん、その呼吸って苦しくないの?」なんて聴いてみた
自分も同じ感覚で真似て呼吸してみた
…非常に苦しい…プールで潜水している感じ

施設での看取りを希望した際に
酸素マスクや点滴等の延命につながる治療はしないことに決めたから
母の身体には何も医療用の器具は付いていなかった

せめて酸素マスクでもと一瞬思ったがそれは延命になるわけで
ここまで自分の寿命を全うしようとしている母に対してそれはエゴを押しつけることだと思った

ぷくーというかうっというか違和感を感じる呼吸はこの日の15時くらいから続いていた

兄に言うと「ちょっと嫌な呼吸だな…」とぼそり…
そうなんだよ。でも、この呼吸数日前もしていて朝には普通に戻ったから…

21時まで親子3人で会話して
「じゃぁ明日も仕事が早く終わったら来てやってね」と言って兄は引き揚げた

22時頃体位交換とネクター
少し飲めたように見えたが、ほんのり口の中を湿らせたかどうかというところ…
この時部屋の温度が高すぎると指摘され、大慌てで設定温度を下げた
母にとって汗をかくようなことがあったらそれは一瞬にして…だそうだ

0時におむつの交換、この時私は寝ていたようだ…(ごめんねお母さん)
ちょっと心配なので2時間置きに見周りにきますねと言われた
えっ?いよいよか?いや、そんなことは無い…でもこの呼吸…と不安がよぎる

それからは寝ずにいようと母の傍に丸椅子を持って行き
頭を撫でたり、顔をさすったり、音楽を流してとりとめのない話をした

母の顔に私の手をかざして「気を送ったり」…どこかの変な宗教の真似事かよ
と自分自身でつっこんだりした

父から貰った水晶のネックレスを二人で持ち、
水晶からパワーをもらったり…

あれほど宗教チックなことは嫌いな私が何をやっていたんだろうと思う

ふと母を見ると呼吸の間隔が開いた
あれ?お母さん?あれ????まさか?

「お母さん、ねぇ、私の名前呼んで?○子って言って?ねぇ、もう一度でいいから、お願い、まだ逝かないで」
と懇願していた

それまでぎゅっと閉じていた唇が両端の口角を上げるようにぱぁーと開いた
それが笑ったように見えた

テレビで観るような首がガクッとなる…なんてことは無く
仰向けで天井(空)を見るような感じだった

「えっ?やだっ、お母さん、お母さん」と何度も呼びかけた

ベッドサイドのナースコールのボタンをなかなか押せずにいた
押した所でどうにもならないことは解っていたから…
けど、母の死亡診断書をみたら私がナースコールを押した時間が死亡時刻になっていた

1月8日午前1時0分だったようだ

それからすぐに兄に電話した
電話の向こうで絶句した

うちの家族にも電話した
正確な時間は解らないけど、2組とも2時くらいには駆け付けたようだった

施設で、それも深夜亡くなった場合
医師の死亡確認は翌朝の8時頃になると事前に言われていた
そしてその医師が来るまでたとえナースであろうともちろん介護士であろうと
誰も遺体に手を触れてはいけないそう

結局、どういう最期だったかを説明して、私を残して、皆一旦自宅に戻った

朝8時頃医師が来て母の死亡を確認した
テレビで観たように「ご臨終です」と言われた
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母への声掛け

2014-01-23 18:29:05 | 父 母
母の傍についていない時は心の中で(待っていて、私が行くまで待っていて。独りで逝かないで)と。

静養室では
私がいるよ。ひとりじゃないよ。こわくないよ。痛くないでしょ?とか
お母さん、白髪なくていいね~。シミもしわも年の割に少なくて羨ましいなぁ~。
今日は寒いから暖かくなってから帰ろうね。
大晦日の紅白一緒に聴こうね。
丙午の母だから7回目の年女を迎えようね。
明日はお兄ちゃんが来るって、会って行こうね。
等と無理を言っていた

その他にも小さい頃のことや楽しかった想い出話もたくさんした

だが、聴こえていたのか兄が来るからね
というと、呼吸も安定したり焦点はあっていなかったけど目を開けてきょろきょろした

兄は(わかっているんだよね)等と言っていたが
全然面倒もみなかったくせに
ご機嫌の良い時だけ要するに美味しいとこだけ持ってくって感じで面白くなかった
それでも母の状態が安定したのは心の底から嬉しかった

