「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『ファウスト』

2007年05月21日 | Life
『ファウスト』(手塚治虫・著、朝日文庫)
  ゲーテの『ファウスト』といえば、万学を修めたファウスト博士と悪魔のメフィストフェレスとの契約のくだりくらいしか知らないのだが、そのテーマには以前から興味があった。キリスト教的な人間像云々といった思想史的なことよりも、ファウストという老学者が悪魔に魂を渡してまでも求めようとしたものを知りたいと思ったからだ。もちろん、ファウストの人間像はその時代や思想の状況を反映したものであるはずだから、分けて考えることはできないのだが、もう少し下世話な興味が先立っていたといえるだろう。いずれにしても、一度ちゃんと読んでみようと思い、少し前に岩波文庫版と手塚治虫さんのマンガ版『ファウスト』と『ネオ・ファウスト』を買った。マンガ版も同時に買ったのは、マンガ版のほうが攻略しやすいと思ったからだ。もちろん年来の手塚治虫ファンだということもあった。さて、岩波文庫版のほうだが、大著ということもあって、案の定ページをめくる指はほんの数ページで止まってしまった。結局、最初に意図したとおりマンガ版のほうから入門することになった。
  本書『ファウスト』には「ファウスト」と「百物語」の二つの物語が収められている。巻末の解説を読むと、「ファウスト」のほうは、手塚さんなりの翻案が施されていながらも、ゲーテの原作と比較的近い設定になっているように思われる。この作品が二十一歳のときに書かれたものだということを考えると、やはり手塚さんの才能に驚かされてしまうのだが、物語自体はやや平板に感じられた。ファウストの苦悩もいま一つ心に響かなかった。最終ページに記されている「神はすべて努力なすものをすくいたもう」という主題を、いまの自分が素直に受け入れられないからかもしれない。この作品が刊行された1950年といえば戦後復興の真っ只中であり、努力が成功に結びつくことを実感できた時代だったのではないだろうか。しかしいまや、ワーキングプアという言葉に象徴されるように、努力が実を結ぶという保証や実感が得られなくなっている。一方で、一夜にして株で大儲けする人もいる。その是非は議論の分かれるところだろうが、少なくとも先のメッセージで表されるような愚直な神は居場所をなくしつつあるような気がする。
  さて、もう一編のほうの「百物語」は、最初からぐいぐいと引き込まれた。手塚さん四十二歳のときの作品だそうだから、「ファウスト」からちょうど倍の年齢を重ねていることになる。絵も手慣れていて安定感があるし、手塚マンガ特有のアソビも所々に見られて楽しい。たとえば、「不論村」というご典医が出てくるが、これは明らかに俳優のチャールズ・ブロンソンである。そういえば当時(1971年ころ)は彼の映画がヒットし、CMでもよく見かけたことを思い出した。こんなアソビがいくつ見つけられるか、探しながら読んで(再読して)みるのも一興かもしれない。
  アソビのことはさておき、「百物語」は「ファウスト」と比較して設定がかなり変更されていて、主題も異なっている印象を受けた。神の存在や規範的な面は表に出ず、むしろ一種の恋物語として読めるのだ。それは、解説でも述べられているように、「スダマ」という女性の悪魔(魔女)の魅力的な描かれ方に負うところが大きい。スダマはひじょうに行動的で、悪魔でありながら自ら人間の男に恋をする。そして、スダマは主人公の男に自分からキスを乞うのである。正直いって、このシーンには驚かされた。1971年という時代を考えると、スダマの行為の積極性や、そういったシーンを描くこともかなり先進的なことのように思われたからだ。「百物語」が当時の『週刊少年ジャンプ』に掲載されたとき、読者はどんな感想を持ったのか、できれば聞いてみたいものだ。もっとも、こんな感じ方をしたのは自分だけであって、それは自分の経験の少なさに裏打ちされた牧歌的な感想にすぎないという可能性もあるのだが。それにしても、主人公の魂を解き放つ最後のシーンはとても感動的で、思わず目に涙を滲ませてしまったが、これも歳を重ねるにしたがって涙もろくなってきたからなのか、あるいは、未経験の少年のようにいまだに恋に恋している自分がいるからなのだろうかと思ってしまう。
  マンガ版『ファウスト』を読み終えたので、次こそゲーテの原作に挑まなければならないのだろうが、たぶんマンガ版『ネオ・ファウスト』に進みそうな気がしている。
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