選択の自由 と 怒り
七十 人
リン ・G・ ロビ ンズ
サタンの策略の巧妙な点 は,怒 りを選択の 自由の支配 下か ら切 り離 すことによ り, 自分 は自制 できぬ 感 情の 犠牲 者だ と,わた した ちに信 じ込ませること です。
「わたしのすてきな家族 … …。」すべての子供たちの望みがこの賛美歌 に歌われています(「賛 美歌 』187番参 照)。
家族に関して ,わたしたちはこのように宣言しています 。「家族は… 創造主の計画の中心を成すものであり…… 」, 「夫婦は,互いに愛と関心を示し合うとともに」,「愛と義をもって子供たちを育て …… るという神聖な義務があります 。」(『家 族一 一 世 界への宣言 』1995年9月23日)
家族はサタンにとっても最大の標的です 。サタンは家族に対して戦 いを挑んでいます。 サタンは敵の前 線に侵入するための巧妙で悪知恵に たけた策略を巡らして ,ほかならぬ わたしたちの家庭と生活の中に入り込もうとしています。
サタンはわたしたちの家庭を囲う壁をも乗り越えて入り込み ,家族に危害を加え,しばしば破滅に追いやります。
サタンは家族の間に怒りをあおり立てる戦 略 を用 い ます 。サタンは 「争いの父 」であって ,「互いに怒って争うように人々の心をあおり立てる」の です(3ニーフ ァイll:29, 下線付加)。
この 「あおり立てる 〔stir〕」とい う方 法 は, 災 いを も た らす レ シ ピの よ うな もの で す 。
まず , 中火 で い らだ ち を温 め て辛辣 な言 葉 に加 えて混 ぜ 〔stir〕,煮 立 たせ ます 。 そ の ま ま どろ どろす る まで よ く混
ぜ て 冷 や し ます 。 不快 な感 じの ま ま数日間 放 って お きます 。冷 た く してか らどうぞ。 おか わ りも十 分 で き ます 。
サ タ ンの 策 略 の巧 妙 な点 は ,怒 りを選 択 の 自 由の 支配 下 か ら切 り離 す こ とに よ り, 自分 は 自制 で きぬ 感情 の犠牲者 だ と, わた した ちに信 じ込 ませ る ことです 。
「かっとなる 」 とい う言葉 を耳 に します 。かっとなって自制心を失うとい う言 葉 は ,興 味 あ る単語 を選 んで組 み 合 わ され てい ます 。 これ は広 く一般 的 に使 われ てい る慣 用 句 で もあります 。
「何 か を失 う」 と は,「故意 にでは ない 」 「た また まそ う なっ た」 「好 んで行 った こ とで は ない」 恐 ら くは 「責任 を問 わ れ ない」 不 注意 に よる 出来 事か も しれ ませ ん が , い ず れ に して も「責 任 が ない こ と」 とい う意 味 を含 んでい ます 。
「彼 が わた しを怒 らせ た ん です 。」 これ もよ く耳 にす る言 葉 で ,同 様 に, 自らを コ ン トロー ルせ ず ,選 択 の 自 由 を行使 して い な い状 態 を表 してい ます 。
この よ うな迷 信 は正 体 を暴 か な けれ ばな りませ ん。 わ た した ち を怒 らせ る人などいない ので す。 だ れ かが わ た したち を怒 らせ るの で は あ りませ ん 。何 ら強 制力 は働 い てい な いの です 。 怒 りは意識 的 に選ぶ もの で あ り,意 志 に基 づい て 決 め る こ とな の で す 。で す か ら,わ た した ち は怒らないという選択が可能なのです 。わたしたちが選ぶのです。
「しか し自分 で は ど うす る こ ともでき ませ ん」と言う人に, ウ ィリ アム・ウィル バ ン クスは「そ れはたわごとだ」と答えています 。
「争いを好 む,… …怒りを抑える,怒って い る こ とを人 に話 す , 金切 り声 を上 げ る, 大 声 で わめ く」 な どの行 為 はすべ て, 怒 りに対 処す るた め に計 算 の
