「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『夢十夜 他二篇』

2005年04月27日 | Arts
夢十夜 他二篇(夏目漱石・著、岩波文庫)
 言わずと知れた漱石の掌編である。子供の頃から古典や文芸作品に親しんできた人を除けば、これらの著名な作品には教科書や参考書で出会うことが多いのではないだろうか。そして、この出会いは読者にとっても作品にとってもたいてい不幸な結果に終わる。教科書や参考書で出会った作品は別の目的のための手段や素材であって、そこでは自由な解釈は許されず純粋な読書の楽しみは奪われている。学校の先生にも異論や反論があるだろうが、国語の授業でそのような気持ちを少しも抱かなかった生徒は稀ではないかと思う。かくして著名な作品はその著名さゆえに図書室・図書館や大きな書店の本棚には常備されるがあまり手に取られることもなく、逆にその著名さゆえにタイトルだけがクイズのネタとされ人を嘲笑うための具とされていく。
 「夢十夜」のうちの「第六夜」に出会ったのも参考書か問題集の問題文であったと思う。しかし、この出会いは偶然にも不幸な結果には終わらなかった。「第六夜」を問題文としてではなく文芸作品として読んでみたいと思った。そして、この「第六夜」を読むためだけに本書を買った。それは運慶の造作に木彫を生業としているある友人の姿を見たからだろうと思う。漱石が運慶に対して発した感嘆を自分のものとして感じたからだ。単なる木の塊からどうして仁王のごときものを彫ることができるのかかねがね不思議に思っていた。才能と言ってしまえばそれまでだが、そのワザは師匠から何らかのかたちで学んだにちがいない。漱石は運慶の時代から漱石の生きた明治に至る歴史の重みを描きたかったのかもしれないが、歴史とともに代々受け継がれてきたワザがどのようにして伝承されてきたのか、そのことにも大きな興味を感じる。知識は学ぶものだがワザは身体で覚えるものだともいう。“かつらむき”のやり方はカメラ付きケータイで教えることができるが、そのワザは実際に包丁を手に持ってやってみないことには身に付かない。データベースが巨大化していくにしたがって身体は矮小化され教養もまたタイトルだけの空虚なものになっていく。やはり歳をとったのか、そんな繰り言の一つも言いたくなってくる。漱石が生きていたら「第十一夜」にどんな夢を書いただろうか。(原文 2004.03.27 記)
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