『疑似科学入門』(池内了・著、岩波新書)
理科や科学はなぜ学ばなければならないのだろうか。理科や科学を学ぶことが楽しいからだと答える理科教師や科学者は多いように思う。しかし、そんなことを言ってしまえば、数学教師や数学者は数学の持つ美しさを説くだろうし、国語教師や文学者は文学世界の豊饒さを語るにちがいない。高校時代の歴史教師は生徒に歴史のおもしろさを語り続け飽きることがなかった。自分を含めその情熱にこころ打たれた生徒も少なくなかったが、嫌気を覚えた者もいたにちがいない。理科や科学も同様である。教える側がどんなに興味を持っていようとも、その情熱が教わる側に伝わるとは限らない。そもそも学ぶことの楽しさは、学ばなければならない理由にダイレクトにはつながらない。
もう一つ考えられるのは、何らかの得をするために理科や科学を学ぶべきであるという立場である。科学技術や情報化の時代にあって、理科や科学を学ぶことでより生活を便利にすることができるし、社会に役立つ技術を開発することで裕福さや地位の上昇も見込むことができる。科学技術に道具的な価値を見出すことだ。ごく大雑把にいってしまえば、これは自然を支配することが神から人間に与えられた使命であるとする西欧的な思想に由来していて、科学技術の暴走にもつながる考え方である。だからといって、いまの時代は科学技術なしでは成り立たないし、科学技術の恩恵を否定するのは現実的ではない。
そこで、さらにもう一つ考えられるのは、得をするというよりは損をしないために理科や科学を学ぼうという立場である。そのとき最良の教材となるのが「疑似科学」であると考えられる。星占いや血液型性格判断はコミュニケーションを円滑にするツールである限りあまり問題視する必要はないだろうが、重大な人生設計に用いるのは明らかに誤りである。池内了さんは占いや超能力などを「第一種疑似科学」と分類しているが、その最大の特徴は厳密には実証や反証ができないことである。還元水やマイナスイオンなどの「第二種疑似科学」は巧妙に科学用語を使っているため、星占いなどには疑念を持つ人でもだまされやすいといえる。マイナスイオンが発生するという扇風機の風にあたったからといって実質的な被害にあうわけではないが、怪しげな健康食品などは深刻な健康被害も懸念される。この種の被害を避けるには正当な理科や科学を学ぶことが最良の方法である。確率・統計の意図的な悪用や、あるいは無意識的と思われる誤用もよく見られるが、科学の専門家でも意外と見抜けないものであるらしい。理系の分野でも確率・統計が傍流に位置づけられているからではないかと思う。私見だが、理系・文系を問わず確率・統計のリテラシーを高める必要性を強く感じる。
温暖化などの地球環境問題は複雑な要素が絡み合うため、要素還元的な―細かく細かく分析していけばいずれ「正解」に達すると考えているような―いままでの科学では扱いきれないところがある。現代科学が不得意とする問題は「第三種疑似科学」へと堕する可能性を孕んでいる。たとえば大きな書店の「環境」といった本棚を見てみると、二酸化炭素を減らそうと主張する本と、二酸化炭素は温暖化の原因ではありえないとする本が並んでいて、素人目には何を信じていいのかわからなくなってしまう。どちらが「科学」でどちらが「疑似科学」なのか、その正解はともかくとして、「第三種疑似科学」は現代科学の限界を提示すると同時に、科学とは何かを問いかけているといえるだろう。新たな科学が生まれる契機もそこにあるのだろうが、環境問題の解決に悠長なことはいっていられない。
そこで池内さんは「予防措置原則」の導入を強調する。予防措置原則とは「未来の予測が不完全である場合、安全サイドに立ってあらかじめ手を打っておく」という考え方である。これを「未来に負荷を持ち越さないために今どうすべきかを考える原則」と読み直せばすべての「疑似科学」に対しても適用できるという。これは得をするための科学ではない。いま考えられる限りの損をしないための科学のあり方である。その基礎となるのが「正しく疑う心」であり、その育成こそが理科(科学)教育の重要な目的になるべきであると思う。かつてJapan Skepticsという「疑似科学」や「超常現象」を科学的に究明する研究会に所属していたことがある。「skeptic」とは「懐疑論者」のことである。当時、会員の多くは「正しく疑う」ことに興味を持った人たちであった。「信じる者は救われる」というが、「正しく疑う」ことなく闇雲に信じるだけでは人間に、そして人間の住む地球にも未来はないのではないだろうか。