う えで 取 る戦 術 で す 。 「わ た した ち は過 去 の経 験 か ら効 果 が実 証 され てい るもの を選んでいる の で あ る。上司に不満を持 っていても感情を抑えられるにもか かわらず ,友人や家族からうるさくされると我慢できないことに気づいているだろうか。」(TheNewObscenity「 現 代 に見 られ る み だ ら な行 為 」
『リー ダー ズ ダ イ ジ ェ ス ト』1988年12月号 ,24, 下 線付 加)
ウィルバ ンクスは高校2年 生 の ときに,学 校 の バ スケ ッ トボー ルチ ー ム の入 部テ ス トを受 けて合 格 し ま した。 練 習 の初 日に, ウ ィルバ ン クス は全 選手 が 見守 る中 で1対1の プ レー をす る よ うに とコ ーチ か ら言 わ れ ま した。 ウ ィルバ ンクス は簡単 な シュー トを外 した と きに,思 わず 頭 に血 が上 って じだん だ を踏 み,泣 き言 を言 い ま した。 す る と コーチ がや って来 て言 ったの です 。
「今度 そ んな態 度 を見せ た ら,二 度 とう ちの チー ムで はプ レー させ ない ぞ。」(23)そ れか ら3年 間, ウ ィルバ ンクス は 自制心 を失 うような こ とは一 度 もあ りませ んで した。
後 年 ,彼 は この 出来 事 を振 り返 っ て,その 日コーチ か ら,人 生 を変 え る原則 を教 えられた と知 りました。それ は,怒 りは コントロー ルで きるとい うことです。
ジ ョセ ブ ・ス ミス訳 のエ ペ ソ人へ の手 紙 第4章26節 で , パ ウ ロ は この よ うに 問 い か け て い ます 。 「あ なた が た は怒 りな が ら罪 を犯 さず に い ら れ よ う
か 。」 主 は こ の問 題 につ い て非 常 に明確 な 答 え を 与 え て お られ ます 。 「争 いの心 を持 つ者 はわ た しにつ く者 で は なく,争 い の父 で あ る悪 魔 につ く者 で ある。 悪 魔 は互 い に 怒 っ て 争 う よ う に人 々の心 をあお り立 て る。
見 よ, 互 い に怒 る よ うに人 々の心 をあ お り立 て るの は , わた しの 教 義 で はない。 この よ うな こ とをや め る よ うにとい うの が ,わ た しの 教義 であ る。」(3
ニ ー フ ァイ11:29-30)
主 が お与 え にな っ た この教 義 す な わち戒 めは , わた した ちに選 択 の 自由があ る こ とを踏 まえ た うえ で, 良心 に基づ いて 決 断 を下 す よ う呼 びか けて い ます。 主 は わ た した ち に,怒 ら ない という選 択 をす る よ う望 ん でお られ ます 。
いか な る場 合 で も, 怒 りを正 当化 する こ とは で き ませ ん。主はマ タイ に よる福 音 書 第5章22節(欽 定 訳)で このよ う に述 べ て お られ ます 。 「しかし,わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して理由なく怒る者は,だれでも裁判を受けね ばならない 。」(下 線付 加)
興味深 い こ とに, ジ ョセ フ ・ス ミスの 霊感訳(マタイ5:24参照)と 第三ニーファイ第12章22節には, 「理 由 な く」 という語 句 が見 当た りませ ん。 主 は 「理 由な く」 とい う語 句 を取 り除い て , わたしたち が言 い 訳する余 地 を取 り払 われました。「この よ うな こ とをやめ る よ うに とい うのが , わた しの教 義 で あ る。」(3ニ ー フ ァイ11:30)
わ た した ち は怒りを 「や め る」 こ とが で きます。 なぜな らば 主が そ の よう に教 え,命 じておられるか らです。
怒 りとは,自制心を放棄することに
