20歳になるころ私は日米安保条約の何たるかは知らなかったが、安保があるからアメリカのベトナム戦争に日本は加担するのだと考え、反安保の心情を強めていったのだと思う。
そして戦後史を調べはじめた私は、その安保は岸政権が強行採決したものであり、国民の60年安保闘争を弾圧し、樺美智子さんを殺したことなどを知って反安保の思いを強くしていった。
だがなぜ60年安保闘争がかくも激しいものになったのか理解してはいなかった。
吉本隆明のことは前回、前々回で少し書いたが、数日前から開いている沢木耕太郎「危機の宰相」の中に私の理解を助ける叙述を見つけた。
沢木はこう書いている。
岸内閣は吉田茂の結んだ安保条約の不平等性を是正せんと交渉を重ね、1959年2月安保改訂に妥結。
大きく問題になったのは第6条で、アメリカが極東で戦争をする場合に日本が基地になるという点だった。
野党、ジャーナリズム、労組、学生たちを中心に激しい反対運動となっていったのは、この条約によってふたたび戦争にまきこまれるのはいやだという「心情」だった、と。
そうかと合点がいった。1959年は戦争の記憶が人々の記憶にまだまだ生々しく残っていた。戦争は御免だという感情とアメリカへの反感が結びついて反安保はナショナリズムになっていったのだ。
ともに小学校教師だった父と母は日教組組合員でもあったが、当時6歳だったわたしに、2人がこの安保闘争に関わっていたような場面の記憶はない。