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「こころを学ぶ」ダライ・ラマ法王 仏教者と科学者の対話

2016-10-03 11:44:37 | 科学と宗教
刺激的な本であった。少しだけメモ

ダライ・ラマー開幕スピーチより-
「科学者は偏見を持たない」
  ・“科学者のこころや頭というのはとてもオープンなんです。常に懐疑主義のスタンスで   いながら、オープンな心でその問いに向かう。全く偏見を持っていない。どんなテーマ   でも客観的に見られるのです。そういうところに私は非常にひかれるようになりまし    た。
  ・“仏陀は何も正しい宇宙観を説くためにこの世に現れたのではない。仏陀がこの世に現   れたのは私たちのこころを変容させるためであり、それゆえに四つの聖なる真実(四聖   諦”を説かれたのだと。だから仏典に記されている宇宙観が現代の宇宙観に適合しなく   ても、全く問題はないのです。”
  ・ところがこころの内なる世界となると話は逆になります。西洋心理学は古代のインドの
心理学と比べると幼稚園児のようなものです」

西洋心理学を元とした心理臨床学を学んできたものとしては、頷かざるを得ないなと思う。

文法構造からの解釈試論

2015-09-28 15:56:18 | ロールシャッハ検査法を巡って
ロールシャッハ検査法の解釈に取り組む時に、いつも戸惑っていたことがあった。
それは、この検査方の課題教示である

 「これは、何に見えますか?」

という問いと、それへの答え方の基本である

 「これは、~に見えます」

という文についての、主語と述語の問題である。
どう考えたらいいのだろうかと思いながら、特に正面から謎解きに
取り組むこともなく、折りに触れて生じるこの謎に戸惑っていた。
そして、先日、あるプロトコールの解釈に取り組む際に
一度この謎について調べてみようとネットで検索してみた。
すると、明快に次のように説明されていた。

 象は、鼻が長い。

 であれば、「象」は主題。
 「鼻が」は、主語。
 「長い」は、述語。

 “主題”という捉え方に、パッと目が見開かされた。
主題と主語は違うのだ。この見方で、教示を見て行くと

 「これは」は、主題。
 「~に」は、主語。
 「見えますか?」述語。

となる。図版を主題にして、それが何に見えるかを問う構造が
文法的に明確に見えてくるようだ。

 これをもう少し丁寧に追うと、教示は

「これは=この図版」」は、
「あなたには」(この文節は日本語教示では、前面にでてこない)
「何に」
「見えますか?」

となり、「あなたには」がどうい位置を占めるのかが問題になる。

教示を受ける被験者の立場に立てば、この教示の問いかけには、

「これは=この図版」」は、
「私には」(この文節は日本語教示では、前面にでてこない)
「~に」(この部分は単語、修飾語・文が付加された体言止めの形、文の形などがあり得る)
「見えます」

と答えることが最も対応がよくなる。この最も対応の良い答え方を文法構造的に見ると、

「これは=この図版」は、主題、
「~に」は、主語
「見えます」述語

 では、「私には」はどうなるのだろう?学校文法で習ってきたうろ覚えの知識で言うと、
修飾語となるのかもしれない。しかし、修飾語という、どうもあってもなくても本質には
関わりはないというニュアンスでとらえられるような位置には、この「私には」という
隠された文節にはない。もっと本質的に重要な位置を持っていると思われる。
 思うに、これは「主体」を提示しているのではないだろうか?
 「~に見える」という営みをしている主体である。
 主題に取り組んでいる自分という主体である。

 この理解が適切であれば、教示の問いかけに最も対応のよい返答の文法的構造は、
次のようになる。

 「これは=この図版」は、主題、
 「私には」は、主体
 「~に」は、主語
 「見えます」述語

 この文法的構造理解をもってすれば、この観点からする事例=被験者の体験構造が、
より一層明確に把握していけるかもしれない。そう思って、今回であったプロトコールを
読み解いていけば、その可能性が高いということを実感できた。さらに、事例検討を
重ねていきたいと思う。

 ただ、また新たな謎。
 この文法的理解は、どうも三上文法というものに依っているらしい。
三上文法は学校文法とは相対立する面が多い文法理論だそうであり、
例えば、学校文法では、日本語には主語があるという立場であるが、
三上文法ではそれは否定されている。主語はなく、主題があり主格が
あるのであり、学校文法でいずれも主語とされる「が」と「は」は
全く働きが違うとされているそうだ。
 とすれば、上記の検討で、主語という用語があるのはおかしくなる
ということになる。
 さて、どう考えて行けばよいのだろうか?
 願いは、事例のプロトコールからその体験構造を読み解いていくことで
あるが、この文法的構造からの取り組みはどうなっていくだろうか?
文法論の勉強、特に三上文法の勉強もしていければとは思うが。 

