流星のきずな☆彡

2009.8月からの〜雑記~最近はボャッキー気味

思い残したこと

2014-01-22 22:35:43 | 父 母
葬儀が終わった2日後くらいから首から肩にかけて非常に痛い

寝返りも、うてないほどだ

最近は少し良くなってきたようだ

娘が「おばあちゃんがのっかってるんじゃない?何か言いたいことがあるとか」
とふざけた感じで言った

すかさず
「おばあちゃんはそんなことしない!(娘の私が辛くなるようこと)!!」


そう憤慨した私にびっくりしたようだった

私は母に言うべきことは言ったつもりだから思い残したことは無いんだよね

…でも母の方にはあるのかな?…


夢でも良いからまた逢いたいな
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2014-01-22 16:20:48 | 父 母
年末になり世間は新年の準備に気忙しかった
自宅から車で向かっていつもなら20分くらいで着く施設も30分かかった

施設のエレベーターを上がってナースステーション前の静養室入口のドアを開けると同時に
「おかあさん~おはよ~きたよ~」と寝ている母に向って精一杯の声で挨拶した

当然返って来る言葉=反応は無いのだけどそれが虚しくはなかった
会話ができていた頃は何故か哀しいというか虚しいというか
寂しさを感じていたのだけど…

壊死した足の消毒は私が来る前に終わらせていた

2時間ごとの水分摂取、体位交換、おむつの交換はケアワーカーさんがやってくれた

30日の月曜日はいつもの入浴日

こんな状態なのにお風呂入るの?いいの?大丈夫?ってちょっと思ったが
余程のことが無い限り普段通りの生活とのこと

この日は入浴介助の人の都合で午後1の順番だった

だがいざ入浴ということになり体温を測ると37.6℃
機械浴とはいえ入浴には体力を使うので残念ながら中止
担当者が午前中に体温を測ったら37.1℃だったから
その時無理して入れた方が良かったのかもしれないとこぼしていた

普段通りの生活とはいえ、
施設の職員さん誰もがいつ逝ってもおかしくないと思っていたと思う
医師が言ったようにいつ心臓が止まってもなんら不思議では無い状態だったから

年末年始なので職員さんもシフトの関係で代わる代わる挨拶にきてくれた

不謹慎かもだけど次の出勤まで居るかな?なんて(私もだけど)きっと職員さんも思っていたと思う

結局この日は着替えのみにした

終末期に入ると黒い便が出ると聞いていたのでそれが出たら教えて欲しいと言っておいたら
30日夕方のおむつ交換で少量だが黒い便がでたと報告された

食事を摂らなくなって1週間目だった
水分も大好きなネクターを30cc飲めれば良い方だった

31日大晦日、自宅に一旦戻り簡単に年越しの準備

20時近くにカーラジオで紅白を聴きながら向かう
いつも向う時は「まってて、私が行くまで待っていて」と独り言だけど声を出していた

静養室のドア越しに、母と一緒に紅白を聴いた
楽しみにしていたリンホラは娘に録画を頼んでおいた

「お母さんサブちゃん今年で最後なんだってよ~」と耳を傾けながら聴いていた

この日は0時に帰宅

次の日元日、新年を迎えられるとは思っていなかったので正直驚いた



これはお正月の母に出されたお昼
すご~く綺麗~で美味しそうだった

残念ながら一口も食べれなかったが
左下のお雑煮は匂いとスプーンの先に付いた汁のみ唇の先に運んだ

食べれなかったけれど人生最後の食事がおめでたい料理で良かった

夏のお昼ごはんがカレーだった時
(これがお母さんの最後の食事だったら可哀想だな…)と思ったことがある

母は元々カレーは好きじゃないので、自分が作ったカレーが一番と思っていた
どんなに美味しくても
「まっづいカレー食わされた」と文句言っていた

この施設の食事はちゃんと栄養士さんが一人一人に考えて作ってくれたんだよ
と言っても「カレーなんか誰でも作れるんだよ」と悪態

この時、2人部屋で同室だった静枝さん90歳が車椅子を自分でひいて母の近くにきてくれた
「おかあさん、早く帰ってきて欲しいの、独りで寝るのは寂しいのよ」

聞けば母は普段でもほとんど喋らなかったけど、
静枝さん持ち込みのラジオやテレビの音に合せて歌を口ずさんだりしていたそうだ

母の居た5階のフロアーは認知症でも比較的重くない人と他の病気の人(脳梗塞等でマヒがある人とか)が50名居る

静枝さんは身内が居ないそうだ
ご主人はとっくに他界、自分の子供も50歳くらいで他界
だからという訳では無いだろうが、自分には面会者はいない
母のことを頻繁に見舞った私に対して母が羨ましかったようだ

この日、祝賀行事でよさこいソーラン節を職員さんが披露してくれた
母と私は特等席で鑑賞
若い職員さんの「どっこいしょーどこいしょーソーラン、ソーラン」の元気な踊りや掛け声が
「まだ逝くな~まだ逝くな~」と母をこっちに世界にひっぱる=止まらせてるように感じた

