どんな教会が良いのか?私の体験から書いてみました。トランプの記事は、気乗りがしないので今日は控えマス🙇
イエスを受け入れた後、神様に日頃から感謝して、罪を犯すことから離れる努力をしていれば(罪を犯さないのは無理なので悔い改めは必用)天国に行けます。
祈らなくても、教会に行かなくても、聖書を読まなくても天国に行けます。
ただ、自分から神様に働きかけないと、神様からのメッセージや導き(divine guidance)を見逃すことになります。
自分が損をするかもしれないということです。ただ、それだけです。
良い書き込みを見つけたので紹介します。
>>天国に行けるかどうかは大事な問題です 聖書ではイエス様を信じる者は救われると記されています ですから救いと天国は関連していると受け取れます 教会に行くか献金をするか聖書を読むかという 条件は記されていません もちろん水の洗礼も条件ではありません 基本的に二つの条件があります ①信仰告白 ②罪の告白 これが救いの条件です さらに言えば「公言」するです 告白とは「公言」です 友達や知り合いに公言するという条件です この条件で救いは得ることが出来ます ただしまた条件があります 最後の日までに「裏切る」と救われません つまり信仰の継続です イエス様を信じ続けるという条件です ①と②をやれば聖霊が宿り導いてくれます 安心して信仰を続けることです ほとんどの人がやっていませんが 信じる人は「公言」するということです 私はイエス様を世界で一番誰よりも愛しています!
どんな教会を選ぶべきかは、上から目線ではなく自分の意見に耳を傾けてくれる教会です。
牧師の考えと異なっても、それを伝えることが出来る関係を築けそうにない牧師は難しいです。
YESマンになってはダメです。牧師に頼り過ぎない関係を保たなければいけません。
牧師や教会に、依存してはいけません。受け身ではいけません。
留学しなくても独学で英語をマスターする人もいます。マイケルも基本の基本以外はほとんど独学で踊りを学びました。レッスン受講ではなく、鏡の前で1人ひたすら練習したのです。
同じように、教会にルーチンのように通っても信仰が必ず強くなる、前進するとは限りません。まず、自分自身、神を知りたいという想いが肝心です。
完全に頼って良いのは神様だけです。
また、牧師に好かれたい可愛がられたい従順に思われたいという、良い子になろうとする気持ちは捨てたほうが良いです。
牧師の許可・承諾・逐一報告を意識しすぎたせいで、超教派主催のイベントに参加したくても、毎回、隠れてコソコソ参加していたクリスチャンの女性がいました。
最後には内緒にしていることが罪悪感になり、子供の頃から通っていた母教会に行くのが嫌になってしまいました。
最終的に、彼女の中に積もったストレスが牧師への反抗として裏目に出ました。
でも、彼女は別の教会に移っても、そちらの牧師にも逐一報告する癖が抜けていませんでした。
従順で良い子だね~と、言われ続けたのが、褒められたい気に入られたい、という気持ちを形成して行ったのだと思います。
周りが小さい頃からおだて過ぎたからだと思います。すべて彼女の責任ではないと感じます。
○○して良いでしょうか? ○○に参加しても良いでしょうか?と、許可を取る必要はありません。自分が生きたければ参加すれば良いのです。
ホウ・レン・ソウなどというルールは職場以外では忘れたほうが良いです。
牧師は神でないので、大抵の事は自分が決めれば良いのです。許可を得たいなら、尋ねるべき相手は神様です。
教団とか宗派とか言い出すから、神様に対する視野が狭くなるのです。
また、プロテスタントが批判された、カトリックが批判された、などという理由でも憤慨してはいけません。
そんな理由で憤慨するのは、自分のアイデンティーが"組織に属す者"ということです。
信仰者が属すべきは、組織ではなく、神(イエス・キリスト)だけです。
献金は出来なければ無理にしなくて良いです。特に十一献金は旧約聖書の教えです。
ガラテヤ3章 ローマ7章 へブル9章10章 を読んで自分なりに解釈してみて下さい。
しかし、人が集まる場所は、家賃・光熱費・トイレ利用・維持費などが発生するので、皆で負担を補い協力する自覚は必要です。
アブラハムとヤコブは、特別な時(occaisionaly)に10%捧げました。ただ、捧げる時は悦んで10%以上捧げました。
ホームレスや飢餓募金に寄付するのも神様に捧げてるのと同じですし、また、オカネ以外の方法でも誰かを援助出来ます。
神様は宇宙を含め全てを支配しておられる方=富んでおられる方で、不足することはありません。ケチったり、もったいぶられません。
わたしたちの財布やおカネを目当てにしておられません💰👀😆💦
心だけ目当てにされておられます💟
捧げものは、generous (歓びながら)+sacrificial(どうぞ、という己の意思を伴って) 捧げるべきで、決まりだから捧げる必要もなく、定期的に捧げる必要もありません。
?? % 捧げなければならないという規定は新約聖書にもイエスの教えにも存在しません。
献金が負担でその教会に行けないのなら、別の教会を探すべきです。
ただ、こういうことで、信徒をつまずかしているなら、それは教会側の責任です。
献金でなくとも、自分が協力し、出来ることがあります。
また、教会内の世界だけに神様が存在するわけではなく、神様に仕える方法は教会内だけと限定しないほうが良いです。
人が隠れ場に身を隠したら、わたしはその人を見ることができないのか。ー主のことばー 天にも地にも、わたしは満ちているではないか。エレミヤ 23:24
献金が出来る余裕があれば積極的にすれば良いですし、出来なければしなくて良いのです。
経済的に余裕が出来た時に、ケチらず 献金すれば良いのです。
あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。 そこで、わたしは、この恵みのわざについて意見を述べよう。それがあなたがたの益になるからである。あなたがたはこの事を、昨年以来、他に先んじて実行したばかりではなく、それを願っていた。 だから今、それをやりとげなさい。あなたがたが心から願っているように、持っているところに応じて、それをやりとげなさい。もし心から願ってそうするなら、持たないところによらず、持っているところによって、神に受けいれられるのである。 それは、ほかの人々に楽をさせて、あなたがたに苦労をさせようとするのではなく、持ち物を等しくするためである。 すなわち、今の場合は、あなたがたの余裕があの人たちの欠乏を補い、後には、彼らの余裕があなたがたの欠乏を補い、こうして等しくなるようにするのである。 それは「多く得た者も余ることがなく、少ししか得なかった者も足りないことはなかった」と書いてあるとおりである。2コリント人8:9-15
神様が、 信じる者を教会に集める目的は、儀式を守ること献金を捧げること奉仕ではなく、神様の御言葉を学ぶため=神様をより深く知ること、そして聖霊のまじわりです。
礼拝すべきだから行くのではなく、礼拝したいから行くのです。神さまへの愛は能動的で、掟ではありません。
教会に行かないことに罪悪感を持たせようとする牧師や信者がいれば(自分たちは気付いていなくとも)それは、律法で他人を縛る考えになります。
マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。ルカ 10:40~42