吉本隆明全集6巻「憂国の文学者たちに」は二十歳前後に読んだはずだが。
吉本はこう書いている。
「わたしたちは、現在(1959年のこと)、戦前よりもはるかにふくれあがった独占社会に生活している....このような高度のブルジョワ社会では、文学者はあらゆるものに否定的意志をつらぬくことなしには存在理由をもちえない....わたしはひとりの文学者として安保改訂に反対し抵抗する.......
他の憂国の文学者のように、安保改訂が民族の従属や日本人の拘束のシンボルであると考えるからではない....安保改訂が独占支配のシンボルであると考えるから恒久的に反対する....」
吉本は当時”エセ左翼文学者”や日共と激しく闘っていたのだが、そのことは現時点では意味がない。高度のブルジョワ社会に生きているから文学者はあらゆるものに否定的意志云々も同様だろう。
「....独占社会の特徴は...個人の独立性が相対的にではあるが存在できる社会である....個人の独立性と矛盾するような国家社会の法制は、これに必要がないという主張に帰着する...安保改訂に反対する統一戦線は...このような観点を基礎にする...」
個人の独立性を犯すような法律は必要ない。70年の安保改訂がそれだから反対する、ということか。しかしそれは私には理解できない。
「.....戦争世代は、民族的・国家的な幻想共同体の利益のまえには、個人は絶対的に服従しなければならないという神話に...たぶかされ、呪縛をうけてきた世代である...わたしたちのたたかいは、いかにして国家とか民族というものを体制化しようとする思考の幻想性をうちやぶるかという...」
これは少しわかる気がする。戦争期、国民は国家に服従させられた。安保改訂はそれに繋がるものだというのか。
「わたしたちの未来が暗く、現在生活は不安定になり、感情生活や絵道徳生活がむしばまれ混乱しているのは....直接安保条約のせいではなく、独占資本支配の社会情況のためで....独占支配の国家意志のひとつとして安保改訂は行われようとしている....」
ここがポイントなんだろうか。これを書いた1959年日本は貧しく、未来は暗く、生活は不安定だった。それは独占資本主義のためで、その独占資本が支配する国家の意志のひとつが安保改訂だと。だから反対だと。
吉本が書いたのは1959年。だが私が読んだのは1972年か1973年。それなのに私は共感したのだろうか。わからない。
「....安保問題に現象的には無関心であっても、個人の生活権や人権を侵すような国家の法律などは、我が身の利害にかかわる段になったら、絶対に従わない....」
戦争期のように国家が国民を服従させるようなことは許さない。安保改訂がそれだというのか。だから吉本は闘ったのか。
だが同じような理屈で1973年頃の私が闘うのはおかしい。ましてや現時点では。
二十歳のころ私は無駄な読書をし、無駄なことをあれこれ考え行動し、無駄に悶々とした日々を送ったのだろうか。
さあ、どうだろう。もう少し考えてみよう。