美と知

 美術・教育・成長するということを考える
( by HIGASHIURA Tetsuya )

矢内正一『関西学院中学部甲麓』1965年より

2007年02月21日 | 学校・教師考~矢内正一先生
いよいよ3月で中学部長を退任することになりました。18年の思いでは書いても書いても書ききれないほどです。その思い出の一部ですが少し書いてみたいと思います。

まず思い出すのはかけ足のことです。私のかけ足は、生徒を鍛えるため、また私自身を鍛えるために、既に旧制中学の教頭だった時代からはじめていたのですが、新制中学部長になってからも、毎朝始業前に生徒の有志と上ヶ原の道を1700mぐらい走るのが私の日課でした。新しく入学した1年生たちに勧めると、はじめは180人殆ど全部が参加するのですが、だんだん減ってしまって、2ヶ月もたつと1年生が20人ぐらいになります。そして、2、3年生と合わせて3、40人が毎朝走りました。しかし、冬になって、朝起きにくくなると、10人ぐらいしか走らない日もありました。しかしどんな寒さにも負けないで、1日も休まずに3年間毎朝走った生徒もありましたし、中学時代の3年間だけでなく、高等部に行ってからも走り続けて、遂に6年間走ったという人もありました。いま米国で口腔医学の研究をしているM君でした。高等部卒業の時、「先生にかけ足の手ほどきをしていただいてから6年、その間に走った距離を計算すると、西宮から北海道の果てまで走ったことになります。感慨無量です。」と書いてよこしました。その体力と意志力を持って、彼はいま医学の研究にがんばっています。

このかけ足は11年ぐらいも続け、そのコースは「矢内コース」という名が付いていましたが、昭和33年頃、その矢内コースはトラックやバスの交通が激しくなり、道路上のかけ足はやめるようにということで、遂に停止しなければならなかったのはこの上もない残念なことでした。近年になって、学院内にかけ足のコースを設定して、冬期に全校の耐寒鍛錬をやるようになりました。これは矢内コースの復活ともいえますし、全校の生徒が弱くなって行くことを憂えたからです。こういうことをやらないと強い身体だけでなく、強い精神が育ちません。

鍛錬主義ということは私の教育方針の1つで、毎日の登下校に甲東園から中学部までバスに乗ってはいけない、ということは今日まで続けました。私も自宅から中学部まで毎朝歩いて登校しました。私の健康が維持されているのもこの歩行主義のおかげですし、中学部の生徒は、3年間歩くことで、気づかないうちにどれほど身体も精神も強められているか計り知れないものがあります。

昭和29年に中学部を卒業したK君は、1番で中学部に入学し、1番で中学部を卒業して、ある事情で高校は灘高校に行き、灘高校でも卒業のときの実力テストで全校1位だったのですが、彼の家は甲山の上にあったので、小学校の6年間、毎日雨の日も風の日も甲山の上から甲東園の駅の南にある甲東小学校に往復したのですから、彼には困難に屈しない体力があり、何事にもくじけない精神があったのです。鍛えられない人間ほどだめなものはありません。鍛錬の精神を中学部の生徒が忘れないように、というのが私の心からの願いです。

スポーツは少年の身体と精神の鍛錬のために最もふさわしいもので、英国のパブリック・スクールなどが、人間をつくる最良の方法として、宗教とともにスポーツを取り入れたのは当然です。

中学部がスポーツを競う相手校として甲陽中学を選び、対抗競技を始めたのは昭和28年でしたが、これは成功だったと思います。はじめのころ負け続けた野球部が、「打倒甲陽」の文字を部室の壁にはりつけて練習に励み、遂に甲陽を破って感激の涙にむせんだことは『生活指導ノート』のO君の文で諸君が皆読んで知っていることです。はじめ陸上、野球、蹴球、卓球の4種目ではじめた甲関戦が、今では8種目になり、対戦成績は9勝2敗1引分になっています。スポーツはただ勝つことが目的ではありません。強い身体がそれによって鍛えられ、美しい精神、たくましい精神がそれによって鍛えられるものでなくてはなりません。

先日関西学院のランバス礼拝堂で結婚式をあげたY君は、中学時代からサッカー部に入っていましたが、身体が大変小さいのでどうしても正選手になれず、中学時代はとうとう1度も試合に出してもらえずに終わってしまいました。高等部でもサッカーを続けましたが、3年になっても正選手になれず、試合の日はただベンチに座っているだけでした。しかし彼は大学に行ってもなおサッカーをすてず、他の高校から大学に入ってきた優秀な選手たちにまじって、毎日忠実に熱心に練習に励んでいました。大学でも正選手になれないまま4年になり、大学生活も終わりに近くなったのですが、4年の秋の関西サッカー・リーグで関大と関学が優勝を争うことになったとき、関西学院のチームの調子が悪く、誰か1人新しい人を入れて気分を一新して試合に臨もうということになって起用されたのがY君でした。Y君はこの試合に花々しい奮闘をして、関西学院は遂に優勝、東西対抗全日本の王座決定戦にもY君は出ることになりました。関東代表は早大でしたが、この全日本の王座決定戦は非常な接戦で、前半関学が1点をとり、後半早稲田が1点をかえして、同点のまま時間切れになろうとする直前、Y君のけった球が見事にきまって、彼によって関西学院は全日本の王座を獲得したのです。10年もの間、補欠の生活に少しもつぶやかず、黙々として練習にがんばって、遂に関西学院のために花々しい最後の奮闘をして優勝をもたらしてくれたY君の精神は、関西学院のサッカー部の中に、「Y精神」として語り伝えられています。常に与えられた場所で、名利を求めず、黙々として、下積みに甘んじて全力をつくすという精神こそ関西学院精神です。

