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どうしてイエスにしか救いがないのか?

2021-03-15 07:40:12 | 聖書

昨日、見つけたこの方のブログを少しずつ読み始めましたが、この方、目の付け所が違います。

いやぁ、凄い洞察力です。もともとの知識がないと、ここまで説明出来ません。

この方は、discenring 以上に、他にも、同等の量、若しくは、それ以上の別の賜物を持っていらっしゃいます。

私は、神道の神が聖書の神だ と信じています。

“神道五部書”のルーツは”モーセ五書”だと、キリスト教に改宗した元神官さんが言ってたよ!と、元神官と同じアパートの棟に

住んでいた友人から聞きました。

神道だけでなく、シルクロードでの交易が盛んな時代に、仏教の一部にも聖書の神の教えが紛れ込んだとも私は信じています。

仏典の教えの中に、新約聖書の教えと全く同じ教えがいくつも存在します。毒ヘビの毒についての新約の箇所の聖句と、全く同じ教えが仏典にも存在している、と書かれた書籍を10代の頃に図書館で読み、とても驚いた記憶があります。

しかし、コチラのブログオーナーの方がおっしゃるように、神道・仏教が、イエスに出会う事の妨げになっているという指摘は、よく理解出来ます。

残念なことは、イエスの罪の贖いの教えが存在しない神道・仏教 には、”永遠の命”という救いが約束されていないのです。過去ブログに日月神事について言及した時に、その事を書きました

同じ神を信じていても、イエスを受け入れず、儀式中心という神道だけならば、律法主義的なユ教と変わらないと、神道の足りない点に触れました。

聖書の神(=神社の神) 御自身が 、イエスのことを、”私の愛する子、御子(イエス)に聞き従いなさい。”と人類に指示されました。

 

ソフトで例えて、わかりやすい説明をしてみます(^_-)

 

2,000年前、神御自身が、究極の必殺技ソフトを創られました。

永久保存版であり、最新かつ最後のアップデート版ソフトです。

これ以上アップデートをする必要がない、“イエス・キリスト”と呼ばれるスーパー完結版ソフトです。

イエスは最高にアップデートされた神の必殺技なのです。

人類の罪をあがなうための究極の必殺技ソフトです。それなのに、ゼロ円、無料ソフトです!‼ 

神の愛が、巨大でデカ過ぎる故に、出血大サービスにして下さいました!! 無料です!!1円も1銭もかかりません💝

そして、アップデートされたという事は、古いバージョンのソフト(ユ教、神道) には、神様の救いの計画において、互換性を失ってしまいました。

互換性がないので働きません。もう作動しないのです。ごめんなさい!!!🙇🙇🙇 

 

生贄、お供え、儀式、供養、行事などの律法を守るシキタリだけでは、”永遠のいのち”に至りません。

神様は、イエスを救い主として受け入れ、罪の悔い改めをすることだけ を人間に求めています。

お線香とお供え物ではなく、人間と個人的な心のスキンシップを求めておられます。

神様は宇宙を支配されており宇宙一富んだ方です。線香やお供え物や賽銭が欲しければ、自分自身で用意されます(^^)/

神様は物やおカネや行事を人間に求めていません。親と子のような、親友のような心の交わりです。

 

もちろん、神道や仏教を止めなさい”などと、言ってるわけではありません。私は無理な事は言いません。

でも、神様が "私の愛する子、彼に聞き従いなさい" と示されている方を 無視するのは、神に大反抗してるということです (;'∀')💦

神の代わりに来られた方というのは、神の代弁者です。(三位一体については、過去に説明しました。)

"江戸の者よ 聞け!この もんどころ"が目に入らぬか!!"というレベルではないスゴイおかたです V

シンプルにお伝えします。

ただ、イエスを知ってみたいというスペースを心のどこかの隙間に作ってみて下さい。そうすると、神様が徐々に出会って下さいます。

神様は、強制されない柔和な方です。

 

宗教が違うので神どうしで相性が合わないから…という心配はまったく不要です!