理科や科学はなぜ学ばなければならないのだろうか。理科や科学を学ぶことが楽しいからだと答える理科教師や科学者は多いように思う。しかし、そんなことを言ってしまえば、数学教師や数学者は数学の持つ美しさを説くだろうし、国語教師や文学者は文学世界の豊饒さを語るにちがいない。高校時代の歴史教師は生徒に歴史のおもしろさを語り続け飽きることがなかった。自分を含めその情熱にこころ打たれた生徒も少なくなかったが、嫌気を覚えた者もいたにちがいない。理科や科学も同様である。教える側がどんなに興味を持っていようとも、その情熱が教わる側に伝わるとは限らない。そもそも学ぶことの楽しさは、学ばなければならない理由にダイレクトにはつながらない。
もう一つ考えられるのは、何らかの得をするために理科や科学を学ぶべきであるという立場である。科学技術や情報化の時代にあって、理科や科学を学ぶことでより生活を便利にすることができるし、社会に役立つ技術を開発することで裕福さや地位の上昇も見込むことができる。科学技術に道具的な価値を見出すことだ。ごく大雑把にいってしまえば、これは自然を支配することが神から人間に与えられた使命であるとする西欧的な思想に由来していて、科学技術の暴走にもつながる考え方である。だからといって、いまの時代は科学技術なしでは成り立たないし、科学技術の恩恵を否定するのは現実的ではない。
そこで、さらにもう一つ考えられるのは、得をするというよりは損をしないために理科や科学を学ぼうという立場である。そのとき最良の教材となるのが「疑似科学」であると考えられる。星占いや血液型性格判断はコミュニケーションを円滑にするツールである限りあまり問題視する必要はないだろうが、重大な人生設計に用いるのは明らかに誤りである。池内了さんは占いや超能力などを「第一種疑似科学」と分類しているが、その最大の特徴は厳密には実証や反証ができないことである。還元水やマイナスイオンなどの「第二種疑似科学」は巧妙に科学用語を使っているため、星占いなどには疑念を持つ人でもだまされやすいといえる。マイナスイオンが発生するという扇風機の風にあたったからといって実質的な被害にあうわけではないが、怪しげな健康食品などは深刻な健康被害も懸念される。この種の被害を避けるには正当な理科や科学を学ぶことが最良の方法である。確率・統計の意図的な悪用や、あるいは無意識的と思われる誤用もよく見られるが、科学の専門家でも意外と見抜けないものであるらしい。理系の分野でも確率・統計が傍流に位置づけられているからではないかと思う。私見だが、理系・文系を問わず確率・統計のリテラシーを高める必要性を強く感じる。
温暖化などの地球環境問題は複雑な要素が絡み合うため、要素還元的な―細かく細かく分析していけばいずれ「正解」に達すると考えているような―いままでの科学では扱いきれないところがある。現代科学が不得意とする問題は「第三種疑似科学」へと堕する可能性を孕んでいる。たとえば大きな書店の「環境」といった本棚を見てみると、二酸化炭素を減らそうと主張する本と、二酸化炭素は温暖化の原因ではありえないとする本が並んでいて、素人目には何を信じていいのかわからなくなってしまう。どちらが「科学」でどちらが「疑似科学」なのか、その正解はともかくとして、「第三種疑似科学」は現代科学の限界を提示すると同時に、科学とは何かを問いかけているといえるだろう。新たな科学が生まれる契機もそこにあるのだろうが、環境問題の解決に悠長なことはいっていられない。
そこで池内さんは「予防措置原則」の導入を強調する。予防措置原則とは「未来の予測が不完全である場合、安全サイドに立ってあらかじめ手を打っておく」という考え方である。これを「未来に負荷を持ち越さないために今どうすべきかを考える原則」と読み直せばすべての「疑似科学」に対しても適用できるという。これは得をするための科学ではない。いま考えられる限りの損をしないための科学のあり方である。その基礎となるのが「正しく疑う心」であり、その育成こそが理科(科学)教育の重要な目的になるべきであると思う。かつてJapan Skepticsという「疑似科学」や「超常現象」を科学的に究明する研究会に所属していたことがある。「skeptic」とは「懐疑論者」のことである。当時、会員の多くは「正しく疑う」ことに興味を持った人たちであった。「信じる者は救われる」というが、「正しく疑う」ことなく闇雲に信じるだけでは人間に、そして人間の住む地球にも未来はないのではないだろうか。
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