Garota de Ipanema performed by Ladies Instrumental
Girl from Ipanema and Ponteio performed by Astrud Gilberto
The Girl from Ipanema performed by Goran Papazz with Macedonian Opera and Ballet Orchestra
Garota de Ipanema performed by Nossa Alma Canta
The Girl from Ipanema & A Felicidade perfomred by Dionne Warwick & Sacha Distel with Baden Powell
アメリカで"Getz/Gilberto"が発売された1964年、世界はボサノヴァに熱狂していた。そして同年、ボサノヴァの名曲をテレビで放映するために三名の国際的アーティストが集められた。
1963年にデビューして翌年64年にバート・バカラック/ Burt Bacharachの "Walk On By" で脚光を浴びたアメリカ人のディオンヌ・ワーウィック/ Dionne Warwick。1962年に作曲した "La Belle Vie/ 麗しき人生" で世界的な知名度を得たフランス人のサシャ・デスティル/ Sacha Distel。この二人がデュオで歌う "The Girl from Ipanema" と "A Felicidade" をギターで伴奏するのが、既にボサノヴァ・ギターの名手として高い評価を得ていたブラジル人のバーデン・パウエル/ Baden Powell。
もともとジャズ・ギタリストだったサシャもバーデンのギターが生み出すグルーヴに乗っかっていて、曲がA Felicidadeに変わる時のスキャットは絶品だ。
アメリカで"Getz/Gilberto"が発売された1964年、世界はボサノヴァに熱狂していた。そして同年、ボサノヴァの名曲をテレビで放映するために三名の国際的アーティストが集められた。
1963年にデビューして翌年64年にバート・バカラック/ Burt Bacharachの "Walk On By" で脚光を浴びたアメリカ人のディオンヌ・ワーウィック/ Dionne Warwick。1962年に作曲した "La Belle Vie/ 麗しき人生" で世界的な知名度を得たフランス人のサシャ・デスティル/ Sacha Distel。この二人がデュオで歌う "The Girl from Ipanema" と "A Felicidade" をギターで伴奏するのが、既にボサノヴァ・ギターの名手として高い評価を得ていたブラジル人のバーデン・パウエル/ Baden Powell。
もともとジャズ・ギタリストだったサシャもバーデンのギターが生み出すグルーヴに乗っかっていて、曲がA Felicidadeに変わる時のスキャットは絶品だ。
昨日、リオ五輪とパラリンピックのマスコット2体のニックネームがトムとヴィニシウスに決まったという報道があった。なんでも投票で決まったそうで、ボサ・ノヴァを世界的に有名にしたアントニオ・カルロス・ジョビンとヴィニシウス・ジ・モライスが由来なんて、お偉いさんが好きそうなストーリーだ。
ヴィニシウス・ヂ・モライスをご存知でない方のため、Wikipediaから引用させて頂く。
マルクス・ヴィニシウス・ダ・クルス・エ・メロ・モライス(Marcus Vinícius da Cruz e Mello Moraes, 1913年10月19日 - 1980年7月9日)はブラジルの詩人、作家、作詞家、作曲家、翻訳家、外交官、歌手、ジャーナリスト。
1950年代後半、アントニオ・カルロス・ジョビンらとともにボサノヴァというポピュラーミュージックのスタイルを生み出した立役者の一人である。ジョビンが作曲し・モライスが作詞したナンバー「イパネマの娘」(1962年)はジョアン・ジルベルトとスタン・ゲッツの共演作品などによって世界的なヒット曲となった。洗練された詩風でボサノヴァの歌詞のあり方に指針を示し、以後のブラジルのポピュラー音楽に多大な影響を与えたと評されている。
ジョビンを軸にボサ・ノヴァの流れを俯瞰すると、初めにジョアン・ジルベルトとの出会いでボサが生まれ、ヴィシ二ウスとの出会いで名曲が生まれ、そしてクリード・テイラーとの出会いでボサが世界中の人々に愛されるようになったと解釈できる。
