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『ふぶきの道』(M・レイノルズ・文、S・マッカラム・絵、松本侑子・訳、河出書房新社)
落合恵子さんのお店である表参道のクレヨンハウスに一時期よく行った。当時はまだ田舎に住んでいたのだが、上京するとたいてい立ち寄っていた。クレヨンハウスへ行く目的で上京したことも一、二回あったように思う。クレヨンハウスは絵本の専門店として有名だが、目的はむしろ3階にある女性(女性学・フェミニズム)関係の本の売り場だった。いまでこそ東京の大型書店へ行けば女性学やフェミニズムと銘打った本棚が一画を占めているが、当時は東京でもそのような書店はなかったように思う。ましてや田舎では、大きな書店であってもその種の本を見つけることはむずかしかったので(一つのカテゴリーとして分類されていないからなおさらなのだが)、上京してクレヨンハウスの3階で本の背表紙を眺めたり、手に取ってページをめくるのが楽しみだった。
クレヨンハウスの3階が目的だったとはいえ、1階の絵本売り場を素通りしていたわけではない。まず大量の絵本に驚かされたし、色も形もさまざまな絵本には、それはそれで心がひかれた。ただ、子どものころ、あまり絵本を買ってもらった記憶がなく、自分で買ったおぼえもほとんどないからか、絵本に対する思い入れは少なかったような気がする。しかし、最近、少し絵本に興味を持ち始めている。大人の眼で絵本を読み直してみることで、また新たな何かが見えてくるかもしれないと思うからだ。とはいっても、絵本は純粋に楽しめば良いのだという考えにも一理はある。それにもかかわらず、小難しいことを何か一言いってみたいというのは、年寄りの戯言に近い症状あるいは衝動が自分のなかにも生じているのかもしれない。
それはさておき、この『ふぶきの道』は―『星の使者』というもっと大判の絵本と同時に―久しぶりに買った絵本だ。年老いた雌馬のベルと女の子のモーリーとの心の交流が描かれている。絵は、とくに奇をてらった様子もなく、落ち着いた感じがする。それでも、カナダの大草原の吹雪や大雪の描写は、その激しさや凍てつく寒さを感じさせてくれる。カナダの冬とは比べものにならないだろうが、田舎である北陸の冬を思い出してしまう。そんな吹雪の描写に気をとられがちだが、馬のベルの表情や様子のちがいもよく描かれているように思う。前半の表情は、いかにも老馬らしく弱々しく疲れた感じに見えるが、中盤から後半にかけての表情には、吹雪を耐え忍びながらもモーリーを家へ送り届けようとするベルの意志が感じられる。ちょうど真ん中くらいのページの、目をかっと開き雪原を力強く進もうとしている様子は圧巻だ。
馬にかぎらず、人間にとって動物は結局のところ道具である。犬や猫はペット(愛玩動物)であって道具ではないと思う人も多いだろうが、自分を癒してくれる道具に他ならない。このベルも、農作業を手伝ってくれたりモーリーを町まで運んでくれる道具である。だから、父親がモーリーのためにベルを新しい子馬に買い換えようとすると、モーリーも喜んでしまう。道具が古くなったら、新しいものに買い換えたほうがいいにきまっている。しかし、吹雪の中での経験をきっかけに、モーリーはベルと心を通わせ、ベルが単なる道具ではないことに気づく。モーリーの父も心を改める。大自然の前で人と馬が心を通わせる、このシナリオは示唆的なように感じられた。環境破壊に代表されるような人間の自然に対峙するしかたは、実は人間の動物に対する扱い方と地続きであると考えられている。一言でいってしまえば、自然も動物も人間にとっては道具なのである。人間が自然や動物をどのように捉えるかといった根本的な問題を考えることなしには、いわば小手先の科学技術による対処だけで複雑な環境問題が解決されることはないだろう。この『ふぶきの道』を読む子どもたちに、そこまでの深読みを期待する必要はないだろうが、少しは環境問題を思想的に捉えようとしてきた自分には、そのように読めた絵本だった。