もし、神どうしで相性が合わないことが起きるのなら、真の神のほうが、偽物の神を淘汰して下さいます。

真の神こそ最強で、真の神だけが残ります。神でない神は、本当の神が来ると恐れを抱き、逃げていきます。

人間的に先入観を持ってアレコレ心配するのではなく、創造主に委ね  任せましょう。

まず、文化・儀式・シキタリなどという、人間の作りだした”しがらみ”から抜け出すのが大事です。

心をリセットしない限り、神に出会えません。自分の想いを少しでも入れると、神の語りや導きを見逃します。

 

そして、イエスが神から来たことが信じれることが出来ないならば、直接、創造主に「神様、あなたは誰ですか?あなたはイエスを送られましたか?彼はあなたから来た本物ですか、偽物ですか?」と祈り始めてみて下さい。

先入観も贔屓心も持たず、純粋に真剣な想いで創造主に問い続けるなら、神様が御自身の正体を知らせて下さいます。

創造主から答えを得るために必要なのは、祈りの中での集中力+想いのリセット+罪から離れる事です。

わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。詩編32:8

 

月間いのちのことば より

>>現代社会に生きる私たちは、どうもすぐに答えが欲しいと最短距離を行きたがる傾向があります。信仰においても「どうしたら」を考えすぎているように感じています。

「変わりたい、もっと成長したい」と思うとき、私たちはすぐに「どうしたら」いいのかを考え始めてしまいます。そうすると「私」に焦点が集まり、「神」が見えにくくなります。私たちの信仰の出発点を「神」にするためには、神が私に何をしなさいと言っているかを聞く必要があります。そのためには、「どうしたら」という思いを脇に置き、主の十字架の前に謙遜に進み出なければなりません。私たちが信頼して、神を見上げるとき、神は私たちを見捨てず、ご自分の道を歩むことを教えてくださいます。
神を見失いそうになったとき、私たちが“つらい”と感じるのは、自分のしてきたことや、自分の思いだけを握ってしまっていて、神ではなく、自分のことしか見ていない状態だからです。
今日はちょっとした新しい道を紹介します。それは、「自分のできることをするのではなく、できないことをする」という道です。自分のできることを探しているときは、神のほうを見ているようで、実は自分を見ています。だから神のほうを向くためにあえて、“できないこと”、または、“やりたくないこと”をするのです。
人はやりたくないことに直面すると、なぜやらなければいけないのかを考えます。なぜやらなければいけないのか理解できないので、やりたくないのです。「なぜ」と問い続ければ、本質に向かうチャンスがあり、自分の思いから脱却できる可能性があります。
教会の一人の青年の話をします。私が日曜日のメッセージで「(自分にとって)嫌なことを一日一回しよう」と言いました。数週間後、素直な青年は、それを実行していると教えてくれました。
彼の家では、兄弟で家の手伝いを分担しているそうです。あるとき、兄が疲れた顔をしていたので、自分は本を読みたかったけれど、代わりに兄の分の家の手伝いをしたと教えてくれました。「それは、すごいね」と伝えました。しばらくすると、「面白いことがあったんです」と教えてくれました。「嫌なことをしていると、自分がしたいと思っていた思いが薄れていった」というのです。
私は心の中で祈りつつ、大切なことを伝えました。

「実は、嫌なことをしようと言ったけれど、それ自体に意味はないんだ。本当に伝えたかったのは、今あなたが経験しているように、自分の思いを握っているその手が解かれ、心に隙間ができ、そこに神を見いだす体験をしてほしかったんだ。自分の思いを脇に置いたからこそ、神が私に『しなさい』と言っていることが何か、神の思いに向き合うことができるんだよ」と伝えました。

その隙間は、たとえ自分にできることがなくても、神が私に力を与えてくださる場所です。神の思いから「私」を始めるときに、神は「私」を超えた力を与え、「私」の理解を超える思いを与えてくださいます。自分にできないことを始めるとき、一瞬不安になります。でも、神から「私」が始まるとき、私たちは神のご計画と御力を信じて歩むことができます。
神は能力のゆえにあなたを必要としているのではなく、今のありのままのあなたを選んで、その存在を必要としてくださっている、という愛を受け取ることができるのです。

 

 

 



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