Everything Must Change performed by Sarah Vaughan in Brazil, 1975
サラ・ヴォーン後年のキャリアとなる70年代以降はジャズ不遇の時代であり、売れるフュージョンやソウルミュージックが音楽産業における主役の座を確立していた。一部の例外を除くとメインストリームの女性ジャズボーカルには声がかからなくなっていた。サラがリリースしたアルバムも大手のレーベルが引き受けていたわけでなく、名作と呼べるものは少なかったと思う。
75年にサラは演奏ツアーでブラジルを訪れ、ベースにボブ・マグナッソンBob Magnusson、マイルス・デイヴィス・グループのドラマー、ジミー・コブJimmy Cobb、そして20年以上彼女と行動を共にしてきたピアニスト、カール・シュローダーCarlton Schroederという手練れのピアノトリオでステージに立っている。このメンバーは1975年8月5日にアムステルダム近郊の小さな村、ラーレンで演奏した時のメンバーと同じで、CD音源は「ライブ・アット・ラーレン 1975」というタイトルで発売されている。
ラーレンのステージでも披露していたのが、今日紹介する"Everything Must Change"で、べナード・アイグナーBenard Ighnerの名曲をサラならではの解釈でしっとりと歌い上げている。
このブラジルツアーから約2年後の1977年、サラは再びブラジルを訪れ、"I Love Brazil! (ブラジル盤原題 O Som Brasileiro De Sarah Vaughan)"というアルバムを録音している。この作品は不遇の時代のサラの作品群でも数少ない傑作と言っても良いだろう。アントニオ・カルロス・ジョビンやミルトン・ナシメントを始め、ドリヴァル・カイミ、オスカー・カストロ・ネヴェス、デオダートなどの楽曲を取り上げているのだが、録音メンバーがブラジル音楽界最強の布陣なのだ。Azymuthのホセ・ロベルト・ベルトラミを筆頭に、ネルソン・アンジェロ、ノヴェッリ、ロベルティーニョ・シルヴァ、チコ・バテラなど、書いていて目がくらくらするメンバーがクレジットされており、完成度の高さは言うまでもない。
60年代後半、苦境に立ったジャズのミュージシャンが大挙してヨーロッパに活動の拠点を移して幾多の名作が生まれように、フュージョン全盛の70年代にジャズの大物ミュージシャンがブラジル音楽にアプローチして成功していたのは偶然ではないだろう。
サラ・ヴォーン後年のキャリアとなる70年代以降はジャズ不遇の時代であり、売れるフュージョンやソウルミュージックが音楽産業における主役の座を確立していた。一部の例外を除くとメインストリームの女性ジャズボーカルには声がかからなくなっていた。サラがリリースしたアルバムも大手のレーベルが引き受けていたわけでなく、名作と呼べるものは少なかったと思う。
75年にサラは演奏ツアーでブラジルを訪れ、ベースにボブ・マグナッソンBob Magnusson、マイルス・デイヴィス・グループのドラマー、ジミー・コブJimmy Cobb、そして20年以上彼女と行動を共にしてきたピアニスト、カール・シュローダーCarlton Schroederという手練れのピアノトリオでステージに立っている。このメンバーは1975年8月5日にアムステルダム近郊の小さな村、ラーレンで演奏した時のメンバーと同じで、CD音源は「ライブ・アット・ラーレン 1975」というタイトルで発売されている。
ラーレンのステージでも披露していたのが、今日紹介する"Everything Must Change"で、べナード・アイグナーBenard Ighnerの名曲をサラならではの解釈でしっとりと歌い上げている。
このブラジルツアーから約2年後の1977年、サラは再びブラジルを訪れ、"I Love Brazil! (ブラジル盤原題 O Som Brasileiro De Sarah Vaughan)"というアルバムを録音している。この作品は不遇の時代のサラの作品群でも数少ない傑作と言っても良いだろう。アントニオ・カルロス・ジョビンやミルトン・ナシメントを始め、ドリヴァル・カイミ、オスカー・カストロ・ネヴェス、デオダートなどの楽曲を取り上げているのだが、録音メンバーがブラジル音楽界最強の布陣なのだ。Azymuthのホセ・ロベルト・ベルトラミを筆頭に、ネルソン・アンジェロ、ノヴェッリ、ロベルティーニョ・シルヴァ、チコ・バテラなど、書いていて目がくらくらするメンバーがクレジットされており、完成度の高さは言うまでもない。
60年代後半、苦境に立ったジャズのミュージシャンが大挙してヨーロッパに活動の拠点を移して幾多の名作が生まれように、フュージョン全盛の70年代にジャズの大物ミュージシャンがブラジル音楽にアプローチして成功していたのは偶然ではないだろう。