だがこの日の午後15時ころだったか?呼吸が変に感じた
その呼吸が19時くらいまで続いていた

浅くて口の中だけで息してるというか胸=肺に酸素が行っていないような感じ
ふっ、ふっ、と口先だけで吐きだしてるというか…

夕方ナースに(臨終の時の呼吸ってどんな感じですか?)と聴いた
肩ではぁはぁと浅い呼吸で下あごが出ての呼吸
そしてその呼吸がはじめると大体、半日くらいで…

この時の母の呼吸は浅いものだったのでこれは?見てもらったら
特に否定も肯定もせず「ほんと、浅いね」と言って出て行った

その夜、娘が来たらいつもの呼吸に戻った
…?…さっきまでの呼吸はなんだったんだろう?と思ったが
今思うとあれは臨終の際の呼吸じゃないのかな

食事も水分も摂らなくなったのは旅立ちの準備で
この世のものはもういっぱいだから旅立つ時は何もいらないのよ…と思っていたのか
それは誰にも解らないのだけど、

顔も身体も痩せて、久しぶりに見る母は可哀想にうつるかも知れないけど
私はこの世に生を受けた状態に戻っていったんじゃないかとも思う

身体を丸めてそして心臓を守るようにして眠る母は胎児のようだったから…


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2014-01-20 12:54:19 | 父 母
母の最期の時まで記録として残します

内容的に問題があるかもしれません
閲覧注意です



死亡診断書には脳梗塞と書かれてる
そうか…心不全じゃなかったんだ

昨年26日に息子も公休だったから一緒に面会した
自室だったせいか(いつも蛍光灯が暗い)とても顔色が悪くみえた
息子「おばあちゃん、痩せちゃったね」

それもそのはず4年前の記録には43kg
いまは28kgにまで落ちているから…

このとき左足の甲の部分がぽつぽつと赤くなっていた

翌27日、紫色に…
翌28日、茶黒になっていた…
28日の医師の説明では左足の甲に血栓ができてしまい
当然のことながら血流が止まっているため
既に壊死が始まっているとのこと

私には1日単位、いや、数分単位で壊死していったようにもみえた

幸いにもこの部分に限っては本人には痛み等の感覚は無いらしい

少し見えてる爪が既に真っ黒だった

・足を切断するという選択肢
(もちろん手術に耐えられる体力は無い)

・血栓予防の薬の服用
脳出血のリスク(危険)が伴う

足は感染症を起こさない為にも
毎日に消毒はするがそのままの状態で見守ることにした

当初、看護婦さんが消毒する様子、要は患部をみせてくれたが
29日には壊死した皮膚が所々裂けてきた
30日には家族の者にみせるにはあまりにも残酷とのことで
消毒中は部屋の外へ出された

今後どのようになるのかも聴いてみたら
裂けた皮膚から水(体液?)が出て、出切ったら乾燥して茶褐色になっていくだろうと
消毒等のケアをしてるので腐敗臭は出ない、骨は腐らないので足が落ちるとかそういうことは無い

30日にはすっかり包帯で覆った
それまで辛うじて見えていた親指の爪の所だけが真っ白く見えていた
だが、くるぶし付近に血栓ができたためかそこより上まで(すねとか)は壊死しなかった

いくら足の感覚が無いとはいえ、擦るとか撫でるとかしてあげたかったが
状態が悪くなったり万が一感染症でも引き起こしたらと思うと
私にできることは声かけしかできなかった

28日のムンテラ後、静養室に移動
29日には家族用にソファーを入れてくれた

29日から絶飲食・投薬も中止
もちろん本人の様子次第で高カロリーゼリーや水分の補給は今まで通りにする

やっと、ほんとにやっと兄夫婦が面会にきてくれた

父の時にも見舞いに来て欲しいと何度も言ったが
「お前が、親父もうすぐ死ぬかもしれないって言ってるけど、ちっとも死なないじゃないか」と言われた
いくら父と合わないからと言ってもこの発言に私は兄に失望を通り越し絶望した

母を施設に入れたときも私は姥捨てした気分だったので
せめて面会は頻繁にしようと実行していた

4年前はまだ自分が誰か理解していたが、私の事は亡くなった自分の姉と思っていたようで
「姉ちゃん」と呼びだった
それがもの凄く嫌で認知症の人への対応は否定してはいけないが鉄則なのに
私は「違うよ、姉ちゃんは死んだじゃない、○子だよ」と何度も言ってしまっていた

そのことを兄に言ったせいか
「俺が行ってもどうせ解らないだろう」と言って
終末期に入るまで一度も面会に来なかった兄

昨年7月に脳梗塞の疑いで検査した時(このときは脱水症状からくる失神だった)
施設から看取り期について話をしたいので、強引に兄に施設にくるように言ったので
それが4年目にしてやっと実現した初めての面会…

このとき看護婦さんに「久しぶりに会ったお母様はどう見えました?」と聴かれ
兄「痩せてはいるけど、そう変わっていないような…」と返答してた

画像は静養室(もちろん生前中の写真です)

特養なのに明るく楽しく過ごさせてくれたこのホーム まさにアットホームでした








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2014-01-15 13:22:21 | 父 母
本日15日通夜 18時~
心配だった雪も大丈夫そう…

亡くなった時は早く念願の自宅に帰らせたい
そして1日でも長く自宅に居させてあげたいと思ったが

気持ち的に1週間がギリギリ…

これ以上遺体のままでいるのは可哀想に思えてきた

人として、現世での人生のお勤めが終わったのなら
早く火葬してあげたい
8日に亡くなり
すぐに葬儀社が火葬の予約をしたが
最短で16日だった
(年末年始にかかり休業だった為、多くの火葬待ちが…)

結局今日は友引なので通夜をして
明日告別式後火葬となった
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2014-01-08 05:19:20 | 父 母
今日は私の誕生日
待っててくれてありがとう

母 1月8日午前1時頃 旅立ち…永眠

最期のその瞬間まで一緒にいられて、そしてお母さんの娘でホントに幸せでした

お母さんずーっとずーっとずーっとずーっと大好きだよ

あと少ししたらお家に帰ろうね
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