よ り, サ タ ンの影 響 下 に 身 を置 くこ とです 。それは心の中で犯 す罪であって,やが て憎しみの気持ちや行動へと発展していきます。また ,それは高速道路で ほか の運 転者 に怒 りを 向 け る起 爆 装置で あ り, スポ ー ツ競技 場 で の激 高 した姿 で あ り,家庭内暴力となって現れています 。
抑 制 さ れ な い怒 りは い と も簡 単 に,残 酷 な言葉 が あ ふれ 出 る引 き金 に な った り, 感情 を虐待 す る様 々 な形 態 と化した りて, 人々の純粋な心に傷跡を残します 。
「口か ら出 る もの が 人 を汚す ので あ る」 と救 い 主 は述 べ て お られま.す(マ タイ15:11)。 デ ビ ッ ド ・O・マ ッケ イ大 管 長 は この よ うに述べ ています。
「夫婦 は 「家が 火事 で燃 えて い る場 合を除い て』,相手 に向か って 大声 を上 げて は な りませ ん 。」(デ ビ ッ ド ・O・ マッケ イ,『 豊 か な 人 生 へ の 踏 み 石 』294)。
肉体 へ の虐 待 は ,怒 りが抑 制 の利 かな い状 態 に まで 達 した結 果 で あ っ て,決 して正 当化 で きる もの で はあ りません 。 いか な る場合 に も,義 とされ る ことはあ りませ ん。
怒 りは人 に罪 悪感 を抱 かせ る野蛮 な行為 で あ り, 人 を正 そ う と試 み る残 忍な 方法 にほ か な りませ ん。 これ は しつけ と混 同 されが ち です が , ほ とん どの場 合 ,逆 効果 に終 わ ります。
このた め,聖典 に は次 の よ うな警 告 が記 され ています。 「夫た る者 よ,妻 を愛 しな さい。つ ら くあ た っ て は い け な い」, さ ら に「父 た る者 よ, 子 供 をい らだ た せ て はな らない。 心 が い じけ るか も知 れ ないか ら。」(コ ロサ イ3:19,21)
選 択 と責 任 は 互 い に切 り離 す ことので きない原 則 で す。 怒 りは選択 の結 果で あ る た め に , 「世 界 へ の 宣 言 』 で は
強 い警告 が発 せ られ てい ます 。「伴 侶や子供 を虐待 す る人 々… … は, いつ の 日か 神の御 前 に立 って報 告 す る こ とにな ります。」
わ た した ちの生 活 か ら怒 りを取 り除く第一 歩 は, 選択 の 自由 と怒 りとの 関係 を理解 す る こ とで す。 わた したち は怒 らない よう選 ぶ こ とが で き ます 。 そして, この選 択 は今 日,今 す ぐ実 行 で
きます。「わ た しは二 度 と怒 るの をや めよう。」この決 意 をす る こ とを深 く考 えて いた だ きたい と思 い ます。
教 義 と聖約第121章 は正 しい指 導原則を見 い だせ る最 も優 れ た聖 文 で あ る と言 え ます。 第121章 を応 用す る最 も大切な対 象 は伴 侶 で あ り,両 親 で は ない でしょうか。 わ た した ち は説 得 に よ り,寛容 に よ り,温厚と柔和によ り,優 しさ に よ り, また偽 りの な い愛 に よ り家族 を導 くの で す(教義と聖約121:41-42参照)。
子 供 た ち一 人一 人 が心 に抱 い てい る夢 ,す なわ ち 「わた しのす て きな家族」が 実 現 す る よ う願 っ て い ま す 。 イエ ス ・キ リ ス トの 御 名 に よ っ て 祈 り, 証
し ま す 。 ア ー メ ン。
(このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会 聖徒の道1998年7月号
からご紹介しました。赤字青字は付加しています。)
※イエス・キリストへの信仰を持ってからですが、徐々にですが、怒りを確かに抑えることができます。信仰には、力があります。
本日もお読みいただいてありがとうございます。
良い1日をお祈りします。