アインシュタインは、「知識は図書館に行けばある」と言ったそうだ。
知識・情報は、自分の外にあって人々と共有されるものとしてある。
知識は、私の頭の中にもあればそれに越したことはないが、
なくとも少し労を取れば手に入れることができる。
知識がなくても、私が私であることとは関係がない。
知識を持っていることが自分であることの本質ではないのだ。
私が私であるのは、
私が感じ、私が思う、私が考えるところの中にあるようだ。
私が感じ、思い、考えることを大切に味わい生きること。
それこそが私が生きているということなのかもしれない。
ティク・ナット・ハン師と、
その教えのマインド・フルネスを
連想する。
私は何をそう生き急いでいるんだろう?
“今”を置いた他のところに、
何かいつか実現されるであろう価値が
あるかのように。
明日死ねば、
そんな価値など何の意味もなくなるよ
虚しいことだよという声に脅かされながら。
いや、そういうこともあるのだと
別の声が聞こえもする。
いつか実現される価値のために
今を生きるという生き方
それがなければ、
実現できない意味ある営み。
そして、また、聞こえてくる。
辻悟先生の、“超越性と複合”ということばが・・・
両方あってよく、
両方大事なんだと。