艱難前携挙が起こらない時、結果的に背教する人たちが出ます。
この説を真実として拡散する人は、もしかすると、隣人の永遠の魂の責任を負う可能性の自覚が必要です。
海外には、艱難前携挙説と必死に闘ってきた牧師たちがいます。中には、一生闘ってきた人もいます。
日本の牧師は、この説を信じていなくとも、どんな結果(consequence)になっていくのか想像さえしないため放置する人も多々います。艱難前を信じる教会や牧師との衝突を避け、自分のイメージをすがすがしく保つことや体裁を気にしています。 訂正・批判すること = 罪 ではありません。それ以上に、間違っていると判っていながら見て見ぬフリをすることのほうが罪です。
何が正しいかを教えないから、どちらが正しいか判らずウロウロしてしまう信者が多いのです。イエスの弟子は、ニコライ派という異端を、まぁ いいじゃないか~!なんて放置しませんでした。
牧師であっても、どちらか答えが判らないのなら、神様に直接尋ねるしかないです。とにかく答えが来るまで必死に祈り尋ねるしかないです。1年かかっても良いではないですか。来年の春まで必死に祈ってみるのも無駄ではないです。
神様の答えだけをひたすら求め、自分の先入観と願望をいっさい抱かずに祈るのがコツです。感情が邪魔するので、そのように実行するのは大変難しいのですが、もし、自分の想いを無にして完全に神様に委ねた場合、確実な答えが早期から与えられます。これが出来た時、神様からの声が聞けます。
私の場合、確かなコンファーメーションが欲しくて、答えが早期に頂けた後も、必死に8カ月間祈りながら調べ続けました。自分を褒めれることなんてほとんどないですが、これについては、そこまで徹底して求め続けたことを今でも誇りに思えます。生半可な求め方ではありませんでした。だから、尋常ではないぐらいの確信があるのです。
PS ブログの誤字は訂正してもイタチごっこなのでキリがないので訂正しません。好きにさせます。