落合恵子さんのお店である表参道のクレヨンハウスに一時期よく行った。当時はまだ田舎に住んでいたのだが、上京するとたいてい立ち寄っていた。クレヨンハウスへ行く目的で上京したことも一、二回あったように思う。クレヨンハウスは絵本の専門店として有名だが、目的はむしろ3階にある女性(女性学・フェミニズム)関係の本の売り場だった。いまでこそ東京の大型書店へ行けば女性学やフェミニズムと銘打った本棚が一画を占めているが、当時は東京でもそのような書店はなかったように思う。ましてや田舎では、大きな書店であってもその種の本を見つけることはむずかしかったので(一つのカテゴリーとして分類されていないからなおさらなのだが)、上京してクレヨンハウスの3階で本の背表紙を眺めたり、手に取ってページをめくるのが楽しみだった。
クレヨンハウスの3階が目的だったとはいえ、1階の絵本売り場を素通りしていたわけではない。まず大量の絵本に驚かされたし、色も形もさまざまな絵本には、それはそれで心がひかれた。ただ、子どものころ、あまり絵本を買ってもらった記憶がなく、自分で買ったおぼえもほとんどないからか、絵本に対する思い入れは少なかったような気がする。しかし、最近、少し絵本に興味を持ち始めている。大人の眼で絵本を読み直してみることで、また新たな何かが見えてくるかもしれないと思うからだ。とはいっても、絵本は純粋に楽しめば良いのだという考えにも一理はある。それにもかかわらず、小難しいことを何か一言いってみたいというのは、年寄りの戯言に近い症状あるいは衝動が自分のなかにも生じているのかもしれない。
それはさておき、この『ふぶきの道』は―『星の使者』というもっと大判の絵本と同時に―久しぶりに買った絵本だ。年老いた雌馬のベルと女の子のモーリーとの心の交流が描かれている。絵は、とくに奇をてらった様子もなく、落ち着いた感じがする。それでも、カナダの大草原の吹雪や大雪の描写は、その激しさや凍てつく寒さを感じさせてくれる。カナダの冬とは比べものにならないだろうが、田舎である北陸の冬を思い出してしまう。そんな吹雪の描写に気をとられがちだが、馬のベルの表情や様子のちがいもよく描かれているように思う。前半の表情は、いかにも老馬らしく弱々しく疲れた感じに見えるが、中盤から後半にかけての表情には、吹雪を耐え忍びながらもモーリーを家へ送り届けようとするベルの意志が感じられる。ちょうど真ん中くらいのページの、目をかっと開き雪原を力強く進もうとしている様子は圧巻だ。
馬にかぎらず、人間にとって動物は結局のところ道具である。犬や猫はペット(愛玩動物)であって道具ではないと思う人も多いだろうが、自分を癒してくれる道具に他ならない。このベルも、農作業を手伝ってくれたりモーリーを町まで運んでくれる道具である。だから、父親がモーリーのためにベルを新しい子馬に買い換えようとすると、モーリーも喜んでしまう。道具が古くなったら、新しいものに買い換えたほうがいいにきまっている。しかし、吹雪の中での経験をきっかけに、モーリーはベルと心を通わせ、ベルが単なる道具ではないことに気づく。モーリーの父も心を改める。大自然の前で人と馬が心を通わせる、このシナリオは示唆的なように感じられた。環境破壊に代表されるような人間の自然に対峙するしかたは、実は人間の動物に対する扱い方と地続きであると考えられている。一言でいってしまえば、自然も動物も人間にとっては道具なのである。人間が自然や動物をどのように捉えるかといった根本的な問題を考えることなしには、いわば小手先の科学技術による対処だけで複雑な環境問題が解決されることはないだろう。この『ふぶきの道』を読む子どもたちに、そこまでの深読みを期待する必要はないだろうが、少しは環境問題を思想的に捉えようとしてきた自分には、そのように読めた絵本だった。
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