関西学院精神はキリスト教精神です。人に奉仕し、人のためにつくす精神は関西学院の歴史を貫いて流れている精神です。幾年か前の入学試験の時助手になった3年生の生徒たちが相談して、それぞれめいめいの班の落第した生徒に激励の葉書を送り、「失敗にくじけず、この苦難を踏み台として、将来がかえって大きく伸びて行ってくれるように」と励ましたことは、当時新聞に大きく報道されて、多くの人たちにほめられました。この助手たちの葉書に対して1人の小学生保護者は次のような手紙をよこしました。

「大10班の助手の皆様、今日はあたたかい励ましのお葉書をありがとうございました。潤一は皆様のお葉書をみて深い感動をおぼえたようでした。神様が下さった最初の苦い盃、それによって潤一は将来必ずがんばると思います。またそうさせるのが母たる私のつとめでもありましょう。入学試験のときも本当に親切にお世話くださってありがとうございました。助手の方々のお話を聞いてきては、『入学したら何部にはいろうかな』、など申して苦笑させていました。昨日もデパートに行きましたら、『このボールペンは助手の人が持っていたのと同じだ』と申していました。助手の皆様にとても親しんでいたのでございましょう。校庭にはりめぐらされた縄の外から、受験生を引率する助手の方々を眺めて、うちの子どももあんな生徒になってほしい、この中学に入れてほしいと切に思ったものでした。あなた方は立派でした。どうぞ中学部に学ぶ仕合せをしっかりかみしめて、今の純粋な心を関西学院の中に通していって下さるようお願い申し上げます。では皆様お元気で、さようなら」

他の班へもたくさんの手紙が来ました。私はこういう手紙が学校へ来てはじめて生徒たちが落第した受験生に葉書を出したことを知り、卒業式で彼らの善行をたたえました。これはそれ以来中学部の伝統となって、3年生が入学試験の助手となることは非常な名誉と考えられ、助手たちは色々の形で受験生に対して中学部精神を発揮するのが伝統となりました。

中学部で幸福な生活を送っている生徒たちが、自分の幸福を感謝してしっかりと勉強するとともに、多くの貧しい者、苦しんでいる者のために自分の持てる物をささげるという精神は、中学部のすべての生徒が身につけるべき精神ですが、幾年か前のある日私の机の上に1通の匿名の手紙が置かれ、たくさんの小銭が同封されていました。

「わずかのお金なので笑われると思います。しかしこのお金には私の気持ちがたくさん含まれているのです。私は在学中、中学部にかけらほどのこともできませんでした。そのことで頭が一ぱいになったこともありましたが、私がよくむだなお金を使うのに目をつけて、毎日小遣いを節約することにしてためたのがこのお金です。わずかのお金ですけれど、このお金を矢内先生がよいことに使ってくだされば、私は何もいうことはありません。そして、先生が今年の卒業生に卒業のどたん場に妙なことをするやつもいるんだなあ、と思ってくだされば、私はそれで満足です。」

このような手紙でした。このような手紙がしばしば私のところへ届きました。何人かがグループでお金を送ってくることもあり、個人のこともありました。昨年修学旅行の前に私は、「全然小遣いを使わないで修学旅行をすることも出来る。お金をたくさん使う人がえらいのではない」といったのですが、その言葉通りに全然小遣いを使わず、その小遣いの3000円を「誰か気の毒な人にあげてください」と書いて、そっくりそのまま匿名で私のところに送ってきた人がありました。その生徒が誰であるのか私はいまだに知らないのです。今年の3年生も、南九州への修学旅行で大変楽しい旅行をしたのですが、自分たちの幸福な日常生活にひきくらべ南九州の果てに住む人々の貧しい生活を目の当たりに見て、制限された小遣いの中から献金を集めて南九州の山川町におくったことが年末の朝日新聞にもでました。

年末に1年生のM君のお父さんが突然亡くなられ、一家はこれから収入がなくなり生活が苦しくなるのですが、「父亡き後は、ますます関西学院のキリスト教教育が子どものために必要です」といってお母さんはM君を中学部に続けて在学させる決心をされ、そのためお母さんが働かれることを私は礼拝で話しました。それを聞いて、お年玉の中から3000円を「M君に」といって匿名で私に寄託した生徒がありました。

