☆『「怖い絵」で人間を読む』(中野京子・著、NHK出版生活人新書)☆
絵は何の予備知識もなしに無心に見るものと、むかしは思っていた。ところが、無心で絵を見るほどつまらないものはない。絵に何も読み取ることはできないし、絵は何も語りかけてこない。だから、かなりの年齢になるまで、博物館には行っても美術館に足を踏み入れることはなかった。ところがあるとき、一枚の絵画の背景にはその時代の文化や歴史が隠されており、絵は作者の意図を雄弁に語っていると知った。知ってみれば当然のことなのに、それからというもの、がぜん絵を見るのが好きになり、とても楽しくなった。本書の「はじめに」にも同じメッセージが語られている。絵は「見て感じる」より「読む」のが先だと、中野京子さんは書いている。
中学、高校と歴史の授業はたいてい退屈で、そのせいか、いまでもたいした歴史の知識は持ち合わせていない。それでも、本書では丁寧に世界史(とくに西欧の歴史)を解説してあるので、絵の持つ「怖さ」がよくわかる。さらに文章だけでなく、図版(絵)に矢印で解説が付されているところが秀逸だ。ハプスブルク家の盛衰もフランス革命も、教科書からはけっしてわからない怨念の歴史が絵とともに見えてくる。何も知らなければ『エリザベート皇后』は美女の肖像画にすぎないだろうし、『マリー・アントワネットと子どもたち』に「不幸の予感」など読み取れるはずもない。
読み進めていくうちに、歴史に隠された「怖さ」から人間の奥底に潜む「怖さ」へと、中野さんの筆は進んでいくように見える。同時に絵に「怖さ」を読み取るだけでなく、絵は見る者に「怖さ」を語りかけてくるように感じる。たとえば「憤怒の章」の『イワン雷帝とその息子』は見るからに「怖い絵」だが、イワン雷帝の憤怒を知ることで「怖さ」は倍加される。さらにそれでは終わらず、見る者におまえの憤怒はどうなのだと、問いかけてくるように思える。見る「怖さ」はやがて見られる「怖さ」へと変わる。
「凌辱の章」では「メメント・モリ(死を忘れるな)」や「ヴァニタス(人生の虚しさ)」が語られる。『死の勝利』にしろ『死と乙女』にしろ、見る者のこころを揺さぶらずにはおかない。絵の問いかけに対して、何らかの答えを用意しようと、焦って貧しいこころの中を探しまわる。こころが落ち着かぬままページをくると、次に「救済の章」が待っている。なかなかうまい構成である。しかし、そこに待っているのはさらなる「怖さ」だ。最後に出会う『イーゼンハイムの祭壇画』の中に見るのは・・・見られる自分である!
中野京子さんの『怖い絵』シリーズは、すでに3冊とも持っている。ところが虫食い的な読み方はしたものの、どれも完全に通読はしていない。きちんと読みたいと思いつつ、いつのまにか時間が経ってしまった。そんなとき目にしたのが本書だった。シリーズ3冊を読む代わりに、ひとまず新書の1冊を読んで満足感を得ようとした。しかし、この1冊を読んだことで、本来の3冊をさらに読みたくなってしまった。もちろん絵そのものも見たい―そして見られたい―ものである。
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絵は何の予備知識もなしに無心に見るものと、むかしは思っていた。ところが、無心で絵を見るほどつまらないものはない。絵に何も読み取ることはできないし、絵は何も語りかけてこない。だから、かなりの年齢になるまで、博物館には行っても美術館に足を踏み入れることはなかった。ところがあるとき、一枚の絵画の背景にはその時代の文化や歴史が隠されており、絵は作者の意図を雄弁に語っていると知った。知ってみれば当然のことなのに、それからというもの、がぜん絵を見るのが好きになり、とても楽しくなった。本書の「はじめに」にも同じメッセージが語られている。絵は「見て感じる」より「読む」のが先だと、中野京子さんは書いている。
中学、高校と歴史の授業はたいてい退屈で、そのせいか、いまでもたいした歴史の知識は持ち合わせていない。それでも、本書では丁寧に世界史(とくに西欧の歴史)を解説してあるので、絵の持つ「怖さ」がよくわかる。さらに文章だけでなく、図版(絵)に矢印で解説が付されているところが秀逸だ。ハプスブルク家の盛衰もフランス革命も、教科書からはけっしてわからない怨念の歴史が絵とともに見えてくる。何も知らなければ『エリザベート皇后』は美女の肖像画にすぎないだろうし、『マリー・アントワネットと子どもたち』に「不幸の予感」など読み取れるはずもない。
読み進めていくうちに、歴史に隠された「怖さ」から人間の奥底に潜む「怖さ」へと、中野さんの筆は進んでいくように見える。同時に絵に「怖さ」を読み取るだけでなく、絵は見る者に「怖さ」を語りかけてくるように感じる。たとえば「憤怒の章」の『イワン雷帝とその息子』は見るからに「怖い絵」だが、イワン雷帝の憤怒を知ることで「怖さ」は倍加される。さらにそれでは終わらず、見る者におまえの憤怒はどうなのだと、問いかけてくるように思える。見る「怖さ」はやがて見られる「怖さ」へと変わる。
「凌辱の章」では「メメント・モリ(死を忘れるな)」や「ヴァニタス(人生の虚しさ)」が語られる。『死の勝利』にしろ『死と乙女』にしろ、見る者のこころを揺さぶらずにはおかない。絵の問いかけに対して、何らかの答えを用意しようと、焦って貧しいこころの中を探しまわる。こころが落ち着かぬままページをくると、次に「救済の章」が待っている。なかなかうまい構成である。しかし、そこに待っているのはさらなる「怖さ」だ。最後に出会う『イーゼンハイムの祭壇画』の中に見るのは・・・見られる自分である!
中野京子さんの『怖い絵』シリーズは、すでに3冊とも持っている。ところが虫食い的な読み方はしたものの、どれも完全に通読はしていない。きちんと読みたいと思いつつ、いつのまにか時間が経ってしまった。そんなとき目にしたのが本書だった。シリーズ3冊を読む代わりに、ひとまず新書の1冊を読んで満足感を得ようとした。しかし、この1冊を読んだことで、本来の3冊をさらに読みたくなってしまった。もちろん絵そのものも見たい―そして見られたい―ものである。
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印象派が出てくる前の西洋絵画って、まさに「読む」ものなんですよね。
当時のお約束を知らないと絵を見る楽しみも半減ですね。