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☆『魔術から数学へ』(森毅・著、講談社学術文庫)☆
先頃(2010年7月)亡くなった森毅さんの著書。京大の名物教授にして、数学や数学教育のみならず、教育問題一般や社会時評でも活躍した。森さんの書くものはどれもおもしろく、視点はいつも意表を突いていた。数学や計算は昔から大の苦手だったが、数学を心底嫌いにならなかったのは、森さんの本に負うところも少なからずあったように思う。『数学受験術指南』(中公新書)で数学の成績が上がることはなかったが、数学に対する恐怖症は軽くなった。
本書の文庫化される前の書名は『計算のいらない数学入門』だという。本書を読むのにたしかに計算はほとんどいらないが、教養はあった方がよい。語り口は軽妙だが、数学や科学、歴史や哲学に関する幅広い教養に裏打ちされているからだ。とはいえ、さしたる教養がなくとも十分に楽しめることは、自分が証明している。高度な教養よりも、数学や科学(物理学)で用いられる概念に対する興味の方が、むしろ分水嶺になるかもしれない。
歴史的にはルネサンスとその前後の時代に焦点が当てられていて、「数学入門」というよりは数学史、数学史というよりは科学思想史の趣が感じられる。ガリレイ、ケプラー、デカルト、パスカル、ニュートンなどのビッグネームが当然のことながら登場するが、その人物評が実におもしろい。学校で教わる科学史といえば、宗教(主にキリスト教)と科学(合理的精神)とを対立軸に据えて、科学者は宗教の側を論破する正義の味方のような捉え方をする(「勝利者史観」という言葉もどこかで読んだ覚えがある)。しかし、合理的精神など突如として現れるはずもなく、学者もまたその時代の空気を吸って生きていたのであり、たいていそのことは捨象されている。
学校で習う科学史など上澄みのようなもので、たいしてうまくもない。しかし、上澄みの下に隠された実体はなかなか味わい深い。ニュートンは神秘主義者で、それに先立つガリレイの方が近代人だとの指摘は、進歩主義的な史観からは違和感があるだろうが、学校の科学史を離れて、まっとうな科学史を少し学べばさほど目新しくはない。しかし、デカルトの「延長」やニュートンの「絶対時間」に関して各々「空虚な空間」や「空虚な時間」を想定したとき、当時は日常の物事や出来事と結び付いたかたちでしか捉えることのできなかった空間や時間を、現在のように抽象的に考えることができる契機となったとの指摘には、思わず膝を打った。
風呂のお湯を溢れさすのは太った(体積の大きい)人だが、どんな人と聞かれて、100キロの人と重さで答えるのはふつうにあることだ。浮力の問題で子どもが―どころか大学生や大人でも―混乱することはよくある。森さんがいうには、〈重さ〉と〈かさ〉というのはウッカリ考えると混ざってしまうもので、どちらももともとは〈物の量〉であったのだ。〈重さ〉、〈体積〉、〈密度〉などの概念が確立していったのは17世紀であったという。ウッカリすると人や子どもは中世人になるということらしい。
だからといって、個体発生は系統発生を繰り返すなどといってはマユツバになるが、人間が持つ素朴な概念(「素朴物理学」や「素朴生物学」という言葉もある)に配慮することは、教育上必要だろうと思う。近代人のしたり顔で、浮力を頭ごなしに教えるのは、ひょっとしたら横暴なのかもしれない。小数の誕生や数直線の発見などについても興味深い話が載っていて、こころある教師には参考になるにちがいない。
最近、森さんだけでなく、梅棹忠夫さんや日高敏隆さんなど、京大系のオリジナルな発想を持つ学者が次々と亡くなった。このご三人に実際にお会いしたことはないが、著書などを通じてずっと親しみを感じていた。知らず知らずのうちに、彼らの生き方から学んだことはきっと少なくないはずだ。喪った寂しさを感じる今日この頃である。
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先頃(2010年7月)亡くなった森毅さんの著書。京大の名物教授にして、数学や数学教育のみならず、教育問題一般や社会時評でも活躍した。森さんの書くものはどれもおもしろく、視点はいつも意表を突いていた。数学や計算は昔から大の苦手だったが、数学を心底嫌いにならなかったのは、森さんの本に負うところも少なからずあったように思う。『数学受験術指南』(中公新書)で数学の成績が上がることはなかったが、数学に対する恐怖症は軽くなった。
本書の文庫化される前の書名は『計算のいらない数学入門』だという。本書を読むのにたしかに計算はほとんどいらないが、教養はあった方がよい。語り口は軽妙だが、数学や科学、歴史や哲学に関する幅広い教養に裏打ちされているからだ。とはいえ、さしたる教養がなくとも十分に楽しめることは、自分が証明している。高度な教養よりも、数学や科学(物理学)で用いられる概念に対する興味の方が、むしろ分水嶺になるかもしれない。
歴史的にはルネサンスとその前後の時代に焦点が当てられていて、「数学入門」というよりは数学史、数学史というよりは科学思想史の趣が感じられる。ガリレイ、ケプラー、デカルト、パスカル、ニュートンなどのビッグネームが当然のことながら登場するが、その人物評が実におもしろい。学校で教わる科学史といえば、宗教(主にキリスト教)と科学(合理的精神)とを対立軸に据えて、科学者は宗教の側を論破する正義の味方のような捉え方をする(「勝利者史観」という言葉もどこかで読んだ覚えがある)。しかし、合理的精神など突如として現れるはずもなく、学者もまたその時代の空気を吸って生きていたのであり、たいていそのことは捨象されている。
学校で習う科学史など上澄みのようなもので、たいしてうまくもない。しかし、上澄みの下に隠された実体はなかなか味わい深い。ニュートンは神秘主義者で、それに先立つガリレイの方が近代人だとの指摘は、進歩主義的な史観からは違和感があるだろうが、学校の科学史を離れて、まっとうな科学史を少し学べばさほど目新しくはない。しかし、デカルトの「延長」やニュートンの「絶対時間」に関して各々「空虚な空間」や「空虚な時間」を想定したとき、当時は日常の物事や出来事と結び付いたかたちでしか捉えることのできなかった空間や時間を、現在のように抽象的に考えることができる契機となったとの指摘には、思わず膝を打った。
風呂のお湯を溢れさすのは太った(体積の大きい)人だが、どんな人と聞かれて、100キロの人と重さで答えるのはふつうにあることだ。浮力の問題で子どもが―どころか大学生や大人でも―混乱することはよくある。森さんがいうには、〈重さ〉と〈かさ〉というのはウッカリ考えると混ざってしまうもので、どちらももともとは〈物の量〉であったのだ。〈重さ〉、〈体積〉、〈密度〉などの概念が確立していったのは17世紀であったという。ウッカリすると人や子どもは中世人になるということらしい。
だからといって、個体発生は系統発生を繰り返すなどといってはマユツバになるが、人間が持つ素朴な概念(「素朴物理学」や「素朴生物学」という言葉もある)に配慮することは、教育上必要だろうと思う。近代人のしたり顔で、浮力を頭ごなしに教えるのは、ひょっとしたら横暴なのかもしれない。小数の誕生や数直線の発見などについても興味深い話が載っていて、こころある教師には参考になるにちがいない。
最近、森さんだけでなく、梅棹忠夫さんや日高敏隆さんなど、京大系のオリジナルな発想を持つ学者が次々と亡くなった。このご三人に実際にお会いしたことはないが、著書などを通じてずっと親しみを感じていた。知らず知らずのうちに、彼らの生き方から学んだことはきっと少なくないはずだ。喪った寂しさを感じる今日この頃である。
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