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⑰携挙について

2021-03-08 23:30:30 | 携挙

ダービーやスコフィールドが信じる艱難前携挙説を信じる人たちがディスペンセーション主義者です。

こんな映画があったようです。ディスペンセーションを暴露した映画です。

様々な宗派の牧師たちが登場しています。heresey とは、異端・異教・異説という意味です。

私は、この思想が危ないと思いますが、それを信じている人たちを敵視していません。

ただ、この説をヤバいとおもっています。重大な問題だと思っています。

DISPENSATION OF HERESY (Full Movie) DISPENSATIONALISM EXPOSED!

Dispensationalism is the foundation for most major heresies prevalent ...

youtube#video

 

 

45:14~  

驚いたのは、バプテストにこの異端思想を持ち込んだのは、こちらの映像に登場するピーター・ラックマン氏だったそうです(*_*)

数週間程前、ピーター・ラックマン信奉者とやり取りをしたことをブログに書きました。なんとも、そのラックマン氏だったとは!

ラックマン氏は1989年に携挙が起こると自信満々に公言したそうです。

彼は、南部バプテストの教会で教職をとっていたようです。南部バプテストは米国の田舎から派生した宗派で、プロテスタントの米国福音派の中では一番大きい宗派です。

この宗派は、女性が教団で語ることに、とても閉鎖的で、聖霊の働きや奇跡を信じません。エノク書など外典を読む事は頭から否定します。禁酒なども含め保守的で頭が硬~い。

数年前、米国では南部バプテストの聖職者の性的な罪が浮上し、明るみになり国をあげて大問題となりました。

20年間で、聖職者による700件の性的なケースが暴露され、次々と違う宗派に信者たちが移って行きました。訴えられたのは380人の聖職者・教職者たちです。

(日本の南部バプテストでは性的問題は存在しません。アメリカでの話です。)

近年は信者が去って行くのを恐れ、また若者に合わせたカジュアルな体制になってきています。

しかし、保守的な信者と自由思想の信者との間で派閥が起こり、2つに割れているような状態です。

ちなみに南部バプテストとバプテストは別宗派です。

 

46:36~

私は、この映画に登場するジーン・キムという韓国系米国人の牧師の艱難前携挙説を含め、彼の他の動画も時々見てきましたが、この映画を観るまでは、彼がラックマンの信奉者だとは知りませんでした!ラックマン信奉者だから、艱難前を信じていたのでした、なるほど・・・。

 

ディスペンセーション主義は、人類の誕生から終末の時代を7~9つに別けます。更に細かく別けるディスペンセーション主義者もいるようです。

その時代により、神様が人間の取り扱いや方法を変えたということのようですが、これは、神の神聖の1つである"普遍性"を否定している事になります。

人類の初めから終わりまでの間に、神が7~9つの性質(キャラクター)に変貌したということになります。

どうして、こういう区切りに別けてしまうのか不思議です。

旧約と新約、過去(既に起こった事)と未来(これから起こる事)という別け方なら納得できます。

例えば、ディスペンセーションでは、一つの時代を"恵みの時代"と呼ぶようですが、パウロが書簡を書き始めてから携挙(空中再臨)までの期間をそう名付けているようです。

この線引き自体が意味不明です。自分で考えない人は、習ったことを鵜呑みにして、流されてしまうかも知れません。

織田信長の出生からスタートして、豊臣秀吉、徳川家康の統治を経て、江戸幕府が始まるまでの時代(有名3人の武将が活躍した期間)を"3人の武将時代"と名付けるようなものです。テキトーだと感じませんか?(;^ω^)💦

神学とは人間が考えたものです。間違いもあります。携挙に限らず、どのテーマにおいても、神学者の意見が多種多様に割れているのが現実です。パウロが書簡を書き始めてから携挙(空中再臨)までの期間をひとくくりにしたり、創世記から黙示録までを、7~9つに別ける根拠もゼロです。

では、恵みの時代(教会の時代)と呼ばれる時代の前に、恵みは存在しなかったということでしょうか?

恵みの時代と呼ばれる間に、12弟子や世界中のキリスト教徒が死刑殉教しているのに、それでも、恵みの時代だと呼べるのでしょうか?

 

私は、教会にいた米国人(米国福音派)とそれに流される日本の若者信者たちが、イラク戦争を指示していたので、失望して教会を離れましたが、

そのかわり、何年か哲学と文学にハマりました。書物を通して、物事を深く考える時期がありました。

トルストイ、カフカ、ニーチェ、ダンテ、ヘーゲル、ボンフエッファー、パスカル、キルケゴール、トーマス・マン、ショーペン・ハウエル、ブリモ・レヴィ、モリエール、プーシキンなど読みました。一番難しかったのはスピノザ。冒頭からつまずき読み切れませんでした。

後に、文学や哲学にハマっていた時期が一体どう役に立ったのですか?と、神様に尋ねたことがあります。時間の無駄でしたよね?と何回も尋ねました。

でも、最近、神様から返答がありました。"ほら、今、こうして調べて分析している事に役立ってるでしょう。無駄ではなかったのですよ。"と言われました。確かに、深く考える力は、文学や哲学を読んで頭を捻った時期があったからこそだと思いました。筆者と同じ気持ちで悩みました。ニーチェのように、国教会というキリスト教勢力と闘っていた葛藤も理解しました。ボンフエッファーの獄中の書簡から、彼の苦悩をすごく理解しました。

私は、携挙の事なんて昨年まで考えた事もありませんでしたし、教会から離れていたので聖書の知識もありません。でも、哲学や文学を読んで深く考えることが、今回の携挙の分析に役に立っているのだと神様から言われました。艱難前携挙を暴くことが、神様からの宿題なのです。

私がどうして、艱難前携挙が違うのかと否定できる一番の理由は聖霊なのです。 気持ち的には艱難前携挙を信じたかったのです… だって、毎日毎日、艱難前の人たちの動画を何本も見ていたので、納得しなくても、艱難時代から解放されるラッキーな思想に流されて行きました。しかし、聖霊が毎回、ダメですよ、戻りなさい、と引き戻されました。

自分が、携挙に対する感情や自我を完全に捨てた時から、徐々に答えが明確になって行きました。もちろん、未だ調べていますし、艱難前説も比較のため聴いています。

ただ、私が示された答えは、感情的な想いで選んだのではないというのを知って下さい。



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