ここまで書くと、マスコットのニックネームは当然の帰結だと思われるだろうが、実はこのヴィニシウス、とんでもない大酒飲みで、ライブパフォーマンスの際は、外交官という公職なのでの金銭は受け取らず、代わりに酒を要求したそうで、ライブ最中も延々と飲み続けたらしい。しかも招待した友人達の分まで要求したというから、おったまげたオヤジなのだ。
女性関係も華々しく、9度の結婚と離婚を繰り返すほどの恋多き男だったようで、リオ五輪の親善大使であるマスコットの名前には如何なものだろうね、と昨夜報道に接して唸ってしまった。勿論、それだけ人生を謳歌した人間こそがブラジル人の代表だという見方もあるけどね。
今日のビデオはタイムリーにトムとヴィニシウスの競演でGarota de Ipanema(The Girl From Ipanema)。
ヴィニシウス・ヂ・モライスをご存知でない方のため、Wikipediaから引用させて頂く。
マルクス・ヴィニシウス・ダ・クルス・エ・メロ・モライス(Marcus Vinícius da Cruz e Mello Moraes, 1913年10月19日 - 1980年7月9日)はブラジルの詩人、作家、作詞家、作曲家、翻訳家、外交官、歌手、ジャーナリスト。
1950年代後半、アントニオ・カルロス・ジョビンらとともにボサノヴァというポピュラーミュージックのスタイルを生み出した立役者の一人である。ジョビンが作曲し・モライスが作詞したナンバー「イパネマの娘」(1962年)はジョアン・ジルベルトとスタン・ゲッツの共演作品などによって世界的なヒット曲となった。洗練された詩風でボサノヴァの歌詞のあり方に指針を示し、以後のブラジルのポピュラー音楽に多大な影響を与えたと評されている。
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ジョビンを軸にボサ・ノヴァの流れを俯瞰すると、初めにジョアン・ジルベルトとの出会いでボサが生まれ、ヴィシ二ウスとの出会いで名曲が生まれ、そしてクリード・テイラーとの出会いでボサが世界中の人々に愛されるようになったと解釈できる。
ここまで書くと、マスコットのニックネームは当然の帰結だと思われるだろうが、実はこのヴィニシウス、とんでもない大酒飲みで、ライブパフォーマンスの際は、外交官という公職なのでの金銭は受け取らず、代わりに酒を要求したそうで、ライブ最中も延々と飲み続けたらしい。しかも招待した友人達の分まで要求したというから、おったまげたオヤジなのだ。
女性関係も華々しく、9度の結婚と離婚を繰り返すほどの恋多き男だったようで、リオ五輪の親善大使であるマスコットの名前には如何なものだろうね、と昨夜報道に接して唸ってしまった。勿論、それだけ人生を謳歌した人間こそがブラジル人の代表だという見方もあるけどね。
今日のビデオはタイムリーにトムとヴィニシウスの競演でGarota de Ipanema(The Girl From Ipanema)。
歴史的な名盤である「Gets/Gilberto」はボサ・ノヴァを世界の音楽ファンに普及させた偉大な功績がある反面、ボサ・ノヴァ愛好家には高く評価されていないと言われる。それはこのアルバムが1963年に米国で録音された時の出来事に由来している。「Gets/Gilberto」を手がけたVerveレコードのプロデューサー クリード・テイラーは、このアルバムを売るためにあるシナリオを思いついた。つぶやくようにポルトガル語で歌うジョアン・ジルベルトではなく、可愛くて英語が喋れる(当時)婦人のアストラッド・ジルベルトを売り出そうと考えたのだ。しぶしぶ米国に録音に来たジョアン・ジルベルトとは対照的に、世界的な成功を夢見ていたと言われるアントニオ・カルロス・ジョビンは、そんなビジネスセンスに優れたクリード・テイラーと結託し、スタジオに同行していたアストラッドに「飛び入り参加のハプニング」として英語詩で歌わせてしまった。
しかもシングルカットする際にはジョアンのポルトガル語でのボーカルをカット、アストラッドの英語ボーカルだけを前面に押し出し、まんまとアメリカ人に分かりやすいボサ・ノヴァのイメージを作り出してしまった。そのマーケティング手法のお陰で「イパネマの娘」は1964年度のグラミー賞最優秀レコード賞を受賞、ボサ・ノヴァという音楽ジャンルを世界中に広めることに貢献した。