ティクナット・ハン師

2015-09-28 15:30:46 | あれこれ
超久々に自分のblogを開く。
樹木探索、とあった。思ってはいること。
思ってはいるが実行していない。
実行しないままに、一夏を越えてすっかり秋だ。

でも、充実した思いに満たされる夏だった。
何が、と言われると幾つか具体的なものが浮かぶが
それは山の頂上のようなもので、
裾野に広がっている日々の暮らしがそれを
支えていたのだと思われる。

麓の風景が変わっていったその一つに
ティクナット・ハン師とその教えに出会えたことがある。
このところティクナット・ハン師の動画を
折りに触れてみている。
心にしみいり、心地よくなり、
今ここに立ち返ることができ、
前を向いて生きていける。

現在の日本の政治・社会状況に暗澹となりながら、
また、激しい怒りをも覚えながら、
ベトナム戦争を仏教徒として生き抜き、
そこでの葛藤から見いだされてきた師の教えをもって
暗澹となる、また怒る自分を見て行く。
今は、それが大事なんだなあと思われる。

「人を思いやるとは、
人が間違った考えや行動をしているのを許すのではない。
思いやるのであれば、
その人を不幸にしている過考えや行動について、
気づく手助けをしていかないといけない。
時には、プレッシャーをかけることも必要になってくる」
・・・行動的仏教と呼ばれる所以だろうと思う。

今、全国でなされている、日本に暮らす人々によるデモは、
そのプレッシャーの一つであり、とても尊いものだと思う。
さて、自分は・・・

神戸・六甲の樹木探索

2015-05-25 12:39:07 | あれこれ
飛ぶように時間は過ぎていく。
前回このブログを書いてから、ずいぶんと経過してしまった。
それも込みで始めたので、それでどうということもないが、
一方で、自分の体験したことを振り返ってまとめる機会を
もつことをしなかったなとは思う。

このブログで試みたいと思うことの一つに
標記の樹木探索、というか、身近に見ている樹木を
もっと知って、名前も見分けることができるように
なりたいということがある。
そう思って、

清水孝之「子上b・六甲山の樹木ハンドブック」ほおずき書籍、2012

を購入し、それで調べてみようと思った。とてもいい本だとは
思ったのだが、僕にはそれで樹木に近づくということはできなかった。
どうしたら樹木ともっと近づけるだろうかと考えて、
そうだ、歩くコースに従ってそこで出会う木々を調べていけばいいんだ
と思った。

六甲を思ったが、しかし、すぐには難しい。
ならば、隗より始めよ、だと、
すぐ近所の湊川神社から始めようと思った。
思って、そして、思っているだけの時間がどんどん過ぎて・・・
というところだ。

今日、表門の左手の木々の写真を撮った。
これをどうアップしていいのか、
どう調べたらいいのかも、一つ一つ手探りだ。
まあ、ゆっくりいこう。
チョンチョニー、チョンチョニー、ハナシー、ハナシー、だ。

写真を撮った時に、湊川神社からの大きな案内看板を見た。
今年は楠正茂公が亡くなって680年を迎えるということで、
いろいろな企画が準備されているそうだ。
そのうちの、講座案内に興味を惹かれた。
時間が合えば行きたいと思う。

“今”と“いつか”

2015-04-13 19:42:48 | あれこれ


アインシュタインは、「知識は図書館に行けばある」と言ったそうだ。
知識・情報は、自分の外にあって人々と共有されるものとしてある。
知識は、私の頭の中にもあればそれに越したことはないが、
なくとも少し労を取れば手に入れることができる。
知識がなくても、私が私であることとは関係がない。
知識を持っていることが自分であることの本質ではないのだ。
私が私であるのは、
私が感じ、私が思う、私が考えるところの中にあるようだ。
私が感じ、思い、考えることを大切に味わい生きること。
それこそが私が生きているということなのかもしれない。

ティク・ナット・ハン師と、
その教えのマインド・フルネスを
連想する。

私は何をそう生き急いでいるんだろう?

“今”を置いた他のところに、
何かいつか実現されるであろう価値が
あるかのように。
明日死ねば、
そんな価値など何の意味もなくなるよ
虚しいことだよという声に脅かされながら。

いや、そういうこともあるのだと
別の声が聞こえもする。
いつか実現される価値のために
今を生きるという生き方
それがなければ、
実現できない意味ある営み。

そして、また、聞こえてくる。
辻悟先生の、“超越性と複合”ということばが・・・
両方あってよく、
両方大事なんだと。