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☆「特集 ロゲルギスト『物理の散歩道』のこころ」(『科学 2009年8月号』―岩波書店―所収)☆
このブログの実質的な最初の記事は『キリンのまだら』だが、そこには『キリンのまだら』ではなく、『物理の散歩道』の写真を載せた。岩波書店版『物理の散歩道』全5巻と中央公論社版『新 物理の散歩道』全5巻の10冊を実家の自室前の廊下に並べて写真を撮った。いまとなっては「お宝」の10冊である。
記事の内容も『キリンのまだら』そのものではなく、そこに通底していると思われる寺田寅彦やロゲルギストの思想や精神について、感じたことを書いている。「身の丈サイズからの物理」などとずいぶん偉そうなことを書いているが、いまもその想いに変わりはない。
この特集でも多くの先生方が『物理の散歩道』への郷愁とともに、ロゲルギストの「ものの考え方」やその奥にある「こころ」について書いている。自分の拙い記事とは比較するのも失礼きわまりないが、その想いについては似たものを感じ、少し気を良くした。
ロゲルギスト精神が「理系思考」にあることはいうまでもない。しかし浅薄で融通のきかない「理系思考」ではない。本来の現象の観察や論理の基本に戻ると同時に、日常の感覚をないがしろにしない「理系思考」とでもいうべきだろう。
「散文・思考のおもしろさ」のなかで英文学者の外山滋比古さんが、寺田寅彦をロジックの散文のよさを示した先覚者であるとし、ロゲルギストはさらにそれを一歩進めたと評している。外山さんのいう「レトリックからの脱皮、ロジックの導入」とは、「散歩道」的な「理系思考」の評価に他ならないように思う。
物理学科出身にして著名な作家である池澤夏樹さんも「ロゲルギストごっこ」と題した短いエッセイを寄稿している。池澤さんはブラックボックス化された日常を取り巻く状況を批判し、「テクノロジーが進んだ世界は実はオカルト化された」と指摘する。
サイエンスやテクノロジーが、日常を遠く離れたわけのわからないものとして捉えられている面があるのはたしかだろう。理系の関係者からすれば、オカルトといっしょにするとは何事かと思うだろう。しかし、現代の科学技術の多くは日常感覚から隔てられ、その営為は秘儀化されている。だから、多くの一般人にとって、オカルトとサイエンスやテクノロジーとのちがいを意識することはむずかしい。疑似科学がはびこる一因もそこにあるといえるだろう。
本来の「理系思考」とは、型にはまったものではなく、もっと柔軟な思考であるはずだ。しかし現実には、手続き的なこと―例えば数式的な処理やジャーゴン(わけのわからない専門用語)の使用―ばかりが喧伝され、柔軟な発想やナマの現象に対する感性などは軽視さらには蔑視されているように思えてならない。「理系思考」の対比として「文系思考」というものを想定するならば、「文系思考」にもロジックは欠かせないはずであり。同様に「理系思考」にも感性の存在は欠かせないはずだ。
近年、日本にもサイエンス・コミュニケーションの考え方が紹介・導入され、少しずつ成果を上げているように思われる。サイエンス・コミュニケーションが日本に定着するにはこれからが正念場である。最先端の科学技術を紹介する取り組みも重要であるが、それで研究者の溜飲を下げているようでは困る。むしろメインストリートよりは「散歩道」に人々をいざない、柔軟な「理系思考」を涵養することこそ重要な課題であるように思えてならない。
今月から『物理の散歩道』の新装版が岩波書店から刊行されはじめた。すでに「ちくま学芸文庫」でも何冊か刊行されている。再び『物理の散歩道』が多くの人たちの目にふれるのは嬉しいことだ。しかし、古き良き時代の遺産か何かのように扱ってほしくない。これは自戒を込めていうのだが、郷愁を超えて、日本のサイエンス・コミュニケーションの定着のために、ロゲルギスト精神の復興の足がかりになってほしいと願わずにはいられない。
