「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『孤独の研究』―再読―

2008年03月03日 | Life
『孤独の研究』(木原武一・著、PHP研究所)―再読―
  「個」と「孤」について考えていたとき、再びこの本を読みたくなった。以下に気なった一節を書き抜こうと思う。

  孤独とコミュニケーションとは相反するものなのだろうか。
  「人間の生涯とは、要するに、いかにひとりで生き、同時にいかに他人とともに生きるかということである。つまり、孤独とコミュニケーションとによって、人間の生涯は構成されているのである。人間は孤独のなかで発見した宝物を、コミュニケーションを通して世の人びとに知ってもらうことに言い知れぬ喜びを感じるはずである。他人に見てもらい、ほめてもらってこそ、宝物も宝物となる。他人に知られてこそ、自己の存在価値もある。」
  このブログもまたその試みといえるだろう。

  「孤独は諸刃の剣である。それは創造の場であると同時に、自滅と自壊への道でもある。」

  「人間にとって、そうせずにはなかなか生きてはゆけないという行為のひとつに、自分の意志を表現し、伝えるというコミュニケーション行為がある。(中略)日記を書くというのは、誰かに話しかけていることなのである。肝心なことは、日記のなかであれ、とにかく話しかけ、語り続けるということである。そのようにコミュニケーションを試みることによって人間は世界とはけっして絶縁されていない自己を実感することができる。」

  「失われた時間はけっして消え去ったわけではないこと、それは記憶のなかに当時そのままに保存されていること、そして、失われたと思っていた時間を取りもどすことによって『なんとも言えぬ快感』が与えられることをプルーストは発見した。しかし、失われた時間を取りもどすことによって、なぜ人間は幸福感に満たされるのか。(中略)失われた時を取りもどすことによって、人間は『時間のそと』に出ることができるのである。この見出された不滅の時間のなかでは、孤独に苦しむことはないのだ。」

  「多くの老人は、生き残る者たちの社会から締め出され、だれから何の役割も期待されずに、やがて生ける屍として死んでゆく。老いゆく者の孤独は死にゆく者の孤独へと移行する。老いることは、すこしずつ死んでゆくことでもある。すこしずつこの世で無用の存在となることでもある。(中略)避けられないものは受けいれるしかない。人間が生き、そして死んでゆくという厳然たる事実は変えようがないのだ。(中略)肝心なことはただひとつ―人はひとりであるが、ひとりでは生きてゆけないこと、人はひとりであると同時に人はふたりであることを肝に銘じて限りある生を生き続けるしかない。」

  ときに孤独はつらい。しかし、孤独なくして自分はなかった。これからも孤独なくして自分はないだろう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『誰も知らない「赤毛のアン... | トップ | 『雪』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Life」カテゴリの最新記事