「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

知らないことの危うさ―『憲法主義』

2016年05月05日 | Life
☆『憲法主義』(内山奈月・南野 森・著、PHP研究所)☆

  文句なしの良書である。第2次安倍政権が成立して以来、憲法改正が現実味を増してくるなか、憲法について少しはまともに学んでみたいと思っていた。憲法改正には抵抗感があるものの、その根拠はと問われるとうまく答えられない。むかし「政治経済」で学んだはずの知識さえまったくなくなってしまっている。そこで一冊くらいは憲法の本を読みたいと思ったのだが、いざとなるとどの本を選べばよいか迷ってしまう。この3月まで「報道ステーション」でコメンテーターを務めていた木村草太さんの本も考えたが(木村さんのコメントがわかりやすかったので)、一見アイドル本のように見えるこの本に決めた(2月にマーケットプレイスで、送料込みで定価の半額以下で購入)。アマゾンでのレビューが高評価であり、対話形式であるところも初心者向けのように思えた。レビューでの高評価が自分にとっての良書とは限らないことはわかっているが、今回は当たりだった。
  憲法は最高法規であるから、われわれ国民は憲法を遵守しなければならないと思いがちだが、実はそうではないという。憲法を守らなければならないのは国家権力(具体的には天皇、国務大臣、国会議員、裁判官、公務員―これを憲法の「名宛人」という)であって、国民は憲法によって守られている存在である。われわれが何らかの罪を犯したとき罰せられるのは、それは憲法によってではなく民法や刑法などの法律によってである。国家権力を規制することで国民の人権を守っているのが憲法である。
  日本国憲法は国民主権を謳っているが、国民が直接政治に参加しているわけではなく、選挙によって選ばれた国会議員が政治を行っている。このような間接民主制よりも直接民主制の方が国民の意思を反映できそうに思うが、直接民主制はいわば衆愚政治(本書でこの言葉は使われていないが)に陥りかねない。一方で間接民主制が機能するためには選挙制度が重要である。いうまでもないことだが、小選挙区制の弊害や1票の格差が問題になるのは、そのことに由来している。さらに、国民によって権力を与えられた国会議員を監視するために、さまざまな方法で情報を収集する必要がある。そこで重要になるのがマスコミの役割であり「表現の自由」である。安倍政権下で国務大臣や国会議員による「表現の自由」に抵触するかのような言動が繰り返されているように思われるが、安倍内閣の支持不支持にかかわらず、国民はこのことにもっともっと敏感であるべきだ。
  国会議員は国民による選挙で選ばれるので、国会すなわち立法権は「民主的正統性」が高いといえる。国会で選ばれた首相(内閣総理大臣)によって組織された内閣すなわち行政権の「民主的正統性」は、国民が直接選んだわけではないので立法権に比べて低い。さらに、裁判所の裁判官は内閣によって任命されるので、司法権の「民主的正統性」はさらに低いことになる。
  この司法権の「民主的正統性」を高めるために導入されたのが最高裁判所裁判官の「国民審査」である。しかしながら、国民(恥ずかしながら自分も含めて)の多くはこのシステムの意義を知らず、また裁判官に関する情報に関心を持たないこともあり、「国民審査」が機能しているとは言いがたい。また、国会によって作られた法律が憲法に違反していないかを審査するために「違憲審査制」が設けられている。ところが、違憲審査をするのは裁判所である。これでは内閣によって任命された裁判官が、違憲の判決を下すことなどありえるのかと思ってしまう。本書によると、過去約70年間(つまり日本国憲法が施行されてからということだろう)に違憲判決が下された例はたったの10件だという。さらにいえば、違憲判決が下されても、法改正を命令する権限は最高裁判所にないため、国会は無視を決め込むことができる。いま安保関連法案などで次々と違憲裁判が起こされているが、かりに違憲と判断されても、国会や内閣が無視することは大いにあり得るだろう。結局のところ、法改正をするためには、国会議員を選び直し、内閣を変えることが現実的な手段ということになる。
  憲法を改正しようとすると、国会議員の三分の二以上と国民の過半数の賛成が必要となるのでなかなかハードルが高い。このように改正が難しい憲法を「硬性憲法」というのだそうだが、この言葉も本書で初めて知った。憲法は国家権力をしばるものだから、国家権力にしてみれば自分たちに都合の悪い条文は変えたくなる当然の理屈である。しかし、硬性憲法であるからには改正が難しいので、条文の意味するところを別の解釈で切り抜けようとする。これが「解釈改憲」である。
  憲法が言葉で書かれている以上、言葉の曖昧さがついてまわるのはやむを得ない。しかし、だからといって、いや、だからこそ、いままでの政府解釈を一首相一内閣の手によって変えてしまうことはあってはならないことだ。中国や北朝鮮を念頭におき、いわゆる周辺事態の変化を理由に挙げることも多いが、まずは現在の憲法の枠内でできることを考えるべきだろう。そもそも憲法を無視するほど急を要する周辺事態が現出しているとも思われない。その上でどうしても憲法改正が必要ならば、正当な手段で改正を行うべきである。
  解釈改憲は、憲法による国家権力の拘束を無意味化してしまう。改正派であれ護憲派であれ、ほとんどの憲法学者が解釈改憲に反対している意味を、われわれ国民は深く顧慮しなければならない。安倍内閣の評価は意見の分かれるところだろうが、少なくとも安保関連法案の解釈改憲による成立(?)だけは、将来に大きな禍根を残したように思う。そのことを受けて、これ以上の(現内閣のみならず今後の内閣に対しても)解釈改憲的行為を許さないために、われわれ国民は知らないことの危うさを知るべきだろう。「最高法規」の、「表現の自由」の、「民主的正統性」の、「違憲審査制」の、「硬性憲法」の本質を知らなければならない。
  本書はAKB48のメンバーだった内山奈月さんと憲法学者(九州大学教授)である南野森さんによる対談本であるが、内山さんがたんなるアイドルではないところが、本書の評価を上げていると言って良いだろう。AKB48のことはそれなりに知っていても、内山さんのことはまったく知らなかった。内山さんはコンサートで暗記した憲法の条文を披露するという特技の持ち主である。しかし、暗記するだけならば(言葉は悪いが)ある意味バカでもできる。ところが、この対談を読んでいると内山さんの利発さがよくわかる。知識もさることながら、思考力や南野さんの講義をノートにまとめる文章力もすばらしい。この駄文を綴るときも参考にさせてもらった。南野さんに「九大生よりすごいかも」と言わしめている。
  対談当時高校生だった内山さんは、その後慶應義塾大学経済学部に進学し、今年に入ってAKB48を「卒業」したそうだ。ネットでは学業に専念するためではないかといった推測も流れている。本書の読者ならば、才能を活かして、また別の道を歩んでほしいと思う人も少なくないのではないか。そのうちアイドルではない内山奈月さんを見ることができるかもしれないと思うと、これも楽しみである。

  

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