『オスとメス=性の不思議』(長谷川眞理子・著、講談社現代新書)
なぜ性というものがあるのだろうか。性には、なぜオスとメスの二種類があるのだろうか。あるいは、なぜオスとメスの二種類しかないのだろうか。人間には男性と女性の二種類の性別があり、生物にも一般的にオスとメスの二種類があることは当たり前すぎて、あらためて考えてみる人は少ないかもしれない。けれども、自分はそんな当たり前のことに対して、ときどき突っ込んでみたくなる性分のようである。いま人間には「男性と女性」の二種類があり、生物には「オスとメス」の二種類があると書いたが、この分け方に代表されるように、性の分け方にも一般的に二つの分け方がある。一つは生物学的な性差のことであり、「セックス」(sex)という語を当てられることが多い。もう一つは社会的・文化的な性差のことであり、「ジェンダー」(gender)という語で表現される。誤解を恐れずにものすごく大雑把にいってしまえば、前者は身体の見た目のちがいであり、後者は男の子はズボンを、女の子はスカートをはき、男性は仕事をし、女性は家事や育児をするといったちがいである。しかし、このセックスとジェンダーという性差に関するニ分法は、よく考えてみるとひじょうに曖昧なものであり、現実にも大きな問題をはらんでいる。近年、社会的にも認知されることが多くなった、性同一性障害の人たちの問題がその代表例の一つといえるだろう。
本書は、著者の長谷川眞理子さんが進化生物学者だということもあって、生物学的な性差の起源に基礎をおきながらも、ジェンダーの問題にまで視野を広げている。人間は男性と女性との生殖によって繁殖(自分と似たものを再生産すること)ため、性と繁殖とを切り離して考えることができない。しかし、生物の世界を見渡してみると、無性生殖という言葉があるように、性イコール繁殖を意味しない。性の本質とは、実のところ遺伝物質の交換であり、それは生物が環境の変化に対処するために進化の過程で創り出された手段なのである。有性生殖では、二つの個体がお互いに配偶子を放出するが、大きな配偶子(卵=遺伝物質+栄養を持つが、機動性が悪い)を作るほうがメスであり、小さな配偶子(精子=ほぼ遺伝物質しか持たないが、機動性が良い)を作るほうがオスである。これがオスとメスの由来であり、オスとメスの生物学的な定義といっていいだろう。また、ごく簡単に書くと、配偶子の機動性や出会いの確率を考えたとき、そのトレード・オフを考慮すると性にはオスとメスの二種類しか存在しないことが説明されるという。このように、自分の「素朴な疑問」に対して、本書は次々と明確な答えを与えてくれた。しかし、これはあくまで生物学的な話であって、これをジェンダーの話にそのまま適用することはできない。
オスとメスの身体の大きさのちがいを性的ニ型というが、その比(オス/メス)をとると、ヒト(人間を生物学的に捉えたときの表現)は1.05~1.3であるという。それに対してゾウアザラシは7.0、ミツユビカモメは1.0である。この比が大きいほど婚姻システムで一夫多妻の傾向が大きくなるという。実際、ゾウアザラシはオスがハーレムを作ることで有名なように一夫多妻であり、逆にミツユビカモメは一夫一妻であるという。だとすると、ヒトにも一夫多妻の傾向が少しはあるといえそうである。だからといって、日本の婚姻制度も一夫多妻を認めるべきであるという方向に話をシフトすることはできない。つまり、このあたりから、つまりヒトから人間の話に変わってくるにしたがって、セックスとジェンダーとの相違は複雑な様相を示し始め、単純な一般化は注意しなければならなくなってくる。ヒト以外の生物は、遺伝的な基盤に生態学的な条件が加わって婚姻システムを作り上げているが、ヒトの場合は、生態学的な基盤に文化的な束縛といったものが加わって婚姻システム(婚姻制度)を成立させているようである。長谷川さんの話を自分なりにまとめると、このようになるだろうか。
人間の男性と女性には、たしかに“ちがい”が存在する。しかし、だからといって、男性と女性との待遇の差が、必ずしも正当化されるとは限らない。また、男性と女性との差は、子どもが産めるかどうかの一点だけであって、それ以外の差はすべて社会的に作られたものであると強弁することもできないであろう。何事も中道を行けばいいというものではないが、この種の問題に関しては、極論(セックスとジェンダーの単純な二分法を含めて)には注意深くありたいと思う。
