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読書メモ ローナ・ウイング著、久保ら訳 自閉症スペクトラム 東京書籍 1998 その2メモ

2020-03-17 14:18:12 | 読書メモ
ローナ・ウイング著、久保ら訳 自閉症スペクトラム 東京書籍 1998 その2
第二章 「自閉症スペクトラム障害とは」を読んで

 有名な自閉症の「三つ組」について書かれている。
 読んで、僕自身の大きな思い違いに気がつかされた。
 僕の中では、自閉性障害とは、
  ①情緒的交流の欠如(社会性の障害)、
  ②コミュニケーション障害(言語を中心とした目に見えるやりとりの障害)
  ③興味・関心の限局と同一性保持、いわゆる「こだわり」
というカタチで捉えられていた。しかし、③がウイングによれば「想像力の欠如」
となっていたので、混乱してしまった。そこで、ウイングは「こだわり」を想像力
欠如によるものと考えたのだろうと解釈していた。その解釈は大きくは間違っては
いなかったようだが、「三つ組」と「こだわり行動」は、ウイングでは並行して書
かれているので、僕の解釈は間違いであったことには違いない。
 では、ウイングの三つ組とこだわりとの関係はどう理解したらいいのだろうか?
 「こだわり行動は三つ組の結果として生まれる」と読み取るのが妥当のようだが、
まだ、ストンとは落ちない。
 *この章の最後まで読むと、ウイングは「こだわり行動」を「重要な事項と些細な
  事項との区別がなされていない」ために生じている行動を推測しているらしいこ
  とが伺える。
 ウイングは、自閉症スペクトラムの人たちが共通して示す特徴を三つ組としてまと
めたが、この観察によって誰によっても確認できる特徴の元には、それをもたらす脳
神経系の事情があると想定している、というか確信している。
 それは情報処理能力を巡るもので、複雑な情報をまとめあげる力、ウタ・フリスの
いう「全体的統合への動因と呼ぶもの」が欠けている、という。
 つまり、三つ組の元にあるのは、脳の情報処理能力の不全にあり、とりわけ、各種
情報の全体的統合、また、意味などを読み取る抽象能力に不全があるというのだ。
 この意見は、ロールシャッハ検査法で言えば、反応が部分きまりになりやすいとい
う傾向、および、具象しばりに陥りやすい傾向という仮説につながる。ロールシャッ
ハ検査法でのデータを見直してみるとおもしろいかもしれない。
 さらにウイングは、この三つ組が生じる背景事情として、もっと「深いレベル」で
の問題があることにも思いを寄せている。「さまざまな経験に対して、それぞれ異な
った感情的意義をもたせるという、普通は生まれ備わっているシステムが障害されて
いる可能性」である。つまりは、感情レベルの問題があるのではということである。
そして、それにより「重要な事項と些細な事項とを区別する能力が損なわれているよ
うである」としている。本質を抽出する力の欠如とそれ以前の「本質が重要である」
という、本質とそうでない部分との区別が重要であることのが気づきがなされていな
いことを指摘している。
 重要な指摘であるとは思う。しかし、本質抽出は感情次元に位置する能力、そして
姿勢であろうか?全体と部分との関係でいえば、本質は全体にあるので、全体と部分
との区別がなされていなければ本質を抽出することはできない。そして、全体と部分
との区別を情報処理のレベルで論じているのであれば、本質把握も情報処理レベルに
位置づける方が整合性があると考えられる。
 ウイングのいう深いレベルとは、感情領域のことであろうか?ウイング自身はそう
記しており、それが自閉症性障害は感情レベルまで障害されているというイメージと
連動しているように思われる。ほんとうにそうであろうか?自閉症性障害とは感情の
次元まで、あるいは感情レベルの障害ゆえに生じている障害であろうか?
 僕にはそうではない、という声が聞こえてくる。感情レベル、人々がheartと呼び、
心臓あるいは胸の領域に位置づけてきたこころの営みは、自閉症スペクトラムの人た
ちにも生き生きと息づいている、というのが僕の実感である。では、ウイングが洞察
している重要な気づきは、どのようにして生じているのだろうか?
 とても興味深いテーマだと思う。