このブログの実質的な最初の記事は『キリンのまだら』だが、そこには『キリンのまだら』ではなく、『物理の散歩道』の写真を載せた。岩波書店版『物理の散歩道』全5巻と中央公論社版『新 物理の散歩道』全5巻の10冊を実家の自室前の廊下に並べて写真を撮った。いまとなっては「お宝」の10冊である。
記事の内容も『キリンのまだら』そのものではなく、そこに通底していると思われる寺田寅彦やロゲルギストの思想や精神について、感じたことを書いている。「身の丈サイズからの物理」などとずいぶん偉そうなことを書いているが、いまもその想いに変わりはない。
この特集でも多くの先生方が『物理の散歩道』への郷愁とともに、ロゲルギストの「ものの考え方」やその奥にある「こころ」について書いている。自分の拙い記事とは比較するのも失礼きわまりないが、その想いについては似たものを感じ、少し気を良くした。
ロゲルギスト精神が「理系思考」にあることはいうまでもない。しかし浅薄で融通のきかない「理系思考」ではない。本来の現象の観察や論理の基本に戻ると同時に、日常の感覚をないがしろにしない「理系思考」とでもいうべきだろう。
「散文・思考のおもしろさ」のなかで英文学者の外山滋比古さんが、寺田寅彦をロジックの散文のよさを示した先覚者であるとし、ロゲルギストはさらにそれを一歩進めたと評している。外山さんのいう「レトリックからの脱皮、ロジックの導入」とは、「散歩道」的な「理系思考」の評価に他ならないように思う。
物理学科出身にして著名な作家である池澤夏樹さんも「ロゲルギストごっこ」と題した短いエッセイを寄稿している。池澤さんはブラックボックス化された日常を取り巻く状況を批判し、「テクノロジーが進んだ世界は実はオカルト化された」と指摘する。
サイエンスやテクノロジーが、日常を遠く離れたわけのわからないものとして捉えられている面があるのはたしかだろう。理系の関係者からすれば、オカルトといっしょにするとは何事かと思うだろう。しかし、現代の科学技術の多くは日常感覚から隔てられ、その営為は秘儀化されている。だから、多くの一般人にとって、オカルトとサイエンスやテクノロジーとのちがいを意識することはむずかしい。疑似科学がはびこる一因もそこにあるといえるだろう。
本来の「理系思考」とは、型にはまったものではなく、もっと柔軟な思考であるはずだ。しかし現実には、手続き的なこと―例えば数式的な処理やジャーゴン(わけのわからない専門用語)の使用―ばかりが喧伝され、柔軟な発想やナマの現象に対する感性などは軽視さらには蔑視されているように思えてならない。「理系思考」の対比として「文系思考」というものを想定するならば、「文系思考」にもロジックは欠かせないはずであり。同様に「理系思考」にも感性の存在は欠かせないはずだ。
近年、日本にもサイエンス・コミュニケーションの考え方が紹介・導入され、少しずつ成果を上げているように思われる。サイエンス・コミュニケーションが日本に定着するにはこれからが正念場である。最先端の科学技術を紹介する取り組みも重要であるが、それで研究者の溜飲を下げているようでは困る。むしろメインストリートよりは「散歩道」に人々をいざない、柔軟な「理系思考」を涵養することこそ重要な課題であるように思えてならない。
今月から『物理の散歩道』の新装版が岩波書店から刊行されはじめた。すでに「ちくま学芸文庫」でも何冊か刊行されている。再び『物理の散歩道』が多くの人たちの目にふれるのは嬉しいことだ。しかし、古き良き時代の遺産か何かのように扱ってほしくない。これは自戒を込めていうのだが、郷愁を超えて、日本のサイエンス・コミュニケーションの定着のために、ロゲルギスト精神の復興の足がかりになってほしいと願わずにはいられない。
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