父の時は呼吸も荒く、とても苦しそうに見えたので
「お父さん、もういいよ。頑張らなくて良いよ」と言ってしまったことが
今でも心残りだから、母にはもういいよ。とは言わなかった

足の壊死が始まって1週間目
足の裏は皮がずるっと剥けて水が出てる状態
脛の方にも亀裂ができてきた
だが、脛の方は水も血も出て無かった…

こういう状態でいつまでもつんだろうという不安
これで感染症をおこしたら辛くなるのは母だという不安

3日、一旦帰宅してから再び夜19時頃行くとすぐに
「今日から誰か、ご家族が泊まってください」と言われた

夜の見周りで例えば0時に見た時は息があったが、
次の順回ではもう息が…という人が少なからずいるそうで
それはやはり可哀想という気持ちが一番なんだけど
家族の人がいれば、本人も、家族も、職員も安心ということだ

すぐにベッドを搬入してくれた
介護用のベッドだからか寝心地が良い=疲れない

だが2時間おきの体位交換や、おむつの交換だから仮眠という感じ

母は丸くなっているので心臓が動いているのか?
よく見えなかったので不安になった
肩が弱々しくも動いているのをみるとほっと安心した

実はこの3日の日中、同じフロアーの人が亡くなった
家族の人が自宅に戻っていた時に逝ったようで
ナースステーションが目の前なのでそのやりとりが自然と耳に入ってきた

「母は?母は??---」と慌てて駆け付けたご家族の人の声
「大丈夫、大丈夫、落ち着いてお部屋に行って」と看護師

その2日後今度は99歳の人が…

この方達は既に看取り期に入っていた人達なので決してインフルやノロ、院内感染ではありません

99歳の人はもう何年も前から看取り期だったようで
人間の寿命って誰にもわからないんだなと思った

6日月曜日、ナース付き添いでお風呂に入れるといわれた
一瞬躊躇ったが、綺麗な身体になれるならとお願いした
そしてこのお風呂が原因で逝ったとしてもいいと思った
足は完全に防水してくれたそう

30分位できれいさっぱりとして静養室に戻ってきた
心なしか(湯上りだからだろうけど)顔色がよくみえた

よかったね~気持ち良かった~?
…返って来る言葉はなかったけど、お風呂にも入れてよかったと安堵した

その後、湯冷めしてはいけないかなと室温を25℃に調整した
後で聴くと、室温が高いと心臓に負担がかかるし汗をかいてはいけないんだそう
少し寒いかなと思うくらいの室温が望ましいそうだ

ごめんね。おかあさん。
手も顔も冷たくて生きてるって感じがしなくて怖かったの

この日の夜に痰がたくさん出た
口元によだれのように垂れていたけど
まだ痰を出す体力が残っていたんだとびっくりした
(これもいわゆる臨終の症状のひとつらしい)

もうほとんど水分は飲めていない
口の中を湿らす程度だ

ハブラシの先がスポンジになっている口腔ケア用のものにポカリやネクターをしみこませて
唇にちょんちょんと刺激を与えるようにして
口が少し開いたらスポンジを挿入
自力で食いつくときもあったがほとんど無反応…

ワーカーさんも「がんばれ~がんばれ~ほら、好物のネクターですよ~」と励ましてくれた

母は自宅に居る時は牛乳がお茶代わりだった
牛乳=特効薬と思っていた母

それは自分の母親が晩年、兄嫁にお水ももらえていなかったというのを
親戚同士で話しているのを聴いたことがある

うちも当時は貧乏だったのでやっとの思いで買った卵やバナナ、そして牛乳を持って見舞った所
それまで声が出無くなっていたのに、牛乳を飲んだら話ができたという

あれは兄嫁がかあちゃんにご飯や水を飲ませないで早くしねーと言っていたんだと

そんな、いまでいう老人虐待なんて…50年くらい前は普通のことだったのかもしれないけど…

それもあって特に牛乳が好きだったので牛乳も飲ませたかったが、
牛乳って口の中に残るのでこういう状態の母にはあまりよろしくないと言われた…残念だった





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