この録音がきっかけでジョアンとジョビンの仲たがいが始まったと言われている。その真偽は今となっては分からないが、ジョアンとジョビンがコラボレーションを続けていたら、どれだけ素晴らしい音楽が生まれていたのだろう。古くからのボサ・ノヴァファンが今でも悔しい気持だから、このアルバムは高く評価されていないのかも知れない。
しかしながらアストラッドとスタン・ゲッツが1964年にテレビ出演した時の映像を観ていたら、「でもこの独特の雰囲気が唯一無比だったからこそ、それを自分でも再現したくて世界中のアーティストがカバーし始めたのだし、今でも歌い継がれているのだろうなぁ」と考えた。
日本の音楽界で言えば、ボサ・ノヴァと日本ミュージシャンの最初のタッチポイントは渡辺貞夫氏であることは間違いがないだろう。氏は1962年から65年までアメリカボストン市のバークリー音楽院に留学、在学中にチコ・ハミルトン、ゲイリー・マクファーランド、ガボール・ザボ等と共演しており、ゲイリー・マクファーランドを通じてボサ・ノヴァの魅力に触れたとされている。私はこの「Gets/Gilberto」というアルバムが登場した1964年に氏が米国でリアルタイムに聴いたこと、その空気感に触れたことが氏の音楽性を決定付けたのではないかと考えている。そしてそれが日本でのボサ・ノヴァブームに繋がっていくことも看過してはいけないのだ。
ボサ・ノヴァが日本を含め世界中で愛される音楽になったのはクリード・テイラーの功績と素直に認めるしかないね。
しかもシングルカットする際にはジョアンのポルトガル語でのボーカルをカット、アストラッドの英語ボーカルだけを前面に押し出し、まんまとアメリカ人に分かりやすいボサ・ノヴァのイメージを作り出してしまった。そのマーケティング手法のお陰で「イパネマの娘」は1964年度のグラミー賞最優秀レコード賞を受賞、ボサ・ノヴァという音楽ジャンルを世界中に広めることに貢献した。
この録音がきっかけでジョアンとジョビンの仲たがいが始まったと言われている。その真偽は今となっては分からないが、ジョアンとジョビンがコラボレーションを続けていたら、どれだけ素晴らしい音楽が生まれていたのだろう。古くからのボサ・ノヴァファンが今でも悔しい気持だから、このアルバムは高く評価されていないのかも知れない。
しかしながらアストラッドとスタン・ゲッツが1964年にテレビ出演した時の映像を観ていたら、「でもこの独特の雰囲気が唯一無比だったからこそ、それを自分でも再現したくて世界中のアーティストがカバーし始めたのだし、今でも歌い継がれているのだろうなぁ」と考えた。
日本の音楽界で言えば、ボサ・ノヴァと日本ミュージシャンの最初のタッチポイントは渡辺貞夫氏であることは間違いがないだろう。氏は1962年から65年までアメリカボストン市のバークリー音楽院に留学、在学中にチコ・ハミルトン、ゲイリー・マクファーランド、ガボール・ザボ等と共演しており、ゲイリー・マクファーランドを通じてボサ・ノヴァの魅力に触れたとされている。私はこの「Gets/Gilberto」というアルバムが登場した1964年に氏が米国でリアルタイムに聴いたこと、その空気感に触れたことが氏の音楽性を決定付けたのではないかと考えている。そしてそれが日本でのボサ・ノヴァブームに繋がっていくことも看過してはいけないのだ。
ボサ・ノヴァが日本を含め世界中で愛される音楽になったのはクリード・テイラーの功績と素直に認めるしかないね。
Rigmor GustafssonはSwedenで人気を誇る女性ボーカリストの1人で、2003年に発売された I Will Wait For You、続く2004年に発売されたClose To You – Celebrating Dionne Warwickでファンになった。後者は数あるバート・バカラック作品集の中でも極上の部類に入る出来栄えだ。
本日紹介するのは2006年12月にテレビ放映されたRigmorとTina Ahlin(ピアノ)によるGirl From Ipanemaで、彼女がギターを弾き語っている姿はこのビデオで初めて観た。Rigmorファン(日本に何人いるのだろう?)は必見の内容だと思う。
Rigmor Gustafssonオフィシャルサイト
本日紹介するのは2006年12月にテレビ放映されたRigmorとTina Ahlin(ピアノ)によるGirl From Ipanemaで、彼女がギターを弾き語っている姿はこのビデオで初めて観た。Rigmorファン(日本に何人いるのだろう?)は必見の内容だと思う。
Rigmor Gustafssonオフィシャルサイト