なぜ性というものがあるのだろうか。性には、なぜオスとメスの二種類があるのだろうか。あるいは、なぜオスとメスの二種類しかないのだろうか。人間には男性と女性の二種類の性別があり、生物にも一般的にオスとメスの二種類があることは当たり前すぎて、あらためて考えてみる人は少ないかもしれない。けれども、自分はそんな当たり前のことに対して、ときどき突っ込んでみたくなる性分のようである。いま人間には「男性と女性」の二種類があり、生物には「オスとメス」の二種類があると書いたが、この分け方に代表されるように、性の分け方にも一般的に二つの分け方がある。一つは生物学的な性差のことであり、「セックス」(sex)という語を当てられることが多い。もう一つは社会的・文化的な性差のことであり、「ジェンダー」(gender)という語で表現される。誤解を恐れずにものすごく大雑把にいってしまえば、前者は身体の見た目のちがいであり、後者は男の子はズボンを、女の子はスカートをはき、男性は仕事をし、女性は家事や育児をするといったちがいである。しかし、このセックスとジェンダーという性差に関するニ分法は、よく考えてみるとひじょうに曖昧なものであり、現実にも大きな問題をはらんでいる。近年、社会的にも認知されることが多くなった、性同一性障害の人たちの問題がその代表例の一つといえるだろう。
本書は、著者の長谷川眞理子さんが進化生物学者だということもあって、生物学的な性差の起源に基礎をおきながらも、ジェンダーの問題にまで視野を広げている。人間は男性と女性との生殖によって繁殖(自分と似たものを再生産すること)ため、性と繁殖とを切り離して考えることができない。しかし、生物の世界を見渡してみると、無性生殖という言葉があるように、性イコール繁殖を意味しない。性の本質とは、実のところ遺伝物質の交換であり、それは生物が環境の変化に対処するために進化の過程で創り出された手段なのである。有性生殖では、二つの個体がお互いに配偶子を放出するが、大きな配偶子(卵=遺伝物質+栄養を持つが、機動性が悪い)を作るほうがメスであり、小さな配偶子(精子=ほぼ遺伝物質しか持たないが、機動性が良い)を作るほうがオスである。これがオスとメスの由来であり、オスとメスの生物学的な定義といっていいだろう。また、ごく簡単に書くと、配偶子の機動性や出会いの確率を考えたとき、そのトレード・オフを考慮すると性にはオスとメスの二種類しか存在しないことが説明されるという。このように、自分の「素朴な疑問」に対して、本書は次々と明確な答えを与えてくれた。しかし、これはあくまで生物学的な話であって、これをジェンダーの話にそのまま適用することはできない。
オスとメスの身体の大きさのちがいを性的ニ型というが、その比(オス/メス)をとると、ヒト(人間を生物学的に捉えたときの表現)は1.05~1.3であるという。それに対してゾウアザラシは7.0、ミツユビカモメは1.0である。この比が大きいほど婚姻システムで一夫多妻の傾向が大きくなるという。実際、ゾウアザラシはオスがハーレムを作ることで有名なように一夫多妻であり、逆にミツユビカモメは一夫一妻であるという。だとすると、ヒトにも一夫多妻の傾向が少しはあるといえそうである。だからといって、日本の婚姻制度も一夫多妻を認めるべきであるという方向に話をシフトすることはできない。つまり、このあたりから、つまりヒトから人間の話に変わってくるにしたがって、セックスとジェンダーとの相違は複雑な様相を示し始め、単純な一般化は注意しなければならなくなってくる。ヒト以外の生物は、遺伝的な基盤に生態学的な条件が加わって婚姻システムを作り上げているが、ヒトの場合は、生態学的な基盤に文化的な束縛といったものが加わって婚姻システム(婚姻制度)を成立させているようである。長谷川さんの話を自分なりにまとめると、このようになるだろうか。
人間の男性と女性には、たしかに“ちがい”が存在する。しかし、だからといって、男性と女性との待遇の差が、必ずしも正当化されるとは限らない。また、男性と女性との差は、子どもが産めるかどうかの一点だけであって、それ以外の差はすべて社会的に作られたものであると強弁することもできないであろう。何事も中道を行けばいいというものではないが、この種の問題に関しては、極論(セックスとジェンダーの単純な二分法を含めて)には注意深くありたいと思う。
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