「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展』、『ファーブルにまなぶ』、『大ロボット博』

2007年11月28日 | Arts
『フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展』(国立新美術館)、『ファーブルにまなぶ』(国立科学博物館)、『大ロボット博』(国立科学博物館)
  先日、思いがけず仕事が休みになった。予定外の休日を休息に使うか、あるいはもっと有効に使うか迷ったのだが、結局、国立新美術館と国立科学博物館とをハシゴすることにした。
  国立新美術館では“フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展”を見た。「牛乳を注ぐ女」は、その構図や質感もさることながら、女性のスカート(?)の青色が鮮やかだった。ウィキペディアに書いてあったが、この鮮やかな青色は天然「ウルトラマリンブルー」という絵の具だとのことで、通常の青い絵の具の百倍の値段がしたそうである。光輝にして高貴な青色である。興味深いという点では、この「牛乳を注ぐ女」よりも、フェルメール以外のオランダ風俗画のほうがおもしろかった。西洋画によくある宗教画や歴史画とは異なって、風俗画は市井の人たちの生活や下世話な日常を描いたものだ。いつの世にもある酔っぱらいや男女の表情にはついついニヤリとさせられてしまう。
  午後からは、国立科学博物館で「ファーブルにまなぶ」と「大ロボット博」を見た。「ファーブルにまなぶ」は、多数の昆虫の標本が見事だった。その手のマニアや子どもたちにはたまらないだろう。展示はファーブルに始まって、日本の博物誌の伝統へとつなげられていたように思う。かつて現母校の教授でもあった日高敏隆さんが『帰ってきたファーブル』に書いていたことだが、博物学的アプローチの復権がいま望まれているのかもしれない。分析的かつ三人称的な分子生物学的な研究手法への反省から、逆に総合的かつ一人称的な博物学的生物学への期待が高まっているように思う。それがいま「ファーブルにまなぶ」べきことなのではないだろうか。
  「大ロボット博」のほうは個人的にはあまり興味がわかなかった。しかし、客の入りは「ファーブル」を勝っていたように思う。やはりASIMOのお陰なのかもしれない。最近の缶コーヒーのCMにもあったように、日本人は産業用ロボットにさえ人間(女性)の名前をつけたりするが、あれはなぜだろうか。やはりロボットにも人格を与えようとしているのだろうか。こんな日本人の心性を一度あらためて考えてみたいものだ。それにしても、ロボット技術の進歩はすごい。1985年の筑波万博で初めてピアノをひくロボット(正確には手だけだったかもしれないが、たしか早稲田大学の研究チームのものだった)を見たように思うが、いまはそれをはるかに超えてASIMOのような人間型の自立ロボットが現実のものとなっている。かつてのSFが現前のものとなっているのだ! ロボット工学科のある大学さえ存在する。内容的には精密機械工学や制御工学の応用なのだろうが、そういった名称を付けられる時代が来ていることに驚かされてしまう。と同時に、こんな想いを書くことで、自分の歳をあらためて思ってしまう。
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