——さまざまな活動をする上で、アーサーさんが大切にしていることは何ですか?
「ダメといわれるようなことをやる」ということかな。人が反対することをやることが多いですね。絶えずそうではないんだけど、
無理とかダメとか言われてもやってみなきゃわからないでしょう? 一歩踏み出せば必ず出会いがあるという経験を何度もしてきているから…。
——アーサーさんのお考えになる神と宗教の違いは何でしょう?
多くの宗教の場合は、神に受け入れられるためには一生懸命修行しなきゃいけなかったり、何か不幸があったりすると「あなたがちゃんと供養しなかったからだ」と言ったり、
神は自然界を造ったけど、人間は宗教を作っちゃったんですね。宗教と神は決して一つではない。ジョンレノンが『Imagine』の中で「思い描いてごらん、宗教のない世界」
命は新たな命を生み出していく…自然界は命を開かしてるんですよね。花は“形”だけど命を開かしてる。でも人間が作る“形”は命を閉め出している。
You are Loved!! …あなたは愛されてる!何があろうとどんな人生を歩んでこようと、大丈夫。あなたは愛されているよ。あなたは価値ある特別な存在なんだ。
12年4月29日 長崎バプテスト教会 『祈りによらなければ』 アーサー・ホーランド師 (Pastor Arthur Hollands)
12年4月29日 長崎バプテスト教会 『祈りによらなければ』マルコによる福音書9章14-29節 アーサー・ホーランド師 (Pastor A...
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仏教界では、沙門氏のようなお坊さんがいることを数か月前に知りました!
ポップス・ロックを歌い、ワクチン危険・政治などについても言及され、人の目を気にしない・魂に縛りがない。素晴らしいです!
【79】密教って何だ?(沙門の開け仏教の扉)法話風ザックリトーク
仏教ポップ(B-pop)バンド沙門の『開け仏教の扉』のコーナー ◆過去動画 仏教の根幹『縁起』って何?①(沙門の開け仏教の扉)法話風ザック...
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仏教も宗派によって考え方が色々違うと思われますが、仏教とキリスト教の教えは、根本的に似てると思います。
私は、お釈迦さんも、同じ聖書の創造主から、真理を受け取ったと考えます。
大日如来は、イエスキリストの事だという説があります。初め、これをキリスト教徒の友人から聞いた時、私は、素直に信じました。
神道では、天照大御神がイエスキリストだとも信じてます。
歴史や文明に興味のあるキリスト教徒、東洋の奥深さを理解するキリスト教徒でないと、こういう話が通用しません。
一見、私は、西洋キリスト教のモノの見方に影響されていると思われそうですが、実は、そうではないです。
神様は、知恵のあるお方だけではなく、想像力にも芸術性にも富まれ、ユーモアのセンスもあり、スポーツ万能、歌唱力抜群の、最高にユニークなお方です。
だから、そういう能力を人間にお与えになることが出来るのです。
神さまは、全ての人種と言語と文化に介在されて来たお方です。キリストは西洋人の神ではありません。神は万物の神です。
イスラム教やアラブ人を攻撃するキリスト教徒がアメリカには多々います。日本でも、そういう風潮に煽られ、何かしらの影響を受けているキリスト教徒がいます。
こういう人たちは、物事を狭い世界でしか見ない、神の壮大さを理解してない、単なる愚かな宗教信者です。
沙門氏の上の動画で気付いたことを書きます。辛口長文になるので、興味のある方だけ読んで下さい。
驚いたのは、仏教のルーツにアシュラ神話が含まれていること。今まで、気付かなかったのですが、阿修羅というのは、アシュラ神から来てるのだとピンと来ました。
そういえば、旧約聖書の民が創造主ヤーウェでなく、アシュラ神を拝み偶像崇拝をしていた話を想い出しました。アシュラというのは、カナンの地において穀物を豊富に実らせてくれる
“神々の母”、“豊穣の女神”として崇拝されていました。出エジプト記、士師記、列王記 など様々な場面で、アシュラ神が登場します。バアル神の次に登場回数が多いです。
神道にも御柱祭というハシラ (語源:アシュラ) 信仰が存在しています。
調べたところ、イスラム教にもアシュラ信仰が存在しています。一部のイスラム教徒 (イスラム教 15%を占めるシーア派)の最大の行事に"アシュラ―"という行事があります。自分の身体を傷付けたり、泥を塗ったり、鞭打ったりする痛そうな行事です (*_*)
こういうやり取りを見つけましたが、私はイスラム教のアシュラ―という祭りが、アシュラ神信仰から来たものだと思います。なぜなら、イスラム教は同じ経典の民であり、彼らの呼ぶアラーの神は、ヤーゥエ(創造主)のことです。同じ神です。
イスラム教徒に敵対意識を持っている人は、違う神だと主張しますが、アラブ人の始祖はイシュマエルです。父親がアブラハムです。
人間的・感情的な理解でしか捉えないから、排他的になるのです。
旧約聖書には、創造神(ヤーウェ)が、モレクやバアルを偶像崇拝し、人身御供を行うことを、忌み嫌われていることが判ります。
ギリシアのゼウス信仰でも、人身御供が行われていました。
日本を含む、多くの古代文明で(そして、いくつかの近代文明でも)、神々(gods)に生け贄を捧げるこの宗教儀式は行われていました。