美しい精神がいつまでも中学部に生きるようにというのが私の心からの祈りです。中学部の生徒はあやまちもします。中学部の生徒が中学部精神に反するようなことをすれば私は心から悲しみます。中学部の建物が中学部ではないのです。美しい精神を中学部の生徒が発揮するとき、そこに中学部があるのです。
中学部の生徒が立派な精神を発揮したとき、私は本当にうれしいのです。中学部が「世の光となり地の塩となる」人材をこの暗い世に送り出すことが出来るように、これが中学部長として勤めた18年の私の心に燃え続けていた願いだったのです。

最後に中学部の青島のことを書きます。私が今一番心にかけ一番愛している島は青島です。私が英国のラグビー・スクールを見て一番心をうたれたのは、今もなお残っているアーノルド先生の偉大な精神的感化と、そして礼拝堂と寮と運動場を中心とした人間形成の教育の伝統でした。私がアーノルド先生のような偉大な校長になることは出来ないにしても、出来ることならばあのような寮をもつ学校をつくりたいと思いました。

教師の人格的感化の深く及ぶのも寄宿舎においてであり、人間が鍛えられるのも、寄宿舎の共同生活を通じてなのです。私は中学部に寮をつくりたいと思ったのですが、その前に特別教室と体育館をつくる必要がありました。幸い充実した特別教室を持つ新館と立派な体育館をつくることが出来ましたが、寄宿舎をつくるところまで行かないで定年になってしまったのです。しかし寄宿舎生活の代わりに生徒たちが短い期間でも共同生活の出来る場所として、PTAの協力を得て瀬戸内海の青島を買うことが出来たのは大きな喜びでした。

中学部のキャンプはもう随分長い歴史があって、新制中学部でも毎年あちこちでキャンプを続けて来たのですが、やはり自分たちのキャンプ地を持つことの必要を痛感して、昭和37年遂にこの島を買うことになりました。松が青くしげった瀬戸内海の11万㎡の島、この島をきり開いて、井戸をほり、道をつくり、家を建て、船着場に突堤も出来ました。生徒たちは「自分たちの島」として、この島の開発に汗を流しました。こうして「都会っ子」は肉体も精神も鍛えられ、勤労の貴さや協力の意義を学びました。協力・親切・寛大・規律等の人間関係や徳性を学びとらせるためには、生徒たちをいっしょに生活させることが一番よい教育方法だといわれていますが、礼拝や教会で学んだキリスト教を実践的に身につけるのもこういう生活を通じてです。

瀬戸内海の美しい落日が西の空を赤くそめるとき、美しい神秘の夜空に星のまたたくとき、静かに神を讃美し、静かに火を囲んで祈るキャンプの生活は、生徒たちの魂に大きな影響を与えます。生涯にわたる美しい友情が生徒たちの間に育つのもこのような生活を通じてです。ある1人の生徒は「この夏こうした意義あるキャンプをして青島を去っていくとき、船の中から、この2年間精神的肉体的に僕にとって大きなプラスだった青島を感慨深く眺めて、涙がこみあげてくるのを感じました。今でも目をとじると青々とした瀬戸内海に浮かぶ青島がまぶたに浮かんできます」と書きました。私の若い頃に教えた関西学院卒業生が、昨年キャビン1棟を青島に寄付してくれたことも大きな喜びでした。この青島が中学部の生徒たちに愛されて、生徒たちの身体を鍛え、魂をはぐくむ場所としてますますよいキャンプ場になっていくことを心から祈っています。

75年前、関西学院の創立者たちの持っていたのは美しい信仰と幻とでした。信仰と幻がなければ学校は滅びます。関西学院がいつまでも信仰と幻とを失うことなく、生命にみちた学校であるように、そして生徒諸君の一人一人が信仰と幻とに生きて、大きく自己を鍛えあげ、神と人に喜ばれる立派な人物に大成して行くことを願っています。

私が関西学院で41年の教師生活の間に教えた学生生徒の数は、7000人ぐらいもあるでしょうか。この文では昭和22年以後の新制度の中学部になってからの思い出を書いているのですが、この新制度の中学部で教えた生徒だけでも3000人になります。そして、社会のあらゆる方面に、そして日本と世界のあらゆる場所に活躍しています。今日私に手紙をくれた1人の卒業生は、「在学中私は先生の御意志にはほど遠い生徒でしたが、いま私の土台になっているのは関西学院精神です」と書いています。内村鑑三はアメリカの母校アマースト大学の恩師に送った手紙に、「アマーストの子は自分の良心を売ることは出来ません」と書いていますが、中学部の卒業生も、どのような場所にいるときも、常に誇りと責任感とをもって「関西学院の子」として生きてくれることを心から祈り願っています。

在校生の諸君も中学部の伝統を受け継ぎ、これを守って行かねばなりません。中学部の「伝統の楯」に刻まれているのは「汝等は生命の言を保ちて、世の光りの如くこの時代に輝く」という言葉です。中学部は、この言葉のような精神があふれた学校でなくてはなりません。在校生の一人一人が関西学院精神を心に刻みこみ、みんなで力を合わせて中学部をいつまでも守り育てて行ってくれることを心から祈り願っています。いつまでも関西学院中学部の上に神の守りと導きがあるように、私は常に祈っていたいと思います。
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