「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『がんから始まる』

2005年09月01日 | Life
がんから始まる(岸本葉子・著、晶文社)
 もう亡くなってから10年くらいになるだろうか、ある意味で両親以上に世話になった女性がいた。女性というよりは、自分のなかでは血のつながっていないお婆ちゃんのような存在で、とても働き者の人だった。子どもの頃から、その人が自分のことを評して、よく「魂の古い子」だといっていた。いわれた本人は意味もわからず怪訝な感じがしたものだが、あまり悪い気はしなかった。その人のことを思い浮かべると、その言葉もいっしょに思い出すのだが、年月を経るにしたがって、その意味することが何となくわかるような気がしてきた。たぶん、子どものわりには古いことや昔のことに興味を持っていたり、また、お年寄りや病気の人に対して思いやりがあるように見えたのだろう。そんなことが、その人には「魂が古い」と映ったのだろうと思う。たしかにほかの子どもに比べれば、身近な遊びよりも時空を超えたことを空想するのが好きだったり、お年寄りや病気を患っている人に対してやさしく接していたかもしれない。そのような自分の性質が育まれた背景にはいろいろな要因が絡んでいるにちがいないのだが、やはり健常な子どもに比べて、どうしても死を意識せざるを得なかったことを除くことはできないように思う。幼少期から知らず知らずのうちにも死と対面せざるを得なかった自分を誇る気持ちはない。しかし、死を自分の問題として捉えたり、身近に死を経験することは、その人の心に正負を超えた影響を与えるにちがいないと思う。
 著者の岸本葉子さんは2001年に40歳の若さでがんを患った。その前後のこころの軌跡を綴ったのが本書である。岸本さんは1985年に『クリスタルはきらいよ』という自らの就職活動を描いたエッセイでデビューした。彼女は東大教養学部の出身だが、東大生というよりは、どこにでもいる女子大生の就職活動に対する夢と挫折が描かれていて、とてもおもしろかった記憶がある。その後エッセイストとして独立し、若い女性(というよりは、彼女の年齢に相応した女性)の身辺雑記や旅行記を明るく楽しい筆致で書き続けてきた。実はデビュー作以後、本書に至るまで、彼女の著書は2冊くらいしか読んでいないのだが、こころがホッとさせられるようなエッセイだった。思想のないのが彼女の思想などと軽口をたたく人もいる。たしかにむずかしいことが書いてあるわけではないが、「生きる」というよりは「生活する」のは楽しいと思わせてくれる。そこが彼女の本領のような気がした。
 そんな明るく楽しいエッセイの延長線上で本書に接すると(本書のタイトルから見て、そんな人はいないだろうが)かなり異なった感慨を味わうことになるだろう。がんの告知から手術へ、そして再発の不安を抱きながらの日々は、けっして軽い内容のものではない。しかし、湿っぽく重々しい感じがするわけでもない。40歳のひとり暮らしの女性が、さまざまな不安と闘いながら、しだいに自らのがんを受容していく。そんな彼女のこころの動きや、がんとともにある暮らしの一コマ一コマが丁寧に描かれていて、むしろすがすがしさを覚えるといっては失礼だろうか。以前のエッセイでは、彼女は「生活する」ことは楽しいと語ってくれていたように思う。しかし、本書では「生きる」ことが好きだと語っている。

「生きたい」という願いは、「死にたくない」という拒否感と、等価ではない気がする。それ以上のものがある。(中略)生きて何をしたい、かにをしたいという以前に、生きることそのものが、私は好きだと、わかったのだ。

この言葉は、がんを経験した人ならではの重みがあるように感じる。がんを患っている人たちには、この言葉はストレートに響くだろう。さらには、死を身近に感じたことのある人のこころにも、この言葉は静かに浸透するのではないだろうか。
 いま岸本さんの著作や活動は、自らのがん患者としての経験をベースにしたものへと移っているようである。彼女の死と対面した経験は、彼女を変えたというよりは、むしろ新たなステージへと引き上げたというべきだろう。彼女の新たなステージががんから始まったのである。がんのように直接的ではないにしろ、幼い頃からの死と向き合ってきた自分の経験もまた、自分を変えてきたにちがいない。しかし、その評価については、正直なところ自分にはわからない。しかしそれでも、けっして無駄ではなかったのではないかと、いまでは思っている。
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