過去の分析では、人身御供は社会階層の維持に役立つことが示されています。
こう見て行くと、仏教の従妹のようなヒンズー教を含め、世界の多くの宗教が、アシュラ信仰という偶像崇拝に逸れて行った事が判ります。
ということは・・・ 現在、別の宗教であったとしても、もともとの繋がりを感じませんか?
偶像崇拝についてですが、やおろずの神 を信じる日本人は、ピンと来ないと思います。
オカネ、仕事、趣味、人から関心を得る事など、この世のモノに心を囚われ過ぎるとと、それも偶像崇拝になりえます。英語で偶像は IDOL(アイドル)です。
金儲けし成功することに心が囚われる過ぎると、それが、自身の人生のアイドル (偶像)になってしまうということです。
あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、
また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。
だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。
あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。マタイ6章19-24節
キリスト教の中でも、カトリックは偶像崇拝が満載です。信者の方がおられたら、ごめんさない。でもコレ本当です。
聖書を読めば、マリア像・キリスト像・天使像を作って拝むことが、本来、禁じられていることが十戒から判ります。
神は霊( spirit ) のお方であるから、粘土や木や石で作った固体を拝んではいけないと聖書に書かれています。
像や置き物を一旦拝み始めると、石・木・御守り・拝む対象の写真など、ありとあらゆるものを対象に拝みだしてしまう危険性があります。
そうすると、"神が遍在する方" であるということを忘れがちになります。像や固体にではなく、私たちの心にSpirit (霊)として神は住まわれます。
遍在とは「あまねく存在すること」「どこにでも在ること」です。全知全能の神は、同時にどこにでも居ることができ、あなたのすぐ横にも、
向かい合う相手の心の中にも住まわれ、いつもあなたの事を見ておられるます。
ヒーリング・スポットとして、御利益を求め、様々な神社仏閣巡りをされる方がいます。しかし、神は、宮や建物には住まわれません。
宮に参った、礼拝に出席したなど、心が伴わなければ、単なる行事です。
罪を悔い、心に招く時から、神がわたしたちの心の只中に住まわれるのです。いつも共におられるインマヌエル (God with us)の神です。
ロザリオを持っていれば安心するカトリック信者、首に十字架を下げていたら安心する信者もいますが、それも違います。
これも人間が作った迷信的にハマってしまっており、物質に望みを置くことになります。
日頃から神様を認識し、自分の日常に介入してもらっているのか、親しい関係が持ててるかということだけが大事です。
ロゴスの神さまが私たちに望むことは、シンプルです。ロゴスの神とは、自然として現象化する神、各人が神の一部であるという神である と理解して下さい。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。ヨハネ4:24
わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から (あなたをイエスの十字架と復活の福音により罪の国、迷いの家から) 導き出した神である。あなたには、わたしをおいて
ほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中 にある、いかなるものの形も造ってはならない。出エジプト20:2~4
パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。
道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。
世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。
また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。
神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。
これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。
皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。
わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。
さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。
それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」
死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。
それで、パウロはその場を立ち去った。
しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。使徒行伝17:22-34