ローナ・ウイング著、久保ら訳 自閉症スペクトラム 東京書籍 1998

2020-03-14 13:02:02 | 読書メモ
2020/03/14 その1

 事務所の本棚を整理していこうと思い、片付けようとした本の中に本書があった。本の整理の時にはまず間違いなく生じることとして、片付けようとした本のページを開きぱらぱらとめくる。文章に惹かれるとしばらくその本の世界に入り込む。そして片付けできずじまいに手元に残す。今回もそうなった。
 読み始めて、訳がすてきだなと感じた。序文を見ると、初版を1970年に著し、今回はその25年後のものとあった。まず、そこに惹かれた。1970年の25年後というと1995年。阪神淡路大震災の年だ。そして、次に自閉症研究の略史が紹介されその上に自らの研究に基づいた自閉症論が紹介されている。そこには、現在の自閉症論の基本があった。本書に描かれた自閉症論が現在の自閉症理解をカタチ作っていることがよく伝わり、それにあらためて感銘を受けたのだった。
 そこで、この本は本棚の奥に片付けるのは止めて、ていねいに読み直そうと思った。
 僕が自閉症臨床に関わるようになったのが1980年代初期。自閉症を巡っては混乱の時代であった。教育の分野では。自閉症は情緒障害児と呼ばれ、情緒障害教育の対象とされていた。やがて、自閉症は、脳の問題が元になっている障害であることが明らかにされていき、情緒障害児とは呼ばれなくなった。自閉症のある子どもの情緒的な問題は一次的なものではなく二次的なものとされ、適切に療育・教育がなされれば情緒的問題は生じないだろうという、この点では楽観的な理解が広がっていった。それは僕には疑問であった。ADHDではそれは言えても、ASDについてはそんなに割り切ってとらえることのできる問題だとはとうてい思えなかったのだ。では、情緒的問題とはいったい何なのか、情緒障害とは何なのかを問わざるを得なかった。それと自閉症など脳の問題が一時的要因とされている発達障害との関係も問わざるを得なかった。それは脳とこころとの関係の問題でもあった...
・・・と思いは、自分の問題意識へと向かってしまうが、ここではウイングの本との対話を記していこうと
思ったのだった。そこに立ち戻ろうと思う。

☆日本の読者へのメッセージ
 1981年に一度来日した折に感じたことを書かれている。一番貴重な体験となったのは、日本の自閉症の子どもをもつ親御さんと会う機会をもったことだという。そこでの苦労は英国でも同じであり、子ども達が示す具体的な問題については違いがあっても、そこには一環して同じ性質のものがあり、とても親近感を覚えたとのこと。自閉症は、文化を越えて一貫した特徴をもつ問題なのだということがここでは示されている。
 ※しかし、これだけで自閉症が脳の問題だとは断じることはできない。文化を越えての問題は、情緒障害とて同じであるので。
☆はじめに
 初版が著されたカナー型自閉症にもっぱら関心が寄せられていたことを1970年頃と1995年現在の研究状況の大きな違いが記されている。「自閉症については障害を最小限にし潜在的スキルを最大限に発揮させるような環境とか日課プログラムを作り出す方法がわかった」けれども「根底にある神経学的および心理学的な欠陥を改善するものではない」というのが1995年時点の状況であり、それは2020年現在もそう変わっていはいないように思われる。
 この20年間の変化は、研究面だけではなく、社会状況の変化を受けて使用する用語にも変化をもたらしてきた。両親ではなく「単数形の親、もしくは親としての役割を分担しているパートナーと一緒にいる親」など、自閉症児という表現は差別的であるのでそれは止め、heやsheなど性の区別を避けてtheyという表現を使うよになったこと、精神遅滞mental handicapは、学習困難learning difficulties にt置き換えられています。しかし、これとてlearning disabirity という用語が公に使用されていてなお混乱があるとのことです。ウイング自身は「この新しい用語は、差別を排除するためのものですが。表現上のぎこちなさを生み出しており、実生活のうえで女性や障害のある人たちにどんな違いをもたらしたのか、私にはわかりません」と述べており、どうも用語にこだわりすぎることについてはすっきりしない思いを抱いているように感じられる。日本でも同様のことが生じているので、このウイングの表現は共感を覚える。